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第二十九話 旧勇者N

 王都へ向かう途中、俺たちは教会の中継所に泊まることになった。


 泊まりたくはなかった。


 だが、ミオの足と、村の避難で遅れた時間を考えると、野宿よりはましだった。


 そう判断したのは俺ではない。


 ミオ本人だ。


「足を休めたいです」


 そう言われたら、拒む理由はない。


 中継所は、街道沿いに建つ小さな石造りの施設だった。


 巡礼者と商隊の休憩所。


 女神像。


 白い鐘。


 薄く笑う修道士。


 安全そうに見えるものが全部、少しずつ信用できない。


「顔に出てますよ」


 ミオが言う。


「何が」


「教会が嫌だな、って」


「出てたか」


「かなり」


 フロッグが横で頷く。


「君はだいぶ分かりやすくなりました」


「成長ですか」


「ある意味では」


 カイトは中継所の壁にもたれ、女神像を見上げていた。


「壊すなよ」


 俺が言うと、カイトは鼻で笑った。


「まだ壊してない」


「まだ」


「壊す時はもっと大きいやつにする」


 冗談か本気か分からない。


 ユリウスは修道士と手続きをしている。


 王国勇者庁の書記官として、彼はどこでも丁寧に扱われるらしい。


 俺たちは奥の休憩室へ通された。


 壁際には古い棚があり、巡礼者名簿や街道記録が並んでいる。


 ミオがその棚を見て、少しだけ足を止めた。


「どうした」


「教会文字があります」


「また?」


「街道中継所の記録です。保護院のものより古い書き方ですけど、読めるところがあります」


 俺は棚を見る。


 普通の名簿にしか見えない。


 だが、背表紙の下に小さな印がある。


 ミオは一冊を指差した。


「勇者候補通過台帳」


 嫌な名前だった。


 ユリウスがこちらに気づく。


「それは古い台帳ですね。王都へ向かう候補者が中継所を利用した記録です」


「見ても?」


 俺が聞くと、ユリウスは少し迷った。


「公開分であれば」


「非公開分もあるんですね」


「教会管轄の記録ですので」


 便利な壁だ。


 ミオは台帳を開く。


 ページには、名前、出身地、推薦者、通過日が並んでいた。


 何人もの勇者候補。


 俺のような転生者もいれば、この世界の人間らしき名前もある。


 その中に、不自然な空白があった。


「ここ」


 ミオが指差す。


 名前が削られている。


 削られているのに、余白に細かな教会文字が残っている。


「読めるか」


「少し」


 ミオは目を細めた。


「旧勇者……N」


 空気が変わった。


 N。


 ノア。


 そう考えるのは早すぎる。


 だが、俺の中の何かが反応した。


「続きは」


「討伐対象……移管」


「移管?」


「勇者候補台帳から、魔王記録へ」


 ユリウスの顔色が変わった。


「ミオ様、その記録は」


「公開分ですか」


 ミオが聞き返す。


 ユリウスは言葉に詰まる。


「台帳は公開分です。余白の秘匿記録は」


「見えてしまいました」


 静かな言い方だった。


 少しだけ、強い。


 その前に、ミオが俺の荷袋を見た。


「レンさん。白鐘杭を」


 フロッグが布に包んだ杭を取り出す。


 リュカの肩から抜いた、白鐘の杭。


 基部には、小さなNの刻印がある。


 ミオは台帳の余白と杭の刻印を、何度か見比べた。


「同じ書き癖です」


「書き癖?」


「最後の線の跳ね方が同じです。台帳の旧勇者Nと、この杭のN」


 白鐘杭。


 旧勇者N。


 別々の場所に置かれていた二つの記録が、同じ手で結ばれている。


 リュカの言葉がよみがえった。


 ノア様の名前を、人族が勝手に汚す時の印。


 俺は台帳に手をかざす。


「【周回記録】」


 頭痛が走る。


 白いノイズ。


 黒塗り。


 それでも、沈黙鈴を握る。


 レン。


 今ここで読むのは、勇者候補としてではない。


 俺としてだ。


 黒塗りの一部が剥がれた。


過去記録照合。

旧勇者N:照合候補【ノア】


注記:

勇者記録から魔王記録への移管履歴あり。


 ノア。


 前回討伐対象。


 魔王。


 そして、旧勇者。


 胸の奥が冷たくなる。


 分かっていた可能性だ。


 だが、可能性と記録は違う。


 記録になると、人は言い逃れできなくなる。


 フロッグが台帳を見つめた。


「勇者を拒んだ者が魔王になるのではなく」


 彼は静かに言う。


「勇者として扱えなくなった者を、魔王と呼ぶのかもしれません」


 その言葉が、部屋の空気に沈んだ。


 カイトが低く笑う。


「分かりやすいな。見返す側が都合悪くなったら反逆者。救う側が都合悪くなったら魔王か」


「笑い事じゃない」


「笑わないとやってられないんだよ」


 ユリウスは台帳を閉じようとして、手を止めた。


 俺を見る。


「レン様。この記録は、王都で正式に確認しましょう」


「王都に行けば確認できるんですか」


「できる可能性があります」


「その代わり、勇者候補登録に近づく」


 ユリウスは否定しなかった。


 正直ではある。


 俺は台帳を見る。


 旧勇者N。


 ノア。


 勇者記録から魔王記録への移管。


 つまり、ラベルは変えられる。


 勇者から魔王へ。


 救済者から統率者へ。


 保護対象から同行証言者へ。


 名前が変わるたびに、周囲の目も、起きる事件も、本人の扱いも変わる。


「ノアは、魔王になったんじゃない」


 俺は言った。


「魔王として記録された」


 ミオが頷く。


「記録が、人を変えるんですね」


「人が変わる前に、周りが変えるのかもな」


 その時、中継所の白鐘が小さく鳴った。


 カァン。


 修道士が驚いたように振り向く。


 ユリウスも眉をひそめた。


「今の鐘は」


 視界にログが開く。


秘匿記録への接触を確認。

王都観測網へ通達。


勇者候補登録式、前倒し準備中。


「前倒し」


 俺は笑った。


 乾いた笑いだった。


「向こうも待ちきれないらしい」


 ミオが台帳を閉じる。


 その手は震えていた。


 でも、台帳から目を逸らしてはいない。


 カイトが立ち上がる。


「王都、面白くなってきたな」


「楽しそうですね」


「楽しそうにしてないと、怖くなる」


 その本音が少しだけ漏れた。


 フロッグは白鐘を見上げる。


「さて。勇者の入口に近づくほど、魔王の出口も見えてくる」


「出口ならいいんですけどね」


 俺は窓の外を見る。


 王都の方角。


 そこに、俺を勇者にするための檻がある。


 そして、その檻に入らなかった者の記録も。


 ノア。


 俺はまだ、彼を知らない。


 だが、少なくとも一つ分かった。


 魔王は物語の外にいるのではない。


 物語から外れた者に、後から貼られる名前なのかもしれない。


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