第十四話 M-17
鉄扉は、鍵がかかっていなかった。
そのことが、逆に怖かった。
守る必要がないと思われていたのか。
誰もここまで来ないと思われていたのか。
あるいは、見つけたところで意味がないと思われていたのか。
扉を開けると、中には革表紙の台帳が数冊並んでいた。
表紙は乾いてひび割れ、端には白い鐘の紋章が押されている。
ミオは一番手前の台帳を取り出した。
重い。
彼女一人では支えきれず、俺が下から手を添える。
「大丈夫か」
「はい」
ミオは頷いた。
「でも、手を離さないでください」
「分かった」
俺は台帳を支えた。
ページをめくるのは、ミオだ。
そこは間違えない。
最初のページには、古い教会文字がびっしりと並んでいた。
俺には読めない。
鑑定を使えば名称や状態は見えるが、文字の意味までは完全には出ない。
名称:旧リーベル保護院 移送台帳
状態:劣化
危険度:低
備考:一部記録が秘匿形式
「読めるか」
「全部は無理です。でも、欄の形は分かります」
ミオは指で行を追う。
「日付、保護院名、対象番号、移送先、理由、照合名」
「照合名?」
「たぶん、表向きの名前です」
表向きの名前。
嫌な言い方だった。
ミオの指が、あるページで止まる。
「第十七欄」
声が掠れた。
俺は台帳を支える手に力を込める。
そこには、普通の文字でこう書かれていた。
対象番号:M-17
照合名:ミオ
分類:慈悲対象
移送理由:救済配置
移送先:始まりの町リーベル近郊
備考:勇者候補接触予定
救済配置。
勇者候補接触予定。
胸の奥が冷たくなる。
ミオは息をしていなかった。
「ミオ」
「待ってください」
彼女はページの端にある細かい文字を見つめていた。
「ここ、続きがあります」
ミオはゆっくり読む。
「M-01、M-02、M-03……」
ページの下に、小さな参照欄があった。
そこには十六個の番号が並んでいる。
そのうちいくつかは線で消され、いくつかには別の名前が添えられていた。
M-01:ミア
M-02:ミリ
M-03:ミーナ
M-04:ミル
M-05:ミオ
...
M-17:ミオ
同じ名前もある。
違う名前もある。
けれど、全部が同じ欄に繋がっている。
ミオは台帳を見つめたまま、ぽつりと言った。
「私は、何回、私だったんですか」
答えられなかった。
フロッグも黙っている。
軽口を言わない彼を見るのは、初めてかもしれない。
視界にログが開いた。
対象:ミオ
過去名称候補:
【ミア】【ミリ】【ミーナ】【ミル】【ミオ】
現在名称:【ミオ】
名称固定率:低
警告。
対象の自己認識に強い負荷が発生しています。
「消えろ」
思わず言った。
ログは消えない。
いつもそうだ。
必要な時ほど、残酷なほど正確に表示される。
ミオは小さく笑った。
笑い方が、痛かった。
「名前って、自分のものだと思っていました」
「ミオ」
「でも、ここだと欄なんですね。番号があって、その時々で名前が入って」
「違う」
反射的に言っていた。
ミオが俺を見る。
「違うって、何がですか」
言葉に詰まる。
違う。
君は番号じゃない。
君はミオだ。
言いたい。
でもそれは、俺が決めていいことなのか。
ミオはミオだと、俺が固定してしまうこともまた、別の欄へ押し込めることではないのか。
俺が黙ると、ミオは目を伏せた。
「ごめんなさい。意地悪な聞き方をしました」
「謝ることじゃない」
俺は台帳を机に置いた。
深呼吸する。
「俺が言えるのは、一つだけだと思う」
ミオがこちらを見る。
「ここに何が書かれていても、今ここで読んでいる君は、君だ」
「それは」
「俺が決めることじゃない。だから、君が決めるまで、勝手に結論を出さない」
ミオの表情が揺れた。
救いの言葉には足りない。
でも、たぶん今は、足りないくらいでいい。
全部を包んで安心させようとすれば、また同じ軌道に戻る。
ミオはページへ視線を戻した。
「記録を写します」
「持ち出さないのか」
「台帳ごと持ち出したら、盗まれたことがすぐ分かります。必要なところだけ写した方がいいです」
彼女は震える手で紙を取り出した。
リナが持たせてくれた写し用の薄紙だ。
ミオはM-17の欄を書き写していく。
俺はその隣で、台帳の周辺を鑑定した。
対象:移送台帳 M分類
状態:劣化
秘匿層:あり
構造解析:可能
秘匿層。
ページの下に、別の記録が重なっている。
俺は意識を集中した。
紙の繊維。インクの濃淡。押印の圧。
見える。
M-17の下に、薄く別の文字がある。
下層記録:
救済配置は勇者候補Rとの接触により完了予定。
過去配置失敗時、記憶再調整を実施。
勇者候補R。
俺だ。
レン。
あるいは、レイン。
ミオは俺のために配置されていた。
その可能性を、もう否定できない。
喉の奥が乾いた。
俺の救済衝動。
ミオの被救済依存。
その二つが、最初から噛み合うように置かれていたのだとしたら。
「レンさん」
ミオが言った。
「今、何か見えましたか」
嘘をつきたくなった。
見えなかったと言えば、今だけは彼女を守れる。
違う。
それは守るではない。
隠すだ。
「見えた」
俺は言った。
「ミオが、勇者候補Rと接触するために配置されたって記録がある」
ミオは目を閉じた。
長い沈黙。
そのあと、彼女はゆっくり息を吐いた。
「やっぱり」
「やっぱり?」
「少し、思っていました」
ミオは写し終えた紙を畳む。
「私があなたを見た時、怖いのに安心したんです。知らない人なのに、助けてくれるって思いました。それが自分の気持ちなのか、植え付けられたものなのか、分からなくて」
胸が痛む。
俺も同じだ。
助けたいと思った。
それが善意なのか、スキルなのか、配置なのか、分からない。
ミオは台帳を閉じた。
「でも」
彼女は俺を見る。
「ここへ来ると決めたのは、私です」
その言葉だけは、誰にも奪わせたくないと思った。
その時、遠くで鐘が鳴った。
旧棟の中に残っていた小さな鐘だ。
カァン、と一度だけ。
フロッグが顔を上げる。
「誰か来ます」
視界にログが走る。
軌道修正イベント、進行。
保護対象記録への接触を検知。
回収隊が旧棟へ接近中。
ミオは写しを胸にしまった。
震えている。
でも、もう目は逸らしていなかった。
次話、記録に触れたことで、世界が修正を始めます。




