第十二話 教会文字を読める少女
三日後の第七鐘。
それが、俺たちに与えられた猶予だった。
猶予というより、執行までの待ち時間と言った方が近い。
白鐘監察官セラは怒鳴らなかった。脅しもしなかった。ただ、丁寧に書類を読み上げ、ミオを保護対象として教会へ戻し、俺を祝福鑑定へ進めると言った。
それだけで、こちらの逃げ道はかなり狭くなった。
暴力ならまだ分かりやすい。
だが手続きは厄介だ。
殴り返せない顔で、人を縛る。
「まず確認する」
ギルドマスターのバルドは、机に羊皮紙を広げた。
夜明け前のギルドは静かだった。酒場の椅子は上げられ、掃除前の床に昨日の泥が残っている。受付嬢のリナだけが、眠そうな顔で湯気の立つ茶を配っていた。
彼女は俺に茶を渡す時、小さく言った。
「変な言葉が出たら、止めてください」
「止め方が分からないんですが」
「口を塞ぐとか」
「それは俺が捕まりそうですね」
リナは少しだけ笑った。
笑ったあとで、自分の口元に触れる。
怖がっている。
自分の中に、自分ではない言葉が混ざることを。
バルドが咳払いした。
「教会が出した正式文書は三枚だ。一枚目、ミオの身柄確認。二枚目、レンの祝福鑑定通知。三枚目、地下記録室の閲覧異常に関する照会」
「照会って便利な言葉ですね。疑ってるけどまだ断罪じゃない、みたいな」
「その通りだ。断罪じゃないから、向こうは笑顔で来る」
バルドは一枚目の書類を指で叩いた。
「ここに、ミオの一時預かり期限が書かれている。三日後、第七鐘」
「第七鐘って」
「日没前の鐘だ。町の仕事が終わり、教会の夜祈りが始まる前」
つまり、町中が教会の鐘に意識を向ける時間だ。
回収には都合がいい。
俺は書類を覗き込む。
普通の文字は読める。なぜ読めるのかは分からない。転生特典なのか、世界側の翻訳なのか。だが、その下に小さな記号のようなものが並んでいるのに気づいた。
「これは?」
俺が指差すと、ミオが息を呑んだ。
「教会文字です」
声が小さい。
けれど確かだった。
「読めるのか」
「少しだけ。保護院で、薬草の札や寄付台帳を書かされていたので」
ミオは書類へ身を乗り出した。
最初は遠慮がちだったが、文字を追うにつれて目つきが変わっていく。怯えている少女の目ではない。記憶の奥から道具を取り出す人の目だ。
「ここ。表の文には『保護対象ミオ』とあります。でも下の教会文字だと、違います」
「何て書いてある」
ミオは唇を湿らせた。
「旧台帳照合。分類、M」
「M?」
「名前じゃありません。保護院で使う分類記号です。ミオのMではなく、たぶん……」
ミオは少し言い淀む。
「女神、マーテル、ミゼリコルディア。教会では、保護対象の種類に古い聖語を使うことがあります」
「ミゼリコルディア?」
「慈悲、です」
慈悲。
名前にしては、嫌な響きだった。
人を個人ではなく、救うべき分類として扱う言葉。
「続きは」
「旧棟照会。第十七欄」
部屋が静かになる。
第十七。
俺の視界の奥で、過去のログが勝手に蘇る。
あなたは過去17回、この少女を救出しています。
ミオも同じことを考えたのだろう。
指先が白くなるほど書類を握っていた。
「旧棟って、旧リーベル保護院か」
バルドが低く言う。
ミオは頷いた。
「今の保護院に移る前、子供たちがいた建物です。私は小さい頃、そこで暮らしていました。でも、途中で閉鎖されました」
「理由は」
「老朽化だと聞きました」
「表向きは、だろうな」
バルドは地図を出した。
リーベルの北西。町の外壁ぎりぎりの古い区画に、斜線で塗られた建物がある。
旧リーベル保護院。
ミオは地図をじっと見つめていた。
「ここに、私の記録があるんですね」
「可能性は高い」
バルドは渋い顔をする。
「だが閉鎖区域だ。教会の管理下にある。勝手に入れば、それだけで罪になる」
「じゃあ正式に閲覧申請を」
「三日じゃ通らん」
予想通りだった。
俺は地図を見る。
旧棟。
第十七欄。
M。
怪しい手がかりが並びすぎていて、逆に笑えない。
ミオが顔を上げた。
「行きます」
誰もすぐには返事をしなかった。
俺もだ。
行くな、と言いかけた。
危険だ。
教会に見つかる。
足も治りきっていない。
いくらでも理由はある。
でも、その全部の下に、もっと単純な衝動がある。
俺が代わりに見てくればいい。
ミオを安全な場所に置いて、俺が記録を持って帰ればいい。
それは優しさの形をしている。
そして、たぶんいつもの軌道だ。
「……俺だけで行く、は駄目なんだよな」
ミオは少し驚いた顔をして、それから頷いた。
「はい。私が読まないと分かりません」
「だよな」
「それに」
ミオは書類の小さな教会文字を指でなぞった。
「私の名前が、番号になっているかもしれないんです。だったら、私が見ます」
その声は震えていた。
震えているから弱いのではない。
震えながら言えることが、強いのだと思った。
リナが小さく手を上げた。
「あの、地図の写しなら用意できます。あと、旧棟の鍵の記録も……」
言いかけて、彼女は顔色を変える。
「違う。今、私、鍵の場所を知っているみたいに言いました」
「実際、知ってるのか」
「知りません。でも、口が勝手に」
リナはカウンターの方を振り返った。
「ギルド端末に、旧棟の搬入口記録が残っているかもしれません」
バルドが眉をひそめる。
「リナ」
「はい」
「それは独り言だな」
「はい。かなり大きめの独り言です」
リナは震える手で書類をまとめる。
彼女もまた、自分の中にあるよく分からないものと戦っている。
俺は地図を受け取った。
その端に、小さな文字が浮かぶ。
関連地点を確認。
名称:【旧リーベル保護院】
過去周回照合率:高
警告。
保護対象記録への接近は、軌道修正を誘発する可能性があります。
「誘発しない方が珍しくなってきたな」
俺が呟くと、ミオがこちらを見る。
「何か出ましたか」
「旧棟に近づくと、世界が嫌がるらしい」
「なら」
ミオは地図を覗き込んだ。
「そこに、私たちが見なければいけないものがあるんですね」
少しだけ、笑ってしまった。
怖がっている。
でも、前へ出ている。
これがミオの強さなのだと、初めてはっきり分かった。
俺は地図を畳んだ。
「行こう。旧リーベル保護院へ」
バルドが低く言う。
「日が昇る前に動け。鐘が鳴れば、教会の目が増える」
ミオが破れた写本のページを胸元にしまう。
そこには、ミアという名がある。
そしてこれから向かう場所には、たぶん別の名前がある。
あるいは、名前ですらない何かが。
地図の隅に、リナが震える字で追記した。
旧棟搬入口:北西倉庫裏
台帳室候補:地下薬草庫
照合記号:M-17
M-17。
ミオはその文字から目を離せなかった。
次話、旧リーベル保護院へ。
正しい入口ほど、監視されています。




