第十一話 三日間の猶予
女神像の目が、白く光っていた。
地下記録室の空気が一瞬で冷える。
棚に並ぶ勇者譚。聖女記。魔王討伐録。その背表紙の金文字が、鐘の音に合わせて薄く震えた。
カァン。
白い部屋で聞いた音。
教会の夜に聞いた音。
そして、俺の前回死亡原因を覆っていた黒塗りが剥がれた瞬間に鳴った音。
警告。
管理層に検知されました。
閲覧記録:
第143周回記録の物語化写本
公開題名:【聖癒の勇者レイン伝】
不正閲覧項目:【前回死亡原因】
「不正って言うな」
俺は思わず呟いた。
自分の死に方を読んだだけだ。
いや、正確には、死ではなかった。
前回死亡原因。
女神エルシアによる記憶初期化。
死んだのではなく、消された。
そう考えた瞬間、胃の奥が冷たくなった。
「まずい。上が来る」
写本係の老人が、震える手で燭台を掴んだ。
「上?」
「教会の連中だよ。地下の鐘が鳴った。記録室の閲覧異常は、すぐ監察へ届く」
「監察」
嫌な響きだった。
老人は棚の間へ俺たちを押し込むようにして進ませる。
「表の階段は使うな。写本の搬出口がある」
「あなたは」
「年寄りが迷子になっただけだと言い張る。若いのは走れ」
ミオが本を抱えたまま、老人を見た。
「この本は」
老人は少しだけ目を細める。
「持って行くな。持ち出せば窃盗になる」
「でも」
「だから、必要なページだけ破れ」
さらっと言った。
「いいんですか」
「よくない。だから急げ」
この老人、思ったより大胆だ。
俺は黒塗りが剥がれたページと、ミオの名に似た「ミア」が記されたページだけを破った。
紙が裂ける音が、やけに大きく響いた。
ミオはそれを胸に抱く。
「走れるか」
「走ります」
足首はまだ完治していない。
それでも、ミオの声は揺れていなかった。
搬出口は、記録室の奥にあった。
狭い石段を上り、古い木戸を押し開けると、教会裏の薪置き場に出た。夜気が頬に刺さる。遠くで鐘が鳴り続けている。
俺たちは裏路地を抜け、ギルドへ向かった。
◇
ギルドマスターの部屋に駆け込むと、片目に傷のある男、バルドが椅子から立ち上がった。
「戻ったか」
「ただいま、でいいんですかね」
「何を見た」
俺は破ったページを机に置いた。
バルドは紙面に目を通し、眉間の皺を深くする。
「勇者レイン。ミア。魔王ノア。女神エルシアによる記憶初期化」
声に出されると、改めて現実味が増した。
「これで、教会に説明を」
「無理だ」
バルドは即答した。
「なぜ」
「これは教会の記録だ。教会が認めなければ記録じゃない。破ったページなら、なおさらだ」
正論なのに理不尽だった。
俺が言い返す前に、扉が叩かれた。
三回。
正確すぎる間隔で。
受付嬢のリナが顔を出す。
いつもの完璧な笑顔は消えていた。
「ギルドマスター。女神教会より、白鐘監察官がお見えです」
白鐘監察官。
その肩書きを聞いた瞬間、部屋の温度が下がった気がした。
バルドは舌打ちする。
「早いな」
「鐘が鳴りましたので」
リナの声は硬い。
彼女自身も、その言い方を怖がっているようだった。
扉が開く。
入ってきたのは、白い法衣の女だった。
年は二十代後半くらいだろうか。薄い金髪を後ろでまとめ、首元には白い鐘の飾り。顔立ちは穏やかで、微笑みは柔らかい。
だが、目が動かない。
こちらを見ているのに、人間ではなく書類の項目を読んでいるような目だった。
「夜分に失礼いたします」
女は丁寧に頭を下げた。
「女神教会白鐘監察官、セラと申します」
名乗り方に隙がない。
セラはまずバルドを見て、次に俺、最後にミオを見た。
「保護対象ミオ。確認しました」
ミオの肩が跳ねる。
俺は一歩前に出た。
「彼女は物じゃない」
「もちろんです」
セラは微笑んだ。
「保護対象とは、教会が安全を保証するべき未成年者、または判断能力に不安がある者を指す管理区分です」
「管理区分」
「はい。守るための言葉です」
守る。
その言葉が、こんなに冷たく聞こえることがあるのか。
セラは手元の書類を開く。
「本日、保護対象ミオが女神教会保護院から無断離脱し、未登録転生者レン様と接触。その後、地下記録室にて閲覧異常を発生させたことを確認しました」
「未登録転生者?」
「祝福鑑定が未実施ですので」
セラの視線が俺の胸元に落ちる。
ステータスそのものを見られている気がした。
警告。
観測圧を検知。
対象:白鐘監察官セラ
関連機能:祝福鑑定、保護対象回収
「要求は二つです」
セラは淡々と言った。
「一つ。保護対象ミオの身柄を、女神教会へ引き渡してください」
ミオの指が、破ったページを握りしめる。
「二つ。レン様には明朝、教会にて祝福鑑定を受けていただきます」
「断ったら?」
「断る必要はありません」
会話になっているようで、なっていない。
セラは穏やかなまま続ける。
「保護されるべき方を保護し、女神の祝福を受けた方を正しく登録する。それだけです」
俺は笑いそうになった。
怒りすぎると、人間は笑いそうになるらしい。
「本人の意思は」
「もちろん確認します」
セラはミオを見る。
「ミオ。あなたは現在、恐怖、混乱、依存状態にあります。保護院へ戻り、心身の安全を確保したのち、改めて意思確認を行います」
「今は?」
ミオが小さく聞いた。
声は震えていた。
でも、聞いた。
「今のあなたは、適切に選択できる状態ではありません」
セラは優しく言った。
優しいからこそ、ぞっとした。
ミオの意思を否定しているのに、まるで治療しているような顔をしている。
バルドが机を指で叩いた。
「セラ監察官。こっちにも手続きがある」
「承知しています」
「ミオはギルド提携薬師の診断で足首を負傷している。移送には悪化の危険がある」
「教会施療院で治療できます」
「本人が教会施療院を拒否している」
「拒否の理由は恐怖による一時的混乱です」
「その判断を今ここで断定するな」
初めて、セラの笑みがほんの少し薄くなった。
バルドは書類を一枚取り出し、机に置く。
「冒険者ギルド規約、保護依頼者の一時預かり条項。怪我人の移送に争いがある場合、ギルド責任者の判断で最大三日間の一時預かりが認められる」
セラは書類を見た。
「古い条項ですね」
「消されてない条項だ」
部屋に沈黙が落ちる。
俺はバルドを見た。
この人は教会と真正面から戦えるわけではない。
でも、使える盾は使ってくれる。
セラは書類を閉じた。
「では、三日後の第七鐘まで」
あっさり引いた。
引き方が、逆に怖い。
「その時点で、保護対象ミオの引き渡し、およびレン様の祝福鑑定を実施します」
「三日で何をしろと」
「何も」
セラは俺を見る。
「保護は逃げるものではありません。受け入れるものです」
そう言って、彼女は一礼した。
出ていく直前、セラはミオへ視線を向ける。
「ミオ。あなたの不安は、教会が預かります」
扉が閉まった。
誰もすぐには喋らなかった。
リナが青ざめた顔で、そっと息を吐く。
「すみません。私、また変な言葉を言いそうで」
「変な言葉?」
「『回収予定通りです』って」
リナは自分の口を押さえた。
「そんなこと、思っていないのに」
部屋の空気がさらに重くなる。
ギルド端末。
管理ログ。
リナの口を通して、何かが漏れている。
ミオが、破ったページを机に置いた。
「レンさん」
「隠れる場所なら探す」
俺は即答した。
「三日あれば、町の外へ」
「違います」
ミオは首を振った。
その顔は青ざめている。
それでも、目だけは逃げていなかった。
「私は、隠されるのは嫌です」
「ミオ」
「保護院に戻りたいわけじゃありません。でも、ただ逃げたら、また誰かが私のことを決めます。教会が決めるか、レンさんが決めるかが変わるだけです」
言葉が刺さった。
その通りだった。
俺は、彼女を守るという顔で、彼女の行き先を決めかけていた。
「私の名前が、どこに書かれているのか見たいです」
ミオは破れた写本のページを見つめた。
「ミアでも、ミオでも、他の名前でも。私の記録があるなら、私が読みます」
バルドが低く唸る。
「旧リーベル保護院か」
ミオが頷いた。
「保護院の旧棟です。移送記録は、たぶんそこにあります。今の保護院に移る前の名簿も」
「危険だぞ」
俺が言うと、ミオは少しだけ笑った。
「隠れていても、危険です」
何も言えなかった。
その瞬間、視界にログが開いた。
軌道修正イベントを確認。
名称:【保護対象回収】
修正強度:2.1%
想定結果:
ミオの教会帰還
レンの祝福鑑定
勇者候補ルートへの復帰
世界が、俺たちを戻そうとしている。
ミオはそれを見えないまま、まっすぐ俺を見ていた。
「レンさん。私を連れて逃げないでください」
彼女は言った。
「私と一緒に、私の記録を探してください」
救うことと、連れていくことは違う。
守ることと、隠すことも違う。
俺は、その違いをまた突きつけられていた。
「分かった」
俺は頷く。
「三日で見つけよう。ミオの記録を」
ログの端で、軌道偏差の数字が小さく揺れた。
それはたぶん、この世界が嫌がっている証拠だった。
次話、ミオが読める「教会文字」から、旧保護院の記録へ近づきます。




