第7話 魚臭い手紙
最後までお読みいただきありがとうございました!少しでも『面白い』『続きが気になる』と思っていただけたら、下のブックマークや評価(☆☆☆☆☆)で応援いただけると嬉しいです。皆様の反応が執筆の大きな支えになります!
秋になると、珠江口の夕方は、少しだけ優しい顔をする。
六月の風は、息をするだけで体の中までじっとりと湿らせた。 浜辺のゴミは朝から腐り、発泡スチロールの欠片は熱を持ち、黒い水たまりには不気味に蚊が湧いた。 教室の窓を開けても、外から入ってくるのは涼しさではなく、ただ生ぬるい空気だけだった。
けれど、秋の夕方は違う。
日中はまだ暑い。 港のコンクリートは昼間の強烈な熱を残し、魚箱の氷はすぐにドロドロと解ける。
それでも、日が傾くと海風が少し変わるのだ。 湿った手で首元を執拗につかむようなあの不快な風ではない。 汗を乾かす前に、一度だけ肌を優しくなでていく心地いい風になる。
魚も一気に増えた。 市場の前には、朝から銀色の箱がずらりと並ぶ。
細い魚。丸い魚。腹の赤い魚。背中に青い線を持つ魚。ぬめりの強い魚。加工場へ回される名もなき小魚。
夏の終わりから秋にかけて、漁の量も、魚の種類も爆発的に増える。
町の大人たちは口を揃えて言う。 「秋は忙しい」
忙しい、という言葉は、大人たちにとって非常に便利な道具だった。
忙しいから人手がいる。 忙しいから少しくらい遅くまで残る。 忙しいから細かいお金の話はあとにする。 忙しいから子どもの手でも平気で借りる。
李海生は、その便利な言葉の渦の中で働いていた。
学校が終わると、海生は教科書をカバンに詰め込み、急いで校門を飛び出した。
秋の空はどこまでも高い。 けれど、港の方へ近付くほど、空気のにおいは低く重くなっていく。
解けた氷の水。魚の血。海水。消毒液。古いゴム長靴。濡れた木箱。
鼻に飛び込んでくるものが増えるたび、海生の足取りは自然と早くなった。 少しでも遅れると、また大人たちから小言を言われるのだ。
子どもは時間も守れない。 手が遅い。 頭だけよくても何の役にも立たない。 理科の点数がよくたって魚は片づかない。
言われる言葉は最初からすべて分かっている。 だから、言われる前に走るのだ。
魚加工場は、港のすぐ裏手にあった。
表から見れば、ただの背の低い平屋の建物だ。 壁は白く塗られているけれど、下の方は泥と脂で黒ずみ、排水溝のまわりには魚の鱗が乾いてびっしりと貼りついていた。
入口には、『衛生管理区域』と書かれた札が掲げられている。 中へ一歩足を踏み入れると、白い札の文字よりも、圧倒的な魚のにおいが鼻を支配した。
「遅いぞ!」
作業場の奥から、鋭い声が飛んできた。 王主任だった。
丸太のように太い腕をしている。腹も大きく突き出ている。 いつも白い前掛けを免罪符のようにしているが、その前掛けは白い日よりも、灰色に汚れている日の方が圧倒的に多かった。
「学校が終わって、すぐに来ました」 海生は激しく上がる息を整えながら言った。
「すぐに来た人間は、もっと早く着くもんだ」
「すみません」
「すみませんで魚の山は減らないんだよ。ほら、さっさと手を洗え」
海生は流しへ向かい、粗末な石鹸で手をゴシゴシと洗った。 爪の間を凝視する。 朝、浜辺で拾い集めた砂はきれいに落としてある。 それでも、魚を扱う前には何度も何度も洗わされる。
水は冷たくない。 秋になっても、この作業場の水は生ぬるい温度のままだ。
長靴に履き替え、薄いゴム手袋を着用する。 手袋は完全に大人用で、海生の細い指先には不恰好に余ってしまった。 その余った指先が、魚箱の角にいちいち引っかかる。 だから海生は、指を少し内側に曲げたまま作業する癖がついていた。
今日の魚は、気の遠くなるほど多かった。 コンクリートの床の上に、木箱がうず高く積まれている。
アジのような細い魚。小さなサバ。白身の魚。見たことのない平たい魚。 養殖場から運ばれてきたもの。沖のトロール船から来たもの。外の大きな町へ出荷するもの。地元の市場へ回るもの。
箱にはそれぞれ、行き先を示す札がついている。 海生は、その札を見るのがどうしても好きになれなかった。
魚にすら、明確な行き先がある。 形のきれいな上質な魚は、大量の氷の上に丁寧に並べられ、高級な遠くの場所へと運ばれていく。 対して、体に傷のある魚、形の悪い魚、小さすぎる魚。 そういう不揃いな魚ばかりが、この薄暗い加工場の奥へと回されてくる。
なんだか、人間とよく似ている。 そんな余計な思考が頭をよぎってしまうと、どうしても作業の手がわずかに遅れる。
「李海生、ぼさっとするな! 箱を運べ!」 王主任の怒声が飛ぶ。
海生は短く返事をして、魚箱に両手をかけた。 重い。 氷と魚、そして大量の水を含んだ木箱は、見た目よりも遥かに重かった。
大人なら一人で軽々と持てる。 海生だって、持てないわけではない。 けれど、まだ腕の筋肉が細い。 持ち上げるたびに、胸の奥の骨にまでギュッと力を入れなければならなかった。
一箱。二箱。三箱。
必死に作業台へと運び込む。 空いた箱を冷水で洗う。 床の血水をホースで流す。 こぼれ落ちた鱗をホウキで集める。 へばりついたぬめりをブラシでこすり落とす。 魚の腹を裂いて出た内臓を、決められた専用のプラスチック桶へと投げ入れる。
王主任は、タバコをくわえたまま何度も何度も叫んだ。 「早くしろ!」 「そこじゃない!」 「水を流しすぎるな!」 「いや、流し足りないぞ!」 「手を止めるな!」 「一体学校で何を習ってきてるんだ!」
海生はその都度、ただ機械的に返事をした。 「はい」 「すみません」 「やります」
その三つの言葉だけで十分だった。 余計な反論を口にすれば、それだけで作業の手が止まる。 作業が止まれば、さらに激しく怒鳴られる。 怒鳴られれば、拘束される時間が無駄に延びる。 そして、時間がどれだけ延びたところで、もらえるお金は一銭も増えないのだ。
だから、ただ黙って泥のように働く。
夕方の斜めからの光が、加工場の高い場所にある小さな窓から少しだけ差し込んできた。 その細い光の中で、魚の鱗が床一面に散らばってキラキラと光った。 それは、ひどくきれいだった。
けれど、きれいに見えるものほど、実際に手に残ると厄介なのだ。 鱗は靴の底に強固に貼りつき、手袋のすき間に入り込み、服の繊維につく。 いくら水で洗い流しても、必ずどこかにしつこく残る。
魚のにおいも、まったく同じだった。
作業を始めて一時間も経つころには、海生の服の袖にも、髪の毛にも、カバンの肩紐にまで、完全に魚の生臭いにおいが移り植え付けられていた。
(小雨への手紙も、今日は魚臭くなっちゃうな)
海生はそれを、ほんの少しだけ申し訳なく思った。 けれど、気にしたところで手は絶対に止めない。
離れた街で暮らす妹への、あの大切な封筒に入れるお金は、まさにこの嫌なにおいの中から生み出されているのだ。 においを嫌がって逃げ出せば、その分だけ封筒は軽くなってしまう。 そんなことは、絶対にできなかった。
作業場の大人たちは、決められた休憩時間になると一斉にタバコをふかした。 けれど、海生だけはその休憩の輪に呼ばれなかった。
「おい、小僧。みんなが休んでる間にこっちの箱を全部洗っておけ」 王主任が顎で指示を出す。
「あの休憩は、ないんですか」 海生は思わず、言葉を口に出してしまっていた。 言った瞬間、しまったと後悔した。
王主任は、信じられないものを見たというようにニヤリと笑った。
「休憩?」
近くにいた男たちからも、下品な笑い声が湧き起こった。
「おいおい、一人前に休憩だってよ」 「学校帰りの小僧のくせに生意気な」 「さっき遅れて来ただろうが。休憩はその遅れた分の穴埋めだよ」
海生はそれ以上、何も言わずに黙り込んだ。 学校が終わってから、ここまで必死に走ってきた時間は、決してサボっていたわけではない。
けれど、そんな正論をここで主張したところで何の意味もない。 この閉ざされた作業場の中では、何が正しいかではなく、誰が言ったかで世界のルールが決まるのだ。
海生は黙々と箱を洗い続けた。 水をかける。ブラシで力任せにこする。魚のぬめりが白い泡となって弾ける。流す。また次の箱を引っ張ってくる。
次第に両腕が鉛のように重くなっていく。 お腹が激しく鳴った。 昼間、学校で陳明月が誰にも見つからないように分けてくれた、あの甘い卵焼きの記憶は、もう遥か彼方の出来事のように遠くなっていた。
作業場の壁に掛けられた時計は、すでに七時を過ぎていた。
海生は本当なら、六時半までの約束で雇われていたはずだった。 面接のとき、最初に主任からそう提示されていた。 学校のある日は二時間ほど。忙しい日は少しだけ延びるかもしれない、と。
「少し」という大人の言葉も、本当に都合よく便利な言葉だった。
時計の針は七時半を指した。 まだ床には洗うべき箱が残っている。
王主任は、短くなったタバコをくわえ直しながら平然と言った。 「その列にあるやつ、全部終わらせてから帰れよ」
「今日は、六時半までだと聞いていました」 海生は言った。 声は小さかった。 それでも、静まった作業場の何人かの視線が、一斉にこちらに突き刺さった。
王主任は、作業の手を止めてゆっくりと海生を睨みつけた。 「何だって?」
「六時半までの約束だと、聞いていました」
「聞いていました、か」 王主任は、小馬鹿にするように海生の口調を真似てみせた。 男たちがまた声を上げて笑う。
「じゃあさ、お前がその六時半までに意地でも終わらせればよかっただけの話だろ」
「でも、今日は魚の量が明らかに多くて」
「多いからこそ、お前みたいな安頭脳を雇って働かせてるんだろうが」
「でも」
「でも何だ?」 王主任の声のトーンが、一段と低くなった。
海生は、拳を握り締めながら絞り出すように言った。 「追加になった分の時間は、どうなるんですか」
「追加?」
「残業代の、ことです」
作業場が、一瞬だけ水を打ったように静まり返った。
それから、さっきよりもさらに大きな、地鳴りのような爆笑が沸き起こった。 王主任も、お腹を揺らしてゲラゲラと笑っている。
「残業代だってよ!」 その言い方は、まるで見たこともない奇妙な虫を見つけたときのようだった。
「おい李海生、お前は一体自分が何歳だと思ってるんだ」
「十四です」
「十四のガキのくせに、いっちょ前に残業代だとさ!」
またドッと笑いが起きる。 海生は、ゴム手袋の中で爪が手のひらに食い込むほど指を強く握った。 手袋のすき間から冷たい魚の水が侵入してきていて、酷く気持ち悪かった。
王主任はタバコを床の端に投げ捨てると、分厚い靴の底で容赦なく踏み消した。
「お前の仕事が遅いから、時間が延びた。当たり前の話だろうが」
海生はハッと顔を上げた。 「僕の、手が?」
「そうだ。お前の手がノロいんだよ。箱を洗うのも遅い。魚を運ぶのも遅い。お前がチンタラやってるから時間がかかってるんだ。そんなお前の無能な時間の分まで、どうしてこっちが余分に金を払わなきゃならないんだ。大損だろうが」
「でも、全体の量自体が、昨日より明らかに増えていて」
「秋なんだから魚が増えるのは当たり前だ。そんな忙しい時期に来ておいて、忙しいから金を増やせなんて、よくそんな図々しいことが言えるな」
海生は返す言葉を失い、完全に黙るしかなかった。
何かが、絶対におかしい。 忙しくて人手が足りないから、自分が呼ばれたはずだ。 呼ばれて、言われた通りに必死に働いた。 扱う量が増え、物理的に時間が延びた。 それなのに、すべては「お前の手が遅いからだ」という理屈で片付けられてしまう。
どこかで計算の数式が完全に壊れている。 けれど、この閉ざされた空間の中では、そのねじ曲がった大人の数式の方が、絶対的な力を持っていた。
「嫌なら、明日からもう来なくていいぞ」 王主任は吐き捨てるように言った。
その脅し文句は、大人が子どもを屈服させるとき、いつでも最後に出てくる武器だった。 嫌なら来なくていい。
だが、もし本当に来なくなれば、小雨への封筒は一気に軽くなってしまう。 おじいさんの新しい作業手袋も買ってあげられない。 足の弱い老白の餌の量だって減らさざるを得なくなる。
だから、どんなに理不尽で嫌であっても、自分はここに来るしかないのだ。 絶対に来ると足元を見透かされているからこそ、相手は平然とその言葉を刃のように使ってくる。
海生は、深く深く頭を下げた。
「続けます。やらせてください」
「最初から素直にそう言やいいんだよ」 王主任はフンと鼻を鳴らすと、さっさと別の作業員の方へと歩いていってしまった。
海生は、再び無言で箱を洗い続けた。
水をかける。ブラシでこする。流す。次の箱を引きずる。 両腕が千切れるように痛い。腰が固まったように痛い。 ゴム手袋の中で、指の皮膚が真っ白にふやけてしまっている。 染みついた魚のにおいが、もう自分自身の体臭のように思えてくる。
時計の針が八時を大きく過ぎて、ようやくすべての作業が終了した。
王主任は、汚れた手で数枚の紙幣を数えると、海生の前に無造作に放り投げた。 いつもと全く同じ、規定通りの額だった。
海生はそれを拾い集め、受け取った。 その場で、わざと指で一枚ずつ数えた。 増えていない。 そんなことは最初から分かっていた。 けれど、どうしても数えずにはいられなかった。増えていないという不条理な現実を、自分の目で確かに確認するためだけに。
「何だ? まだ何かいいたげな顔だな。不満でもあるのか」 王主任がトゲのある声で言った。
「いいえ、ありません」
「ならさっさと帰れ。明日も来るつもりなら、もっとマシなスピードで動けよ」
「はい」
海生は、逃げるように加工場を飛び出した。
外の空気は、あの血生臭い作業場に比べればいくらかマシに感じられた。 けれど、まとわりつく海のにおいは、どこまでも自分の後ろをついてきた。 服にも。髪にも。指先にも。カバンの紐にも。
家に帰る夜道、海生は何度も自分の手のひらを鼻に近づけて嗅いでみた。 どこをどう嗅いでも、生臭い魚のにおいがする。 これから家で石鹸をつけて何度洗ったところで、きっと完全には落ちないだろう。
(手紙にも、このにおいが移っちゃうな)
小雨は、このにおいを嗅いだら嫌がるだろうか。 それとも、お兄ちゃんは今、海で一生懸命働いているんだなと、察してくれるだろうか。
我が家に到着すると、老犬の老白が扉の前までトコトコと迎えに出てきた。 老白は海生の足元に鼻を近づけ、強烈な魚のにおいに反応して、クンクンと熱心ににおいを嗅いでいる。
「ごめんね、これは食べ物じゃないんだよ」 海生が力なく言うと、老白はそれでも嬉しそうに、しっぽを小さくフリフリと動かした。
おじいさんは、いつものように古い机の前に座っていた。 「遅かったな、海生」
「うん、魚の量がすごく多かったんだ」
「秋だからな、漁が最盛期なんだろう」
「うん」
「お金は、どうだった」
海生は、ポケットからしわくちゃの紙幣を取り出して机に置いた。 祖父はその金額をじっと見つめた。
「増えていないな」
「うん」
「時間は?」
「一時間以上、増えた」
おじいさんは、静かに目を閉じた。 それは怒っているのではなかった。 行き場のない激しい怒りのエネルギーを、一体どこへ向ければいいのか分からず、必死に自分の内で探しているような、そんな悲しい顔だった。
「お前、向こうに何か言ったのか」
「少しだけ、残業代のことは聞いたよ」
「何と言われた」
「僕の手が遅いから、時間が延びたのは当たり前だ、って」
祖父は、胸の奥から搾り出すように、長くて重い息を吐き出した。
「本当に、便利な言葉だ」
「便利だね」
「仕事が遅いから金を払わない。逆に早く終われば、今度は仕事が少ないという理由をつけて金を払わない。大人たちの都合のいいサイコロはな、どちらへ転んでも、結局お前に金を払わない方へ転がるようにできているんだよ」
海生は笑わなかった。おじいさんも笑わなかった。 老白だけが、そんな二人の様子を静かに見守るように、海生の足元にそっと寄り添って座った。
海生は流し台へ向かい、手を念入りに洗った。 一度。二度。三度。 固形石鹸をこれでもかとこすりつけても、皮膚の奥に染み込んだ魚のにおいは、頑固として消えてくれなかった。
海生はその魚臭い手のままで、机の上から一枚の封筒を取り出した。 小雨へ送るための、大切な封筒だ。
今日も、加工場で手に入れたお金を、全額その中へ滑り込ませる。 しわくちゃの紙幣をきれいに伸ばし、数枚の硬貨を小さな布に丁寧に包む。
おじいさんは、その様子をもう何も言わずに見つめていた。 ここで余計な同情を口にすれば、海生がまた頑なに心を閉ざしてしまうことを、よく分かっているからだ。
海生は、妹への手紙を書き始めた。
『小雨へ。
秋になりました。 港には、いま毎日たくさんの魚が届いています。 細い魚も、丸い魚も、ピカピカした銀色の魚もたくさんいます。 お兄ちゃんは今日、その魚の入った重い箱を、たくさん運ぶお手伝いをしました。 だから、もしこの手紙が少し魚臭かったら、それはお兄ちゃんが珠江口の秋を、この手でしっかりつかまえた証拠です』
そこまで書いて、海生は鉛筆を動かす手をピタリと止めた。
残業代を誤魔化されたことは、一行も書かない。 大人たちに「手が遅い」と大笑いされたことも、決して書かない。 悔しくて手袋の中で拳を握り締めたことも、絶対に書かない。
離れて暮らす小雨には、魚がたくさん届いたという、豊かな秋の風景だけを真っ直ぐに届けてあげたい。 大人たちにこき使われた惨めな秋ではなく、魚に満ち溢れた美しい秋だけを信じさせてあげたい。
海生は再びペンを走らせた。
『小雨は、秋になって毎日何を食べていますか。 大好きな靴の絵は、いまも毎日描いていますか。 今度は、海の魚の絵も描いてみてください。 お兄ちゃんは、丸い魚よりも細い魚の方が、形がシンプルで描きやすいと思います』
手紙を書き終えると、丁寧に四つ折りにし、封筒の中へお金と一緒に仕舞い込んだ。 今日の労働の成果がすべて詰まった封筒は、昨日よりも少しだけ厚みを持っていた。
海生の手からは、相変わらず生臭いにおいが漂っている。 そのにおいは、当然のように手紙の白い便箋にもしっかりと移ってしまっていた。
海生は一瞬だけ、困ったように眉をひそめた。 けれど、すぐに諦めて封筒の口を糊でしっかりと閉じた。
(このにおいも、手紙と一緒に小雨のところへ行けばいいや)
小雨には、兄がどうやってこのお金を必死に作っているのか、まだ本当のことは何も伝えていない。 けれど、この手紙に染みついたにおいだけは、海生の隠された現実を少しだけ知っている。
この生臭い魚のにおい。 活気と理不尽の入り混じる、秋の港。 腕が引き千切られそうになる、重い木箱。 一銭の価値もないものとして扱われた、あの悔しい追加の時間。
それらの過酷な事実をどれだけ言葉で綺麗に隠したところで、においだけは、真実の証拠として紙の上に残り続けるのだ。
夜、海生は自分の部屋で、古いプリントの裏を綴じた手製のノートを開いた。
今日の観察の記録を書き留めていく。
『秋。漁獲量、種類ともに大幅に増加。 加工場、魚箱が床一面に多数積まれる。 本来は六時半までの労働約束。実際には八時過ぎまで強制的に作業。 残業代の支給はなし。 主任の提示した理由:仕事が遅いから延長になったのは当たり前、とのこと。 手、激しく魚臭い。石鹸で三回洗ってもにおいは全く落ちない。 小雨への封筒に、今日の日当を全額投入』
そこまで淡々と事実を書いて、海生は鉛筆を止めた。
そして、少しの間考え込んだあと、ノートの一番最後の行に、ポツリとこう書き加えた。
――魚が豊かに増える季節に、僕の時間の価値は、なぜかどんどん安くなる。
書き終えてから、じっとその文字を見つめた。 安くなる、という表現は、少し正確ではないかもしれない、と思い直した。 もともと底値のように安い自分の時間という存在が、大人たちの都合によって、さらにただ同然で勝手に消費されているだけなのだ。 そう書き直そうかとも思ったけれど、途中で気力が尽きてペンを置いた。 今日はもう、身体のあちこちが痛くて限界だった。
足元では、老白が安心しきった顔でスースーと寝息を立てている。 おじいさんも、すでに布団に入って静かに呼吸を繰り返していた。
古い部屋の中には、お粥のにおいと、老犬の体温のにおい、そして海生の手から漂う魚加工場のにおいが、複雑に混ざり合って充満していた。
秋の夜風が、窓のわずかな隙間からスーッと部屋に入り込んでくる。 日中の熱気が嘘のように、肌に少しだけ涼しい。 けれど、海生の手からあのにおいが消えることはなかった。
明日学校へ行けば、劉偉たちから、また「魚臭い」「加工場のにおいだ」「ゴミ博士の次は魚箱博士か」と大声で笑われるに違いなかった。 きっと、絶対に言われる。
海生は、自分の手のひらをじっと見つめた。
骨が浮き出た細い指。冷水でふやけてシワの寄った皮膚。爪の間に頑固に残る、小さな白い魚の鱗。
けれど海生は、この魚臭くて不恰好な自分の手を、どうしても嫌いになることだけはできなかった。
この手で必死に耐え抜いたからこそ、小雨へ送るあの白い封筒が、今日も少しだけ、確かに重くなってくれたのだから。
最後までお読みいただきありがとうございました!少しでも『面白い』『続きが気になる』と思っていただけたら、下のブックマークや評価(☆☆☆☆☆)で応援いただけると嬉しいです。皆様の反応が執筆の大きな支えになります!




