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黒い海の老白(パトラッシュ)  作者: 東四辻 うみネコ


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6/21

第6話 六月の水道水

六月に入ると、珠江口しゅこうこうの浜は、朝から別の顔をしていた。

五月の朝には、まだ少しだけ冷たさが残っていた。 しゃがみこめば砂の湿り気が膝に移り、海風は指先を心地よくこわばらせたものだ。

けれど、六月の浜は違う。

夜明け前だというのに、空気がどろりと重い。 湿った分厚い布を、肺の上に直接のせられているような朝だった。

風は吹いているのに、ちっとも涼しくはない。 海から来る風は、潮のにおいだけを運んでくるわけではなかった。

腐った魚。湿った発泡スチロール。油。古いゴム。乾ききらないビニール袋。 それらのにおいを、すべて最悪な形で混ぜ合わせて運んでくる。

李海生リー・ハイシェンは、満潮線に沿ってどこまでも続くゴミの帯の前にしゃがみ込んだ。

昨日よりも、明らかににおいが強い。 それが最初に肌で分かった。

大きなタイヤが二つ、波打ち際のすぐ近くで重なり合っていた。 片方の内側にはどす黒い水がたまり、蚊が細い足で水面に不気味に立っている。

白いポリ容器は、無様に腹を上にして転がっていた。 その下から、腐りかけた海藻とビニール袋がぐちゃぐちゃにからまってはみ出している。

発泡スチロールの箱は、もう箱の形を保っていなかった。 白い塊が崩れ、砂粒ほどの細かな破片になって砂一面に混じっている。

海生は、落ちていた空き缶を拾い上げた。 次に、金属の小さな容器。塗料缶のふた。油のにおいがべっとりと残る缶。

拾うたびに、手元の袋の中で金属同士が鈍く鳴る。 ちゃり、ちゃり、ちゃり。

五月のころには、その音が小さな鈴の音のように軽やかに聞こえた。 けれど六月になると、同じ音がどうしても少しにごって聞こえてしまう。

においのせいかもしれない。 この不快な暑さのせいかもしれない。 あるいは、どれだけ必死に拾っても決して減らない現実を、海生の耳が絶望とともに覚え始めたせいかもしれない。

老白ラオバイは、少し離れた安全な場所にいた。 浜へ勝手について来てしまうので、海生はもう連れてくるのをあきらめていた。

ただし、満潮線の危険なゴミの帯には絶対に近づかせない。 老白は砂の固いところに静かに座り、白い毛を朝の湿った生温かい風に揺らしている。

「そこにいて」 海生が声をかけると、老白は耳をピクリと動かした。

「今日はとんでもなく暑くなるから、早く帰るよ」

老白は返事をしない。 ただ、ピンク色の舌を少しだけ出していた。 六月の恐ろしい暑さは、人間よりも犬の方が先に体で察知するのかもしれない。

海生はズッシリと重くなった袋を持ち上げた。 今日は空き缶が多い。 浜の端まで徹底的に歩けば、空き缶だけで四袋にはなるだろう。金属の容器も二袋ほど集まるはずだ。

でも、学校へ行く前の海生にできるのは、そのほんの一部だけだ。 すべてを拾いきることは絶対にできない。

自分が拾えないものは、おじいさんの李守田リー・ショウティエンたちが日中に腰を痛めながら拾うことになる。 それを考えると、海生は途中で袋を置くことができなかった。

けれど、学校へ遅れるわけにもいかない。

海生は最後に、ギザギザに裂けた塗料缶を一つ拾い上げた。 ふちが薄く鋭利に開いている。 紙のような素直な顔をして、油断した人間の皮膚を容赦なく切り裂く金属だ。

それを袋の奥深くへと慎重に入れる。 それから、老白を呼んだ。 「帰ろう」

老白はゆっくりと立ち上がった。 やはり右後ろ足が少し遅れてしまう。 海生は、老犬の歩幅に合わせて自分の歩幅を小さくした。

我が家に戻るころには、背中にじっとりと汗が浮いていた。 まだ朝の早い時間だというのに、湿ったシャツが不快に肌に貼りついている。

おじいさんは、流し台の前で朝食のかゆを作っていた。

「六月というのは、本当に嫌な季節だな」 祖父が鍋を木べらでかき回しながら、しみじみと言った。

「まだ始まったばかりだよ」

「だから嫌なのだ。始まったばかりでこの有り様では、終わりのころには魚も人間もみんな同じにおいになってしまうぞ」

爺爺イエイエ、朝ごはんの前にそういうこと言う?」

「朝だからこそ言うのだよ。昼に言うと、現実味が増してもっと本当のことになってしまうからな」

海生は思わず笑った。 けれど、心の底からは笑いきれなかった。

おじいさんの言葉は、一見冗談に見えるときほど、たいてい核心を突いた本当の現実が混じっているからだ。

朝食は、水分の多い薄い粥と、昨日の青菜の炒め物の残りだった。 老白の器にも、よく冷ました粥を小皿に分けてやる。老白はゆっくりと時間をかけて食べた。

海生は急いで制服に着替えた。 浜辺のあの生臭いにおいが、シャツの繊維に残っているような気がしてならなかった。

洗っても洗っても、どうしても落ちないにおいというものが世界にはある。 魚加工場のにおい。海岸のゴミのにおい。腐った海藻のにおい。金属のさびたにおい。

それらは、皮膚の表面ではなく、その人間の「名前」そのものにべったりと染みついていく。


学校へ到着するころには、教室の窓はすべて全開にされていた。 古びた扇風機が天井で大きな音を立てて回っている。

けれど、回っているだけで少しも涼しくはなかった。 室内に充満した湿った生ぬるい空気を、ただ乱暴にかき混ぜているだけだ。

六月の教室には、さまざまな不快なにおいが幾重にも重なり合う。 他人の汗。弁当の油。古い机の木。生乾きの濡れた雑巾。泥のついた運動靴。

そして、海生が教室のドアを開けて一歩中に入った瞬間、何人かのクラスメイトがハッと顔を上げた。

「来たぞ」 誰かがぽつりと言った。 決して小さな声ではなかった。

「うわ、今日も海のゴミのにおいがする」

「魚加工場だろ、あれは」

「違うよ。もっと泥臭い、あのゴミ浜のにおいだって」

「お前さ、朝から一体何を拾って歩いてるんだよ」

男子の一人である劉偉リウ・ウェイが、大げさに鼻をつまむジェスチャーをしてみせた。 ドッと周囲が下品に笑った。

「金属拾いだよな。俺、昨日見たぞ。汚い袋を持って、じいさんみたいに腰を曲げて浜を歩いてた」

海生は真っ直ぐ前を向いたまま言った。 「おじいさんの仕事を手伝っているんだ」

「じゃあさ、将来の夢はゴミ拾い博士だな!」

「理科だけはやたら得意だもんな。ゴミの専門研究か?」

笑い声が教室中に広がっていく。 海生は何も言い返さずに、自分の席に着いた。 反論はしない。

反論してしまえば、においの話が余計に長くなるだけだ。 ゴミ拾いの詳細に話が及び、おじいさんの話まで引きずり出される。最悪の場合、老白のことまで笑いのネタにされるかもしれない。

だから、海生はただ固く口を閉ざした。 黙って耐えていれば、笑いは少しの間だけ続いてから、やがて次の退屈な話題へと移っていく。海生はこれまでの経験で、その処世術をよく知っていた。

でも、どれだけ黙ってやり過ごそうとも、投げつけられた言葉は確実に体の中に残る。

臭い。ゴミ。じいさん。拾い屋。

それらの言葉は、消しゴムでは決して消すことのできない、ノートに深く刻まれた鉛筆の跡みたいに、頭の奥底にいつまでも残り続けるのだ。


午前の授業は、気の遠くなるほど長かった。 湿気のせいで、手元のノートの紙が少し湿って波打っている。 鉛筆の芯まで、いつもより妙にやわらかく感じられた。

先生の解説する声は、天井の扇風機の風切り音に混ざって、時々ぼやけて遠くなった。 それでも、海生はひたすらノートを綺麗に取り続けた。

理科の授業では、水の蒸発と気温の因果関係についての話が出た。 先生が白いチョークで黒板に文字を並べる。 温度。湿度。腐敗。

海生は、今朝見た浜辺のゴミの帯を思い出していた。 六月に入ってから、明らかにあの場所のにおいの質が変わった。 ただ臭いが強くなっただけではない。物質が腐る「速さ」が圧倒的に変わったのだ。

同じ魚の骨であっても、五月のころより遥かに早くボロボロに崩れる。 同じ海藻であっても、六月は黒く変色してドロドロになるのが早い。 同じポリ容器の下であっても、そこに溜まったわずかな水に湧くボウフラの数が段違いに増えている。

海生はノートの端の余白に、自分だけの観察を書き留めた。

『六月。朝であっても強烈な腐敗臭あり。 温度の上昇に伴い、物質の分解速度が著しく早い。 発泡スチロール片は、完全に乾燥すると風で広範囲に飛散する。 缶の切り口のふちは、軍手をしていても皮膚を切る危険あり』

隣の席の劉偉が、覗き込むようにそれを見て声を上げて笑った。 「うわ、またゴミの記録つけてやがる」

海生は、ノートを自分の胸元へと少し引き寄せた。

「見せろよ、ケチるなよ」

「授業中だから」

「はいはい、出ました優等生」 劉偉はつまらなそうに、小さく舌打ちをした。 教壇の先生は、こちらの小競り合いに気づかない。気づかないのか、それとも気づかないふりをしているだけなのか。海生には判別がつかなかった。


昼休みのチャイムが鳴った。 今日は給食のない日だった。

この学校には、毎日決まって十分な給食が提供されるわけではない。 ある日は、温かいお粥やコシのあるパン、青菜の炒め物、少しの卵のかけらが出たりする。 けれどない日は、各自で家から弁当を持ってくるか、校内の売店で何か買うか、あるいは何も食べずに過ごすかの三択だった。

海生は、売店には向かわなかった。

朝、浜辺で拾い集めた金属を夕方に売れば、少しだけお金になる。 夜の魚加工場でのアルバイト代もある。 けれど、その貴重なお金はすべて、離れた街で暮らす妹の小雨シャオユーへの封筒に入れるためのものだ。 おじいさんの新しい作業手袋を買うためにも必要で、老白のご飯代にだって回さなければならない。

売店で売られている饅頭まんじゅうを一つ買ってしまえば、そのお金はただの饅頭一つで消費されて終わる。 けれど、小雨への封筒にその分を残しておけば、妹が夢中になって描いているあの靴の絵が、いつか少しだけ本物の靴に近づくかもしれない。

だから海生は、誰にも見られないようにカバンを置いて、校舎の裏手にある水道へと向かった。

水道の蛇口は、日陰のひっそりとした場所にある。 レバーをひねると、最初は管の中で温まった生ぬるい水がどくどくと出た。 しばらく無駄に流し続けていると、ようやく少しだけ冷たい水に変わる。

海生は両手で器を作って水を厳かに受け、口に含んだ。 一口。二口。三口。

冷たい水は、空っぽの胃袋に溜まって一時的に腹をふくらませてくれる。 飢えを満たしてくれるわけでは決してない。 ただ、襲いかかってくる空腹の「形」を、内側から少しだけ変えてくれるだけだ。

海生がぷはっと息を吐いて顔を上げた、その時だった。 背後から、静かな声が響いた。

「李海生」

驚いて振り返ると、そこにはクラスメイトの陳明月チェン・ミンユエが真っ直ぐに立っていた。

髪をいつも乱れなくきちんと結んでいる女子だ。 成績はクラスの中でも中の上くらいをキープしている。 休み時間に男子と大声で騒ぐようなタイプではないが、かといって誰とも話さずに孤立しているわけでもない。 劉偉たちが海生をからかうとき、彼女がその輪に加わることは絶対になかった。 けれど、それを毅然と注意して止めるほど、周囲に対して強いわけでもない。

海生にとって、明月はそういう絶妙な立ち位置のクラスメイトだった。 近くはない。けれど、決して遠くもない。

ただ、今日の彼女はいつもと違っていた。 その小さな手の中に、自分のものとは違う、もう一つの小さなアルミの弁当箱を大切そうに持っていたのだ。

「何をしてるの?」 明月が静かに尋ねた。

「水を飲んでるんだ」

「そんなの、見れば分かるよ」

「じゃあ、わざわざ聞かなくてもいいじゃないか」

海生が少しぶっきらぼうに言うと、明月は困ったように、ほんの少しだけ眉を寄せた。

「いつもお昼休み、こんな誰もいない場所に一人でいるの?」

「いつもじゃないよ」

「給食がない日は、いつもなの?」

海生はそれ以上、何も答えなかった。 答えないという沈黙が、何よりの明確な答えになってしまう。 明月は、その沈黙の形を正しく受け取ったようだった。

彼女は少し言い淀むような複雑な顔をしてから、手に持っていた弁当箱のふたをパカッと開けた。

「これもしよかったら、食べる?」

差し出された中身を覗き込む。 そこには、黄色く焼けた卵焼きが二切れと、シャキッとした青菜の炒め物、それから小さな肉団子がきれいに収まっていた。

海生は、中身を確認した瞬間に激しく首を横に振った。 「いらない」

「まだ、何も言ってないじゃない」

「言ったよ。『食べる?』って」

「じゃあ、遠慮しないで食べてよ」

「本当にいらないから」

明月は、今度は明確に怒ったような顔つきになった。 「私のことが嫌いなの?」

「違うよ」

「じゃあ、お母さんが作ったこのお弁当が汚いとでも言うの?」

「そんなわけないだろ」

「じゃあ、食べればいいじゃない」

「それは、それは陳明月の、今日の大事なお昼ごはんだろ」

「量が多いの!」

「嘘だ」

「少しだけ、多めに詰めてきちゃったの!」

「それだって嘘だろ」

明月は、手元のお弁当箱をじっと見つめた。 そして、消え入りそうな小さな声でぽつりと言った。

「うん。嘘だよ」

海生は、次の言葉に完全に詰まってしまった。

明月は、お弁当箱のふたの裏側に、黄色い卵焼きを一切れそっと移した。 続けて、青菜の炒め物を少しだけ添える。 さらに、丸い肉団子を箸で器用に半分に割り、その片方もふたの上に置いた。

「全部あげるわけじゃない。だから、これくらい貰ってもらったって、私が午後にお腹が減って困るようなことにはならないから」

「でも、困るよ」

「少し困るだけ」

「少しでも困るなら、やっぱり貰えない」

「李海生!」 明月の声が、校舎の裏に少しだけ強く響いた。

「少し困るくらいのこと、私にだって、わざとさせてよ」

海生は、目の前の少女を真っ直ぐに見つめた。

明月は泣きそうになっていたわけではなかった。 海生を哀れんで得意げになっている風でも、おごり高ぶっている風でもなかった。 ただ、ひたすらに困っていた。

誰かを少しでも助けたいと願っているのに、助けられる側のプライドがそれを頑なに受け取ろうとしないときの、大人がするような切ない顔だった。

海生は、かつて我が家で、これと全く同じ顔をおじいさんにさせた記憶があった。 自分が手に入れた半分のパンを無理やり手渡したとき。 夕食の粥を、自分の器にばかり多くよそられたとき。 魚加工場で血を流して稼いだお金を、全額小雨に送ろうとしたとき。

――何かを受け取らないという拒絶の行為も、ときに相手の心を激しく傷つけることがある。 十四歳の海生は、その痛みをすでに知っていた。

「じゃあ、卵焼きだけ貰うよ」

「肉団子も食べて」

「卵焼きだけでいい」

「肉団子も、せっかく半分に割ったんだから」

「半分だって多すぎるよ」

「もう割っちゃったんだから、戻せないでしょ」

明月は、おかずの乗ったふたを海生の方へとぐっと差し出した。

海生は、さっき水道で手を洗ったばかりだったけれど、蛇口をもう一度ひねって、自分の指先を念入りに水で流した。 それから、慎重に卵焼きを一つ、指でつまみ上げた。

口に入れる。 甘かった。

ほんの少しだけ、優しい砂糖の味がした。 我が家のおじいさんが作る、塩気しかない薄い粥には、逆立ちしても存在しない本物の甘さだった。

一口噛み締めた瞬間、喉の奥が急にキュッと狭くなるような感覚に襲われた。 世界にある本当に「おいしいもの」という存在は、ときに涙が出そうになるほど、残酷につらい。

海生は、喉の痛みをこらえるように、水道水で流し込むようにしてそれを胃袋へと飲み込んだ。

「おいしい?」 明月が覗き込むように聞いた。

「うん」

「なら、肉団子もさっさと食べて」

海生は、促されるままに肉団子の半分を指で取って口に放り込んだ。 サイズは小さかった。けれど、確かなお肉の塊だった。 凝縮された肉の旨味が、飢えた体の中でまっすぐ、全細胞に広がっていくのが分かった。

お腹の虫が、急に食べ物の存在を思い出したかのように、大きな音を立てて鳴りそうになった。 海生は、腹筋に力を入れてそれを必死にこらえた。

明月は、その気配に気づかないふりをして、明後日の方角を向いてくれた。 そのさりげない大人のふりが、今の海生にとってはたまらなくありがたかった。

「ありがとう」 海生は、静かに言った。

明月は、張り詰めていた表情を少しだけやわらげ、ほっとした顔になった。 「クラスのみんなの前では、こういうこと、絶対にできないから」

「分かってるよ」

「ごめんね」

「何が?」

「さっき、教室で劉偉たちがひどいこと言ってたとき私、何も言い返せなくて、止められなかったから」

海生は、水道の蛇口をキュッと音を立てて閉めた。 「もし陳明月がそれを止めたら、今度は陳明月が劉偉たちから標的にされて、ひどいことを言われるようになる」

「それはそうかもしれないけど」

「だから、あれでいいんだよ。気にしないで」

「よくないよ」 明月は、小さく唇を噛んだ。 「でも、今の私には、本当にこれくらいしかできないから」

海生は、空になったお弁当箱のふたを彼女の手元へと丁寧に返した。 「これで、十分にすぎるよ」

「本当?」

「うん」 明月は、まだどこか疑うような目で海生を見つめている。

海生は、少しだけ頭をひねってから、不器用な言葉を口にした。 「この卵焼きは、かなり強いよ」

「強い?」

「うん。朝から飲んだどの水道水よりも、圧倒的に強い」

明月は一瞬だけきょとんとした表情を浮かべ、それから、弾けたようにクスクスと笑った。 大声を出す笑い方ではない。 周囲に聞こえないように口元を手で押さえた、小さな、けれど心からの笑い声だった。

「何それ、変な言い方」

「科学的な、正しい感想だよ」

「まさかそれ、理科の観察ノートに書くつもりじゃないでしょうね?」

「書くかもしれない」

「絶対にやめてよ! 私の家の卵焼きを、勝手にゴミの実験材料にしないでよね」

海生も、つられて少しだけ笑った。

校舎の向こう側から、別の女子生徒が明月の名前を大声で呼ぶ声が聞こえてきた。 「もう行かないと」

「うん」

「李海生」

「なに」

「明日は、明日は給食、ある日だっけ?」

「明日は確か、ある日だと思うよ」

「『思う』じゃなくて、本当にあるの?」

「たぶん、あるよ」

「たぶんは危ないよ」

おじいさんと全く同じセリフをクラスの女子から言われて、海生は少しだけ目を見開いた。

明月はアルミのお弁当箱をパチンと閉じた。 「明日、もし給食がなかったら、少し多めにおかずを持ってきてあげるから」

「だめだよ、そんなことしちゃ」

「まだ、何も言ってないじゃない」

「言ったよ。『多めに持ってきてあげる』って」

「じゃあさ、わざと落とすね」

「何を?」

「明日、お昼休みにこの水道の前で、偶然、卵焼きを一切れポロッと地面に落とすの」

「もったいないだろ、そんなの」

「お兄ちゃんがよく言うもん。落としたって、すぐに拾って土を払えば食べられるって」

「それは絶対にだめだ」

「じゃあ、地面に落とされちゃう前に、私の手から直接受け取って食べてよ」

明月はそう言って、悪戯っぽく微笑むと、お弁当箱を抱えて校舎の方へと脱兎のごとく走っていった。

海生は、一人静まり返った水道の前に取り残された。

口の奥には、まだあの卵の優しい甘さが確かに残っている。

肉団子の強い風味も、消えずにそこにあった。

ただの冷たい水だけでは、どうしても一瞬で消え去ってしまう、生きるための味だった。


午後の授業中、案の定、劉偉が後ろの席からしつこく背中を小突いてきた。

「おい、ゴミ博士。昼休みに何食ってたんだよ。そこらの浜辺に落ちてる海藻でもしゃぶってたのか?」

周囲からクスクスと下品な笑い声が起きる。 海生は何も言い返さず、黒板をじっと見つめ続けた。

でも、不思議と今日は、いつもほど心が痛まなかった。 今の自分の身体の内側には、あの温かい卵焼きがある。肉団子の半分がある。

それは、量としては本当に小さなものだったかもしれない。 けれど、ただ水をお腹に詰め込んで耐えていたこれまでの日とは、決定的に何かが違っていた。

劉偉たちの放つトゲだらけの笑い声のすべてが、今日の海生の体の中までは、どうしても侵入してこられないようだった。


放課後、海生は夜の魚加工場へと向かう前に、自分の机で手製のノートを開いた。 今日の観察記録を、一文字ずつ丁寧に書き留めていく。

『六月。朝、浜辺の腐敗臭が著しく強い。 気温の上昇に伴い、においの質そのものが変化している。 満潮線沿いに、ゴミの帯が停滞。空き缶、金属容器多数。

学校。給食なしの日。 校舎裏の水道水、三口摂取。 クラスメイトの陳明月より、卵焼き一切れ、肉団子半分を譲り受ける』

そこまで淡々と事実を書いて、海生は少しだけペンを握る手を止めた。 そして、少し迷ったあと、ノートの余白にこう書き加えた。

――水よりも、圧倒的に強い味がした。

それから、さらに他人に読まれないような小さな文字で、自分への戒めを付け足した。

(でも、これ以上は絶対にもらいすぎないこと)

ノートをパタンと閉じると、窓の隙間から、真夏のような熱い風が室内に吹き込んできた。 六月は、まだ始まったばかりなのだ。

浜辺のゴミは、明日の朝には太陽の熱を吸って、さらに強烈なにおいを放っているに違いない。 教室での劉偉たちのからかいも、たぶん明日になったからといって綺麗に消え去ることはない。

それでも、海生は今日の昼休みに起きた出来事を、一文字も漏らさずにずっと覚えていようと思った。

校舎裏のひっそりとした水道。アルミのお弁当箱のふた。砂糖の入った甘い卵焼き。半分に割られた肉団子。そして、自分のために少しだけ困った顔をしてくれた、陳明月。

他人に「可哀そうだ」と同情の目を向けられるのは、海生は今でも大嫌いだった。 けれど、自分のことを本気で心配してくれた心優しい人が、自分のために、大切なお昼ごはんをほんの少しだけ削って分けてくれた。その尊い味まで拒絶して嫌うのは、絶対に違う気がしたのだ。

海生はカバンをしっかりと背負い直した。 魚加工場へと向かう港のコンクリート道は、もう夕方だというのに、昼間の強烈な熱気を排熱できずに残していた。

海の方から、あの混ざり合った腐ったにおいが風に乗って流れてくる。

六月は始まったばかり。 これから暑さも、生臭いにおいも、学校でのからかいも、もっともっと容赦なく強くなっていく。

けれど、海生の身体の奥底には、まだあの卵焼きの温かい甘さが、消えずに確かに残っていた。 それは、ただの冷たい水なんかではなかった。

世界にいる誰かが、自分のために、自分の大切な分を少しだけ削り取ってくれた、優しくて強い味がした。

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