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黒い海の老白(パトラッシュ)  作者: 東四辻 うみネコ


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第5話 破れた手袋

五月の浜は、朝だけまだ冬の名残のように冷たい。  昨日、祖父がどこからか連れて帰ってきた白い老犬――老白ラオバイは、夜の間、台所の隅に敷いた古い毛布の上で丸くなっていた。息をしているのか不安になるほど静かだったが、海生が朝の五時に薄暗い土間へ降りると、すでに大きな体を起こし、濡れた鼻先を小さく動かしてこちらを見ていた。

「……ついてきちゃダメだよ」

靴を履きながら小声で言うと、老白はきょとんとした顔で、長い耳を少しだけ後ろに引いた。その足元はまだ頼りなく、後ろ足がかすかに震えている。 海生は、祖父を起こさないようにそっと木戸を開け、錆びた火箸と麻袋を手に持って外に出た。

夜明け前の空気は青く、吸い込むと胸の奥がツンとする。 いつものように砂浜へ向かって歩き出し、百メートルほど進んだところで、背後に気配を感じて振り返った。

静かな砂道の上に、白い塊がぽつんと佇んでいた。老白だった。 老白は、海生が足を止めると同時にピタリと動きを止め、じっとこちらを見つめてくる。その目は、昨日周主任のトラックの荷台で見せたような怯えの色はなく、ただ静かに海生の姿を映していた。

「家で待っててって言ったのに」

海生はため息をつき、手を振って追い払う仕草をしてみたが、老白は尾をゆっくりと一度だけ左右に振るだけだった。近づいて引き戻そうとするには、もう時間が足りない。朝の金属拾いは、潮が引ききる前のこの一時間が勝負なのだ。

「……勝手にしてよ。でも、海に入っちゃダメだからね」

あきらめて歩き出すと、背後から「サク、サク」と、砂を踏む不器用な足音がついてきた。 一本の足を引きずっているせいで、足音のリズムは不規則だった。サク、サク、ズル。サク、サク、ズル。 これまでは、この冷たい朝の浜辺には海生ひとりしかいなかった。自分の足音と、遠くで鳴る波の音だけが世界のすべてだった。けれど今朝は、すぐ後ろに別の足音がある。それが不思議と嫌な感じはしなかった。

浜に到着すると、海生はすぐに視線を砂へ落とし、火箸を動かし始めた。 網の切れ端、錆びたボルト、プラスチックのキャップ。波打ち際を歩きながら、価値のある金属ゴミを素早く麻袋へ放り込んでいく。 老白は、海生の三歩後ろを正確についてきた。海生がしゃがんで砂を掘り返すと、老白もその大きな鼻を砂に近づけ、フガフガと匂いを嗅いだ。

「それはお金にならないよ」

海生が錆びた釘を見せて言うと、老白は興味を失ったようにふいと顔を背けた。その様子がおかしくて、海生の口元が少しだけ緩んだ。

一時間ほどして、東の空から赤黒い太陽が顔を出し、海面を赤く染め始めた頃には、麻袋はいつも通り半分ほどの手応えになっていた。 海生は腰を伸ばし、立ち上がった。 太陽の光が横から差し込み、老白の汚れた白い毛並みを金色に染めていく。よく見ると、その背中や腹には、どこかで擦ったような古い傷跡がいくつもあった。この犬も、この黒い海の町で、何かに押し潰されそうになりながら生きてきたのだ。

「帰ろう、老白」

初めてその名前を口に出して呼ぶと、老白は嬉しそうに耳を震わせ、海生の歩調に合わせて歩き出した。

家に戻ると、祖父はすでに起きていた。 土間のかまどには火が入れられ、鍋から白い湯気が立ち上っている。昨日、海生が半分残した給食のパンを細かくちぎって入れた、薄い粥の匂いがした。

「じいちゃん、ただいま」 「おお、海生。……お前、連れて行ったんか」

祖父は竃の前にしゃがんだまま、海生の背後から入ってきた老白を見て、目を細めた。

「置いていこうとしたんだけど、ついてきちゃったんだ」 「そうか。足の悪い犬だと思ったが、お前について歩くくらいの力は残っとったか」

祖父は立ち上がろうとして、小さく「うっ」と声を漏らし、右手をかばうように腰を曲げた。 その右手には、昨日海生が古いシャツの切れ端で巻いてやった包帯が、すでに赤黒く汚れて巻き付いていた。

「じいちゃん、また血が出たの?」 「いや、大したことはない。昨日、仕事の終わりにちょっと手袋が引っかかってな。手袋がもう、手袋の体をなしてねえからな」

祖父はぶっきらぼうに言って、包帯を隠すように袖を引いた。 海生は、昨日の夜、祖父の古い手袋を自分が下手くそな針仕事で縫い合わせたことを思い出した。太いタコ糸で無理やり繋ぎ合わせただけの手袋は、岩場の荒い作業には耐えられなかったのだろう。新しい手袋を買う余裕なんて、うちにはない。

祖父は、使い古された木のお椀に粥を盛り、海生の前に置いた。それから、少し躊躇うようにして、竃の隅に置いてあった小さな素焼きの皿に、粥のうわみずを少しだけ分け、それを土間の隅へ置いた。

「おい、犬。食うなら食え」

老白は、祖父の声に驚いたように身をすくめたが、皿の匂いを嗅ぐと、おずおずと近づいていき、ペロペロと音を立てて粥を舐め始めた。 その姿を見届けた祖父は、ようやく自分の分のお椀を持ち、静かに粥を口に運んだ。

朝食は、薄い粥と昨日の青菜の残りだった。 老白には、粥を少し冷ましてから、小皿に分けた。 犬に米ばかり食べさせていいのか、海生には分からない。 けれど今は、それしかなかった。

老白はゆっくり食べた。 祖父はその様子を見て言った。

「こいつは、食べ方が上品だな」

「金持ちの家にいたからかな」

「いや。たぶん、遠慮する癖がついているんだ」

海生は老白の背中を見た。 白い背中。痩せた背中。 小さくなって、部屋の隅に収まろうとする背中。

「ここでは、遠慮しなくていいのにね」

海生が言うと、祖父は粥をすすりながら言った。

「遠慮は、そう簡単には脱げんよ。濡れた服みたいなものだからな」

「乾かせば脱げる?」

「時間がいるさ」

「じゃあ、待つよ」

祖父はうなずいた。 「それが一番だ」

食べ終えると、祖父は作業帽をかぶった。 海生は学校へ行く鞄を背負う。

老白は、祖父の方へ二歩歩いた。 ついていくつもりらしい。

「だめだよ」 海生が言った。 老白は止まった。

「浜は危ないんだ。大きなタイヤもあるし、ポリ容器もあるし、缶のふちもあるし、変な水もあるからね」

老白は首を少し傾けた。

「爺爺だけで十分危ないから」

「おい」 祖父が抗議した。

「本当でしょ」

「少しは否定しろよ」

「じゃあ、少しだけ否定する」

「それでよし」

海生は老白の頭に触れた。 老白は逃げなかった。

「待っててね。帰ってきたら、足を見るから」

老白は、またしっぽを一度だけ動かした。

玄関を出ると、朝の空気はまだ涼しかった。 しかし日差しはもう強い。 昼には、作業着の中に熱がこもるだろう。

祖父と海生は途中まで同じ道を歩いた。 学校へ行く道と、浜へ行く道が分かれる角で、祖父が言った。

「今日も夕方、報告会だな」

「議題は、破れた手袋と老白の食べ方について」

「それだけか?」

「爺爺が約束を守ったかどうか、もね」

「厳しい議題だ」

祖父は、けがをしていない左手を上げた。 海生も手を上げた。

祖父の背中は、浜の方へ向かった。 作業袋はまだ空だった。 空の袋は軽い。

けれど海生は知っている。 帰るころには、町が捨てたもので重くなることを。


学校の授業中も、海生は時々、祖父の手袋のことを考えた。 数学の問題を解きながら、つぶれた缶の裂け目を思い出す。 国語の文章を読記しながら、役所の帽子の文字を思い出す。 昼休み、給食の青菜を食べながら、老白の小皿を思い出す。

今日は、給食を全部食べた。 祖父との約束だった。

でも、最後の小さな饅頭の欠片だけ、紙に包んだ。 全部食べる約束を破ったわけではない。 たぶん。 老白には、少しだけ必要だと思ったのだ。

学校が終わると、海生はいつもより早く浜へ向かった。 魚加工場のアルバイトは夕方からだ。 少しだけ時間がある。 祖父の作業区域をのぞいてから行ける。

北側の浜には、老人たちが並んでいた。 灰色の作業着。同じ帽子。同じ袋。同じように曲がった背中。 遠くから見ると、同じ人間が何人もいるように見える。

でも近づけば、みんな違った。 王じいさんは膝が悪い。 林ばあさんは左目がよく見えない。 陳おじさんは咳が長い。 そして祖父は、右手に破れた手袋をはめている。

浜の入口に、若い役所職員が立っていた。 首から名札を下げ、手には紙の板を持っている。 守田たちは、作業前にそこへ名前を書かされた。

「今日は写真も撮りますから、皆さん、帽子をちゃんとかぶってくださいね」 若い職員は明るい声で言った。 「地域の環境美化活動です。広報に載りますから」

老人たちは、特に嬉しそうではなかった。 でも、誰も断らない。 断ると、次の仕事が減るかもしれないからだ。

海生は少し離れて見ていた。 周主任ジョウしゅにんも来ていた。 白いシャツを着て、汚れない場所に立っている。

「李さん」 周主任が祖父に声をかけた。 「昨日の件、助かりましたよ」

祖父は軽く頭を下げた。 「いえ」

「戻ってきませんでした?」

海生は、祖父の背中を見た。 祖父は一瞬だけ間を置いた。

「遠くへ行きました」

「そうですか。よかった。いや、情が移ると面倒ですからね」 周主任は笑った。 祖父は笑わなかった。

海生は拳を握った。 遠くへ行った。 それは嘘ではない。

老白は、周主任の家から遠くへ行ったのだ。 ただし、海岸ではなく、李家へ。 海生はそのことを、心の中で小さく守った。

「それじゃあ、始めましょう」 若い職員が声を出した。

老人たちは袋を持って浜へ入った。 浜には、いろいろなものが落ちていた。 いや、落ちていたという量ではなかった。

満潮の線に沿って、ゴミが帯になっている。

ペットボトル。発泡スチロール。大きなタイヤ。白いポリ容器。 塗料のはがれた板。つぶれた空き缶。金属の小さな容器。 細かい黒い粒。海藻にからまったビニール。 波打ち際で角の取れた、色つきのガラス片。

ひとつずつ拾えば片づく、という量ではない。 昨日拾った場所に、今日また別のものが来る。 今朝なかったものが、昼の潮で戻ってくる。

浜は町の台所の流し台ではなかった。 町じゅうの排水口だった。 誰かが捨てたものが、全部ここに詰まり直している。

祖父は左手でトングを持ち、右手はできるだけ使わないようにしていた。 海生は少し安心した。 けれど、安心は長く続かなかった。

大きなタイヤとポリ容器の間に、つぶれた塗料缶が挟まっていた。 祖父はトングで引っ張った。 缶は動かない。

もう一度引っ張る。 裂けたふちがこちらを向いた。 祖父は反射的に右手で押さえた。

「あっ」

海生は声を出した。 祖父の右手の手袋に、細い線が走った。

朝、海生が縫ったところのすぐ横だった。 布が裂けた。 赤いものがにじむ。

祖父はすぐ手を引いた。 けれど周りの老人たちは、自分の作業で精いっぱいだった。 役所の職員は、写真を撮る場所を探している。

海生は走った。

「爺爺!」

「来るな。学校帰りの服が汚れるぞ」

「服より手を見せて」

「大したことはないさ」

「見せてってば」

祖父は少し困った顔をした。 だが、海生は引かなかった。

手袋を外すと、親指の横に浅い傷ができていた。 深くはない。 けれど、昨日の傷に近い場所だった。

海生は鞄から、朝入れておいた布を出した。 祖父が目を丸くした。

「持ってきたのか」

「持ってきたよ」

「準備がよすぎるな」

「爺爺が信用ならないからね」

「厳しいな」

「事実です」

海生は傷を押さえた。 手は熱かった。 汗と海水と血のにおいが混じっていた。

周主任が近づいてきた。

「どうしました」

声だけは心配そうだった。 目は、作業が止まることを心配していた。

「少し切りました」 祖父が言った。

「大丈夫ですか。無理なら今日は帰ってもいいですが、作業時間は途中までということになりますよ」

海生は顔を上げた。 途中まで。 つまり、日当が減るということだ。

けがをしても、手当が出るわけではない。 けがをすれば、仕事の時間が減る。 時間が減れば、金が減る。

祖父は言った。 「続けます」

「無理はしないでくださいね」 周主任はそう言った。

無理をしないでください。 その言葉は、無理をしてもらわないと回らない仕事の上に、薄く乗っているだけだった。

海生は布を巻いた。

「帰ってよ」

「帰らんさ」

「また切るよ」

「気をつける」

「気をつけても穴はふさがらないって」

「今、ふさいでくれたじゃないか」 祖父は静かに言った。

「夕飯がいるんだよ。老白にもいる。小雨への封筒もある。帰るわけにはいかんのだ」

海生は何も言えなくなった。 それは間違っている。 でも、間違っていることをやめるだけの余裕が、この家にはなかった。

広報用の写真が撮られた。 若い職員は、老人たちを並ばせた。

「袋を持ってください。はい、もう少し笑って!」

老人たちは笑わなかった。 職員は何度か撮り直した。

最後に、周主任が前に立った。 「浜をきれいにする皆さんに感謝しています」 そう言った。

海生は、祖父の右手だけを見ていた。 布の端が、少し赤くなっていた。


夕方、祖父は家へ戻った。 老白が扉の前まで来た。

祖父のにおいを嗅ぎ、右手の布のところで鼻を止めた。

「分かるのかね」 祖父が言った。

老白は鼻先を布に近づけ、それから祖父の足元に静かに座った。

海生は急いで水を用意し、祖父の傷を洗った。 朝の縫い目は無残に破れていた。

海生は手袋を机の上に置いた。 親指のところの布が裂け、人差し指の先もまた薄くなっている。

「もうだめだよ」

「まだ使えるさ」

「だめだってば」

「新しいのは高いからな」

「じゃあ、僕が買うよ」

「何でさ」

海生は答えなかった。

魚加工場のアルバイト代。 小雨への封筒。 老白の餌。 祖父の手袋。 全部が、同じ薄い財布の中で激しく押し合っている。

海生は手袋を見つめた。 穴。縫い目。血の跡。 『環境公益就労班』という新しい文字。 どれも同じ机の上にあった。

夜、海生はノートを開いた。 今日の記録を書きつける。

『五月。朝。北側浜。 老白が浜について来た。足に傷なし。 満潮線沿い、ゴミの帯。大きなタイヤ多数。ポリ容器複数。発泡スチロール片、多すぎて数えず。 その間から空き缶四袋、金属の容器二袋を回収。

祖父の手袋、親指横が再び破れる。 裂けた塗料缶のふちで右手を切る。 役所は写真を撮った。作業時間が減ると日当も減る。 老白は、血のにおいに気づいた』

そこまで書いて、海生は鉛筆を止めた。 少し考えて、最後に一行足した。

『破れた手袋で、きれいな町は作れない』

書いてから、海生はその文をじっと見つめた。

きれいな町。 白い広報写真。 灰色の作業着。 赤くにじんだ布。 老白の白い背中。

全部が、頭の中で重なった。

部屋の隅では、老白が眠っている。 祖父も、疲れて早くに眠ってしまった。

海生は、破れた手袋をもう一度手に取った。 縫えば、まだ少しは使えるかもしれない。 でも、それは「使える」ということではなかった。

「使わなければならない」ということだった。

海生は針箱を開けた。 針を持つ指先に、朝の砂がまだ少し残っていた。

外では、夜の海風が吹いている。 海は明日の朝も、町の忘れ物を浜へ返すだろう。

満潮線にできるゴミの帯。 大きなタイヤ。白いポリ容器。割れた発泡スチロール。 つぶれた空き缶。裂けた金属の容器。

拾っても、拾っても、潮がまた置いていく。

それでも海生は明日の朝も、その中から祖父の手を切るものだけでも先に拾いに行く。 破れた手袋を、また少しだけ直して。

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