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黒い海の老白(パトラッシュ)  作者: 東四辻 うみネコ


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第4話 捨ててこいと言われた犬

李守田リー・ショウティエンは、その家の玄関に立った時、まず自分の作業靴に目を落とした。

靴にはべっとりと泥がついていた。 昨日の浜辺の砂。今朝拾い集めた、濡れた紙くずの跡。 それから、あの不気味に細かい黒い粒。 それらが、すり減った靴底の溝にびっしりと入りこんでいる。

玄関の床は、一面が白い大理石でできていた。 まだ朝の早い時間だというのに、冷たくツヤツヤと光っている。

守田は、片足を少し後ろへ引いた。

世界には、汚してはいけない場所というものがある。 けれど、そういう白い場所ほど、自分たちの汚れる仕事を誰か別の人間に押し出すことで、その美しさを保っているものだ。

「李さん、こっちへ入ってください」 家の中から声がした。

役所の担当者であるジョウ主任だった。 環境公益就労の担当だ。 浜辺の清掃区域の割り振りや、日当の支払いを、守田たち老人へ配分する権限を持つ男である。

役所にいるときは灰色の地味な上着を着ているが、自宅にいる今日の彼は、襟つきの上質な薄いシャツを羽織っていた。 腕時計はピカピカと新しい。腹は少し不恰好に出ている。

「靴はそのままで上がっていいですよ」 周主任はそう言った。

しかし、口にするより先に、守田の足元の泥汚れを鋭く一瞥してから言った。 守田は笑らず、軽く頭を下げた。

「汚してしまいますので」

「いやいや、いいんですよ。どうせあとで使用人に拭かせますから」

拭かせます、と言った。 自分で拭くとは、決して言わなかった。

守田は無言で靴を脱いだ。 靴下の先にも少し穴があいていたので、見えないように足の指を内側に丸めた。

玄関のすぐ奥に、大きな段ボール箱がぽつんと置かれていた。 その箱の中から、かすかに生き物の息の音が聞こえてきた。

「今日は、浜辺の清掃ではないのですか」 守田が尋ねると、周主任は軽く手を振った。

「浜の仕事は午後からでいいです。先に、ちょっとした私用を李さんに頼みたいんですよ」

「私用、ですか」

「大したことじゃありません。李さんはいつも、仕事で海岸の一番奥の方まで行くでしょう?」

「行きますが」

「なら、ついでにできることです」

周主任は、段ボール箱の横へと歩み寄った。 箱のふたは閉じられていない。ただ、中身を隠すように古いタオルが乱暴にかけられていた。

周主任がそのタオルをめくった。 中に、白い犬がいた。

犬は小さく丸まっていた。 本当は、決して小型犬ではない。骨格はかなり大きい。 でも、背中が丸くなり、腹は不自然にへこみ、その体はひどく軽そうに見えた。

毛は白かった。けれど、長いこと洗われていないのか、ところどころが汚らしく黄ばんでいる。 耳の片方はくしゃりと折れていた。 目のまわりには、涙の跡が茶色くこびりついている。 あからさまな老犬だった。

犬は、じっと守田を見上げた。 吠えなかった。 しっぽを振って人間に媚びることもしなかった。 ただ、長く重い息を一つ吐き出した。

「この犬を、海岸の方へ持っていてもらえませんか」 周主任は、実につまらなそうな軽い声で言った。

守田は、一瞬自分の耳を疑った。 「海岸へ、ですか」

「ええ。適当に放してくればいいです。できるだけ遠いところでね」

「放す」 守田がつぶやくと、周主任は当たり前のように言葉を重ねた。

「うちは新しく、別の犬を飼うことになりましてね」 周主任は、自慢げに廊下の奥へと視線を向けた。

そこには、真新しいペットケージが賃座していた。 赤いリボンのついた首輪。まだ一度も使われていないピカピカの餌皿。犬用の玩具もいくつか綺麗に並んでいる。

「子どもがね、どうしても欲しいと言うんですよ。毛並みのきれいな、血統書つきの犬を。まあ、家の中で一緒に暮らすなら、やっぱり見た目の美しさも大事でしょう?」

守田は、足元の箱の中の白い犬を見つめた。 この犬だって、昔は毛並みがきれいだったのかもしれない。 だが今は、段ボールの中で汚れたタオルを敷かれ、ゴミのように捨てられる準備をされている。

「この犬は、ずいぶんと長く飼われていたのでは」

「長いですよ。長すぎるくらいです」 周主任は面倒そうに苦笑した。

「もう老犬だから臭うし、毛もボロボロ抜ける。客が来たときに見苦しいんですよ。子どもも最近は汚がって触りたがらないしね。かといって、わざわざ高い金を払って医者に連れていくほどでもない。家の中で死なれても後始末が困るでしょう?」

家で死なれても困る。 守田は、その冷酷な大人の言葉をゆっくりと胸の奥へ飲み込んだ。

飲み込むしかなかった。 この男は、自分たちの生活の命綱である仕事を割り振る立場なのだ。

浜のどの過酷な場所へ行くか。日当が何日分つくか。雨の日に仕事を出してもらえるか。けがをした時、次の仕事から容赦なく外されるか。 書類の上の権利を、この男が握っている。

「保護施設へは相談されないのですか」 守田は静かに言った。 口にしてから、自分でもなんて無力で弱い言葉だろうと思った。

周主任は鼻で笑った。 「李さん、そんなところはどこもいっぱいですよ。こんな年を取った老犬なんて、一体誰が引き取りますか。どうせすぐ死ぬんです。海辺に放してやれば、犬にとっても自由です。自然に帰る、というやつですよ」

自由。自然。 本当に便利な言葉だった。

家で要らなくなったペットを、冷たい海辺で野垂れ死にさせることが「自由」になる。 無責任に捨てることが「自然に帰す」ことになる。

守田は白い犬を見た。 犬もまた、守田の顔をじっと見つめていた。 助けを求めている目ではなかった。 人間がくれる助けというものを、もうとっくに信じていない目だった。

「名前は」 守田が聞いた。

「名前?」

「この犬の、名前です」

「ああ」 周主任は、少しだけ眉をひそめて考え込んだ。 少し考えなければ、もう思い出せない名前らしかった。

白白バイバイだったかな。いや、子どもは前に何か別の呼び方をしていたかもしれません。まあ、どうせ捨てる犬です。名前なんて何でもいいでしょう」

犬の耳が、ほんの少しだけピクリと動いた。 守田はそれを見逃さなかった。

名前なんて何でもいい。 その恐ろしい言葉は、ときに人間に対しても平然と使われることがある。 守田は身をもってそれを知っていた。

名簿にない家。紙にない田。書類の上では存在しないことにされている自分たちの暮らし。 名前を軽く扱われるものは、最後には荷物のように、ゴミのように処理されるのだ。

「できるだけ遠くがいいですね」 周主任は話をまとめるように言葉を続けた。

「家の近くだと、万が一にも戻ってくるかもしれないから。海岸の北側なら、物理的に戻れないでしょう。あそこは工場の壁沿いで、普段から人も通らない。李さん、いつも清掃で行くでしょう?」

「行きます」

「なら、お願いしますよ。もちろん、今日の作業時間の中にこれを含めておいていいですから。少しばかり手当もつけておきますよ」

手当、か。 守田は、悲しくて笑いそうになった。

犬を捨てるための手当。老人に犬を捨てさせるための汚い金。 それを、大真面目に「環境公益就労」の時間に入れるという。 この町では、どんな残酷な行為でも、言葉さえ着替えさせれば立派な「仕事」として成立してしまうのだ。

「分かりました」 守田は言った。 それ以外に、この場で言える言葉がどうしてもなかった。

周主任は満足そうに深くうなずいた。 「助かります。箱ごと持っていってください。もう戻す必要はありませんからね」

戻す必要はありません。 箱という物体も、犬という命も、この男にとっては全く同じ扱いにすぎなかった。

守田は、段ボール箱を両腕で持ち上げた。 思ったよりも、遥かに軽かった。 生きている犬が一匹入っているとは、とても思えない重さだった。

生きているものの重みがここまで軽いときは、だいたいよくない状態だ。 犬は箱の底で、ピクリとも動かなかった。

玄関を出るとき、家の奥から子どもの無邪気な声が聞こえてきた。 「お父さん、新しいワンちゃん、今日来る?」 「夕方だよ」 母親らしき女の声が優しく答えた。 「前のワンちゃんはどこ行ったの?」 「もういないわよ。汚かったからね」

守田は、足を止めずに真っ直ぐ歩いた。 もしここで一瞬でも立ち止まってしまえば、この箱が急激に重くなってしまう気がしたからだ。


外へ出ると、五月の強い日差しがもう地面を焦がし始めていた。 朝のあの心地いい冷え込みは完全に消え去り、路地の空気はねっとりと湿っている。

守田は、段ボール箱を大切に抱えて歩き続けた。 箱の中で、犬が一度だけ小さくフゥと鼻を鳴らした。

「暑いか」 守田は、誰にも聞こえない声で小さく語りかけた。 犬は答えない。

「すまんな。わしも、決していい運び屋ではないんだ」 犬はやはり答えなかった。 けれど、箱の底で爪がカサリと少しだけ動いた。

海岸の北側へ向かう道は、無機質な工場の壁沿いに延々と続いている。 壁には、カラフルで大きな文字が描かれていた。 『環境と未来を守る企業』

その文字のすぐ真下の溝には、白く濁った黒っぽい水がどくどくと流れていた。 守田はその前を、黙って通り過ぎた。

箱が軽い。 中身はあんなに軽いのに、自分の腕の骨だけが妙に重かった。

浜辺に出ると、激しい海風が吹きつけてきた。 朝なら気持ちのいい冷たい風だ。 でも昼前の風は、もうすっかり生ぬるくなっていた。 潮のにおい。腐った海藻のにおい。工場の油のにおい。それらが最悪な形で混ざり合っていた。

守田は、砂の上に静かに箱を置いた。 白い犬は、箱の底でまだ小さく丸まっている。

「ここで放せと、あの男に言われたんだ」 守田は犬に言った。 犬は、目だけをゆっくりと動かした。

「遠いから、もう二度と家には戻れないそうだぞ」 犬は、諦めたようにゆっくりと瞬きをした。

「自由になれるそうだ」 守田が口にすると、世界の冷たさが引き立つようだった。 守田は、決して笑わなかった。

波が引いていったあとの濡れた砂の上に、不自然な黒い粒が残っている。 少し離れたゴミの間に、鋭い針金が一本落ちていた。 朝、孫の海生ハイシェンが拾い残したようなものだった。

守田はそれを見つけると、無意識に右手を伸ばしかけた。 けれど、右手を使い怪我をしたら海生にひどく怒られると思い出し、慌てて左手で拾い直す。 拾った針金を自分の作業袋に入れる。

それから、再び段ボール箱の前へと戻った。 白い犬は、まだ自力で箱から出てこようとはしなかった。

守田は段ボールの横に、ゆっくりと腰を落としてしゃがみ込んだ。 「お前、外に出るか?」

犬は動かない。

「出ないか」 犬は、自分の鼻先を古いタオルの中に深く埋めた。 自分が人間に捨てられようとしていることを、本能ですべて理解しているようだった。 あるいは、どこへ出たところで、もう世界は同じだと絶望しているのかもしれない。

守田は、重い大きなため息をついた。 「困ったな。わしは、お前をここに捨てに来たのだぞ」

犬の耳が、かすかに動いた。

「それが、わしの今日の仕事だからな」 犬は、静かに目を閉じた。

「だが、仕事だからといって、人間、何をしてもいいということにはならんよな」 守田は、自分自身に言い聞かせるように、ぽつりと言った。

海風がまた強く吹いた。 箱のふた代わりになっていた古いタオルが、風で少しだけめくれた。 犬の背中の毛が露出する。 白いはずの毛並みに、黄色いシミと灰色の泥汚れが醜く混じり合っている。

けれど、背中のちょうど真ん中の部分だけは、奇跡のようにまだ真っ白だった。 守田は、その汚れのない白さを見つめた。

老白ラオバイ」 声に出して呼んでみてから、守田は自分自身の言葉に少し驚いた。

犬が、ハッと目を開けた。

「お前はもう、白白バイバイではないな。あの男の家の子どもがつけたような、玩具みたいな名はもう似合わんよ」 犬は、まっすぐに守田を見つめた。

「年を取った、立派な白だ。今日から老白だ」

犬は、自力で立とうとした。 細い後ろ足が、生まれたての小鹿のように小刻みに激しく震えた。 箱の縁に、爪を立てて前足をかける。 けれど、どうしても体を引き上げる力が足りない。

守田は、思わず両手を差し伸べて手を貸した。 白い犬は、ついに段ボールの外へと傷出た。

砂の上に立つと、自重で足元が少しだけズブズブと沈んだ。 犬は広い海を見つめた。 次に、工場の高い壁を見上げた。 最後に、目の前にいる守田の顔をじっと見た。

「元の家に、戻るか?」 守田は聞いた。 犬は、一歩も動かなかった。

「戻ったところで、もう二度とあの白い玄関には入れてもらえんぞ」 犬は、しっぽを振らなかった。

「なら、わしと一緒に、行くか?」

犬は一歩だけ、砂を蹴って守田の方へ歩いた。 それは、確かな意思の答えのようだった。

守田は困ったように頭をかいた。 「これは、帰ったら海生にこっぴどく叱られるな」

犬は、二歩目を歩いた。

「いや、違うな。叱られるのは、犬を海岸に捨てようとした冷酷なわしではなく、結局犬を家に連れて帰ってきたマヌケなわしの方か」

犬は三歩目でバランスを崩し、少しだけよろけた。 守田はすかさず手を伸ばした。

「分かった。もう歩くな。わしが抱える」

犬は、一切抵抗しなかった。 守田が再び抱き上げると、体はやはり軽かった。軽すぎた。 骨の感触と薄い毛、それから生きていこうとするわずかな体温だけを、今自分は抱いているのだと思った。

「本当に軽いな、お前は」 守田は言った。 「捨てるには軽いが、家に連れて帰るには、ずいぶんと重い荷物だぞ」

犬は、守田の古びた作業着の胸元に、温かい鼻先をそっと押しあてた。

守田は浜辺を歩き出した。 午後に指定されていた、次の作業区域へは向かわなかった。 周主任には、あとで適当な言い訳をしなければならない。

言われた通り、遠い海岸の北側へ放してきました。二度と戻らないと思います。 明らかな嘘になる。 けれど、罪のない犬を冷たい海に捨てるよりは、遥かにマシな嘘だった。

路地を通り抜けて戻る途中、何人かの近所の老人が守田の姿を見て声をかけてきた。 「おい李じいさん、なんだそれは。犬か?」 「ああ、浜に落ちていたんだよ」 「おいおい、今の海は犬まで流れ着くのかよ」 「この町ではな、何だって海から流れ着くのさ」

守田はそう言って歩き続けた。 白い老犬は、守田の腕の中で安心したように目を閉じていた。


我が家に到着したとき、孫の李海生リー・ハイシェンはまだ学校から帰っていなかった。 守田は犬を部屋の最も隅の静かな場所に寝かせた。 古い布を何枚か敷いてやり、水を小さなプラスチックの小皿に入れて口元に置いた。

犬はすぐには飲もうとしなかった。 水皿を見つめ、守田の顔を見つめ、それからようやく、ゆっくりと舌を出した。

ペチャ、ペチャと、ゆっくり、本当にゆっくりと飲む。 生きている生き物の、必死な飲み方だった。

守田は戸棚をガラリと開けた。 食べ物はほとんど残っていない。朝のお粥の残りも、底をつきかけている。 昨日の夜に食べた、魚の骨が少し残っているだけだった。

「すまんな。どこぞの金持ちの家から来たわりには、この家はひどく貧しいんだ」

老白は静かに水を飲んでいる。 「だがな、お前をもう一度捨てる予定だけは、この家には絶対にないからな」

守田は、魚の骨のまわりにわずかに残った身を、指先で丁寧に削ぎ落とした。 本当にほんの少しの量だった。 それを小さな皿に置いて差し出すと、老白は念入りに匂いを嗅ぎ、ゆっくりと時間をかけて食べた。 すべての身を綺麗に平らげるまで、守田はずっと横でそれを見守っていた。


夕方になり、海生が学校から帰ってきた。 扉を開けて中に入った瞬間、海生の足がピタリと止まった。

「爺爺」

「何だ」

「犬がいる」

「見れば分かるだろ」

「どうしたの、これ」

「浜に落ちていたんだよ」

海生は靴を脱ぎながら、呆れたように祖父を見た。 「犬は浜辺に落ちたりしないよ」

「いや、今日は確かに落ちていたんだ」

「段ボール箱に入って?」

守田はバツが悪そうに黙り込んだ。

海生は、カバンを置いて部屋の隅へとゆっくり近づいていった。 白い犬は、気配を察して顔を上げた。 少年と老犬の目と目が、真っ直ぐに合う。

海生はその場に静かにしゃがみ込んだ。 「こんにちは」

犬は吠えなかった。 海生は手を伸ばしかけて、途中でピタリと止めた。

知らない犬に、いきなり急に触ってはいけない。 それは学校の理科室の先生に教わったことではない。 これまでに浜辺で、何度も野良犬に逃げられて体得した教訓だった。

すると犬の方から、ほんの少しだけ鼻先を海生の手の方へと近づけてきた。 海生の指先に、かすかに触れる。 ひんやりとした、冷たい鼻だった。

「名前は?」 海生が聞いた。

「老白だ」 守田が後ろから答えた。

「ラオバイ?」

「そうだ」

「前からその名前だったの?」

「いや、今からその名前だ」

海生は祖父の顔を見つめた。 それだけで、だいたいの事情をすべて察した。

この犬は、浜辺に流れ着いたわけでも、拾われたわけでもない。 誰かに理不尽に捨てられかけたのだ。 そして自分のおじいさんは、どうしてもそれを見捨てることができなかったのだ。

海生は、それ以上何も詮索しなかった。 ここで詳しく聞いてしまえば、祖父が誰の命令だったのかを答えなければならなくなる。 答えれば、特定の誰かの名前が出てしまう。 誰かの名前が出れば、自分はその人間を激しく憎まなければならなくなる。 今の自分たちにとっては、そんな無駄な怒りよりも、まず目の前の犬をどうにかする方が先決だった。

「すごく、痩せてるね」

「そうだな」

「足も、ずいぶんと弱そうだ」

「何しろ年寄りだからな」

「爺爺と同じくらい?」

「バカ言え、わしの方がまだ少し若いぞ」

「本当に?」

「心の中がな」

海生は、思わず声を立てて笑った。 老白は、その少年の明るい声に反応して、耳をピクリと動かした。

「ご飯は、もう何かあげたの?」

「魚の身を、ほんの少しだけな」

「少しじゃ、全然足りないよ」

「分かっているさ。だが、うちにいる人間の分だって毎日足りんのだからな」

「でも、やっぱり足りないよ」

「足りないな」

二人は、お互いの顔を見合わせた。 ただでさえ貧しいこの家に、新しく犬がやってくる。 それは、決して簡単なことではなかった。 毎食のお粥は、きれいに三つには分けられない。 半分のパンは、三等分してしまえばもっと小さくなってしまう。

けれど、一度人間に捨てられた犬を、この家がもう一度見捨てることは、それよりも遥かに難しいことだった。

海生は、自分の学校のカバンを開けた。 中から、昼休みに食べるつもりで残しておいた、小さな饅頭の欠片を取り出した。

祖父がそれを見て目を丸くした。 「お前、学校でそれを食べなかったのか」

「半分はちゃんと食べたよ」

「お前、学校の給食は全部食べる約束だろうが」

「少しだけ、残っちゃったんだよ」

「残した、の間違いだろう」

海生は祖父の小言には答えず、手の中の饅頭をさらに小さくちぎった。 外して、老白の前にそっと置いた。

老白はクンクンと匂いを嗅ぎ、ゆっくりと口を動かした。 その食べ方は、ひどく静かだった。

他の個体から奪い取ろうとしない。急いでもいない。 まるで、これを食べたらまた誰かに激しく怒られるのではないかと、怯えて待っているような食べ方だった。

海生の胸の奥が、急にツンと痛くなった。

「ここでは、誰も怒ったりしないよ」 海生は、消え入りそうな声で小さく言った。

老白はハフハフと動かしていた口を一度止め、海生の目をじっと見つめた。 少年の言葉の意味が分かったのかどうかは、誰にも分からない。 けれど老白は、そのあと、安心したように残りのもう一口をしっかりと食べた。


夜になり、三性と一匹で質素な食卓を囲んだ。 三人と言っても、人間の数は二人だけだ。 けれど海生には、部屋の中にいる命の数が、確かに変わったように感じられた。

お粥はいつも通り薄い。青菜の量も本当に少ない。 けれど魚の身だけは、老白の皿へいつもより少し多く分配されていた。

祖父が申し訳なさそうに言った。 「犬は、うちに来た初日だからな」

「爺爺だって怪我人なんだから、もっと多く食べてよ」

「では、お前は一体何なんだ」

「僕は、温度計小隊長」

「なら小隊長も、遠慮せずにしっかり食べなさい」

「うん」

老白は、部屋の最も隅の暗い場所で、静かに体を丸めていた。 古い布の上にあるその白い毛並みは、まるで闇の中に浮かぶ小さな月のように見えた。

海生は食事を進めながら、何度も何度も老白の方へ視線を向けた。 「明日、学校へ行く前に、浜辺で何か拾えそうなものがないか見てくるよ」

「何を拾うつもりだ」

「何か、食べられそうなもの」

「バカ言え、浜辺に落ちている食べ物なんか絶対に拾うな」

「じゃあ、夜の魚加工場のアルバイトのとき、売り物にならない端切れを少しもらえるか主任に聞いてみるよ」

「それも、あんまり無理をするんじゃないぞ」

「でも、これからは老白がいるからね」

「そうだな」 祖父は、愛おしそうに老白を見つめた。

「増えたな」

「うん」

「飯を食う腹が、ね」

「うん」

「それに、心配ごともね」

「うん」

「だがね海生、我が家に帰ってくるものがまた一つ増えたぞ」

海生は祖父の顔を見た。 帰るもの。 少し不思議な、変わった言い方だった。

家に帰る人、という意味ではない。 自分がこの家に帰ってくるための、絶対的な理由のことだ。

朝になれば、海生は学校へ行く。祖父は浜辺の清掃へ行く。 夕方になれば、それぞれがこの狭い部屋へ帰ってくる。 そこには今、老白が静かに座っている。

自分の帰りを待ってくれている存在が、世界に一つ増えたのだ。

貧しい我が家においては、新しく増えるものといえば、たいていは厄介な困りごとばかりだった。 でも、この老犬の増え方だけは、これまでのどれとも決定的に違っていた。


夜になり、海生は自分の机で、古いプリントの裏を綴じた手製のノートを開いた。 今日の記録を一文字ずつ丁寧に書きつけていく。

『五月。夕方。 老白ラオバイが我が家にやってきた。 白い老犬。 ひどく痩せている。 右の後ろ足が著しく弱い。 水を伝えるが、ゆっくりと飲む。饅頭の欠片も、急がずに静かに食べる。 滅多に吠えない。 どうやら、前の飼い主から捨てられたらしい』

そこまで淡々と事実を書いて、海生は鉛筆を動かす手をピタリと止めた。

捨てられたらしい。 そのたった一言の言葉は、今の老白だけに向けさせてしまうには、あまりにも重すぎて残酷だった。

おじいさんの故郷の村も、国によって強制的に捨てられた。 お父さんの突然の死も、社会の片隅にそのまま捨てられた。 妹の小雨も、家計のために遠くの街へと出された。 そしてこの老白も、ただ年を取って役に立たなくなったからという理由で、人間に捨てられた。

海生は少しの間考え込み、最後に書いたその一行を、力を込めて力強く書き直した。

――老白は、うちに来た。

その方が、絶対にいいと思った。 こんな悲しい出来事を、捨てられたという絶望の言葉だけで終わらせたくはなかったのだ。

老白は、うちに来た。 我が家にやって来たのだから、ここから先には新しい未来がある。

部屋の隅から、老白の小さくて規則正しい寝息がスースーと聞こえてきた。 海生は顔を上げた。 おじいさんも、布団の中で静かに目を閉じて眠りについている。

この狭い部屋の中に、いま確かな寝息が二つ並んでいる。 海生は、静かにノートを閉じた。

外では、冷たい夜の海風が路地を激しく吹き抜けていた。 暗い海は今日も明日も、人間たちが勝手に捨てた不都合なゴミを、どこかへ押し流し続けている。

けれどその日、海という巨大な捨て場所にされかけた命の一つは、その暗闇の手前から、確かに自分の力で生きて戻ってきたのだ。

老白は、古い布の上で幸せそうに眠っている。 まだ、この家の完全な飼い犬になったわけではない。 けれどもう、世界のどこにも居場所のない、ただの哀れな捨て犬では決してなかった。

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