第3話 父の声を入れない手紙
李海生は、手紙を書く時だけ、字を少し大きくした。
普段のノートでは、紙をできるだけ使わないようにしている。 理科の観察記録も、測定した温度も、浜辺で拾い集めた金属の数も、小さな文字でぎっしりと書き込む。
貧しい海生にとって、紙の余白というものは、まだ使える貴重な土地のようなものだった。
でも、離れた街で暮らす妹の李小雨に送る手紙だけは全く別だった。
小雨は、まだ小さい。 小さな文字を無理に読もうとすると、眉間にきゅっとしわを寄せてしまう。
昔、まだ家族四人で同じ家にいたころ、小雨は海生の宿題を横からのぞきこんで言ったものだ。 「お兄ちゃんの字って、まるで蟻んこみたい」
だから海生は、小雨への手紙ではわざと文字を大きくする。 紙が少し余るくらいの間隔で書くのが、ちょうどいい。 小雨が読むときに、息が詰まってしまわないように。
机の上には、学校でもらった古いプリントの裏紙が一冊分の一枚だけあった。 表には、もうとっくに終わった学校の行事予定が薄く印刷されている。 けれど裏側は、まだまっさらな白だった。
完全な白ではない。 でも、妹へ手紙を書くには十分すぎるほどだった。
海生は短くなった鉛筆を握り締めた。
『小雨へ』
そこまで書いて、少しだけ考え込んだ。
(父さんは元気です) そのお決まりの一文は、絶対に書かない。 書くわけにはいかない。
嘘というものは、何度も繰り返し書いていると、自分の手の方がその感覚を覚えてしまうからだ。 けれど、父親のことを何も書かなければ、勘のいい小雨は異変に気づくかもしれない。
海生は鉛筆の先を止めたまま、ぼんやりと窓の外に目を向けた。 夕方の狭い路地には、どこかの家が魚を焼くにおいと、工場から仕事帰りの人たちが歩く足音が複雑に混ざり合っていた。
遠くの港の方から、大きな貨物船の低い駆動音が地鳴りのように響いてくる。
祖父の李守田は、隣の薄暗い部屋で古い作業手袋を静かに縫い直していた。 針を硬い布に通すたびに、かすかに糸が擦れる衣擦れの音が聞こえた。
海生はもう一度、手元の紙に向き直った。
『小雨へ。
五月になりました。こっちは少しずつ暑くなってきたよ。
今日の給食には、めずらしく中華ちまきが出ました。お肉は入っていなくて、中身は少しの小豆が入った甘いものだったけれど、もち米がずっしり重くて、とてもいい匂いがしたんだ。
ほんとうは全部食べたかったけれど、半分だけ食べて、残りは紐を結び直して鞄にしまいました。夜、じいちゃんと半分ずつにして、お粥に入れて温めて食べたら、すごく甘くておいしかった。小雨にも食べさせてあげたかったな』
ここまで書いて、海生は小さく笑った。
小雨なら、これを読めば絶対に笑う。 きっと大喜びして、返事の手紙の紙の端っこに、可愛い中華ちまきの絵を描いて送ってくるはずだ。 笹の葉っぱに目と口をつけて、勉強する中華ちまき、と拙い文字で書き添えるかもしれない。
海生は続きの文章を書き進めた。
『昨日、僕の背が二ミリ伸びました。 おじいちゃんは大成長だと言って喜んでくれました。 僕が、それはただ髪の毛が伸びただけかもしれないと言ったら、髪の毛だってお前の一部なんだから大成長で間違いないと言われました』
そこまで書いたとき、隣の部屋からおじいさんの大きな声が降ってきた。
「海生、夕飯の前にちゃんと手を洗えよ」
「もう洗ったよ」
「紙の上に嘘を書き連ねるその手は、もう一度念入りに洗っておきなさい」
海生は、ぴたりと鉛筆を止めた。 「見てたの?」
「見なくたって分かるさ。小雨への手紙を書いているんだろう」
「嘘なんか書いてないよ」
「事実の全部は書いていない、という種類の嘘もあるんだよ」
海生は、返す言葉がなくて黙り込んだ。 おじいさんは、決して海生を責めているわけではなかった。 でも、その指摘はぐうの音も出ないほど正しかった。
全部は、書いていない。 父親のことを、何一つとして書いていない。
李志強。 小雨の父親であり、海生の父親。 そしてもう、この世界のどこにも存在しない人。
小雨は、その事実を何一つとして知らない。 お母さんに連れられて母方の遠い家へと引き取られていったとき、小雨はまだわずか七歳だった。 離婚という大人の言葉の意味も、口減らしという現実の重さも、きっと何も分かっていなかったはずだ。
あの日、父親と母親は、激しい大声を出して喧嘩をしたわけではなかった。 泣き叫びもしなかった。 家の中の家具や食器が壊されることもなかった。
ただ、二人とも、気の遠くなるような長い時間、ずっと無言で黙り込んでいた。
母親は、小雨の小さな服を黙々と畳んでいた。 父親は、工場の作業着を着たまま、汚れた壁にもたれかかるようにして座り込んでいた。 その顔は、どす黒い灰色だった。
過酷な夜勤明けの疲れ切った顔でもあった。 膨れ上がった借金に押しつぶされそうな顔でもあった。 何日も満足に食事をしていない、飢えた男の顔そのものだった。
海生は、そのときまだ幼い子どもだった。 けれど、子どもながらにすべてを理解した。
この家には、もう四人分の食事を用意するお金がない。 四人分の衣服を買う余裕もない。 家族四人分の未来なんて、どこを探しても残されていないのだ。
だから、誰かをこの家から外へ出すしかない。 母親と小雨の二人を、母方の実家へと戻す。 それは世間的には離婚という形を取り繕っていた。 けれどその実態は、生きるために食べる口を減らすための、残酷な間引きだった。
何も知らない小雨は、眠そうな目をこすりながら海生に尋ねた。 「お兄ちゃんは、一緒に行かないの?」
海生は、胸が詰まって答えられなかった。 代わりに、父親が静かに声を絞り出した。
「お兄ちゃんは、ここでおじいちゃんのお手伝いをするんだよ」
「じゃあ、お父さんは?」
「お父さんは、これからもっとたくさん働くんだ」
「じゃあ、お仕事がいっぱい終わったら、あとで私を迎えに来てくれる?」
父親は、少しだけ口元を歪めて笑った。 今にして思えば、あれは決して笑顔などではなかった。 幼い小雨をその場で泣かせないために、自分の顔の上に無理やり貼りつけた、今にも破れそうな薄い仮面だった。
「ああ、約束するよ。小雨が向こうで、ずっといい子にしていたらな」
小雨は嬉しそうに何度も深くうなずいた。 母親はそのすぐ横で、服を畳む手を一瞬たりとも止めようとはしなかった。 もし少しでも手を止めてしまえば、その場で大声で泣き崩れてしまうことを分かっていたからだろう。
その日から、小雨は手紙の中にしか存在しない妹になった。 海生は、手紙の中でしか会えない兄になった。
兄は、いつでも強くなければならない。 いなくなった父親の代わりに、少しだけ大人の顔をしていなければならない。
けれど父親は、あのあともう、もっとたくさん働くことすらできなかった。
父親が工場で倒れて死んだのは、過酷な連続夜勤が明ける直前の、朝の早い時間だった。 海生は、あの日の朝の光景を今でも鮮明に覚えている。
空気が、肌にまとわりつくように重かった。 ひどく湿気の多い日だった。 工場の巨大な排気口から吐き出される白い煙は、青空へは上がっていかず、地面の近くを低くドロドロと広がっていた。
父親は、前の日の朝から一度も家に戻ってきていなかった。 賃金の極端に低い弱小な工場では、人手が足りない日があると、仕事の時間が奴隷のように長くなる。 長く働かされた分の正当な対価が、きちんと支払われるわけでは決してない。 でも、もし一度でもそれを断れば、明日からの仕事の割り振りを露骨に減らされてしまう。 だから父親には、大人の命令を断る権利なんて最初からなかったのだ。
あの日、父親は稼働する機械のすぐ横で力尽きて倒れた。
最初の説明では、すべては本人の不注意による事故だと言い切られた。 極度の眠気のせいで、足元を注意深く見ていなかった。 支給されていた保護具の使い方が悪かった。 会社が定めた安全な作業手順を厳守しなかった。
工場の責任者たちは、父親が倒れるまでに一体何時間連続で働かされていたのかを、絶対に口にしようとはしなかった。 何日連続で残業を強いられていたのかも、完全に隠蔽した。 昼食を食べる時間すら与えられていなかったことも。 夜勤の本番が始まる直前、資材置き場で座ったまま気絶するように眠っていたことも。 誰一人として、公には言わなかった。
機械に不備はなかった。 会社側に過失はない。 安全のためのマニュアルは存在していた。 事前の安全教育は適切に行っていた。 本人の署名が入った確認欄がここにある。
だから、すべては本人の自己責任。 その冷酷な言葉は、会社のスーツを着た男たちの口から出るとき、まるで最初から精巧に用意されていた機械の部品のように滑らかだった。
海生は、おじいさんの真横に立ってその冷たい言葉をじっと聞いていた。 父親の遺体には、もう冷たい白い布がかけられていた。
おじいさんは、声を震わせながら何度も同じ質問を繰り返した。 「息子は、一体何時間働かされていたんだ」
会社の男は、表情一つ変えずに答えた。 「社内記録の上では、すべて規定の範囲内となっております」
「実際はどうだったんだと聞いている」
「ですから、社内記録の上では、すべて規定の範囲内です」
「休憩はちゃんと与えていたのか」
「休憩時間は、本人の裁量で自由に取得可能なシステムになっておりました」
「あいつは取っていなかっただろう!」
「そこまでの個人の動向に関しては、こちらでは確認できかねます」
「今すぐ現場の人間を呼んで確認しろ!」
「当時の現場は非常に混乱しておりましたので、これ以上の調査は不可能です」
おじいさんの右手が、激しく小刻みに震えていた。 あのころのおじいさんの手には、まだ今ほど深いシワは刻まれていなかった。 でもあの日を境に、おじいさんは一気に何十歳も年老いてしまったように海生の目には見えた。
海生は、床に置かれた父親の作業靴をじっと見つめていた。 靴の底には、真っ黒い機械油がべっとりとこびりついている。 右側の靴だけ、つま先のゴムが激しく擦れて白く剥げていた。
父親は、歩き出すときに必ず右足から一歩目を踏み出す癖があった。 だからいつも、右側の靴だけが先にボロボロに傷むのだ。
その履き古された靴が、もう二度とどこへも歩き出そうとはしない。 海生は、その静止した靴の形を見て初めて、自分の父親が本当に死んでしまったのだと理解した。
役所の窓口へ足を運んでも、大人の言い分は何一つとして変わらなかった。
会社側は、父親との正式な雇用契約の形を意図的にあいまいにした。 業務を請け負っていた下請けの担当者は、自分たちが直接雇用していたわけではないと責任を逃れた。 労働者を送り込んでいた派遣元のような怪しい会社は、現場で実際に業務を指示していたのは工場側だと言い張った。 工場側は、現場での安全教育は事前にすべて完了していたと突っぱねた。
役所の窓口に座る冷淡な男は、事務的な口調でただ繰り返した。 「まずは、労災を証明するための正式な書類をすべて揃えて提出してください」
おじいさんは、言われた通りの書類を苦労して集めて提出した。 窓口の男はそれを一瞥して、これだけでは内容が足りないと言い放った。 また別の書類を集めて出すと、今度は別の機関の証明書が必要だと言われた。 会社側に直接出向いて、勤務時間の証明を請求してくださいと言われた。
会社に連絡を入れると、担当者は現在事実を確認中です、と答えた。 その確認中という大人の引き延ばし工作は、何度も何度も月をまたいで引き延ばされた。
その無駄な時間の経過の間に、父親の名前は工場の掲示板から綺麗に剥がされて消えた。 使っていたロッカーは跡形もなく片づけられた。 支給されていた作業着は、すべて返却済みとして処理された。
未払いの残業代については、現在精査して計算中ですと言われた。 遺族への補償については、まずは国の正式な認定が必要ですと言われた。 その認定を勝ち取るためには、事故当時の詳細な証明が必要だった。 証明のためには、あの会社の協力がどうしても不可欠だった。
会社は、もちろん全面的に協力します、と言った。 口では協力すると言いながら、実際には何ヶ月経っても、ただの一つも書類を動かそうとはしなかった。
海生は、その残酷なプロセスの最中に、大人たちの重要なやり方を一つ学んだ。
(何もしない、というのも、立派な攻撃のやり方の一つなんだ)
大声で怒鳴るわけでもなく、真っ向から否定するわけでもない。 ただ、すべての手続きを意図的に遅らせて放置するのだ。
残された人間は、その終わりのない時間の間に心身ともに疲れ果てていく。 日々の生活費が底をつき、父親の記憶が世間から少しずつ薄くなっていく。 事故の瞬間を目撃していたはずの都合の悪い労働者たちは、いつの間にか別の現場へとバラバラに移されていなくなる。 そして最後に、これだけの時間が経ってしまったのだから、もう仕方がなかったですね、と諦めさせられる。
父親の命の終わりも、そうやって大人たちの書類の山の中に、小さく小さく畳み込まれて処理された。 不運な事故ではあった。 でも、会社の法的責任を問うことはできない。 非常に気の毒な事例ではあった。 でも、国の補償の対象として認めるのは極めて難しい。 今後の支援については前向きに検討する。 でも、残念ながら今回のケースは該当しない。
おじいさんは手続きの帰り道、役所の巨大な建物の前で、一度だけピタリと足を止めた。 そして、絞り出すように言った。 「紙というものはな海生、決して人を助けるために作られているわけではないんだよ」
海生は、何も答えられなかった。 あの瞬間から、海生の中で、世界にある「紙」を見る目が完全に変わってしまった。
名簿。記録。署名。確認欄。認定。該当しない。
それらの無機質な大人の言葉は、決して鋭利な刃物の形をしてはいない。 けれど、力のない人間の首を、音もなく静かに切り落とす力を持っている。
小雨には、父親が死んだという事実を今日まで一切知らせていない。
最初は、離れて暮らす母親がそう強く決めた。 小雨はまだ幼すぎる。 ただでさえ親戚の家で肩身の狭い思いをして暮らしているのだ。 もしここで父親が死んだと知ってしまえば、今すぐ前の家に帰りたいと泣き叫ぶかもしれない。 ショックのあまり、ご飯を食べなくなってしまうかもしれない。
それに、もし父親が死んだという事実を知らせるのなら、なぜあんな薄暗い工場で死ななければならなかったのか、その本当の理由まで説明しなければならなくなる。 会社の不条理な搾取のせいなのか。 自分たちの逃れられない貧しさのせいなのか。 家族にまともな食事を食べさせようとして、命を削って働いたせいなのか。
一体、誰のせいで父親は死ななければならなかったのか。 まだ幼い小雨の心に、そんな一生解けない呪いのような問いを持たせたくはなかった。
母親からの手紙には、ただ簡潔にそう書かれていた。 (小雨には、お父さんは遠くの大きな街の工場に出稼ぎに移った、ということにしておいてください)
その母親の手紙の一文を読み終えたとき、海生は手の中の鉛筆を無意識に強く握り締めすぎて、バキッと音を立てて芯を折ってしまった。
父親が、遠い工場に移って働いている。 真っ赤な嘘だ。 でも、その優しい嘘だけが、いまの小雨の笑顔を守るためにどうしても必要不可欠なのだと大人に言われた。
海生は、その日から、父親の死という重い事実を、妹へ送るすべての封筒の外側へとパタンと排除した。
小雨の手紙の世界の中では、父親は今でもどこかで一生懸命に働いている。 毎日すごく忙しい。 だからなかなか手紙の返事は書けない。 でも、離れた場所にいても、いつも小雨のことを一番に想ってくれている。
海生は何度も、手紙の中にそういう父親の存在を書きかけそうになった。 そしてそのたびに、激しい自己嫌悪に駆られて何度も何度も文字を黒く塗りつぶして消した。
(お父さんは元気だよ) この言葉は、どうしても書けない。 (お父さんは今、お仕事が忙しいんだ) これも、自分のペンでは書けない。 (お父さんは、いつも小雨のことを想っているよ) これだけは、きっと紛れもない本物の真実なのだと思う。 けれど、この世界からもういなくなってしまった死んだ人の想いを、残された自分が勝手に手紙の中に捏造して入れ込むのは、どうしても恐ろしかった。
だから海生は、小雨への手紙の中に、父親の名前を直接出すことは絶対にしない。 その代わり、父親が本来果たすべきだった役割の代わりとなるものを、毎月その白い封筒の中に滑り込ませる。
それが、夜の魚加工場で血を流して稼いだ、自分のアルバイト代だった。
学校の授業が終わると、海生は教科書をカバンに押し込み、港のすぐ近くにある薄暗い加工場へと急ぐ。 子どもの海生に与えられる仕事は、毎日のほんの一部のごく短い時間だけだ。 重い魚の箱を運ぶ。コンクリートの床をホースの水で洗い流す。魚の表面の不快なぬめりをブラシで落とす。使い終わった大量の氷を外へ捨てる。
大人の屈強な手にはなんてことのない簡単な作業であっても、まだ成長途中の海生の細い両腕には、信じられないほど重くのしかかる。 作業に使う水は凍るように冷たい。床は魚の脂でいつでも滑る。 手についた強烈な魚のにおいは、石鹸で何度洗っても指先の皮膚の奥にいつまでも残り続ける。
それでも、確実にお金になる。 ほんの少しのわずかな金額だけれど、自分の労働の成果として本物のお金が手に入る。
海生は、その加工場で稼いだお金を、一銭も残さずにすべて小雨への封筒に入れる。 自分のためには、絶対に一円たりとも使わない。
学校の売店で、湯気の立つ温かい饅頭を買って空腹を満たせる日だってあるかもしれない。 短くなった鉛筆を、新しく買い替えることだってできるかもしれない。 靴下の先に開いたみっともない穴を、気にせずに済む新しいものを買うことだってできる。 でも、すべてを我慢して、白い封筒の中へと滑り込ませる。
小雨から届く手紙の紙の端には、ときどき小さな靴の絵が描かれている。 買ってほしい、とは言葉では絶対に書かない。 ただ、ノートの切れ端の余白に、ちょこんと小さな可愛い靴を描くのだ。 きれいに咲いた花の横に。丸まった猫の横に。 まるで、ただのありふれた飾りのデザインであるかのように。
海生は、妹の手紙にあるその靴の絵を見るたびに、胸の奥をキリキリと引き裂かれるような痛みに襲われる。
小雨は、自分が本当に心の底からほしいと思っているものほど、言葉に出しては言わない。 それを口にしてしまえば、目の前にいる相手が困ってしまうことを、幼いながらによく知っているからだ。 まだあんなに小さいのに、世界の理不尽な構造をもう肌で知ってしまっている。
だから海生は、仕送りを送る。 手元にある少ないお金を、何度も何度も指で数えて、大切な封筒の中へと入れる。
今日は、魚加工場でもらってきたばかりの日当を机の上に綺麗に並べた。 しわくちゃの紙幣が二枚。 それから、鈍く光る硬貨がいくつか。
おじいさんに対しては、全額を妹に送っているとは言わない。 けれど、言わなくたって、おじいさんはすべてを見抜いている。
「海生、少しは自分の手元にお金を残しておきなさい」 おじいさんが、隣の部屋から静かに声をかけてきた。
「ちゃんと残してあるよ」
「またそんな分かりやすい嘘をつく」
「本当に残してあるってば」
「一体、何を自分の手元に残したというんだ」
「ノートの、紙の余白だよ」
「金を残しなさい、金を」 おじいさんは、あきらめたように大きなため息をついた。
「小雨にお金を送るな、と引き止めているわけではないんだよ」
「うん」
「だがな海生、お前が無理をして倒れてしまったら、小雨にお金を送ってくれる優しいお兄ちゃんまで、この世界からいなくなってしまうんだぞ」
「僕は絶対に倒れたりしないよ」
「世界で倒れていく人間はな、だいたいみんな、倒れる直前までそう言い張るものなんだよ」
海生は、それには返事をしなかった。 紙幣のしわを指先で丁寧に伸ばし、白い封筒の奥へと滑り込ませる。 いくつかの硬貨は、そのまま入れるとカチャカチャと音が鳴ってしまうので、小さな薄い布の切れ端で丁寧に包んでから入れる。 もし封筒の中からお金の音が聞こえてしまうと、手紙を預ける近所の雑貨屋のおばさんが、余計な心配をしてしまうからだ。
海生は、手紙の続きの文章にペンを走らせた。
『小雨、手紙に描いてあった靴の絵を見ました。 形がとてもきれいで、すごく上手だね。 今度は、可愛い赤い靴の絵も描いてみてください。
お兄ちゃんは最近、港の近くで魚を運ぶお仕事をお手伝いしていて、魚のにおいがすっかり手についてしまいました。 だから、もしこの手紙から少しだけお魚のにおいが漂ってきたら、それはお兄ちゃんが珠江口の大きな海に、この手でちゃんと勝ったという立派な証拠です』
海生は、少しだけ手を止めて考えたあと、最後の行に力強い一文を書き足した。
『学校のお勉強は、これからも一生懸命続けてください。 大好きな絵を描くことも、絶対に諦めずに続けてください。 小雨が一生懸命に描いたものは、どんなに遠く離れていても、ちゃんとここまでお兄ちゃんの元へ届いています』
父親の死の真相は、何一つとして書かない。 自分たちを置いていった母親のことも、決して責めたりはしない。 離婚という形に隠された、口減らしという惨めな現実も、一行も書かない。
小雨が知らなくていい残酷な事実は、まだ今の年齢では知らなくていい。 けれど、海生は決して、妹に何も知らない無知なままでいてほしいわけではなかった。
いつか二人が大きくなったとき、すべての本当のことを打ち明けなければならない日が、必ずやってくる。 その運命の時が来たときに、小雨が、自分は家族から見捨てられた可哀想な子どもだったんだと、決して絶望して思い込まないように。
お父さんは、お前のことを決して忘れたわけではなかったこと。 お母さんも、お前のことが嫌いになって手放したわけではなかったこと。 お兄ちゃんだって、お前と離れたくてこの家に残ったわけでは決してなかったこと。
ただ、あのときの自分たちの家には、どうしても家族四人分の未来が残されていなかったこと。 そしてそのささやかな未来を、あの大人たちの社会の仕組みが、音もなく奪い去っていったこと。
海生はいつか、そのすべての真実を、妹の目を見て真っ直ぐに伝えなければならないのかもしれない。 でも、少なくとも今この瞬間ではない。
いまの幼い小雨にとっては、父親の死という巨大な悲しみよりも、明日の朝ごはんに温かいスープを食べられることの方が、遥かに大事なのだ。 新しくてピカピカした靴を履いて学校へ行くことの方が、何よりも大事なのだ。 学校のクラスメイトから、貧しいからといって笑われないことの方が、絶対に大事なのだ。
だから海生は、父親の死という事実を、この白い封筒の中には絶対に入れない。 代わりに、自分が汗を流して手に入れた、魚加工場のお金を入れる。
お父さんの優しい声を、もうこの中に吹き込んであげることはできない。 だから、兄である自分のこの手で稼ぎ出した、小さな本物のお金を代わりに滑り込ませる。
すべてを詰め終えた封筒は、昨日よりもほんの少しだけ、確かに厚みを持っていた。 海生はそれを、自分の手のひらの上にそっと乗せてみた。 本当に軽い。
けれど、この軽さであっても、離れた街にいる小雨の元へは確実に届く。
隣の部屋から、おじいさんがゆっくりと歩いて入ってきた。 「手紙、無事に書けたか」
「うん、書けたよ」
「父親のことは、どうした」
「書いてないよ」
「そうか」 おじいさんは、それ以上は何も詮索しなかった。
海生は、封筒の口に糊をつけ、しっかりと閉じた。 表面の白い紙の上に、一文字ずつ丁寧に名前を書き込んでいく。 『李小雨』
文字は大きく、力強く。 小雨が自分の目で、一番読みやすいように。
封筒を学校のカバンに仕舞い込む前に、海生はもう一度だけ、中身の感触を指先で確かめた。 折りたたんだ手紙。二枚の紙幣。布に包まれた硬貨。 そして、古い裏紙の端切れで小さく折った、お守り代わりの小さな魚の折り紙。
そこには、父親の死という悲劇の影は一切入っていない。
けれど、あの日父親が守りきることができなかった大切な妹の未来を、今度は兄である自分が、この手を汚しながら少しずつ守り抜こうとしている。その確かな意思の形だけは、この中にしっかりと入っていた。
海生は、カバンの奥深くへと封筒を仕舞い込んだ。
窓の外では、冷たい夜の海風が狭い路地を激しく吹き抜けていた。 染みついた魚のにおいのする自分の手で、海生はカバンの上から封筒の輪郭をそっと押さえた。
小雨へ。 お父さんのいなくなってしまった、この古い家から。 お父さんの死をまだ何も知らない、世界で一番大切な妹へ。
自分はまだ頼りない中学生で、あの日いなくなったお父さんの立派な代わりには、どうしてもなれないかもしれない。
それでも、毎月この仕送りの封筒を送り続けることだけは、お兄ちゃんが命に代えても絶対に約束するよ。 明日、学校の帰りに必ずあの雑貨屋へ立ち寄るからね。 小雨が待っているあの街へと、この世界一軽い封筒を真っ直ぐに届けるよ。
自分の持っているすべての想いが詰まった、この世界で一番重い封筒を。
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