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第2話 名簿にない田

夕方の珠江口しゅこうこうは、朝とは別の町になる。

五月の朝に冷え切っていた路地は、昼間の熱を吸いこんで、夕方になってもまだ生ぬるかった。壁は熱を残し、階段の手すりは湿っている。

工場の方から流れてくる風には、油と魚、そして潮のにおいが混ざっていた。

李海生リー・ハイシェンは、カバンを背負ったまま古い階段を上がった。

朝はあれほど軽かったカバンが、帰り道には少し重くなっている。教科書のせいではない。

理科室の先生からもらった古いろ紙。昼休みに拾った小さな温度表。それから、ポケットの奥に入っている、あの銀色の札。

重さそのものは、どれもたいしたことはない。けれど、意味の分からないものは、心の中で少しも軽くならなかった。

扉を開けると、祖父の李守田リー・ショウティエンは、窓の近くで汚れた作業着を脱いでいるところだった。

「ただいま」

「戻ったか、浜辺金属大臣」

「今日は昇進したんだよ」

「ほう、何になったんだ」

「温度計小隊長」

「それは偉いな。給料は出るのか?」

「古いろ紙が三枚だけね」

「相変わらず貧しい国だな、そこは」

祖父は愉快そうに笑った。

朝に巻き直した右手の布は、少し黒く汚れていた。けれど、新しい血はにじんでいない。海生はそれを見て、胸をなでおろした。

「約束、ちゃんと守った?」

「守ったさ」

「重い袋、持たなかった?」

「持ったよ」

爺爺イエイエ

「重くなる前に持ったんだ。本当に重くなったら、すぐに王じいさんに押しつけたからな」

「それ、本当に守ったことになるの?」

「半分はなるさ」

「約束まで半分にするの?」

「パンと同じだよ。半分でも十分にありがたいもんだ」

海生は不満そうに眉を寄せた。けれど、祖父がわざと悪びれない顔をしているので、それ以上怒るのをやめた。怒るよりも、手を点検する方が先だった。

「右手を見せて」

「また点検か」

「安心してください、無料ですから」

「無料ほど、後から逃げられんものはないからな」

祖父は大人しく右手を出した。傷口は朝に比べて悪くなっていなかった。白い布は少し湿っていたが、それは血ではなく汗だった。

「よし、今日は合格」

「先生、ずいぶんと厳しいな」

「明日はもっと厳しくするからね」

「では、合格した今日のうちに、たくさん褒めてもらおうじゃないか」

「よくできました」

祖父は嬉しそうに何度もうなずいた。

台所の古い鍋には、昼食の残りの青菜と、少しの麺が入っていた。夕食にはまだ早い。けれど祖父は、朝に交わした約束通り、海生が帰るまで待っていてくれた。

二人の報告会は、いつも食べる前のこの時間に始まる。

海生は狭い机の上に、今日の収穫を一つずつ並べた。古いろ紙。理科室の端で見つけた温度表。浜辺で拾い集めた黒い粒を包んだ紙。

そして最後に、あの銀色の札を置いた。

祖父の顔から、一瞬で笑いが消えた。ほんの短い一瞬だった。けれど、海生は見逃さなかった。

「これ、朝の浜辺で拾ったんだ」

祖父は札に手を伸ばさなかった。ただ、椅子の背から少し身を乗り出すようにして見つめた。

「何と書いてあるんだ」

「上はね、014-HS」

「下は?」

「英語の文字。まだ僕にはよく分からないんだ。明日、学校の先生に聞こうと思って」

祖父は黙り込んだ。

「爺爺?」

「番号というものは、本当に嫌なもんだな」

「番号?」

「人を探し出すためにも使う。けれど、その人を世界から消し去るためにも使うんだ」

海生は、机の上の札に目を落とした。014-HS。

朝の浜辺で見たときよりも、この薄暗い部屋の中では、その数字がずっと冷たく見えた。

「これって、人間の番号なの?」

「分からん」

「でも、物にも番号はあるよ。学校の机にも、理科室の顕微鏡にだってついているよ」

「そうだ。物につけるなら便利なものだ。だがな海生、生きている人間が物の方へ寄せられたとき、その番号は牙になる」

「牙?」

「人を静かに噛み殺す牙だ」

祖父は窓の外へ視線を向けた。

夕方の海風が、狭い路地を通って部屋へ入ってくる。昼間の熱を少し冷ましながら、港の排気のにおいを連れてくる風だった。

「わしの故郷の田んぼにもな、かつて番号があったんだよ」

海生はハッとして顔を上げた。祖父が昔の田んぼの話をするときは、たいてい冗談が混じる。けれど、いまの声には冗談の気配がなかった。

「田んぼに、番号があったの?」

「土地には番号が振られる。誰の土地か。どこの場所か。どれだけの広さか。大人が紙に書くための番号だ」

「じゃあ、爺爺の田んぼも、役所の紙にちゃんと書いてあったの?」

祖父は、ゆっくりと首を横に振った。

「田んぼは確かにそこにあった。けれど、大人の紙の上には、最初から存在しなかったんだ」

海生はすぐには意味を呑み込めなかった。田んぼはある。家もある。人も住んでいる。なのに紙の上にはない。算数でも理科でもない、もっと嫌な種類の問題だった。

「昔の村の話をしてもいいか」

海生は黙ってうなずいた。

祖父は古い椅子に腰を落ち着けた。机の上の銀色の札から視線を外し、遠い場所を見る目になった。

「わしの故郷は、ここからずっと遠い内陸の山奥にあった。海なんか見えん。朝は土のにおいがした。雨が降れば道がぬかるんで、夏になると田んぼの水がぬるくなった。子どもたちはそこで足を冷やしたものさ」

「爺爺も?」

「もちろんだ。わしは村で一番足が速かったからな、誰よりも先に田んぼへ飛び込んだ」

「本当に?」

「昔の話さ。今は腰が国家機密を抱えていて動かん」

海生は少し笑った。祖父も笑った。だが、すぐに真面目な顔に戻った。

「その村で、わしの母親は少しだけ外側の人間だった」

「曾祖母さん?」

「そうだ。お前にとっての曾祖母だ。村では秀蘭シウランと呼ばれていた。だが、母にはもう一つ名前があった」

祖父はそこで言葉を切った。

「日本の名前だ」

海生は息を止めた。

「母は、あの大きな戦争のあと、中国の大地に残された子どもだった。親も、生まれた家も分からなくなってな、地元の中国の人に拾われた。中国の名前をもらい、言葉を覚え、畑で働き、その村で生きた」

「じゃあ、もう完全に中国の人だったんじゃないの?」

「生き方は、間違いなくそうだった」

「違うの?」

「普段は村の人間もそう言う。うちの嫁だ、同じ村の人間だとな。だが、何かを分けるとき、何かを決めるとき、誰かに責任を押しつけるときだけ、あの女は少し違う、と言い出すんだ」

海生は拳を握った。祖父の声は穏やかだった。怒鳴らない分だけ、言葉の底に沈んだものが重かった。

「母は、李家の五男に嫁いだ。長男でも次男でもない。家の真ん中ではなく、端っこにいる男だった」

「おじいちゃんは、端っこの家の子どもだったんだね」

「そういうことさ。端っこは悪いことばかりじゃない。真ん中の人間が落とした大切なものが、よく見える」

「僕も、浜辺でたくさんの落とし物を見てるよ」

「よく似ているな、わしたちは」

祖父はかすかに笑った。

「だが、取り分が足りなくなったとき、端っこにいる人間は、最初から数の中に入れてもらえない」

海生は銀色の札を見た。014-HS。正しく数えるための番号と、最初から数えてもらえない家。その二つが、胸の中で結びついた。

「村がなくなったのは、山の下に特別な石があると言われたからだ」

「石?」

「会社の人間は資源と言った。役人は発展と言った。村の幹部は機会と言った」

祖父の声が少し低くなった。

「最初に、村へ続く道が広くなった。次に、測量の棒が立った。家の壁にも、田んぼの端にも、井戸の横にも赤い印がついた。ここから先は壊す、という印だ」

海生は、朝の浜で見た赤い塗料のついた鉄片を思い出した。赤は危ない色だと先生は言う。祖父の村では、生活を消す色だった。

「立ち退きの補償の話が出た。家一軒につきいくら、田んぼの広さに応じていくら。正規の世帯には手当を出すという紙が届いた」

「爺爺の家には?」

「届かなかった」

「住んでたのに?」

「住んでいた」

「田んぼも作ってたのに?」

「作っていた」

「じゃあ、どうして?」

祖父は笑わなかった。

「名簿に、名前がなかったんだよ」

部屋が静まり返った。外の廊下では、誰かが階段を下りる音がした。下の部屋から、油で何かを炒めるにおいが上がってきた。

「土地の正式な名義は、古い本家のままだった。わしの親父は五男だから、田んぼを分けてもらうという口約束はあった。だが、それを証明する紙がなかった。家は建っていた。税も払っていた。母の墓もあった。それでも、役所の記録としては弱いと言われた」

「そんなのおかしいよ」

「おかしいさ。だが、そのおかしいをお上に向かって言い張るには、あいつらが納得する紙がいる」

「人がそこに生きていても?」

「人が生きていても、だ」

「田んぼがそこにあっても?」

「田んぼがあっても、ないことにされる」

海生は言葉を失った。

「本家の連中は補償金を受け取った。村の幹部も私腹を肥やした。役場に近い家は、みんなうまく書類をそろえた。だが、うちの家は正式な補償対象の世帯には該当しない、と言われた」

「そんな残酷な言葉、誰が考えるの?」

「ものすごく頭のいい人間だよ」

「頭がいいのに、そんなに悪いんだ」

「世界には、そういう悪事に特化した頭の良さもある」

祖父は、机の上の札を指先で軽く叩いた。

「この番号も同じだ。正しく使えば便利なものだ。だが冷たい人間が使えば、お前という人間を都合よく片づけるための箱になる」

「爺爺は役所に行かなかったの?」

「行ったさ。何度もな」

「聞いてくれた?」

「聞くふりはした。お前の母親はどこの人間だ。土地の名義は誰だ。証人はいるのか。科学的に証明できるのか。証明できないなら、国の大きな商売の邪魔をするな、とね」

海生の背筋が冷えた。その言い方は、この港町で大人たちが使う言葉に似ていた。海生はまだ構造を言葉にできない。けれど、同じ冷たさだけは分かった。

「それで村を出たの?」

「出されたんだ。正確には、そこに人間として残れないようにされた」

「追い出されたのと同じじゃないの?」

「少し違う。力ずくで追い出せば、悪人の姿が見える。だが、自然と残れないようにすれば、誰も悪人にならずに済む」

祖父は静かに言った。静かすぎる声だった。大声で怒ってくれた方が、子どもにはまだ分かりやすかった。

「母は、そのころには体が弱り切っていた。日本の名前と、中国の名前。どちらも本物だった。だが、どちらの名前も最後まで母を守ってはくれなかった」

海生は壁の古い写真を見た。ぼやけた輪郭の中で、曾祖母の目元だけが真っ直ぐだった。

「爺爺は、曾祖母さんの本当の日本の名前を覚えてる?」

「覚えているよ。忘れるわけがない」

「僕に教えて」

祖父はすぐには答えなかった。

「今はまだ、その時ではないな」

「どうして?」

「名前はな、軽く表に出すと、世間から簡単に軽く扱われる。お前が軽く扱うと言っているんじゃない。だからこそ、ちゃんと話す覚悟ができた日に伝える」

海生はうなずいた。悔しかった。けれど、祖父が隠しているのではなく、その名前を守っているのだということは分かった。


台所の鍋の中で、麺が水分を吸って少し膨らみすぎていた。祖父がハッとして立ち上がった。

「いかんいかん。昔話に夢中になって、麺がすっかり年を取ってしまったぞ」

「おじいちゃんほど、年を取っちゃった?」

「バカ言え、そこまでは伸びておらんさ」

「おじいちゃんも、それくらい上に伸びたらよかったのにね」

「横にか?」

「背の高さの話だよ」

「わしはもう、下に向かって縮む専門の体だからな」

海生は声を立てて笑った。祖父も笑った。重くなりかけていた部屋の空気が、少しだけ息を吹き返した。

二人は伸びきった麺を食べた。青菜は少ない。麺は柔らかすぎる。それでも祖父は、「年寄りの歯に優しくて最高だ」と言った。海生は、「麺がおじいちゃんの体を気づかってくれたんだよ」と返した。

食べながら、海生は机の上の銀色の札を何度も見た。014-HS。

番号は、人を探し出すためにも使う。けれど、その人を世界から消し去るためにも使う。

祖父の田んぼは、現実にそこにあった。家もあった。井戸もあった。曾祖母の墓もあった。けれど、役所の名簿には最初からなかった。


食後、祖父は戸棚の奥から古い木箱を取り出した。中には、色褪せた写真と、歯の折れた櫛と、すっかり色落ちした布の切れ端が入っていた。

「これはな、母の唯一の遺品だ」

祖父は布の切れ端を指先でなぞった。

「村を出されるとき、母の墓の土を、ほんの少しだけこれに包んで持ってきた」

「お墓の土を?」

「墓そのものは置いてくるしかなかった。人間の力で持っていけるものではなかったからな」

「そのお墓は、今でもあるのかな」

「さあな。会社に山ごと削られてしまったなら、もう跡形もないかもしれん」

海生は返す言葉を見つけられなかった。祖父は木箱のふたを閉じた。

「海生」

「なに」

「今朝拾ったその札だが、絶対に誰にも売るな」

「うん、売らないよ」

「学校の先生に見せて意見を聞くのは構わん。だが、手渡して預けるな」

「どうして?」

「二度と、お前の手元に戻ってこなくなるかもしれない」

「ただの金属なのに?」

「本当にただの金属かどうか、わしたちにはまだ分からん」

祖父は、正体の分からないものを軽く扱うな、と繰り返した。

海生は札をポケットの奥へ戻した。昼の太陽を通ってきたはずなのに、その金属はまだ冷たかった。


夜になり、路地が静かになったころ、海生は机で手製のノートを開いた。今日の観察と、祖父の言葉を書き留めていく。

『五月、夕方。祖父の過去の話。村は実在した。田んぼも実在した。家もそこにあった。曾祖母の墓もあった。けれど、役所の名簿には最初から存在しなかった。』

そこまで書いて、鉛筆の手が止まった。少し考えてから、もう一行書き加えた。

――番号というものは、ときに人間を世界から消し去ることがある。

書き終えると、海生はポケットから銀色の札を取り出し、ノートの横に置いた。014-HS。

この刻印は、祖父の田んぼの話とどこかで繋がっているのだろうか。それとも、ただの漂着物なのだろうか。

それでも海生には、朝の浜で拾ったその札が、もうただのゴミには思えなかった。

布団の中で、祖父は静かに呼吸していた。

海生は、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。

「爺爺」

「何だ」

「僕は、ちゃんと名簿に書くよ」

「一体、何をだ」

「おじいちゃんの、あの故郷の田んぼのことだよ」

祖父は目を開けなかった。ただ、暗闇の中で、ほんの少しだけ口元を緩めたようだった。

「その手製の紙だけはな、何があってもなくすんじゃないぞ」

「うん、約束する」

「水にも火にも、役人の書類にも気をつけるんだぞ」

「役人って、火より危ないの?」

「時と場合によってはな」

海生は小さく笑った。笑いながら、ノートを閉じた。

窓の外の闇では、見えない海が夜のあいだも何かを運び続けている。町の人が捨てたもの。誰かが忘れたもの。紙の上には残らなかったもの。名前を持っていたはずなのに、番号にすらならなかった命の形。

海生は、ポケットの札を指先で握り締めた。銀色の金属は、相変わらず氷のように冷たかった。

けれどその夜、海生のノートには、失われたはずの一つの田んぼが戻っていた。

大人の名簿には最初から存在しなかった田んぼが、中学生の細い鉛筆の線によって、世界で初めて、消えない本当の名前を持った。

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