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黒い海の老白(パトラッシュ)  作者: 東四辻 うみネコ


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第1話 朝の浜で拾ったもの

黒い海。

白い老犬。

そして、見たものを見なかったことにできない少年。

李海生リー・ハイシェンは、珠江口の海辺の町で祖父と暮らす中学生です。朝は浜で金属ゴミを拾い、昼は学校へ行き、夕方は魚加工場で働き、離れて暮らす妹へ小さな仕送りを続けています。

ある日、海生は浜で黒い粒と、銀色の札を拾います。

そこから彼は、町の海、魚、空気、そして大人たちの言葉に違和感を持ち始めます。

けれど、彼が見たものは、すぐには証拠になりません。

検査項目にないものは、存在しないものとして扱われる。

商品として安全なら、魚として何が起きているかは問われない。

買う者が黙っていれば、魚は安全な商品として流れていく。

そんな海生のそばにいるのが、捨てられた白い老犬・老白ラオバイです。

これは、少年と犬の友情の物語です。

そして、きれいな言葉で命が処理されていく世界への物語です。

現代版『フランダースの犬』へのオマージュとして書いています。

AIを活用しています。

五月の珠江口しゅこうこうは、朝と昼でまるで別の場所になる。

夜明けの浜は、まだ冷たかった。 海から吹いてくる風は湿っているのに、指先だけがすうっと冷える。

李海生リー・ハイシェンは、しゃがみこんで浜を見た。

海岸には、ゴミが一本の線のように続いていた。 夜のあいだに波がここまで来て、力尽きた場所だ。

ペットボトル。白いポリ容器。砂に半分埋まった大きなタイヤ。割れた発泡スチロールの箱。海藻にからまったビニール袋。

海は、町が捨てたものを、朝になると返してくる。 いや、返してくるというより、容赦なく押しつけてくるのだ。

海生は、その全部を拾うわけではない。 一人でできる量ではなかった。

彼が拾うのは、空き缶や金属の容器だけだ。 売れば、ほんの少しだけお金になる。 それに、金属のゴミは放っておくと祖父の手を切るからだ。

海生はタイヤの陰に手を入れた。 ぬれた砂の中に、半分埋まった空き缶があった。 缶のふちは、さびて薄く裂けている。

紙のように見えるのに、皮膚なら簡単に切ってしまう。 海生はそれをつまんで、腰の袋に入れた。 ちゃり、と小さな音がした。

つぶれた空き缶。さびた小さな金属容器。ふたの外れた塗料缶。ポリ容器の下に隠れていた、薄い金属のふち。

大きなゴミは動かせない。タイヤは重すぎる。 水を吸った発泡スチロールの箱は、持ち上げるだけでぼろぼろと崩れる。 だから海生は、そのすき間から金属だけを選んで拾った。


祖父の李守田リー・ショウティエンは、浜で漂着ゴミを拾う仕事をしている。 町の人は、その仕事を環境公益就労と呼ぶ。 支給された帽子にも、そう印刷されていた。

きれいな言葉だ。 学校の教科書に出てくるような、立派な言葉だ。

でも、浜に落ちているものは、そんなきれいな言葉など一切知らない。 タイヤはただのタイヤだ。ポリ容器はただのポリ容器だ。 さびた缶のふちは、何の遠慮もなく人の手を切る。

昨日、海生は祖父の右手を見た。 親指の付け根に、赤い線が走っていた。 祖父は笑って言った。 「蚊に食われただけだ」

けれど、五月の蚊は金属の歯を持っていない。 だから海生は、学校へ行く前に毎日浜へ来る。 祖父が拾う前に、危険なものを少しだけ拾う。

祖父の仕事をなくすことはできない。 海岸のゴミをなくすこともできない。 でも、祖父の手を切る金属を、一袋分だけ減らすことはできる。

一袋だけでも、確実に減ったことになる。 そう思わなければ、朝からこの冷たい浜になど立っていられなかった。

波打ち際へ歩くと、ぬれた砂の上に黒い粒が散っていた。 砂鉄のようにも見える。燃え残りのすすにも見える。 指でつまむと、軽いものと重いものがあった。

軽いものは風で動く。重いものは砂に少し沈む。 海生は、その微小な違いが気になった。

でも今日はもう時間がない。 学校へ行く前に家へ戻らなければならない。 祖父がかゆを作って待っている。 海生は黒い粒を二つだけ紙に包んだ。


そのときだった。

白いポリ容器と、つぶれた空き缶の間に、小さな光が見えた。 ガラスではなかった。

海辺のガラス片なら、波で角が取れて丸くなっている。 色のついた小石みたいになって、子どもが拾うこともある。 でも、それは違った。

海生はしゃがんで、砂を払った。 指先ほどの銀色の札だった。 薄くて、端に小さな穴がある。何かに結びつけられていたらしい。

さびていない。角は丸い。 表面には細い文字が刻まれていた。 海生は袖でこすって読んだ。

014-HS PUBLIC COOPERATION

下の英語は、まだよく分からなかった。 けれど、HSという二文字だけは鮮明に目に残った。

海生。 自分の名前の頭文字と同じだった。

海生は札を裏返した。 裏には何もない。 ただ、穴のまわりに古いひもの跡のような黒ずみがあった。

売れば、少しはお金になるかもしれない。 でも、それは売ってはいけない気がした。 理由は分からない。

分からないものは、売らない。捨てない。覚えておく。 海生は札を紙に包まず、そのままズボンの小さなポケットに入れた。

遠くで、工場の始まりを知らせるサイレンが鳴った。 帰らなければならない。 海生は袋を肩にかけ、浜を走った。

走るたび、袋の中で金属が鳴った。 ちゃり、ちゃり、ちゃり。 小さな鐘のような音だった。 ただし、何かを祝う音では決してなかった。


家に戻ると、狭い部屋に温かい湯気が立っていた。 祖父が鍋をかき回している。

「遅いぞ」

「浜が呼んだんだ」

「浜に呼ばれるほど偉くなったか」

「うん。金属担当だからね」

「大臣か」

「浜辺金属大臣だよ」

「給料は?」

「空き缶四袋、金属の容器二袋」

「大国になったな」

「でも、まだ浜に山ほど残ってる」

「では、貧しい大国だ」

祖父は笑った。 咳をしなかったので、海生は少し安心した。

部屋は小さい。 窓際に小さな机があり、壁には温度計がかかっている。 床はまだ冷たかった。 五月でも、朝だけは足の裏から体温を容赦なく奪われる。

海生は温度計を見た。 「十六度」

「昨日より寒いか」

「二度低いよ」

「わしの腰が先にそう言っていた」

爺爺イエイエの腰は温度計なの?」

「温度計より高級だ。雨と湿気と、昔の失敗まで測れるからな」

「昔の失敗は何度?」

「触るな。やけどするぞ」

海生は笑った。 笑ったら、お腹が大きく鳴った。 祖父が振り返った。

「今のは何だ」

「袋の金属だよ」

「袋はそこだ」

「じゃあ床」

「床は腹の音を出さん」

「では、科学的に原因不明」

「原因は粥だ。座れ」

海生は袋を部屋の隅に置き、手を洗った。 爪の間に砂が残っている。黒い粒も少しついていた。 水で流すと、流し台の端に小さな黒い点が残った。

祖父はそれを見た。 「また何か拾ったか」

「金属だよ」

「売れそうか」

「少しね」

「少しは大事だ」

「うん」

銀色の札のことは言わなかった。 隠すつもりではなかった。 でも、まだ言葉にするには早い気がしたのだ。


祖父は粥を茶碗によそった。 米は少ない。水は多い。 それでも、湯気があるだけで朝は温かくなる。

海生はカバンから紙に包んだものを出した。 「これ、見て」

祖父が大げさに目を丸くした。 「爆弾か」

「昨日の給食のパンだよ」

「それは爆弾より強いな」

紙を開くと、半分の丸パンが出てきた。 少し硬くなっている。 でも、甘い匂いがまだ残っていた。

「昨日、残したのか」

「違うよ。保存したんだ」

「どこにさ」

「理科と数学の教科書の間」

「賢くなったな」

「たぶんね」

祖父はパンを受け取り、真面目な顔で見つめた。 「これは重大な裁判だな」

「半分ずつでしょ」

「それが難しい。パンは丸い。人間の欲は丸くないからな」

「爺爺が割ると、大きい方を僕にくれるじゃないか」

「お前が割っても同じことをするさ」

「しないよ」

「する。お前の手は正直すぎるんだ」

祖父はパンを割った。 やはり、片方が少し大きかった。 大きい方を海生の茶碗の横に置く。 海生はすぐに自分の分と交換した。

「反乱か」

「けが人優先だよ」

祖父の顔から、冗談が少しだけ消えた。

海生は祖父の右手を見ていた。 親指の付け根に、布が巻かれている。 昨日、浜で切った傷だ。

「見せて」

「朝から医者か」

「医者じゃないよ。無料点検」

「安いものほど怖いからな」

「腕はいいから」

海生は棚の上の小さな缶を取った。 中には、消毒液の残りと、洗って干した布と、古いテープが入っている。 祖父はしぶしぶ手を出した。

布をほどくと、傷のまわりが少し赤かった。 海生は黙って消毒液をたらした。 祖父の肩が、ぴくりと動いた。

「痛い?」

「昔の失敗が痛んだだけさ」

「便利だね、その昔って」

「年を取ると、言い訳も育つんだよ」

海生は布を巻き直した。 上手ではない。 けれど、昨日よりは清潔に見えた。

「今日は重い袋を持たないでね」

「左手で持つさ」

「左手も爺爺の手でしょ」

「では足で持つか」

「持たなくていいってば」

海生の声が少し強くなった。 祖父はその顔を見て、降参したように息を吐いた。

「分かった。今日は無理をしない」

「昨日もそう言ったよ」

「昨日のわしは信用ならんからな」

「今日の爺爺は?」

「少しはましだ」

「じゃあ、少しだけ信じる」


二人は粥を食べ始めた。 パンを小さくちぎって、粥にひたす。

硬かったパンが湯を吸って、やわらかくなる。 粥に、ほんの少し甘みが移った。

祖父が目を丸くした。 「これはうまいな」

「本当?」

「パンが粥の心を持ったぞ」

「何それ」

「朝飯の詩さ」

「題名は?」

「半分のパン、二人分の腹」

海生は吹き出した。 笑った拍子に、粥が茶碗のふちに少しこぼれた。

海生は指でぬぐって口に入れた。 祖父は何も言わなかった。

この家では、こぼれた粥も立派な食事だった。 恥ではない。 米を粗末にする方が、ずっと恥だった。

「昨日、いいことがあったんだ」 海生が言った。

「パン以外にか?」

「うん。理科室の棚から古いろ紙が出てきたんだ」

「ろ紙?」

「水に混ざった細かいものを分ける紙だよ」

「紙で水を分けるのか。偉い紙だな」

「先生が捨てようとしたから、もらったんだ」

「また宝を拾ったか」

「宝だよ。古いけど、使えるかもしれないから」

「使えるかもしれないものを拾うのは、大事なことだ」 祖父はそう言って、自分の巻かれた右手を見つめた。 「人間もそうだからな」

海生は一瞬、黙った。 それから、わざと明るい声で続けた。

「それとね、先生が温度計をもう一本探してくれるって言ってた」

「おお。一本なら兵隊、二本なら小隊だな」

「温度計は兵隊じゃないよ」

「三本そろえば反乱軍だ」

「何に反乱するの?」

「暑さだよ」

「勝てないよ、それには」

「勝てん。だがな、測れば文句は言えるだろ」

「文句じゃなくて記録だよ」

「年寄りの文句も、長く続けば記録になるのさ」

海生は笑いながら粥を食べた。


部屋の中は貧しかった。 茶碗は欠けている。パンは半分しかない。粥は薄い。祖父の手は傷んでいる。

それでも、その朝は暗くなかった。 二人で分けると、半分のパンはただの半分ではなくなる。 昨日の残りが、今日の話になる。 傷の痛みも、冗談に包めば少しだけ小さくなる。

海生は、そういう朝が好きだった。

食べ終えると、祖父は海生を壁の前に立たせた。 「背を測るぞ」

「急に?」

「パンを食べたから伸びたかもしれん」

「そんなに早く伸びないよ」

「何しろ賢いパンだぞ」

祖父は本を海生の頭にのせ、壁に鉛筆で線を引いた。 前の線より、ほんの少しだけ上だった。

「二ミリだ」

「二ミリ?」

「大成長だな」

「髪の毛が伸びただけかもしれないよ」

「髪もお前の一部だ」

海生は壁の線を見た。 二ミリ。 笑ってしまうほど小さい。 けれど、たしかに上へ上へと伸びていた。

「今日は祝いだな」

「何するの?」

「もうしたさ」

「パンのこと?」

「そうだ」

海生はまた笑った。


祖父は作業着を着た。 袖口はほつれ、帽子には「環境公益就労班」と書かれた布が縫いつけられている。 文字だけが新しく、帽子は古い。

海生はその袖を軽く引いた。 「ここ、ほどけてるよ」

「風通しだ」

「朝は寒いよ」

「昼は暑いさ」

「じゃあ朝のぶんだけ縫うね」

「昼にほどくのか。忙しい服だな」

海生は針箱を出し、袖のほつれを二針だけ縫った。 下手な縫い目だった。 でも、穴は少し小さくなった。

「昨日より強いよ」 海生が言うと、祖父は胸を張った。

「では、わしも昨日より強いな」

「無理はしない約束だからね」

「分かっている」

「本当に?」

「今日のわしは、昨日のわしより少し賢いんだ」

「パンを食べたから?」

「そうだ」

窓の外が明るくなっていた。 さっきまで冷たかった風に、少し湿り気が混じり始めている。

海の方から、塩と魚と、機械油のようなにおいが流れてきた。 今日も町は、朝の冷たさから昼の熱へ向かっていく。

海生はカバンを背負った。 中には教科書と、古いろ紙をはさんだ厚紙が入っている。

祖父は扉の前で言った。 「夕方、報告会だな」

「議題は?」

「温度計小隊と、賢いパンと、鉄を食べる蚊についてだ」

「鉄を食べる蚊は、爺爺の嘘でしょ」

「昔の失敗の一種さ」

「じゃあ、それもちゃんと記録しておくね」

二人は顔を見合わせて笑った。 それから、部屋を出た。


階段のコンクリートはまだ冷たい。 けれど、路地の先にはもう朝日が落ちていた。

海生は学校へ向かう。 祖父は浜へ向かう。

別れる前、祖父がけがをしていない左手を軽く上げた。 海生も手を上げた。

祖父の背中が路地の角を曲がるまで見送ってから、海生はポケットに手を入れた。 銀色の札が指に触れた。

014-HS。

ただの金属なら、売ればよかった。 部署の大人に渡せばよかった。 でも、それは売ってはいけない気がした。

海生は札を握った。 朝の浜で拾ったものの中で、それだけが、まだ冷たさを残していた。

半分のパンは、もう腹の中にある。 薄い粥の温かさも、まだ胸に残っている。 それだけで一日を越えられるほど、世の中は優しくない。

けれど、朝のあいだだけなら、それで十分だった。 ポケットの中の番号が、まだ本当の意味を持たないうちは。

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