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黒い海の老白(パトラッシュ)  作者: 東四辻 うみネコ


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第21話 黒い朝日

李海生リー・ハイシェンの名前は、町から少しずつ消えた。

 最初から消えたわけではない。

 学校の掲示板には、追悼文が貼られた。

 市の小さな新聞には、環境を愛した少年という見出しが載った。

 町長は式典で、命の大切さを忘れない、と言った。

 張先生ジャンせんせいは、教室で黙祷をさせた。

 陳明月チェン・ミンユエはその日、机の下で弁当箱を握りしめていた。

 けれど、名前は生活に勝てない。

 一週間が過ぎた。

 一か月が過ぎた。

 季節が変わった。

 魚箱はまた港に積まれた。

 市場は開いた。

 加工場は魚を切った。

 養殖場の白い浮きは、沖に並び続けた。

 海生の名前は、追悼文の紙の端から古くなっていった。

 紙は湿気を吸い、角が丸まり、やがて剥がされた。

 剥がした人は、悪人ではなかった。

 新しい掲示物を貼るためだった。

 進学説明会。

 防災訓練。

 海洋環境美化週間。

 町は、新しい言葉で古い死を覆った。

 老白ラオバイの名は、もっと早く消えた。

 白い犬の話は、しばらく噂になった。

 魚を盗んだ犬。

 少年を守った犬。

 忠犬。

 かわいそうな犬。

 話す人によって、老白は別の犬になった。

 けれど本物の老白は、もう海の中だった。

 海は、犬を覚えない。

 波は、名前を呼ばない。

 

 それから、数年が過ぎた。

 町は少しずつ変わった。

 最初に変だと言われたのは、子どもたちだった。

 小学校で、物忘れのひどい子が増えた。

 宿題を忘れる。

 鉛筆をなくす。

 先生の話を聞いていたはずなのに、すぐに分からなくなる。

 階段の場所を間違える。

 帰り道で迷う。

 自分の机がどこか分からなくなる。

 まだ十歳にもならない子が、老人のような顔で廊下に立っていることがあった。

 母親たちは最初、叱った。

「しっかりしなさい」

「何度言えば分かるの」

「ちゃんと聞いていないからよ」

 先生たちも、最初は生活習慣の問題だと言った。

 睡眠不足。

 スマホの見すぎ。

 動画の見すぎ。

 ゲームのしすぎ。

 家庭でのしつけ。

 集中力の低下。

 診断名がつく前には、便利な言葉がたくさんある。

 便利な言葉は、原因を遠くへ飛ばす。

 海ではない。

 魚ではない。

 空気ではない。

 親の管理だ。

 子どもの生活だ。

 スマホだ。

 町の大人たちは、その説明を好んだ。

 なぜなら、それなら市場を止めなくていいからだ。

 養殖場を疑わなくていいからだ。

 加工場を調べなくていいからだ。

 自分たちが昨日食べた魚を、怖がらなくて済むからだ。

 スマホは、ちょうどよかった。

 小さく、身近で、誰もが使っていて、叱りやすい。

 子どもの不調を押しつけるには、あまりにも便利だった。

 次に増えたのは、奇妙な興奮をする子どもたちだった。

 急に叫ぶ。

 急に笑う。

 急に泣く。

 何もない壁を見て怯える。

 椅子に座っていられない。

 手を噛む。

 机を叩く。

 母親に抱かれると暴れ、離されると泣く。

 町の人は、精神の問題だと言った。

 心が弱い。

 親が甘い。

 家庭環境が悪い。

 動画の見すぎ。

 ゲームのせい。

 スマホ依存。

 夜更かし。

 医者は、もう少し複雑な言葉を使った。

 神経発達の問題。

 情緒調整の困難。

 脳性の機能不全が疑われる症状。

 環境要因の関与は否定できないが、現時点では因果関係を特定できない。

 特定できない。

 その言葉は、町の人々を安心させた。

 否定できない、よりも、特定できない、の方が耳に残った。

 特定できないなら、まだ大丈夫だ。

 まだ誰も悪くない。

 まだ商売を止めなくていい。

 まだ魚を食べられる。

 まだ港町でいられる。

 テレビでも、似た言葉が流れた。

 子どもの集中力低下とデジタル機器の関係。

 睡眠不足が脳に与える影響。

 家庭でできるスマホ時間の管理。

 親子で考える生活リズム。

 専門家は、きれいなスタジオで言った。

「まずは生活習慣を見直しましょう」

「スマホ使用時間を家庭で決めることが大切です」

「睡眠、食事、運動が基本です」

 間違ってはいない。

 だが、足りなかった。

 足りない説明は、時々、嘘より役に立つ。

 嘘なら疑える。

 でも、少し正しい説明は、人を安心させる。

 スマホも悪いかもしれない。

 睡眠不足も悪いかもしれない。

 家庭の問題もあるかもしれない。

 だから、海は後回しになる。

 魚は後回しになる。

 黒い粒は後回しになる。

 ナノプラスチックは、まだ後回しになる。

 それは、誰かが秘密会議で決めたわけではない。

 役所も、病院も、学校も、テレビも、親たちも、少しずつ同じ方を向いただけだった。

 目の前にある大きな問題から、少しだけ視線をずらす。

 それを、みんなで同時にやる。

 静かな口裏合わせだった。

 

 保育施設では、生まれつき体の形が少し違う子が増えた。

 手の指がうまく開かない子。

 片方の目の位置がわずかにずれている子。

 口蓋に問題を抱える子。

 首のすわりが極端に遅い子。

 筋肉の緊張が強すぎる子。

 逆に、ふにゃふにゃと力が入らない子。

 発達が遅い、と言われた。

 個人差だ、と言われた。

 昔なら見逃されていた子が、診断されるようになっただけだ、と言われた。

 医療が進んだから見えるようになった。

 親が敏感になった。

 記録の取り方が変わった。

 行政の統計では、まだ異常とは言えない。

 統計上の揺らぎ。

 その言葉も、よく使われた。

 海生なら、ノートに書いただろう。

 揺らいでいるのは統計か。

 それとも、子どもの体か。

 しかし、海生はいなかった。

 その問いを書く子はいなかった。

 病院の新生児室では、管につながれる赤ん坊が増えた。

 細い管。

 透明な管。

 鼻から入る管。

 腕につながる管。

 胸の小さな上下を、機械が見ている。

 母親たちは、ガラスの向こうから見た。

 父親たちは、何を言えばいいか分からず、手を後ろで組んだ。

 医師は慎重に説明した。

「呼吸が弱いです」

「哺乳がうまくいきません」

「神経系の成熟に遅れが見られます」

「原因は一つではありません」

 妊娠中の栄養。

 母体の年齢。

 感染症。

 生活習慣。

 遺伝的要因。

 ストレス。

 睡眠。

 スマホ使用による生活リズムの乱れ。

 複合的に考える必要がある。

 複合的。

 それも便利な言葉だった。

 複合的と言えば、誰も一つを見なくて済む。

 誰か一人を責めないための言葉でもある。

 だが、誰も責任を取らないための言葉にもなる。

 

 海は、その間も黒かった。

 毎日黒いわけではない。

 遠くから見れば、青く見える日もある。

 テレビカメラで撮れば、きれいに映る時間もある。

 観光用の写真では、光が反射して美しい。

 だが、朝の満潮線には黒い粒が残る。

 大きなタイヤは増えた。

 白いポリ容器も増えた。

 砕けた発泡スチロールは、砂と見分けがつかないほど細かくなった。

 雨の後には、工場壁沿いの溝から黒い水が走った。

 晴れた日の十三時には、冬でも浜の空気が妙に暖かかった。

 海面だけではない。

 海の上の低い空気まで、熱を持っているようだった。

 しかし、誰も百メートルを見なかった。

 海面から上の低い空気。

 沈景遠シェン・ジンユエンが、海生に見ろと言った場所。

 そこは、行政の検査項目にない。

 テレビの画面にも映りにくい。

 親の自己管理のチェック表にも入らない。

 市場には、奇形魚が並ぶようになった。

 最初は、隠された。

 形の悪い魚は加工場へ回され、すり身になった。

 口のずれた魚は頭を落とされた。

 腹のふくらみがおかしい魚は、内臓を出せば同じだと言われた。

 ヒレの縮れた魚は、切れば分からない。

 背骨の曲がった魚は、身を取れば使える。

そして、形のいい魚は、いまも日本へ出ていた。

きれいな箱に入り、検査済みの印を押され、基準に合った安全な商品として、海の向こうの食卓へ運ばれていた。

 それでも、量が増えると隠しきれなくなる。

 市場の端に、安い箱が出るようになった。

 少し形が悪いだけ。

 味は同じ。

 火を通せば問題ない。

 家庭用。

 加工用。

 訳あり。

 訳ありという札は、正直そうな顔をしていた。

 訳は書かれていなかった。

 町の人々は、最初は嫌がった。

 それから慣れた。

 安ければ買う。

 高ければ買えない。

 形が悪くても、すり身よりは魚に見える。

 魚に見えるものを食べられるうちは、自分たちはまだ大丈夫だと思える。

 加工場では、すり身の量が増えた。

 白い桶が並んだ。

 元の形は、もう誰にも分からない。

 

 パン屋のパンも変わった。

 昔は、朝になると小麦の匂いが路地へ出た。

 貧しい家の子どもでも、匂いだけはただで嗅げた。

 今は、匂いが弱い。

 パンはふくらみにくくなった。

 焼いても腰がなく、持つと指の跡が残る。

 中身はぐずぐずで、ちぎると水を含んだ紙のように崩れる。

 それなのに、値段は上がった。

 小さな丸パン一つが、以前の三つ分の値段になった。

 理由はたくさんあった。

 輸入小麦の高騰。

 燃料費。

 物流費。

 人件費。

 設備更新費。

 品質管理費。

 環境対策費。

 どの理由も、それらしく聞こえた。

 誰も、海の低い空気のことは言わなかった。

 黒い粒のことも言わなかった。

 海生が昔、給食の残りのパンを祖父と分け合ったことを、町は知らない。

 パンはぐずぐずになり、高くなり、それでも売れた。

 人は食べなければならない。

 町の人々は、毎日市場へ行った。

 魚を買う。

 パンを買う。

 薬を買う。

 水を買う。

 子どもの診察券を持って病院へ行く。

 検査結果を聞く。

 原因は分からないと言われる。

 帰りにまた市場へ寄る。

 奇形魚を値切る。

 ぐずぐずのパンを買う。

 管につながれた赤ん坊の写真をスマホで見る。

 精神異常に見える子を叱る。

 若年性認知症のような物忘れをする子の肩を揺する。

 それでも、夕食の支度をする。

 次の日も仕事へ行く。

 町は止まらない。

 止まらないことを、町は強さだと思った。

 実際には、止まれないだけだった。

 市場の人々は、ゾンビのように売買を続けた。

 目は開いている。

 口は値段を言う。

 手は魚を選ぶ。

 財布から金を出す。

 袋へ入れる。

 持って帰る。

 食べる。

 翌日また来る。

 誰も叫ばない。

 誰も倒れない。

 だから、町は正常に見えた。

 正常とは、案外、倒れずに繰り返すことだけで作れてしまう。

 

 役所は報告書を出した。

 近年、発達相談件数の増加が見られるが、これは相談体制の整備および診断機会の増加による可能性が高い。

 小児神経症状については、生活習慣、家庭環境、教育環境、デジタル機器使用時間など複数要因が関与するものと考えられ、特定の環境因子との因果関係は確認されていない。

 出生時異常については、統計上有意な増加とは判断できず、継続的な観察が必要である。

 海産物の形態異常については、自然変動の範囲内であり、食品安全基準を満たしている。

 ナノプラスチックについては、現行の検査項目および基準値が整備されておらず、国の指針を待つ必要がある。

 その報告書の下に、別の資料がつけられていた。

 家庭でできる子どもの生活改善。

 スマホ使用は一日何時間まで。

 寝る一時間前は画面を見ない。

 朝食を食べる。

 外遊びを増やす。

 親子で会話する。

 どれも悪いことではない。

 むしろ、良いことだった。

 だが、良いことは時々、もっと大きな悪いことを隠す。

 町長は会見で言った。

「過度な不安を煽ることは、地域経済に大きな影響を与えます。冷静な対応が必要です」

 冷静。

 その言葉の下で、母親たちは病院の廊下で泣いた。

 その言葉の下で、父親たちはぐずぐずのパンを買った。

 その言葉の下で、子どもたちは自分の教室を忘れた。

 その言葉の下で、赤ん坊は管につながれた。

 その言葉の下で、奇形魚は氷の上に並んだ。

 冷静な町では、熱だけが上がっていた。

 

 張先生は、定年の近づいた理科準備室で、海生のノートを何度も読んだ。

 鍵をかけた引き出しの中に、ノートはあった。

 守るために入れた。

 だが、それは守るという名の封印だった。

 張先生は、そのことを知っていた。

 知っていて、まだ出せなかった。

 ノートには、海生の細い字が残っている。

 検査項目にないものは、存在しないものに近づけられる。

 基準がない危険は、危険ではないことにされる。

 買う者が黙っていれば、問題は問題にならない。

 老白、魚を咥えて戻る。

 忠犬。

 張先生は、最後のページに挟まった白い毛を見た。

 老白の毛だった。

 まだ、完全には汚れていない。

 張先生は、その毛に触れなかった。

 触れたら壊れる気がした。

 窓の外では、子どもたちの声がしていた。

 その中に、同じ言葉を何度も繰り返す子の声が混じっていた。

 別の子は、廊下で自分の教室を探していた。

 教師が優しく手を引く。

 優しさはある。

 それでも、原因はどこにもないことになっている。

 

 ある朝、陳明月は台所で卵焼きを焼いていた。

 彼女は、もう少女ではなかった。

 母になっていた。

 窓の外では、黒い海の方から湿った風が来ている。

 台所の壁には、子どもが描いた絵が貼ってあった。

 海と犬の絵だった。

 犬は白く描かれている。

 誰が教えたわけでもない。

 けれど、その犬を見るたびに、明月は胸の奥が少しだけ冷えた。

 息子は、机の前に座っていた。

 十歳になったばかりだった。

 けれど時々、自分の鞄を忘れる。

 昨日覚えた道を、今日忘れる。

 朝食を食べたあとに、まだ朝ご飯は、と聞く。

 自分の教室が分からなくなる。

 好きだった歌の続きが出てこなくなる。

 学校の先生は、疲れやすい子なのだと言った。

 医師は、神経発達の問題かもしれないと言った。

 別の医師は、若年性認知症様の症状にも見えるが、年齢的に慎重な判断が必要だと言った。

 役所の相談員は、明るい声で言った。

「スマホの見すぎや睡眠不足も関係しますから」

 机の上には、チェック表があった。

 就寝時間。

 起床時間。

 スマホ使用時間。

 ゲーム時間。

 朝食の有無。

 親子の会話時間。

 明月は、表を見た。

 どれも大切だ。

 でも、どれも違う。

 彼女には、そう思えた。

「うちは、夜は早く寝かせています」

 明月は言った。

「スマホも、そんなに見せていません」

 相談員は、優しくうなずいた。

「もちろん、お母さんを責めているわけではありません。ただ、現代の子どもはデジタル機器の影響を受けやすいですから」

 責めていない。

 そう言いながら、原因は家庭へ戻される。

 親の管理。

 生活習慣。

 スマホ時間。

 睡眠。

 海や魚や空気は、相談票のどこにもなかった。

 かつて日本へ出ていた魚は、今では別の港を経由し、別の名前で流れている、と明月はニュースの端で聞いたことがある。

 明月は聞いた。

「食べ物は関係ありませんか」

「栄養は大切です」

「魚は」

 相談員の手が一瞬だけ止まった。

 それから、すぐに笑顔へ戻った。

「町の魚は、食品安全基準を満たしています」

 明月の胸の奥で、古い声がよみがえった。

 基準を満たしている商品は、安全な商品。

 父の声だった。

 そして、海生の声も重なった。

 魚は困らないの。

 相談員は続けた。

「根拠のない不安を広げると、かえってお子さんにもよくありません。まずは、家庭でできることから始めましょう」

 家庭でできること。

 それは、やさしい言葉だった。

 だが、明月にはこう聞こえた。

 家庭で何とかしなさい。

 町は動かない。

 市場は止まらない。

 養殖場は止まらない。

 検査項目にないものは、まだ見ない。

 だから、あなたの家で何とかしなさい。

 明月は、どの言葉も信じなかった。

 信じたくなかった。

 だが、どの言葉も捨てられなかった。

 卵焼きが焼けた。

 明月は、それを細く切って弁当箱に入れた。

 昔、校舎裏で李海生に分けた卵焼きと、同じ形に切った。

 落ちてた。

 私の弁当箱の中に。

 あの時、自分はそう言った。

 海生は、それは落ちたとは言わない、と言った。

 明月は弁当箱のふたを閉めた。

「鞄、持った?」

 息子はうなずいた。

 だが、足元に鞄が置いたままだった。

 明月は鞄を取って、息子の肩にかけた。

「今日は、先生の顔を見たら教室に入るのよ」

「うん」

「帰り道、分からなくなったら、門のところで待ってるの。動かないで」

「うん」

 息子は、分かっている顔でうなずいた。

 分かっているのかどうか、明月には分からなかった。

 玄関を出る前に、息子は振り返って言った。

「お母さん、朝ご飯は?」

 明月は、一瞬だけ息を止めた。

 そして笑った。

「食べたよ。卵焼きも食べた」

「そうだっけ」

「そう」

 息子は少し安心したように笑い、学校へ向かった。

 明月は門の前まで見送った。

 子どもの背中は小さい。

 鞄が少し大きすぎる。

 その背中を見ていると、海生がノートを抱えて港の道を歩いていた姿が重なった。

 明月は家へ戻らなかった。

 弁当箱に入れなかった卵焼きの一切れを、小さな紙に包んで持っていた。

 海の見える道へ歩いた。

 そこには、小さな石がある。

 昔、子どもたちが腰かけていた石だ。

 今は誰も座らない。

 明月は、その石の上に卵焼きを置いた。

 誰のためか、もう分かっていた。

 海生のためだった。

 老白のためだった。

 そして、あの時、父の側に立つしかなかった自分のためだった。

 置いても、何も変わらない。

 魚は売られる。

 町は続く。

 黒い海は光る。

 息子は、今日も何かを忘れるかもしれない。

 それでも明月は、卵焼きを置いた。

 その小さな黄色は、冬のない朝のように見えた。

 だが、風が吹くと、すぐに砂がついた。

 

 朝が来た。

 港の市場が開く前の時間だった。

 空は曇っていた。

 灰色の雲が海の上に低く垂れ、町の屋根も、養殖場の白い浮きも、湿った影の中に沈んでいる。

 しかし、東の空だけが少しずつ明るくなった。

 朝日が雲の下から顔を出す。

 光が、海面に当たる。

 その瞬間、黒い海が光った。

 美しい光ではなかった。

 金色でも、青でもなかった。

 黒い膜の上を、朝日が滑っていくような光だった。

 海面だけではない。

 海の上の低い空気も、薄く光って見えた。

 目には見えない粒が、光を食べているようだった。

 満潮線のゴミの帯が、朝日に照らされる。

 黒いタイヤ。

 白いポリ容器。

 砕けた発泡スチロール。

 潰れた空き缶。

 奇形魚の尾。

 パンの包み紙。

 小さな医療用チューブの切れ端。

 全部が、少しだけ光った。

 町はまだ眠っている。

 市場はこれから開く。

 加工場はこれから動く。

 病院では、赤ん坊の管が朝の光を受ける。

 学校では、子どもがまた教室を探す。

 役所では、因果関係は確認されていない、と書かれた紙が印刷される。

 相談窓口では、スマホ時間を減らしましょう、と書かれた紙が配られる。

 そして海は、黒いまま光っていた。

 まるで、太陽そのものを食べているように。

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