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黒い海の老白(パトラッシュ)  作者: 東四辻 うみネコ


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20/22

第20話 命のリレー

 海は、犬を覚えない。

 波は、名前を呼ばない。

 老白ラオバイは、その日の昼過ぎ、廟の裏から港の方へ運ばれた。

 白い体は、もう動かなかった。

 朝、廟の中では、曇った空から光が差した。

 海生ハイシェンと老白の上に、白い羽が舞った。

 天使たちが、静かに回っていた。

 けれど、それは廟の中で終わった。

 外に残ったのは、現実だった。

 現実には、白い老犬の死体が一つあった。

 呉伯ウーおじさんは、老白を抱き上げようとした。

 けれど腰が悪く、うまく持ち上げられなかった。

 町の若い男が二人、嫌そうな顔で手伝った。

「噛まないよな」

「もう死んでる」

「なら早くしよう。臭くなる」

 老白は臭くなかった。

 魚のにおいは少し残っていた。

 血と泥と、廟の古い香のにおいも混じっていた。

 けれど、臭くはなかった。

 呉伯はそう言おうとした。

 でも、言わなかった。

 言っても、誰も聞かないと思ったからだ。

 犬の死体は、役所の正式な処理対象ではなかった。

 飼い主の登録はない。

 鑑札もない。

 治療記録もない。

 市場で騒ぎを起こした犬。

 魚を咥えていた犬。

 町の人々にとって、老白はその程度の記録で足りた。

 誰かが言った。

「保健所へ持っていくか」

 別の誰かが言った。

「今から呼ぶと面倒だ。もう死んでるなら、海でいいだろう」

「海?」

「犬だぞ。魚を咥えてたんだ。海へ返してやればいい」

 海へ返す。

 その言い方は、少しだけ優しく聞こえた。

 だから、誰も反対しなかった。

 捨てる、ではない。

 海へ返す。

 言葉を変えると、人は少しだけ楽になれる。

 呉伯は、石段の下に置かれたリアカーを見た。

 昨日、海生が老白を乗せてきた、捨てられていたリアカーだった。

 荷台には、海生の上着の跡が残っていた。

 犬の白い毛が、数本ついている。

 呉伯はそれを見て、少し目を伏せた。

 若い男たちは、老白を古い麻袋に包んだ。

 米か魚粉か、何かが入っていた袋だ。

 老白の白い毛が、袋の口から少しはみ出した。

「ちゃんと包めよ」

「どうせ海に入れるんだ」

 老白は、リアカーの荷台に乗せられた。

 昨日は、海生の上着の上に乗っていた。

 今日は、麻袋の中だった。

 リアカーは、また、ぎい、と鳴った。

 呉伯はついて行った。

 ついて行かないと、老白が本当にただのゴミになる気がした。

 港の端まで来ると、男たちは周りを見た。

 誰も止めない。

 誰も近づかない。

 冬の海は灰色だった。

 昨日、曇った空から光が差した海とは違っていた。

 今日の海は、ただ冷たい。

 男たちは老白の包みを持ち上げた。

 一人が言った。

「よかったな。海へ帰れるぞ」

 もう一人が笑った。

「魚を盗んだ罰には、ちょうどいい」

 呉伯は、その言葉を聞いて、初めて口を開いた。

「盗んでいない」

 男たちは呉伯を見た。

「何だよ」

「その犬は、盗んでいない」

「じゃあ、どうして魚を咥えてた」

 呉伯は答えられなかった。

 老白がなぜ魚を咥えていたのか、証明するものはない。

 犬の忠義は、検査項目にない。

 犬の善意は、基準値にない。

 犬の愛は、書類に残らない。

 男たちは麻袋を海へ投げた。

 鈍い音がした。

 水が少し跳ねた。

 麻袋はしばらく浮いていた。

 それから、ゆっくり沈み始めた。

 老白の白い毛は、もう見えなかった。

 海は、犬を覚えない。

 波は、名前を呼ばない。

 呉伯だけが、しばらく海を見ていた。

 

 そのころ、海生はまだ生きていた。

 そう書くと、救いのように見える。

 だが、海生に意識はなかった。

 意識のない体は、本人よりも先に書類になる。

 救急隊に運ばれた海生は、病院ではなく、医療観察機能を備えた収容保護施設へ移された。

 表の名目は、緊急保護だった。

分類コード:014-HS

 未成年。

 保護者不在。

 身元引受人なし。

 衰弱。

 発熱。

 意識障害。

 そういう項目が並んだ。

 項目が並ぶと、人間は少しずつ人間でなくなる。

 項目の束になる。

 李海生という名前は、最初の欄に小さく書かれていた。

 その下に、こう記された。

 身元不明者相当。

 相当。

 便利な言葉だった。

 名前はある。

 しかし、引き受ける者がいない。

 家はある。

 しかし、保護者がいない。

 学校はある。

 しかし、今この場で署名する者がいない。

 だから、身元不明ではないが、身元不明に準じる。

 人間は、書類の上でそうやって薄くなる。

 町の代表者たちは、廟の石段の下で署名していた。

 誰も、海生を引き取るとは言わなかった。

 誰も、老白を預かるとは言わなかった。

 しかし、全員がこう言った。

「このままにはできない」

「救うためだ」

「仕方がない」

 そして署名した。

 その書類には、きれいな言葉が並んでいた。

 緊急搬送。

 一時保護。

 医療観察。

 救命上必要な処置。

 死亡時の身体管理。

 臓器および組織の医学的利用に関する包括同意。

 町の人たちは、全部を読まなかった。

 読めなかったのかもしれない。

 読まなかったのかもしれない。

 読んでも、自分の責任ではないと思いたかったのかもしれない。

 周主任ジョウしゅにんの代理は言った。

「行政的には、これが一番円滑です」

 漁協の男は言った。

「子どもを放っておくわけにはいかないからな」

 町内会の副代表は言った。

「うちは引き取れないが、署名くらいなら」

 王主任ワンしゅにんは、少し離れて立っていた。

 彼は署名しなかった。

 だが、こう言った。

「最後は、ちゃんと役に立つ場所へ行けたんだろう」

 誰も、その言葉を咎めなかった。

 

 収容保護施設では、海生の体が洗われた。

 服は脱がされた。

 ポケットの中身が記録された。

 古い鉛筆。

 小さな硬貨。

 折れた温度計のケース。

 祖父の手袋の糸くず。

 沈景遠シェン・ジンユエンの名刺。

 そして、ノート。

 ノートは汚れていた。

 水に濡れた跡。

 魚のにおい。

 犬の唾液。

 砂。

 古い血の薄い染み。

 担当者は、ノートをめくった。

 字が細かすぎる。

 読みにくい。

 海水温。

 黒い粒。

 検査項目にないもの。

 老白、図書館の外で待つ。

 老白、ノートを持って帰る。

 老白、魚を咥えて戻る。

 忠犬。

 担当者は、そこで手を止めた。

 それから、ノートを証拠品袋ではなく、私物袋へ入れた。

 私物。

 それで終わった。

 海生の体は、処置室へ運ばれた。

 点滴。

 体温管理。

 酸素。

 血圧。

 心拍。

 数値が機械に出る。

 数値は正直だった。

 ただし、数値は人生を知らない。

 数値は、祖父が半分のパンを大きい方にしてくれたことを知らない。

 小雨シャオユーへの封筒を知らない。

 明月ミンユエの卵焼きを知らない。

 老白の魚を知らない。

 海生がなぜ空腹だったのかを知らない。

 数値は、ただ上がったり、下がったり、消えたりする。

 夜の終わりごろ、海生の心拍は弱くなった。

 処置室では、担当医と施設の管理者が短く話した。

「回復見込みは」

「低いです」

「同意書は」

「包括同意あり」

「身元は」

「身元不明者相当。地域代表確認済み」

「適合確認は」

「進めています」

 会話は短かった。

 感情が入る隙間がないほど、短かった。

 処置室の外には、ポスターが貼ってあった。

 命のリレー。

 青い空。

 白い雲。

 笑顔の子ども。

 誰かの命が、誰かの命へつながる。

 美しい言葉だった。

 美しい言葉は、時々、刃物より深く切る。

 海生の体は、本人の意識が戻らないまま、分けられていった。

 その場の人々は、それを奪うとは呼ばなかった。

 救命。

 提供。

 医学的利用。

 命のリレー。

 誰かの未来。

 社会貢献。

 尊い意思。

 海生は、意思を示していなかった。

 ただ、身元引受人がいなかった。

 それだけだった。

 意思のない場所に、書類が置かれた。

 書類の上には、町の代表者たちの署名があった。

 署名があると、沈黙は同意の顔をする。

 同意の顔をした沈黙は、よく働く。

 海生の体は、役に立った。

 そう言われた。

 

 町へ知らせが戻ったのは、数日後だった。

 正式には、李海生は施設で死亡した。

 意識が戻らないまま、処置の甲斐なく亡くなった。

 その後、医学的利用により、複数の命を救うことに貢献した。

 文書には、そう書かれていた。

 町の会議室で、その文書は読み上げられた。

 町長は沈痛な顔をした。

 周主任は書類を整理していた。

 漁協の男は腕を組んでいた。

 王主任は後ろの方で黙っていた。

 陳海剛チェン・ハイガンは来ていなかった。

 陳明月も来ていなかった。

 町長は言った。

「不幸なことでした」

 誰かがうなずいた。

「ですが、最後に彼は多くの人の役に立った」

 また、誰かがうなずいた。

「命のリレーです」

 その言葉で、会議室の空気が少し落ち着いた。

 人は、意味をつけると安心する。

 特に、自分が責任を負わずに済む意味は、よく効く。

 町内会の副代表が言った。

「最後にみんなの役に立ったんだ。あの子も天国に行けるよ」

 漁協の男が言った。

「そうだな。いいことをした後は、気持ちがいい」

 誰も笑わなかった。

 だが、誰も怒らなかった。

 その言葉は、部屋の中に静かに落ちた。

 いいことをした後は、気持ちがいい。

 誰が、いいことをしたのか。

 海生か。

 町か。

 署名した人々か。

 施設か。

 臓器を受け取った誰かか。

 誰も、そこを聞かなかった。

 聞かなければ、みんなで少しずつ善人になれる。

 町長は、追悼文を出すことを提案した。

 海を愛した少年。

 地域の環境を見つめ続けた中学生。

 最後まで命の尊さを教えてくれた存在。

 そういう文言が並んだ。

 誰かが言った。

「犬の話も入れるか」

「愛犬と深い絆で結ばれていた、と書けばいい」

「魚泥棒の話は入れない方がいいな」

「もちろんだ」

「忠犬だったらしい」

「美談になる」

 美談になる。

 その瞬間、老白もまた分けられた。

 海に捨てられた体。

 町の美談に使われる名前。

 魚泥棒犬と呼ばれた現実。

 忠犬として飾られる物語。

 死んでも、犬は一つには戻れなかった。

 

 学校では、朝の放送で海生の死が伝えられた。

 担任は、沈痛な声で言った。

「李海生さんは、地域の環境を長く観察し、命の大切さを私たちに教えてくれました」

 教室は静かだった。

 劉偉リウ・ウェイは机の下を見ていた。

 周凱ジョウ・カイは、唇を噛んでいた。

 黄佳怡ホアン・ジアイーは、ノートを開いたまま何も書かなかった。

 陳明月は、窓の外を見ていた。

 彼女の弁当箱には、卵焼きが入っていた。

 落とすつもりだったのかもしれない。

 もう、落とす相手はいなかった。

 担任は続けた。

「彼の命は、別の命へと受け継がれました。命のリレーです」

 陳明月の手が、机の下で震えた。

 命のリレー。

 きれいな言葉だった。

 けれど彼女には、別の言葉が聞こえていた。

 父さんが困る。

 魚は困らないの。

 その声が、冬の教室に戻ってきた。

 明月は、弁当箱を開けなかった。

 昼休みになっても、卵焼きはそのままだった。

 

 市の小さな新聞には、短い記事が載った。

 環境観察で知られた少年、愛犬とともに悲劇。

 地域に命の尊さ残す。

 記事には、海生の写真が使われた。

 テレビに出た時の写真だった。

 笑っていないのに、希望に満ちた表情、と書かれた。

 老白の写真はなかった。

 代わりに、白い犬のイラストが添えられた。

 その犬は、ふっくらしていて、首輪をしていて、きれいだった。

 老白ではなかった。

 町長のコメントも載った。

「地域として大変心を痛めています。今後は子どもたちの見守りを強化し、命の大切さを伝えていきたい」

 周主任のコメントも短く載った。

「福祉的支援のあり方を検討します」

 漁協のコメントはなかった。

 養殖場のコメントもなかった。

 魚加工場の名前も出なかった。

 ナノプラスチックという言葉も出なかった。

 検査項目にないものは、記事にもなかった。

 基準値のない危険は、見出しにもならなかった。

 

 海生のノートは、施設から町へ送られた。

 私物として。

 町はそれを、学校へ渡した。

 学校は、遺品として一時保管した。

 張先生ジャンせんせいは、ノートを受け取った時、長く黙っていた。

 袋を開ける。

 魚のにおいは、もうほとんど消えていた。

 犬のにおいも薄い。

 紙のにおいだけが残っていた。

 張先生はページをめくった。

 夏。雨後。腐敗臭強い。

 検査項目にないものは、存在しないものに近づけられる。

 秋。買う側が問題にしていない。

 老白、初めて唸る。

 冬。祖父、死亡。

 老白、魚を咥えて戻る。

 盗んだ犬ではない。

 忠犬。

 張先生は、そのページで手を止めた。

 目の奥が熱くなった。

 だが、泣かなかった。

 教師は、学校で泣く場所を持っていない。

 泣くかわりに、張先生はノートを閉じた。

 そして、机の引き出しへ入れた。

 鍵をかけた。

 守るためだった。

 しかし、鍵をかけたノートは、誰にも読まれなくなった。

 それもまた、守るという名の封印だった。

 

 夜、港の端には、いつものように波が来ていた。

 老白を沈めた海は、何も変わらなかった。

 市場は次の日も開いた。

 加工場は次の日も魚をすり身にした。

 養殖場の白い浮きは、次の日も沖に並んでいた。

 町の横断幕は、まだ倉庫にしまわれていた。

 海と未来を守る港町。

 その文字は、少しも古くなっていなかった。

 海生の体は、もう町には戻らなかった。

 老白の体も、戻らなかった。

 戻ってきたのは、言葉だけだった。

 命のリレー。

 最後に役に立った。

 天国に行ける。

 いいことをした後は気持ちがいい。

 それらの言葉は、白く見えた。

 だが、白い羽ではなかった。

 曇った空から差した光でもなかった。

 それは、汚れを隠すために塗られた白だった。

 誰も殺すつもりはない。

 誰も奪うつもりはない。

 誰も悪人になりたくない。

 ただ、制度上いちばん円滑な処理を選ぶ。

 その結果、海生が資源化されだけ。

 海は、犬を覚えない。

 波は、少年の名前を呼ばない。

 しかし、ノートの中にはまだ残っていた。

 李海生。

 老白。

 検査項目にないもの。

 基準がない危険。

 魚を咥えた忠犬。

 誰の子でもないと書かれた少年。

 そして、最後の空白。

 そこには、海生自身の字では何も書かれていなかった。

 ただ、老白の毛が一本、ページの間に挟まっていた。

 白い毛だった。

 まだ、完全には汚れていなかった。

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