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黒い海の老白(パトラッシュ)  作者: 東四辻 うみネコ


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19/22

第19話 天使たちの朝

朝の廟は、海より先に冷えていた。

 石の床は、夜の冷たさをそのまま抱えている。

 壁の古い絵は薄暗く、祭壇の小さな像には、昨日の香のにおいがまだ残っていた。

 海の見える窓から、冬の白い光が入ってくる。

 その光は、温かくなかった。

 李海生リー・ハイシェンは、廟の床で目を覚ました。

 最初に感じたのは、腕の痛みだった。

 次に、足の冷たさ。

 それから、自分の胸のそばにある白い毛の感触。

 老白ラオバイは、まだそこにいた。

 海生の腕の中で、小さく丸くなっている。

 昨日、傷ついた足を布で巻いた。

 魚を咥えて戻り、石を投げられ、倒れた白い老犬。

 海生は、息を止めるようにして老白の胸を見た。

 動いている。

 小さく。

 本当に小さく。

 でも、動いている。

「老白」

 声を出したつもりだった。

 実際には、喉の奥がかすれただけだった。

 腹が空いている。

 喉も渇いている。

 昨日から、ほとんど何も食べていない。

 水も少ししか飲んでいない。

 寒さの中で老白を抱き、リアカーを引き、廟まで来た。

 体が自分のものではないようだった。

 海生は起き上がろうとした。

 腕に力が入らなかった。

 老白を起こさないように、そっと体を動かす。

 背中が石の床から離れた瞬間、頭が大きく揺れた。

 海が揺れたのかと思った。

 違う。

 自分が揺れている。

 海生は壁に手をついた。

 手が冷たい石に触れる。

 冬の石は、人間の熱を遠慮なく奪う。

 老白が目を少し開けた。

「大丈夫」

 海生は言った。

 かすれた声だった。

「大丈夫だから」

 老白は、海生の指先を舐めようとした。

 舌は届かなかった。

 それでも、動こうとした。

 海生は胸が痛んだ。

「動かなくていい」

 老白は目を閉じた。

 廟の外で、車輪の音がした。

 ぎい。

 昨日、石段の下に置いたリアカーだろうか。

 風で動いたのかもしれない。

 捨てられていた車。

 老白を運んだ車。

 捨てられたものは、風に押されても誰も止めない。

 海生は、もう一度立ち上がろうとした。

 今度は、少しだけ立てた。

 けれど、足が震える。

 祭壇の横に手をつき、窓の方へ歩いた。

 海が見えた。

 冬の海は灰色だった。

 遠くの養殖場の白い浮きは、朝の光の中でぼんやりしている。

 港の方では、もう小さな車が動き始めている。

 市場も、加工場も、学校も、今日も始まる。

 祖父のいない朝も。

 老白が倒れた次の朝も。

 町は始まる。

 海生は、窓枠にもたれた。

 その時、廟の入口で足音がした。

「誰かいるのか」

 低い老人の声だった。

 海生は振り返った。

 廟守の呉伯ウーおじさんが、入口に立っていた。

 年は祖父より少し上に見えた。

 背は曲がり、青い綿入れを着ている。

 手には古いほうきがあった。

 呉伯は海生を見た。

 次に、床の上の老白を見た。

 顔が変わった。

「お前、ここで寝たのか」

 海生は答えようとした。

 声が出なかった。

 呉伯はほうきを壁に立てかけ、近づいてきた。

「この犬は」

「老白」

 やっと、それだけ言えた。

「怪我をしているのか」

 海生はうなずいた。

「昨日、石を」

 そこまで言って、言葉が止まった。

 呉伯は老白の足の布を見た。

 血が乾き、布は固くなっている。

 呉伯は眉を寄せた。

「お前も顔色が悪い」

「大丈夫です」

「大丈夫な人間は、冬の廟の床で犬を抱いて寝ない」

 祖父なら、似たようなことを言ったかもしれない。

 海生は少しだけ笑いそうになった。

 でも、笑えなかった。

 呉伯は廟の外へ出て、石段の下を見た。

「リアカーもお前か」

「はい」

「港裏に捨ててあったやつだな」

「借りました」

「捨てられているものは、借りると言うのか」

 呉伯はそう言って、ため息をついた。

 怒っているのではなかった。

 どうしていいか分からない大人のため息だった。

「待ってろ。人を呼ぶ」

「呼ばなくていいです」

 海生は反射的に言った。

 人を呼ばれるのが怖かった。

 昨日、老白に石を投げたのも人だった。

 魚を返せと言ったのも人だった。

 薬を売らなかったのも人だった。

 氷を断ったのも人だった。

 でも、今の海生には人しかいなかった。

 呉伯は首を振った。

「子どもが倒れかけている。犬もこの状態だ。呼ばないわけにはいかん」

「老白を連れていかないで」

 海生は、思ったより強い声で言った。

 呉伯は少し驚いた顔をした。

「誰も連れていかん」

「保健所に言うって」

「誰が」

「昨日、町の人が」

 呉伯は黙った。

 その沈黙が、海生をさらに怖くした。

「老白は盗んでません」

「分かった」

「魚を持ってきただけです」

「分かった」

「僕に食べさせようとして」

 呉伯は、そこで少しだけ目を伏せた。

「分かった。まず、お前を助ける」

「老白も」

「老白もだ」

 呉伯は廟を出ていった。

 海生は老白のそばへ戻った。

 膝をつく。

 膝の骨に石の床の冷たさが当たる。

 老白は目を閉じている。

「大丈夫」

 海生はまた言った。

「老白も助けるって」

 老白は動かなかった。

 しばらくして、廟の外が騒がしくなった。

 呉伯の声。

 女の声。

 男の声。

 石段の下で、何人かが話している。

「本当にあの子か」

「テレビに出た子だろ」

「祖父が死んだばかりじゃないのか」

「犬も一緒だって」

「昨日の魚泥棒犬か」

 魚泥棒犬。

 その言葉が、廟の中へ入ってきた。

 老白の耳が、かすかに動いた。

 海生は老白の耳を両手で包むように撫でた。

「違う」

 小さく言った。

「違うよ」

 石段を上がって、近所の人たちが廟の入口に集まった。

 誰も中へ大きく踏み込まない。

 入口で止まる。

 見る。

 顔をしかめる。

 囁く。

 助けるために来たのか、確認するために来たのか、海生には分からなかった。

 中年の女が言った。

「救急隊に通報した方がいいんじゃないの」

 別の男が言った。

「でも、誰が付き添うんだ」

「親は?」

「父親は死んだって聞いたぞ」

「母親は」

「離婚して出て行ったんだろう」

「祖父も死んだ」

「じゃあ、身元引受は誰だ」

 身元引受。

 海生は、その言葉を知っていた。

 病院で、祖父の時に聞かれた。

 家族はいるか。

 保護者はいるか。

 誰が引き受けるか。

 人間は、弱った時に名前だけでは足りなくなる。

 誰かの責任として置かれなければならない。

 海生には、その誰かがいなかった。

 祖父がいた。

 でも、もういない。

 呉伯が言った。

「まず救急だ。子どもがこの状態だ」

「犬はどうする」

 男の一人が言った。

「犬は救急車に乗せられないだろう」

「でも置いていくわけにも」

「昨日、市場で騒ぎを起こした犬だ」

「保健所に言うべきじゃないか」

 海生は老白を抱き寄せた。

 体に力が入らないのに、腕だけは強くなった。

「だめ」

 声が震えた。

「老白を連れていかないで」

 入口の人たちは、一瞬黙った。

 沈黙は、同情ではなかった。

 面倒なものを見ている沈黙だった。

 呉伯は石段を下りていった。

 しばらくして、電話をかける声が聞こえた。

 救急。

 廟。

 少年。

 衰弱。

 発熱かもしれない。

 身元引受人不在。

 保護者死亡。

 父親死亡。

 母親不在。

 犬も怪我。

 犬は犬。

 人間の救急ではない。

 そんな言葉の切れ端が、冬の朝の空気に浮いた。

 救急車の音は、しばらくして聞こえてきた。

 祖父の時と同じ音だった。

 近づいてくるのに、間に合うかどうか分からない音。

 石段の下で人が動いた。

 救急隊員が上がってくる。

 青い服。

 白い手袋。

 担架。

 彼らは、入口の人たちとは違って迷わなかった。

 海生のところへ来て、膝をつき、顔を覗き込んだ。

「名前は」

「李海生」

「年齢」

「十四」

「いつからここに」

「昨日の夜」

「食事は」

 海生は答えようとした。

 何を食べたか思い出せなかった。

 薄い粥。

 水。

 水道水。

 昨日は何を食べた。

 老白に分けた粥。

 自分はどれだけ食べた。

 分からない。

「ほとんど食べていないようです」

 呉伯が代わりに言った。

 救急隊員は海生の額に触れた。

「発熱。脱水もある」

「老白も」

 海生は言った。

「犬も怪我してます」

 救急隊員は老白を見た。

 顔が少し困ったものになった。

「犬は、うちでは運べない」

「一緒に」

「救急車は人間用だ」

「でも」

「犬は獣医だ」

「お金がありません」

 救急隊員は、答えなかった。

 悪い人ではなさそうだった。

 でも、制度の外にあるものを運ぶ手は持っていなかった。

「身元引受の方は」

 救急隊員が入口の人たちへ聞いた。

 誰も答えなかった。

「親族は」

 沈黙。

「近所で一時的に引き受けられる方は」

 沈黙。

「学校関係者は」

「学校に聞けばいいだろう」

 誰かが言った。

「でも今日は休みだ」

「役所だな」

「役所に回した方がいい」

「うちでは無理だよ」

「責任を取れない」

 責任。

 その言葉だけが、廟の中で大きくなった。

 助けたい人はいる。

 かわいそうだと言う人もいる。

 救急車を呼ぶ人もいる。

 だが、責任という紙が出てきた瞬間、全員の手が下がる。

 海生は、老白を抱きしめた。

 救急隊員の一人が無線で連絡を取った。

「未成年。衰弱。保護者不在。身元引受人なし。通常搬送先は」

 相手の声は聞こえなかった。

 救急隊員の顔だけが少し変わった。

「はい。病院ではなく、収容保護施設扱いですか」

 海生は、その言葉を聞いた。

 収容保護施設。

 病院ではない。

 救われる場所ではなく、置かれる場所。

 救急隊員は、もう一度確認した。

「医療観察付きの処理施設ですね。はい。身元不明相当扱い。町側の確認署名が必要」

 身元不明。

 海生は、自分の名前を言ったばかりだった。

 李海生。

 十四歳。

 学校もある。

 家もある。

 祖父の手袋もある。

 小雨への手紙もある。

 老白もいる。

 それなのに、身元不明相当。

 相当。

 また、便利な言葉だった。

 名前があっても、引き受ける人がいなければ、名前は薄くなる。

 誰も責任を取らなければ、子どもは書類の上で身元不明に近づけられる。

 呉伯が言った。

「待ってくれ。この子は名前もある。家もある」

 救急隊員は困った顔をした。

「それは分かります。ただ、搬送後の同意、支払い、引き取り、保護管理の責任者が必要です。今この場で誰か署名できますか」

 呉伯は黙った。

 入口の人たちも黙った。

 誰も、前へ出なかった。

 海生は呉伯を責めなかった。

 呉伯は助けようとしてくれた。

 でも、呉伯にも生活がある。

 家がある。

 年齢がある。

 責任という紙は、善意より重い。

 そのころ、石段の下には町の大人たちが増えていた。

 町内会の副代表。

 漁協の男。

 周主任ジョウしゅにんの代理として来た役所の職員。

 そして、王主任ワンしゅにん

 王主任は加工場の人間だから関係ない、と最初に言った。

 けれど、町の食品関係者として確認だけはできる、と誰かに言われ、石段の下に残っていた。

 さらに、黒い車が一台止まった。

 町長が来た。

 その後ろに、病院長だという男もいた。

 白衣ではない。

 濃い色の上着を着て、髪をきれいに整えていた。

 まるで、これから会議に出るような姿だった。

 町長は廟の中を見て、眉を寄せた。

「寒い場所に長くいたのか」

 それは心配の言葉に聞こえた。

 病院長は救急隊員から説明を受け、短くうなずいた。

「衰弱、脱水、低体温傾向。未成年。保護者不在。身元引受人なし」

 それから、役所の職員が持っていた書類を見た。

 書類の表には、こう書かれていた。

 緊急人道医療措置および一時保護確認書。

 人道。

 その言葉は、紙の上ではとても温かく見えた。

 だが、その紙を持つ手は冷えていた。

 町長は言った。

「このまま放置することはできません。町として、人道的に対応しましょう」

 病院長もうなずいた。

「通常の病院搬送では、同意者と費用負担者が不在です。医療観察付きの一時保護施設へ送るのが、制度上もっとも早い」

 制度上もっとも早い。

 海生は、その言葉を聞いた。

 早いことは、よいことに聞こえる。

 祖父の時には、何もかも遅かった。

 だから早いことは、よいことのはずだった。

 でも、今の早さは、海生を助ける速さというより、海生をどこかへ片づける速さに思えた。

 役所の職員が書類を読み上げた。

「身元不明者相当未成年に対する緊急保護。人道的医療措置。搬送後の観察、検査、救命上必要な処置への包括同意。死亡時の身体管理。医学的教育および移植医療への協力可能性確認」

 海生は、最後の方の言葉が分からなかった。

 分からないのに、体が冷えた。

 身体管理。

 医学的教育。

 移植医療。

 協力可能性。

 テレビや本で聞けば、人を救う言葉だったかもしれない。

 だが、ここでは海生の体を先に見ている言葉に聞こえた。

 町長が言った。

「これは少年を救うための手続きです」

 病院長が続けた。

「万一の場合にも、医学的に有効な形で扱えるようにしておく。これは、社会全体への貢献でもあります」

 社会全体への貢献。

 海生は、すり身用の桶を思い出した。

 形の悪い魚は、すり身にすれば分からない。

 形を消せば、商品になる。

 商品になれば、流通する。

 流通すれば、役に立つ。

 今、海生の上で、それと似たことが起きている気がした。

 李海生という形を消す。

 身元不明者相当という名前に入れる。

 緊急保護という箱に入れる。

 人道的医療措置という言葉で包む。

 そして、もし死んだら、体は医学的に有効なものになる。

 すり身にすれば形は消える。

 人間でも、書類にすれば形は消えるのか。

 海生は老白を抱きしめた。

 老白の胸は、まだ小さく動いていた。

 役所の職員がペンを差し出した。

 町長が署名した。

 町長確認欄。

 病院長が署名した。

 医療機関確認欄。

 周主任の代理が署名した。

 行政連絡確認欄。

 王主任は少し迷った。

「私は加工場の者ですが」

 役所の職員が言った。

「地域食品事業者代表として、現場確認欄です。あくまで、少年が保護を必要とする状態だったことの確認です」

「あくまで確認ですね」

「はい。責任を引き受けるものではありません」

 責任を引き受けるものではありません。

 その言葉を聞くと、王主任はペンを取った。

 署名した。

 漁協の男も署名した。

 町内会の副代表も署名した。

 皆、海生を殺そうとしている顔ではなかった。

 誰も笑っていない。

 誰も悪人らしくない。

 むしろ、面倒なことを早く正しい形に収めようとしていた。

 少年を寒い廟に置いておくわけにはいかない。

 誰も引き取れない。

 通常の病院では手続きが難しい。

 なら、制度に沿って一時保護へ送る。

 それだけだった。

 それだけだから、怖かった。

 紙の上では、すべて人道的だった。

 すべて合法だった。

 すべて効率的だった。

 そして、その紙の中では、李海生という少年の形が少しずつ薄くなっていた。

 海生は聞いた。

「病院じゃないの」

 かすれた声だった。

 病院長が近づいた。

 その声は落ち着いていた。

「医療観察のある施設です。必要な処置は受けられます」

「帰れる?」

 病院長は、すぐには答えなかった。

「状態を見て判断します」

「老白は」

 救急隊員が言った。

「犬は運べない」

「一緒に」

「救急車は人間用だ」

「老白も怪我してる」

「犬は獣医だ」

「お金がありません」

 誰も答えなかった。

 答えない時、人は目をそらす。

 海生は老白を抱きしめた。

「老白を置いていかない」

 呉伯が近づいてきた。

「海生」

「いやだ」

「老白は、私が見る」

「いやだ」

「今だけだ」

「いやだ」

 子どもの言葉になった。

 十四歳ではない。

 もっと幼い声だった。

 いやだ。

 それしか出なかった。

 老白は、海生の胸に顔を押しつけた。

 海生も、老白の首に腕を回した。

 救急隊員たちが困った顔をする。

 町の人たちが見ている。

 誰かが小さく言った。

「早くしないと」

 誰かが言った。

「犬ごと抱かせたままでは無理だろう」

 誰かが言った。

「かわいそうだけど」

 かわいそう。

 その言葉は、何も持っていなかった。

 軽い布のように宙を漂うだけで、何も覆わない。

 その時、廟の外の空が、少しだけ明るくなった。

 朝から空は曇っていた。

 冬の雲が低く垂れ、海も町も灰色に押しつぶしていた。

 港の灯りも、養殖場の白い浮きも、全部が湿った布の向こうにあるようだった。

 その雲の切れ目から、一本の光が差した。

 細い光だった。

 けれど、まっすぐだった。

 海の上を越え、港の屋根を越え、石段の下に捨てられたリアカーを越え、廟の小さな窓から中へ入ってきた。

 光は、海生と老白の上に落ちた。

 最初、海生は冬の朝日だと思った。

 だが違った。

 光の中で、白いものが舞っていた。

 雪ではない。

 珠江口に雪は降らない。

 発泡スチロールの白い粒でもない。

 灰でもない。

 羽だった。

 小さな白い羽。

 雲の切れ目から差した光の中で、ゆっくり舞っていた。

 海生は瞬きをした。

 誰も、その羽を見ていないようだった。

 町の人たちは書類を見ている。

 救急隊員は担架を見ている。

 町長は確認欄を見ている。

 病院長は搬送先の名前を見ている。

 見ているのは、海生だけだった。

 いや。

 老白も見ていた。

 老白の目が、少し開いている。

 その目は、廟の天井の方を見ていた。

 古い絵の上。

 祭壇の上。

 海の見える窓の向こう。

 そこに、白い光が広がっていた。

 海生には、天使が見えた。

 白い服を着た子どもたちのようでもあり、海鳥のようでもあり、光そのもののようでもあった。

 音はない。

 ただ、舞っている。

 一人ではない。

 二人でもない。

 たくさんの白い影が、廟の中を静かに回っている。

 発泡スチロールの白い粒ではない。

 魚の骨の白でもない。

 老白の毛の白だった。

 祖父が割ってくれた半分のパンの白だった。

 小雨へ送れなかった封筒の中の白だった。

 ノートの余白の白だった。

 まだ汚されていない何かの白だった。

 海生は、老白を強く抱いた。

「老白」

 声はもう、ほとんど出なかった。

 老白は、海生の顎の下に鼻先を押しつけた。

 冷たい鼻。

 でも、そこにあった。

 救急隊員が何か言った。

 呉伯が何か言った。

 町の代表者たちが、また紙の話をしていた。

 しかし、それらは遠くなっていった。

 水の中で聞く音のようだった。

 海生は、老白と一緒に、白い光の方を見た。

 廟の床は、もう冷たくなかった。

 石の硬さも消えた。

 腹の空きも、喉の渇きも、腕の痛みも、少しずつ遠くなる。

 老白の体が、前より軽く感じた。

 いや、海生自身も軽くなっているのかもしれない。

 天使たちは、廟の中を舞っていた。

 誰も見ていない。

 誰も書類にしない。

 誰も基準値を作らない。

 誰も検査項目に入れない。

 でも、そこにいた。

 老白は魚を咥えて戻ってきた。

 祖父は半分のパンを大きい方にしてくれた。

 明月は卵焼きを落とした。

 沈景遠は名前をくれた。

 呉伯は今日のところは見ると言った。

 小さな善意は、地上ではどれも小さすぎた。

 でも、天使たちは、それを拾っていた。

 拾って、白い羽にして、廟の中へ降らせているようだった。

 海生は老白を抱きしめた。

 老白も、最後の力で海生に体を寄せた。

 もう、どちらがどちらを守っているのか分からなかった。

 救急隊員の手が、海生の肩に触れた。

 その手は現実の手だった。

 白い手袋の手。

 制度の中の手。

 運ぶ手。

 引き離す手。

 だが、海生はもうその手を怖いと思わなかった。

 老白がいる。

 老白が腕の中にいる。

 それだけでよかった。

 地上へ戻れば、書類がある。

 施設がある。

 署名がある。

 身元不明者相当という言葉がある。

 医学的利用という小さな文字がある。

 町の人の沈黙がある。

 老白を犬だから運べないという決まりがある。

 戻らなくていい。

 海生は、初めてそう思った。

 戻らなくていい。

 ここでいい。

 老白と一緒なら。

 海の見える廟で。

 捨てられたリアカーを石段の下に残して。

 白い羽が舞う中で。

 海生は老白を抱いたまま、目を閉じた。

 老白の胸が、小さく上下した。

 一度。

 もう一度。

 海生の胸も、小さく上下した。

 一度。

 もう一度。

 曇った空から差した光が、二人を包んでいた。

 老白の息が細くなる。

 海生の息も細くなる。

 どちらがどちらの息なのか、もう分からない。

 白い羽が舞う。

 その羽の中に、天使たちがいた。

 廟の天井近くを、ゆっくり回っていた。

 海鳥のように。

 子どものように。

 老犬の白い毛のように。

 海生は、老白の体をもう一度だけ抱き寄せた。

 老白も、最後の力で海生の胸に顔を押しつけた。

 海生は、白い光の中で、小さく息を吐いた。

「僕、もう疲れちゃったよ」

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