第18話 捨てられた車に乗せて
リアカーは、ゴミとして捨てられていた。
港の裏に、使われなくなった倉庫がある。
その壁際に、壊れたポリ容器や、割れた発泡スチロール箱と一緒に置かれていた。
荷台の板は、ところどころ割れている。
片方の車輪は少し歪んでいた。
取っ手の鉄は錆びている。
引けば、きっと乾いた音がする。
昔は、何かを運んでいたのだろう。
魚箱か。
氷か。
ゴミか。
それとも、誰かの家財か。
けれど今は、運ばれる側になっていた。
捨てられたものとして、捨てられたものの隣に置かれている。
李海生は、そのリアカーを見つけた時、最初に神さまのようなものを感じた。
すぐに、それを取り消した。
神さまなら、こんな場所に捨てられているはずがない。
それでも、今の海生には必要だった。
老白を運ぶものが。
白い老犬は、海生の腕の中で軽すぎた。
軽いのに、長く抱いていると腕が震える。
傷ついた右後ろ足には布を巻いてある。
けれど、血は少しずつにじんでいた。
魚を咥えて戻ってきた老白は、石を投げられ、追われ、倒れた。
海生は家で傷を洗った。
水を温めた。
泥を落とした。
布を巻いた。
けれど、老白はほとんど動かなかった。
水を飲まない。
粥も食べない。
目だけが、海生を追う。
その目は、まだ海生に謝っているようだった。
魚を持って帰れなかったことを。
食べさせられなかったことを。
町の人に盗んだと言われたことを。
石を投げられたことを。
全部、自分が悪かったと思っているようだった。
「違う」
海生は何度も言った。
「違うよ、老白。悪いのは老白じゃない」
でも、犬は人間の言葉で自分を許せない。
だから海生は、老白をどこかへ連れていかなければならないと思った。
家の中に寝かせておくだけでは、老白が少しずつ遠くへ行ってしまう気がした。
犬の医者へ行く金はない。
人間の病院も、祖父の時に間に合わなかった。
それでも、じっとしていられなかった。
だから、海生は老白を抱いて外へ出た。
そして、港の裏で、捨てられたリアカーを見つけた。
海生は荷台の中を見た。
汚れた板きれ。
割れた発泡スチロール。
古いビニール袋。
砂と魚の鱗が固まった底。
老白を直接乗せるには、冷たすぎる。
海生は自分の上着を脱いだ。
冬の風が、すぐに体へ入ってきた。
寒い。
けれど、老白の体の下に敷くものが必要だった。
海生は上着を荷台へ広げた。
その上に、老白をそっと乗せた。
老白は小さく息を吐いた。
「痛い?」
老白は答えない。
ただ、海生の手を見た。
「ごめん。少し揺れるかも」
海生は、老白の頭を自分の古い鞄で支えた。
鞄の中にはノートが入っている。
一瞬、迷った。
ノートを枕にしていいのか。
でも、老白の頭を支えるものは、それしかなかった。
ノートは、老白が守ってくれた紙だ。
なら、今度は紙が老白を支えればいい。
海生は鞄を置いた。
老白の顎が、そこに乗る。
白い毛に、魚のにおいと血のにおいと、冬の潮のにおいが混じっていた。
海生はリアカーの取っ手を握った。
錆びた鉄は冷たかった。
引く。
車輪が鳴った。
ぎい、と乾いた音がした。
片方の車輪が歪んでいるせいで、リアカーはまっすぐ進まない。
少し右へ流れる。
海生は体を左へ傾けて、向きを戻した。
荷台が揺れる。
老白の耳が少し動く。
「ごめん」
海生は言った。
ごめん。
ごめん。
ごめん。
何に謝っているのか、もう分からなかった。
リアカーを引いて、海生は港の道を歩いた。
冬の午後は薄暗い。
雲が低い。
海の方から風が来る。
道の端には、魚箱の水が流れた跡が黒く残っている。
市場の前では、人がまだ行き来していた。
誰かが海生を見た。
誰かが老白を見た。
誰かが、小さく笑った。
「またあの犬か」
「魚泥棒の犬だろ」
「今度は何を運んでるんだ」
海生は何も言わなかった。
リアカーを引いた。
ぎい。
からん。
荷台のどこかで、小さな金属片が鳴った。
空き缶を運んだ時の音に似ていた。
老白は目を閉じている。
眠っているのか。
痛みに耐えているのか。
海生には分からない。
海生は、ときどき立ち止まった。
老白の胸が動いているか確かめる。
動いている。
まだ動いている。
それだけを確かめて、また歩いた。
最初に向かったのは、市場の奥にある小さな薬屋だった。
人間の薬屋だ。
でも、消毒液や布なら買えるかもしれない。
海生はリアカーを入口の横に止めた。
店の中から、主人が出てきた。
「犬は入れるな」
「入れません。消毒液と、傷に使う布が欲しいんです」
「金は」
海生は財布を出した。
硬貨は少ない。
祖父の葬儀のことで、家の中の金はほとんど残っていなかった。
主人は硬貨を見て、顔をしかめた。
「これじゃ足りない」
「少しだけでいいです」
「少しだけ売るものじゃない」
「お願いします」
「犬なら、獣医へ行け」
「獣医に行く金がありません」
「なら、うちへ来ても同じだ」
主人は中へ戻ろうとした。
海生は言った。
「祖父が、前にここで買った消毒液が残っていて」
「前は前だ」
扉が閉まった。
海生は硬貨を握ったまま立っていた。
リアカーの上で、老白が小さく息を吐いた。
「大丈夫」
海生は言った。
大丈夫ではない。
でも、それ以外の言葉が出なかった。
次に、海生は魚加工場の裏へ向かった。
そこなら、捨てる氷があるかもしれない。
老白に食べさせるためではない。
傷を冷やす氷が少しだけ欲しかった。
加工場の裏口で、王主任と目が合った。
王主任は、リアカーの上の老白を見て、すぐに顔をしかめた。
「何しに来た」
「氷を少し分けてください」
「何に使う」
「老白の足に」
「犬に使う氷はない」
「捨てる氷でいいです」
「捨てる氷にも金がかかっている」
海生は黙った。
王主任は腕を組んだ。
「それに、その犬は市場で騒ぎを起こしたんだろ。こっちへ連れて来るな。客が見る」
「少しだけ」
「だめだ」
「お願いします」
「だめだと言っている」
王主任の声が大きくなった。
中から、作業員がこちらを見た。
「李海生。もうここへ来るなと言っただろう」
「言われてません」
「今言った」
海生は、何か言い返したかった。
でも老白が荷台の上で小さく震えた。
言い返す時間も、体力も、もうなかった。
海生はリアカーを引いて、加工場の裏を離れた。
ぎい。
ぎい。
車輪の音が、さっきより大きく聞こえた。
港の道は、どこへ行っても人がいる。
人がいるのに、誰もいないようだった。
見る人はいる。
助ける人はいない。
声をかける人はいる。
手を貸す人はいない。
海生は、リアカーを引いてさまよった。
市場の裏。
加工場の横。
役所へ続く道。
学校の塀の外。
図書館の前。
図書館の前で、海生は少しだけ止まった。
ここで、老白は何度も待った。
冬の夕方、柱の陰に座っていた。
海生が本を抱えて出てくると、しっぽを振った。
待つ犬。
図書館の外で待つ犬。
今は、リアカーの上で目を閉じている。
「老白」
海生は呼んだ。
老白は、かすかに目を開けた。
「覚えてる? ここで待ってたね」
老白のしっぽは動かなかった。
でも、耳が少しだけ動いた。
海生はまた歩いた。
どこへ行けばいいのか分からなかった。
家へ戻れば、薄い粥と冷えた部屋がある。
病院は犬を見てくれない。
獣医は遠い。
金もない。
役所は、基準がないと言う。
食品監督部門は、検査項目にないと言う。
保健環境の窓口は、かもしれないでは動けないと言う。
では、老白の痛みは何の項目に入るのか。
石を投げられた犬は、どの窓口へ行けばいいのか。
魚を咥えて戻った忠犬は、どの基準に載るのか。
海生は歯を食いしばった。
涙は出なかった。
体の中が乾いているようだった。
リアカーは、少しずつ海の方へ向かっていた。
町の端に、小さな廟がある。
海の見える高台ではない。
港町の端にある、古い石段を少し上がっただけの小さな廟だ。
それでも、そこからは海が見えた。
海生は子どものころ、祖父に連れられて一度だけ来たことがある。
祖父は、その時こう言った。
「ここは願いを叶える場所ではない」
「じゃあ、何の場所?」
「叶わなかった願いを置いていく場所だ」
その時の意味は分からなかった。
今なら、少し分かる気がした。
海生はリアカーを廟の石段の下まで引いた。
石段は古く、ところどころ欠けている。
リアカーは上がれない。
海生は荷台の上の老白を見た。
「少し抱くよ」
老白は目を開けた。
海生は両腕で老白を抱えた。
軽い。
軽いのに、腕が震える。
老白の体温は、朝より低い気がした。
石段を一段ずつ上がる。
一段。
二段。
三段。
途中で足がふらついた。
海生は壁に肩を当てて耐えた。
老白の頭が、海生の胸に触れている。
老白の息が、薄く当たる。
まだ生きている。
それだけを確かめる。
廟の中は、薄暗かった。
古い香の匂いがする。
壁には色の褪せた絵があり、祭壇の上には小さな像が並んでいる。
誰の神なのか、海生にはよく分からない。
海の神かもしれない。
土地の神かもしれない。
誰かが忘れた神かもしれない。
海が見える側に、小さな窓があった。
そこから冬の海が見える。
黒くはない。
灰色だった。
遠くの養殖場の白い浮きも、夕方の光の中ではぼんやりしていた。
海生は祭壇の横の板の間に、老白をそっと寝かせた。
自分の上着をまた敷く。
老白の頭の下には、ノートの入った鞄を置いた。
老白は目を開け、海生を見た。
「ここ、海が見えるよ」
海生は言った。
「爺爺が言ってた。叶わなかった願いを置く場所だって」
老白は答えない。
「老白は、何を置く?」
問いかけてから、海生は自分で首を振った。
老白に置かせるものなどない。
老白は、持ってきた。
魚を持ってきた。
ノートを持ってきた。
空き缶の袋を持ってきた。
祖父の手袋を持ってきた。
いつも、持ってきた。
何かを置いていく側ではない。
誰かのために、運ぶ側だった。
「じゃあ、僕が置く」
海生は老白の横に座った。
「怒りを置く。少しだけ」
嘘だった。
置けない。
置けるほど、軽くない。
海生はノートを出した。
手が震えていた。
字は乱れた。
それでも書いた。
今日の記録。
冬。
老白、魚を咥えて戻る。
町の人、盗んだと言う。
石を投げる。
老白、倒れる。
右後ろ足、出血。
薬屋、金が足りず断られる。
加工場、氷を断られる。
町をリアカーでさまよう。
リアカー、港裏のゴミ置き場に捨てられていたもの。
図書館の前を通る。
廟へ来る。
海が見える。
海生は鉛筆を止めた。
書くことはまだある。
でも、手が動かなかった。
老白が、小さく息をした。
海生はすぐに顔を近づけた。
「老白」
老白の目が少し開いた。
海生の顔を見た。
そして、弱くしっぽを動かした。
今度は、確かに動いた。
海生は老白の背中を撫でた。
白い毛は冷たい。
けれど胸の奥には、まだ温かさがあった。
「ありがとう」
海生は言った。
「魚、食べられなかったけど、ありがとう」
老白は目を閉じた。
廟の外で、風が鳴った。
石段の下に置いたリアカーが、風で少し動いたのか、ぎい、と小さな音を立てた。
捨てられた車。
捨てられた犬。
祖父を失った子。
海に捨てられた町のゴミ。
全部が、同じ線の上にあるように思えた。
海生は、老白の横に体を丸めた。
寒い。
床は冷たい。
上着は老白の下にある。
海生には掛けるものがない。
それでも、老白から離れたくなかった。
老白の息を聞きたかった。
止まっていないか確かめたかった。
海の見える窓から、冬の光が少しずつ薄くなっていく。
夕方が夜に変わる。
港の灯りが遠くに点き始める。
その灯りは、きれいだった。
きれいなものは、遠くから見る時だけきれいなことがある。
海生は目を閉じた。
眠るつもりはなかった。
老白が心配だった。
夜になったら、家へ戻るつもりだった。
でも、体が動かなかった。
腹は空いていた。
腕は痛かった。
足は冷たかった。
頭の中では、車輪の音がまだ鳴っている。
ぎい。
ぎい。
リアカーが町をさまよう音。
誰も助けなかった道の音。
老白の息が、耳のそばで小さく聞こえた。
その音だけを頼りに、海生は廟の床で眠りに落ちた。
海の見える小さな廟で。
捨てられたリアカーを石段の下に残して。
白い老犬の体温を、両腕で囲んだまま。
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