第17話 魚を咥えた犬
冬の海は、音まで冷たくする。
珠江口の冬に、雪は降らない。
水も凍らない。
けれど夜明け前の海風は、濡れた布を骨に巻くように体へ入ってくる。
波が引くたび、砂の上に残った水が薄く光る。
満潮線のゴミの帯も、寒さの中で黙り込んでいるように見えた。
大きなタイヤは、黒いまま冷えている。
白いポリ容器は、風に押されて乾いた音を立てる。
割れた発泡スチロールの箱は、夏のように腐ったにおいを立てない。
ただ、魚の骨と海藻と空き缶の間に、冷えた潮のにおいだけが残っていた。
海は、何も言わない。
だが、寒い日は、黙っているだけで人を削る。
祖父がいなくなった家は、同じ広さなのに広すぎた。
李海生は、朝起きるたびに、それを思い知らされた。
流し台の前に、李守田の背中がない。
鍋をかき回す音がない。
薄い粥をよそいながら、「これは粥ではなく朝の雲だ」と言う声がない。
壁には、海生の背丈を測った鉛筆の線が残っている。
机にはノートがある。
縫いかけの手袋もある。
老白の皿もある。
ものは残っている。
人だけがいない。
海生は、鍋に水を入れた。
米は少ししかなかった。
祖父がいたころなら、少ない米を面白がる言葉があった。
今日は、ただ少ないだけだった。
老白は流し台の横に座っていた。
海生の手元を見ている。
白い老犬は、祖父が死んだ日から、海生のそばを離れることが少なくなった。
前は、机の下や扉の前にいた。
今は、海生の動く方へついてくる。
海生が鍋へ水を入れれば、流し台の横へ。
海生がノートを開けば、机の下へ。
海生が祖父の手袋を抱えれば、膝の前へ。
まるで、海生がどこかへ消えてしまわないか見張っているようだった。
「大丈夫」
海生は言った。
自分でも、誰に言ったのか分からなかった。
老白にか。
祖父にか。
それとも、自分にか。
鍋の中で、水がゆっくり温まった。
米は少ない。
粥は薄い。
老白の皿にも分けなければならない。
小雨への封筒は、机の引き出しに入っている。
中身はない。
魚加工場の仕事は止まった。
祖父の環境公益就労も止まった。
祖父自身も、もういない。
送る金がない。
小雨へ、父の死を知らせていない。
祖父の死も、まだ知らせられない。
手紙を書くと、嘘が増える。
書かないと、沈黙が増える。
どちらも、海生には重かった。
粥ができた。
海生は茶碗へ少しよそい、老白の皿にも少し入れた。
老白は皿を見た。
それから、海生を見た。
「食べて」
海生は言った。
老白はすぐには食べなかった。
前のように、もらっていいか確かめる目だった。
「いいよ。老白の分」
老白は、ゆっくり食べた。
海生も粥を食べた。
水の味がした。
米は少ししかない。
でも、温かかった。
温かいだけで、体は少しだまされる。
腹は、だまされない。
昼になっても、腹の中は軽かった。
学校へ行くと、教室の空気は祖父の死を知らないままだった。
知らないままの人間は、いつもの言葉を投げられる。
「おい、魚博士」
劉偉が言った。
「最近、加工場で見ないな。クビか?」
周りが笑った。
海生は席に着いた。
「本当にクビだったのかよ」
「町の魚を悪く言うからだろ」
「正義の科学者様は、腹減らないのかな」
黄佳怡は、少し離れた席でノートを開いていた。
何も言わない。
周凱は、聞こえるように言った。
「証拠もないのに騒ぐと、こうなるんだよ」
海生は、窓の外を見た。
冬の空は薄い。
祖父が死んだことを、誰も知らない。
知らないのに、言葉だけは刺さる。
知らない方が、残酷になれることがある。
昼休み、海生は水道へ行った。
水を飲む。
一口。
二口。
三口。
水は腹をふくらませる。
満たすわけではない。
ただ、空腹の形を少し変える。
そこは、前に陳明月が卵焼きをくれた場所だった。
今日は、誰も来なかった。
海生は水道の蛇口を閉めた。
水より強い味。
そう書いた日があった。
今は、水しかなかった。
放課後、海生はまっすぐ家へ帰った。
魚加工場へ行く道を曲がらない。
図書館へ行く気力もなかった。
家に戻ると、老白が扉の前で待っていた。
いつもなら、爪が床をこする音がする。
今日は、音がしなかった。
海生が扉を開けると、老白は立ち上がった。
少しよろけた。
「老白」
海生はしゃがんだ。
老白は海生の手のにおいを嗅いだ。
学校のにおい。
水道のにおい。
何も食べていないにおい。
犬にそんなものが分かるのか、海生には分からない。
でも、老白は分かったように見えた。
夕方の粥は、朝よりさらに薄かった。
米を残さなければならない。
明日の朝もある。
明後日もある。
小雨への手紙もある。
海生は老白の皿へ少しだけ分けた。
自分の茶碗にも少しだけ。
老白は皿を見た。
それから、海生の茶碗を見た。
「食べて」
海生は言った。
老白は食べた。
けれど、半分ほどで止まった。
「どうしたの」
老白は皿を鼻先で少し押した。
海生の方へ。
「いらないの?」
老白は海生を見た。
その目は、いらないと言っていなかった。
食べて。
そう言っているように見えた。
海生は首を振った。
「だめ。これは老白の分」
老白は、また皿を押した。
薄い粥が少しこぼれた。
「だめだって」
海生の声が少し強くなった。
老白は身を引かなかった。
ただ、海生の手に鼻先を押しつけた。
食べろ。
そう言っているようだった。
海生は、茶碗を持つ手に力を入れた。
泣きそうになった。
でも、泣かなかった。
「食べよう。一緒に」
海生は老白の皿から、ほんの少しだけ粥を自分の茶碗へ戻した。
老白は、それで納得したように残りを食べた。
その夜、老白は扉の前で眠らなかった。
海生の布団の横で眠った。
体を、海生の腕に少しつけて。
白い毛は温かかった。
細い体だった。
けれど、そこに生きている重さがあった。
次の日、海生が目を覚ますと、老白はいなかった。
布団の横が冷えている。
扉の前にもいない。
皿の横にもいない。
「老白」
海生は呼んだ。
返事はない。
扉が、少しだけ開いていた。
昨日の夜、閉めたつもりだった。
きちんと閉まっていなかったのかもしれない。
老白が自分で鼻で押したのかもしれない。
海生は外へ出た。
冬の朝の路地は冷たい。
人はまだ少ない。
「老白」
声は路地の壁にぶつかって、薄く戻ってきた。
老白はいない。
海生は浜へ向かった。
老白が行きそうな場所。
海生と一緒に何度も歩いた浜。
満潮線のゴミの帯。
図書館の前。
市場の横。
加工場の近く。
足が勝手に急ぐ。
まず浜へ行った。
冬の浜には、いつものゴミの帯があった。
大きなタイヤ。
白いポリ容器。
割れた発泡スチロール。
つぶれた空き缶。
黒い粒。
老白はいない。
老白の足跡も、砂の上ではよく分からなかった。
海生は市場へ走った。
途中で、騒ぎ声が聞こえた。
「こっちだ」
「その犬、魚を咥えてるぞ」
「泥棒犬だ」
海生の胸が凍った。
角を曲がる。
港の道の向こうに、白い犬が見えた。
老白だった。
口に魚を咥えている。
大きくはない。
けれど、痩せた老犬には十分重そうな魚だった。
銀色の体が、老白の口の横で揺れている。
魚の尾が、地面に触れそうになっていた。
老白は走っていない。
走れない。
右後ろ足が遅れる。
それでも、必死に歩いていた。
後ろから男たちが追っている。
市場の若い男。
魚箱を運ぶ作業員。
顔を見たことのある近所の大人。
誰かが石を投げた。
石は老白の横に落ちた。
老白はびくりとしたが、魚を放さなかった。
「老白」
海生は叫んだ。
老白が海生の声に気づいた。
顔を上げる。
魚を咥えたまま、海生の方へ来ようとした。
その瞬間、別の石が飛んだ。
老白の後ろ足の近くに当たった。
老白はよろけた。
それでも、魚を放さなかった。
「やめて」
海生は走った。
「やめてください」
誰かが言った。
「その犬、魚を盗んだんだ」
「違う」
「市場から咥えて逃げた」
「違う。老白は」
「何が違うんだ。魚を咥えてるだろ」
海生は老白の前に飛び込んだ。
老白と男たちの間に立つ。
あのとき、老白が海生の前に立った。
今度は、海生が老白の前に立った。
石が一つ、海生の足元に転がった。
「投げないで」
海生の声は震えていた。
「この犬は盗まない」
男が笑った。
「犬が盗まない? じゃあ、その魚は空から降ったのか」
「海から」
「海から魚を拾ったって?」
笑いが起きた。
別の男が言った。
「市場の横で見たんだよ。魚を咥えてた。盗んだに決まってる」
老白は、海生の後ろで魚を咥えたまま立っていた。
呼吸が荒い。
喉の奥で、苦しそうな音がする。
それでも、魚を放さない。
海生は振り返った。
「老白、放していい」
老白は放さなかった。
「もういい。分かったから」
老白は、海生を見た。
魚を咥えたまま。
それは、ただの魚ではなかった。
海生のために持ってきたものだった。
昨日、粥を分け合った。
海生が食べていないことを、老白は見た。
朝、海生が空腹で起きたことを、老白は知った。
だから、どこかへ行った。
浜か。
市場の端か。
加工場の排水の近くか。
魚が落ちていたのかもしれない。
浅瀬に弱った魚がいたのかもしれない。
本当のところは分からない。
でも、老白が魚を咥えて戻ってきた理由だけは分かった。
海生に食べさせるためだった。
「返せ」
男が言った。
「うちの魚かもしれない」
「分かりません」
「なら返せ」
海生は、老白の口元に手を伸ばした。
「老白」
老白はゆっくり魚を下ろした。
だが、地面には落とさなかった。
海生の手の上に置いた。
ぬめった魚の重さが、海生の両手に乗った。
冷たい。
生きてはいない。
でも、まだ新しかった。
海生は魚を男たちの方へ差し出した。
「持っていってください」
老白が、海生の手元を見た。
魚が離れるのを見た。
白い老犬の目が、一瞬だけ揺れた。
海生の胸が痛んだ。
老白が命がけで持ってきたものを、返さなければならない。
食べることもできない。
守ることもできない。
男の一人が魚を乱暴に取った。
「最初からそうしろ」
「泥棒犬を放し飼いにするな」
「次は保健所に言うぞ」
保健所。
その言葉に、海生の体が冷えた。
老白は海生の後ろで、低く息をしていた。
唸らなかった。
吠えなかった。
ただ、立っていた。
男たちは去っていった。
魚を持って。
笑い声を残して。
海生は振り返った。
老白は、まだ立っていた。
白い毛に、泥と水がついている。
後ろ足のあたりに、赤いものが見えた。
「老白」
海生はしゃがんだ。
老白は一歩、海生の方へ進んだ。
その足が、途中で崩れた。
老白は倒れた。
砂と泥の混じった道に、白い体が横たわる。
「老白」
海生は老白の体を抱えた。
軽い。
思ったよりずっと軽い。
魚を咥えて歩いてきた体は、こんなに軽かったのか。
老白は目を開けていた。
海生を見る。
その目は、謝っているように見えた。
魚を持って帰れなかったことを。
食べさせられなかったことを。
怒られたことを。
石を投げられたことを。
全部、自分のせいだと思っているように見えた。
「違う」
海生は言った。
「老白は悪くない」
老白は小さく息を吐いた。
「悪くない。悪くないよ」
海生は何度も言った。
老白の毛は冷たかった。
だが、胸の奥だけはまだ温かい。
海生は老白を抱き上げようとした。
軽いのに、うまく持ち上がらない。
足が震える。
腹に力が入らない。
昨日から、ほとんど食べていない。
それでも抱いた。
老白の頭を胸に当て、白い体を腕の中へ入れた。
老白は抵抗しなかった。
右後ろ足から、少し血がにじんでいる。
石が当たったのかもしれない。
走ろうとして痛めたのかもしれない。
海生には分からなかった。
ただ、老白が痛いことだけは分かった。
家へ戻る道は、長かった。
人が見た。
誰も手を貸さなかった。
魚を盗んだ犬。
魚を悪く言った子。
そういう目だった。
海生は、老白を抱えて歩いた。
老白の息が、胸のところで小さく当たる。
生きている。
それだけを確かめながら歩いた。
家に着くと、海生は老白を布の上に寝かせた。
水を出す。
老白は飲まなかった。
口元を濡らす。
老白は目だけを動かした。
「待ってて。傷を洗う」
海生は水を温め、布を濡らした。
後ろ足の泥を落とす。
血がにじむ。
深いかどうか分からない。
犬の医者に行く金はない。
人間の病院へも、祖父の時に間に合わなかった。
海生は歯を食いしばった。
「痛いよね」
老白は鳴かなかった。
鳴かないことが、余計につらかった。
海生は布を巻いた。
祖父の手袋を直した時の布と同じ缶に入っていた布だった。
破れた手袋。
切れた祖父の手。
今度は、老白の足。
全部、同じ缶から出た布で巻かれていく。
海生は老白の横に座った。
夕方になっていた。
部屋は暗い。
火をつける気になれなかった。
粥を作る米も少ない。
魚はない。
老白が持ってきた魚は、奪われた。
いや、返した。
返さなければならなかった。
それでも、老白にとっては奪われたのと同じだったかもしれない。
「ごめん」
海生は言った。
「老白が持ってきてくれたのに」
老白は、海生の方を見た。
目は疲れていた。
でも、責めていなかった。
責めることを知らない目だった。
海生はノートを開いた。
書ける気がしなかった。
それでも、書いた。
今日の記録。
冬。
朝、老白がいない。
市場近くで発見。
魚を咥えていた。
町の人、盗んだと言う。
石を投げる。
老白、魚を放さない。
海生、返す。
老白、倒れる。
右後ろ足、出血。
魚は食べられず。
老白は、僕に食べさせようとした可能性。
可能性。
その言葉を書いて、海生は鉛筆を止めた。
可能性ではない。
老白がなぜ魚を咥えてきたのか、証明はできない。
でも、海生には分かっていた。
これは証明ではない。
記録でもない。
ただ、分かることだった。
海生はその行を消さず、下に書いた。
老白は、僕に食べさせようとした。
さらに書いた。
盗んだ犬ではない。
忠犬。
海生は、その二文字を書いてから、息を止めた。
忠犬。
まだ早いと思っていた。
老白に背負わせすぎると思っていた。
でも、今日の老白は、魚を咥えて戻ってきた。
石を投げられても放さなかった。
倒れるまで持ってきた。
もう、書かない方が嘘だった。
海生は鉛筆を置いた。
老白のそばへ行き、白い背中を撫でた。
細い背中。
冷えた毛。
それでも、まだ胸は上下している。
「老白」
海生は小さく呼んだ。
老白は、目を少し開けた。
「ありがとう」
老白のしっぽが、ほんの少しだけ動いた。
本当に動いたのか、海生がそう見たかっただけなのかは分からない。
でも、海生には動いたように見えた。
その夜、海生は老白の横で眠った。
布団ではなく、床に敷いた古い布の上で。
老白の息を聞きながら。
息が止まらないように。
どこかへ行かないように。
今度は、海生が待った。
老白が朝まで戻ってくることを。
白い老犬の体温が、冬の床の上で少しずつ小さくなっていくのを、海生は両腕で囲んでいた。
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