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黒い海の老白(パトラッシュ)  作者: 東四辻 うみネコ


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16/22

第16話 止まった仕事

冬は、町の音を少しだけ小さくする。

 夏の腐ったにおいも、秋の魚箱を運ぶ怒鳴り声も、少し遠くへ引いていく。

 港の朝は薄い灰色になる。

 白い息が出るほど寒い日ばかりではない。

 けれど、指先だけは先に冷える。

 路地の壁は湿っている。

 海風は、人の服の縫い目を探すように入り込んでくる。

 李海生リー・ハイシェンは、朝の浜に立っていた。

 満潮線に沿うゴミの帯は、冬になっても消えない。

 夏ほど腐らない。

 秋ほど魚くさくない。

 けれど、ある。

 大きなタイヤ。

 白いポリ容器。

 割れた発泡スチロール。

 つぶれた空き缶。

 裂けた金属の容器。

 黒い粒。

 拾っても、拾っても、海はまた置いていく。

 老白ラオバイは、海生の横にいた。

 冬の老白は、夏より元気そうに見える時がある。

 暑さで舌を出し続けることは減った。

 でも、体は軽いままだった。

 背中を撫でると骨が分かる。

 右後ろ足も、寒い朝には少しこわばる。

 それでも老白は、海生の横を離れない。

 前に立つほどではない。

 後ろに下がるわけでもない。

 横にいる。

 それが、今の老白の答えだった。

「今日は、空き缶だけにしよう」

 海生は言った。

 老白は耳を動かした。

「金属の容器は重い。老白の背中には載せない」

 老白は、少し不満そうに海生を見た。

「だめ。昨日も右足、少し引きずってた」

 老白は鼻先を海生の手に押しつけた。

 持てる。

 そう言っているようだった。

 海生は笑えなかった。

 老白が持てると言うものは、だいたい持たせてはいけないものだった。

 浜の端を見ると、見慣れた灰色の作業着が少なかった。

 環境公益就労班の老人たちが、いつもより少ない。

 王じいさんの姿もない。

 林ばあさんもいない。

 祖父の李守田リー・ショウティエンは、今日は家にいる。

 休んでいるのではない。

 仕事が出なかった。

 養殖場でのあの出来事のあと、町は少し冷たくなった。

 それは、突然の嵐ではなかった。

 小さな扉が、一つずつ閉まっていくような冷たさだった。

 まず、魚加工場から呼ばれなくなった。

 王主任ワンしゅにんは、海生に直接「来るな」とは言わなかった。

 ただ、次の週の予定表から、海生の名前を外した。

 海生が聞くと、王主任は言った。

「秋の山を越えたから、人手は足りている」

 冬になる前だった。

 魚はまだあった。

 人手が本当に足りているのか、海生には分からない。

 ただ、海生の封筒へ入る金は止まった。

 次に、祖父の仕事が減った。

 周主任ジョウしゅにんから、しばらく人員を整理すると言われた。

「予算の都合です」

 周主任は、役所の廊下でそう言った。

「高齢の方には、寒い時期の作業は負担も大きいですからね。李さんには、しばらく休んでもらいましょう」

 寒い時期の負担。

 やさしい言葉だった。

 だが、その日から日当は出なくなった。

 寒さから守られたのは、祖父の体ではない。

 役所の紙だった。

 学校では、嘲りが少し変わった。

 劉偉リウ・ウェイたちは相変わらずだった。

 ゴミ博士。

 テレビ博士。

 魚箱博士。

 だが、黄佳怡ホアン・ジアイー周凱ジョウ・カイは、もうただのやっかみではなくなった。

「町の魚を悪く言ったんだって」

「養殖場の陳さんに文句を言ったらしいよ」

「証拠もないのに」

「すごいね。正義の科学者様」

 言葉は、前より少し賢そうな顔をしていた。

 それが余計に痛かった。

 陳明月チェン・ミンユエは、もう弁当を落とさなかった。

 校舎裏の水道で会っても、少し目を伏せる。

 海生は、声をかけなかった。

 明月も、声をかけなかった。

 卵焼きの甘さは、もう遠いものになっていた。

 浜で空き缶を二袋集めると、海生は古い布紐で袋を結んだ。

 一袋は自分で持つ。

 もう一袋を、老白が背負うと譲らない。

「少しだけだよ」

 海生は言った。

 老白の背に、軽い空き缶の袋を一つだけかけた。

 袋の中で缶が鳴った。

 からん。

 老白は胸を少し張った。

 その音を、海生は嫌いではなかった。

 笑い声より、ずっとましだった。

 家へ戻ると、祖父は布団の上に座っていた。

 いつもなら流し台の前にいる時間だった。

 鍋に粥はある。

 だが、火は消えていた。

「爺爺」

「戻ったか」

 祖父の声は少し低かった。

 鼻が詰まっている。

「寝てて」

「寝ていると、腹が減る」

「座ってても減る」

「では同じだ」

 祖父は笑おうとした。

 笑いが、咳に変わった。

 乾いた咳ではなかった。

 胸の奥で引っかかるような咳だった。

 海生はすぐに近づいた。

「熱ある?」

「少しだ」

「少しって何度」

「年寄りの少しだ」

「それは信用できない」

 海生は温度計を取った。

 祖父は嫌そうな顔をしたが、抵抗しなかった。

 老白は布団の横に座り、祖父の顔を見ていた。

 温度計は三十八度を少し超えていた。

「病院へ行こう」

 海生は言った。

「大げさだ」

「大げさじゃない」

「冬の風邪だ」

「インフルエンザかもしれない」

「名前をつけると病気は強くなる」

「名前をつけないと、もっと危ないこともある」

 祖父は海生を見た。

 少しだけ笑った。

「言うようになったな」

「笑ってる場合じゃない」

 病院へ行く金は、あまりなかった。

 魚加工場の金は止まっている。

 祖父の仕事も止まっている。

 小雨シャオユーへの封筒は、先月から軽くなっていた。

 今月は、まだ送れていない。

 それでも、病院へ行くべきだった。

 海生は小さな財布を出した。

 祖父は首を横に振った。

「明日でいい」

「だめ」

「今日は体を休める。明日、熱が下がらなければ行く」

「下がらなかったら?」

「行く」

「本当に?」

「今日のわしは、少しだけ信用できる」

「昨日の爺爺は?」

「信用ならん」

 海生は笑えなかった。

 祖父も、それ以上冗談を続けなかった。

 昼になっても、熱は下がらなかった。

 祖父は粥を少しだけ食べた。

 老白は自分の皿を見たあと、祖父の皿を見た。

 食べ残しを欲しがっているのではない。

 祖父が食べているか、確かめているようだった。

「老白、食べて」

 海生が言うと、老白は自分の皿へ戻った。

 だが、いつもよりゆっくり食べた。

 夕方、祖父の咳は増えた。

 海生は濡らした布を、祖父の額に置いた。

 水を替える。

 布を絞る。

 また置く。

 老白は布団の足元にいた。

 祖父が咳をするたび、老白は顔を上げる。

 海生が水を取りに立つと、老白も立とうとする。

「大丈夫。いて」

 海生が言うと、老白は座り直す。

 でも、目は閉じない。

 夜になった。

 祖父の熱は三十九度に近づいていた。

 海生は何度も財布を見た。

 病院へ行くべきだ。

 だが、祖父はもう動ける状態ではなかった。

 救急を呼ぶには、どうすればいいのか。

 電話は近所の店にある。

 走れば行ける。

 でも、祖父を一人にできない。

 海生は老白を見た。

 老白は布団の横で、祖父の手を舐めていた。

 祖父は目を開けた。

「老白」

 声はかすれていた。

 老白は舐めるのをやめ、祖父の顔を見た。

「いい犬になったな」

 老白はしっぽを少し動かした。

「海生を頼むぞ」

「爺爺」

 海生は強く言った。

「そういうこと言わないで」

 祖父は海生を見た。

「言っておくことは、言える時に言うものだ」

「明日も言える」

「そうだな」

 祖父は目を閉じた。

「明日も、言う」

 その言葉は、約束のようで、約束ではなかった。

 夜の半ば、祖父の息が荒くなった。

 海生は近所の店へ走った。

 老白を、祖父のそばに残した。

「見てて」

 老白は布団の横に立った。

 海生は走った。

 冬の夜の路地は冷たかった。

 古い靴の底から、冷えが上がってくる。

 裸足に近いような冷たさだった。

 海生は店の戸を叩いた。

 何度も叩いた。

 店主が眠そうな顔で出てきた。

「何だ」

「救急に電話してください。祖父が、熱が高くて、息が」

 店主は顔をしかめた。

「こんな夜に」

「お願いします」

「金は」

「あとで」

 店主はため息をついた。

 そのため息の長さが、海生には耐えられなかった。

「お願いします」

 海生はもう一度言った。

 電話はつながった。

 住所を言う。

 症状を言う。

 年齢を言う。

 六十二歳。

 熱。

 咳。

 息が苦しい。

 救急車が来るまで待てと言われた。

 海生は走って戻った。

 家の扉を開けると、老白がこちらを見た。

 老白は布団の横にいた。

 祖父の手に鼻を押しつけている。

 海生はすぐ祖父のそばへ行った。

「爺爺」

 祖父の目は少し開いていた。

 だが、焦点が合っていない。

「救急車、来るよ」

 祖父は何か言おうとした。

 声にならなかった。

 海生は耳を近づけた。

 祖父の息が、頬に当たった。

 熱い。

 短い。

「海生」

 それだけ聞こえた。

「いるよ」

 海生は祖父の手を握った。

 熱かった。

 その手は、ずっと浜のゴミを拾ってきた手だった。

 名簿にない田から追い出され、工場の街へ流れ、環境公益就労という名前で町の捨てたものを拾い続けた手だった。

 破れた手袋をはめ、裂けた缶のふちで切れ、それでも粥を作り、パンを半分に割り、海生の壁の背丈に線を引いた手だった。

 海生は、その手を握った。

 老白が、反対側から祖父の腕に鼻を押しつけた。

 祖父の息が、一度大きく入った。

 それから、長く吐かれた。

 海生は次の息を待った。

 待った。

 待った。

 来なかった。

「爺爺」

 海生は呼んだ。

 祖父は答えなかった。

「爺爺」

 老白が低く鳴いた。

 唸りではない。

 吠え声でもない。

 喉の奥で、何かが折れたような細い声だった。

 海生は祖父の手を握ったまま、動けなかった。

 救急車の音が遠くから聞こえてきた。

 音は近づいてくる。

 近づいてくるのに、間に合わない音だった。

 救急隊が来た時、祖父はもうほとんど動いていなかった。

 海生は何を聞かれたのか、よく覚えていない。

 熱はいつからか。

 咳はいつからか。

 持病はあるか。

 薬はあるか。

 家族はいるか。

 保護者はいるか。

 海生は答えた。

 答えたはずだった。

 でも、自分の声が遠かった。

 老白は部屋の隅に下がらなかった。

 救急隊の足元を邪魔しない場所に移動し、それでも祖父から目を離さなかった。

 白い老犬は、布団の端に座り、祖父を見ていた。

 救急隊の一人が言った。

「犬、外へ」

 海生は老白を見た。

 老白は動かなかった。

「老白」

 海生が呼ぶと、老白はゆっくり立ち上がった。

 だが、外へは出なかった。

 海生の横に来た。

 海生の膝に体を寄せた。

 救急隊は、それ以上何も言わなかった。

 その夜、祖父は戻らなかった。

 病院で、海生は椅子に座っていた。

 老白は病院の中へ入れなかった。

 入口の外で待たされた。

 冬の夜だった。

 海生は何度も外へ行き、老白を見た。

 老白は、病院の入口の横に座っていた。

 図書館の外で待った時と同じように。

 食品監督部門の外で待った時と同じように。

 保健環境の窓口の外で待った時と同じように。

 ただ、今夜の待つは、帰りを待つものではなかった。

 戻らない人を待つものだった。

 夜明け前、海生は祖父が死んだことを正式に聞かされた。

 インフルエンザから肺炎を起こした可能性がある、と大人たちは言った。

 可能性。

 また、その言葉だった。

 死んだことだけは、可能性ではなかった。

 海生は病院の外へ出た。

 老白が立ち上がった。

 長く待っていたせいで、右後ろ足が少し震えていた。

 海生はしゃがんだ。

 老白の首に腕を回す。

 老白は、海生の胸に体を預けた。

 海生は泣かなかった。

 泣けなかった。

 泣いたら、何かが全部こぼれて、戻らなくなる気がした。

「爺爺、帰ってこない」

 海生は言った。

 老白は海生の顎の下に鼻先を押しつけた。

 帰ろう。

 そう言っているのかもしれない。

 でも、帰る場所は、もう少し違っていた。

 家へ戻ると、部屋は冷えていた。

 粥の鍋が残っている。

 祖父の縫いかけの手袋がある。

 壁には、海生の背丈の線がある。

 机の上にはノートがある。

 老白の皿もある。

 全部ある。

 祖父だけがいない。

 海生は机に座った。

 ノートを開いた。

 何を書けばいいか分からなかった。

 でも、書かないと、祖父が本当に消えてしまう気がした。

 今日の記録。

 冬。

 祖父、発熱。咳。

 三十八度以上。

 夜、悪化。

 救急車。

 病院。

 インフルエンザから肺炎の可能性。

 祖父、死亡。

 海生は鉛筆を止めた。

 死亡。

 その二文字が、あまりにも小さかった。

 祖父の全部が、二文字に入るわけがなかった。

 名簿にない田。

 半分のパン。

 破れた手袋。

 浜のゴミ。

 薄い粥。

 昔の失敗。

 壁の背丈の線。

 老白の名前。

 全部が、死亡という二文字には入らない。

 海生は、次の行に書いた。

 爺爺は、老白を捨てなかった。

 もう一行。

 爺爺は、僕に見たものを曲げるなと言った。

 さらに一行。

 爺爺は、明日も言うと言った。

 そこまで書いて、鉛筆が止まった。

 明日は来た。

 でも、祖父は言わなかった。

 老白が、机の下へ来た。

 いつものように、海生の足に体をつける。

 だが今日は、それだけではなかった。

 老白は立ち上がり、祖父の縫いかけの手袋をそっとくわえた。

 破らないように。

 汚さないように。

 そして、海生の膝の上へ置いた。

 海生は手袋を見た。

 親指のところに、何度も縫った跡がある。

 人差し指の先は薄い。

 手のひらには黒い筋が残っている。

 海生は、手袋を抱きしめた。

 その時、初めて涙が出た。

 声は出なかった。

 涙だけが出た。

 老白は、海生の膝に頭を乗せた。

 泣いている海生の手を、静かに舐めた。

 魚くさい手も。

 インクのついた手も。

 今は何も持てない手も。

 老白は嫌がらなかった。

 冬の朝が、窓の外で白くなり始めていた。

 町はまだ眠っている。

 港も、学校も、加工場も、役所も、まだ動き出していない。

 だが、海生の家では、一つの時代が終わっていた。

 祖父の仕事は止まった。

 加工場の仕事も止まった。

 小雨への封筒も止まった。

 そして、祖父の息も止まった。

 老白だけが、止まらなかった。

 白い老犬は、海生のそばにいた。

 待つ犬ではなく。

 守る犬でもなく。

 今は、失ったものの横で一緒に息をしてくれる犬だった。

 海生はノートの最後に書いた。

 老白、手袋を持ってくる。

 僕が泣くまで、そばにいる。

 爺爺がいなくなった朝、老白は帰らなかった。

 鉛筆を置くと、老白が小さく息を吐いた。

 海生は老白の背中を撫でた。

 細い背中だった。

 でも、まだ温かかった。

 その温かさだけが、冬の部屋に残っていた。

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