第51話 それぞれの、想い。物理と、気候。
魔界の空にも、夕暮れの刻が訪れる。
「魔界」と「地上世界」、二つの世界はそう呼ばれているが、魔界という空間が実際に、地面を掘った下に存在するわけではない。そのため、魔界にも空があり、昼と夜――昼は地上の昼より薄暗く、夜は一層闇が濃い――がある。
「ミミア。ビネイア様は地上世界か?」
ギルダウスの低く響く声に、振り返る。高く二つに結い上げた、とび色の巻き毛が揺らしながら。
呼びかけられた若い女性――ミミアという名だった――は、ギルダウスに正対すると、一礼してから答えた。
「はい。ギルダウス様。ビネイア様は、つい先ほど地上へ向かわれました」
ここは、魔界の中の辺境の森にある、古びた屋敷。
ミミアは、小国の王女ビネイアの侍女だった。立派な魔族ではあるが、ミミアの笑顔はとても愛らしく、彼女と地上の人間との外見上の違いといえば、瞳孔が縦に細長いということだけだった。魔族特有の冷たく恐ろしい雰囲気は、ミミアからは感じられない。
ミミアの報告を受け、ギルダウスはかすかなため息をつく。
「そうか……」
「ビネイア様に、お言付けいたしましょうか?」
「いや……。大丈夫だ」
ギルダウスは踵を返し、廊下を歩き去る。ミミアは、ギルダウスの背中を見つめた。ミミアの神秘的な瞳に映る、鍛え上げられたたくましい背中。ミミアはその背に、どこか、哀しみと、諦めの色を見ていた。
ギルダウス様――。
総司令官、ギルダウス。ミミアは、王宮で仕えるようになってからずっと、王女ビネイアと総司令官であるギルダウス、高位の二人を、恐れながらも間近に見つめていた。ミミアは思う。
国が滅ぼされてしまった今、もう身分など関係ない。ビネイア様は、ギルダウス様と結ばれればいいのに――。
ミミアは、ギルダウスの気持ちを知っていた。ギルダウスの瞳は、いつもさりげなくビネイアの姿を追っていた。それは、王女を警護する配下の者といったふうを装ってはいたが。
なぜ、ギルダウスの隠された想いが、王女付きの侍女ミミアに知りえたのか。それは、ごく単純な理由だった。
ミミアは、ギルダウスに想いを寄せていたのである。ミミアにとって、身分違いの実らぬ恋。だからこそ、ギルダウスの気持ちは、ミミアに痛いほど伝わっていた。
敬愛するビネイア様。恋しいギルダウス様――。でも、でもお二人がお幸せなら、お二人が笑顔なら、私のことなどどうでもいいのです――。
あの日――、とミミアは振り返る。
隣国に攻め入られ城がとうとう陥落したあの悪夢のような最後の日、国王は叫んでいた。
「ギルダウス! ビネイアを、頼む……! どうか……、娘を、頼んだぞ……!」
王は、最後の魔力を振り絞り、一人娘のビネイアと、総司令官だったギルダウス、そしてビネイアの侍女ミミア、それから城に生き残っていた数人だけ、辺境の森へ逃がしてくれた。
国王様も、きっとギルダウス様のお気持ちを知っていらしたのだわ――。きっと、国王様は、ビネイア様とギルダウス様が、新しい地で新しいお二人の生きかたをされるのを望んでいらしたのだわ――。だから、ビネイア様に対して「娘」という言いかたをされたのだわ――!
ミミアは、そう信じていた。ビネイアとギルダウスは、国の再興を目標として生きているが、ミミアは、それよりもただ二人が幸せになれば、それでいいと思っていた。
でも……。でも、ビネイア様のお心は――。
ミミアの思考は、もうひとつの過去へと飛ぶ。
あの日……。森の様子を見たいとおっしゃったビネイア様を、お止めすればよかった――。
それは、ビネイアたちが辺境の森の屋敷の暮らしにも、手探りでなんとか慣れてきた、ある日のことだった。
「私も、少し森の様子を見てこようと思う」
唐突に、ビネイアはミミアに告げた。
「だめです! ビネイア様! 危険が潜んでいるかもしれないと、ギルダウス様もおっしゃっていたではないですか!」
ギルダウスと数名の者たちは、食料調達に森へ出ていた。
「屋敷の中にこもってばかりでもしかたない。自分の目や足で環境も把握しておきたいし、な」
確かに、自身で現在の状況を把握するのは大切なことであるし、ビネイア様の気分が少しでも晴れるのなら、そうミミアは考えた。
「それなら、私もお供します! それから、スコルドも!」
スコルドとは、生き延びた者の一人である。城の若い兵士だった。女だけではさすがに不安なので、付いてきてもらうことにした。
「遠くまでは行かないから大丈夫だ」
ビネイアはそう言って笑ったが、ミミアは自分とスコルドが随行することを強く願い出て、結局三人で森へ向かうことになった。
魔族の活動時間は夜だが、三人は、木漏れ日の差す森の中を歩く。襲撃への用心のためだった。
「あっ……! 誰かいますよ……!」
スコルドが、小声で叫んだ。
木々の向こう、目の前に、美しい青年が一人立っていた。
「あれは……!」
ビネイアが、その場に立ち尽くす。青年の姿に息をのんだ、そんな様子だった。
光を浴びて輝く金の長い髪。長身のすらりとした後ろ姿。まだ、こちらには気付いていないようだった。
「ここは……、いったい、どこだろう……?」
青年が、独り呟いた。辺りを見回す、青年。
「なんと美しい……、横顔……」
ビネイアは、まるで引き寄せられるように青年のほうへ一歩踏み出す。
「ビネイア様! 危険です!」
ミミアが思わず叫んだ。
「誰かいるのか!?」
青年が、ビネイアたちのほうを見た。アイスブルーの冷たい輝きを持つ瞳――、それが、クラウスだった。
「なんと……! あなたは、魔族ではない、人間……、ですね?」
ビネイアは、クラウスが地上の人間であることに気付いたようだった。人間が魔族を見て、その恐ろしい雰囲気から人間ではない魔族であると悟るように、魔族も雰囲気から異種族であると気付く。
「……あなたは、魔族……。ということは、ここはやはり、魔界か!」
クラウスは、ずっと魔術の研究をしていたのだという。偶然、魔界へ行く方法を見つけてしまったのだ。
「お美しいかた……。私の名はビネイア。あなた様のお名前は……?」
「僕の名は――、クラウス」
木漏れ日が、二人を包んでいた。ミミアとスコルドの二人は、傍観者に過ぎなかった。まるでそこには見えない境界線があり、美しい光降り注ぐ世界を、ただ外側から見ているしかできない、そんな気持ちになっていた。
ビネイアの瞳はクラウスを見つめ、クラウスの瞳はビネイアを見つめていた――。
どうしてあの日、森へ行ってしまったのだろう。あの日あのときでなければ、きっと二人は出会わなかった――。
ミミアは悔やむ。
人間などとは、きっと幸せになれない――。
そう思っても、ミミアにはどうすることもできなかった。自分の立場では、なにも言えない、なにもできることはない、そう思っていた。
身分などもう関係ない――、ギルダウスとビネイアに関してはそう思えたが、自分に関しては絶対にそんなことは思えなかった。
私は、ただの侍女。ビネイア様とギルダウス様のお幸せを、陰で祈ることしかできないのだわ……。
ミミアはいつも、小さな胸を痛めながら、地上へ向かうビネイアの髪や衣服を美しく整え、そっと見送っていた。
それはこれまでも、きっとこれからも。
「ああー! 美味しかったー!」
妖精のユリエが、大声で食事の感想を述べる。石造りの食堂から、皆笑顔で外へ出た。
「あっ! きれいなお月様!」
月が出ていた。星々も美しく輝いている。
「ほんとだ……。きれいだな」
キースは星空を感慨深く眺める。思わず、手を伸ばしてみる。
「掴めるわけ……、ないか」
本物の星は、遠いな、とキースは思う。当たり前だが、そんなことを思っていた。
「ほんと、掴めそうなくらい、近く見えるよね」
すぐ隣で、アーデルハイトが微笑んでいた。
「うん……」
肩が触れそうな距離に、アーデルハイトがいる。
「……ちょっと寒くなってきたね」
夜風が冷たくなってきていた。
「うん」
白い息がかすかに上がり、ゆっくりとほどけていった。
前を歩く、カイもミハイルも宗徳も、キースの隣をふわふわ飛んでいる妖精のユリエも、黙っていた。
石畳を、歩く一同の足音だけが響いていた。
ユリエは、キースの腕とアーデルハイト腕の、ちょうど間に飛んできた。そして、しばし二人の顔を交互に見上げてから、
「アーデルハイト、手、冷たいの?」
ユリエが、アーデルハイトに尋ねる。
「うん……?」
きょとん、とするアーデルハイト。ユリエは、アーデルハイトの答えを待たず、アーデルハイトの左手を、よいしょ、と持ち上げた。
「ユリエちゃん? なに?」
と、アーデルハイトがその行動の意味を尋ねたが、ユリエの返事はない。
「キースも寒いんじゃない?」
ユリエは、今度はキースの右手を、どっこいしょ、と引っ張り上げた。剛腕妖精だ。
「ユ、ユリエ?」
どういう意味か、わからず戸惑う。
「アーデルハイト、キース。寒そうだから、こうしたらいいんじゃない?」
ぎゅっ!
ユリエはアーデルハイトの左手とキースの右手を、繋いであげた。
「えっ!」
キースとアーデルハイト、同時に声が出た。
「もう、寒くないよね!」
顔を真っ赤にし、立ち止まるキースとアーデルハイトを残し、ユリエはさっさと飛んで行き、前方を歩くカイの肩に、ちょこんと座った。
えええええ!?
ユリエを含む他の面々は、振り向きもせず宿屋へとまっすぐ歩いていく。
えーと……。
皆との距離が、離れていく。
「な、なんだろうなあ、ユリエ。イタズラしてー!」
いたたまれず、キースが呟く。平静を装ったが、揺れる心が、声に表れてしまっていた。
「な、なんだろうね……」
アーデルハイトも、なんだか少し裏返ったような、変な声色になっていた。
肩を、並べて歩く。続く言葉が、出ない。
でもお互いに、手を離そうとはしなかった。
ぎゅっ!
キースは、アーデルハイトを握った手に、少し力を込めた。
「ほんと、あったかいな!」
キースは、照れくさそうに笑ってみせた。我ながらぎこちない、そう感じながら。
「うん……! そうだね、あったかいね……!」
アーデルハイトは、少し恥ずかしそうにキースを見上げ、微笑んだ。
物理。
物理、とキースは思う。手を繋いだら、それは当然あたたかくなる。
しかし、それは表面上の思考。キースの胸の内は、物理どころではない、てんやわんやの大騒ぎだった。
どうなっとるんじゃ……!
自分の鼓動が、大きく響くよう。努めて、平静を装う。
平常心、平常心……。
ポーカーフェイスが余裕ある、大人のいい男というものなんです、なんてことを破裂しそうな心臓で思う。
ふふふ。イケメンナイスガイな俺は、ポーカーフェイ……。
そのとき、アーデルハイトの唇から、ぽつり、言葉がこぼれ出た。
「ずっと……。一人になってからずっと、私の手は、空っぽだった――」
「うん……?」
ポーカーフェイスが。
やめてくれ、と思った。せっかくの、ポーカーフェイスが、と思った。
「空っぽだったけど、今はもう――」
待ってくれ、と思った。これ以上は、心臓によくない、と――。
ポーカーフェイス、風前の灯……。
「空っぽなんかじゃ、ないんだね……! キースの手が、繋いでくれている……!」
ポーカーッ!!!!
爆発した。キースのありあわせのポーカーフェイス、ド派手に散る。
アアアアアーデルハイト……!
視界には、恥じらいながら、にっこりと笑う、アーデルハイト。アーデルハイトも、キースの手を握り返していた。
なんということでしょう!
キースは、目を見開いてしまっていたかもしれない。なんなら、白目だったかもしれない。
上目づかいで見つめる、アーデルハイトの少し潤んだ瞳。
キースは、前を見た。大急ぎで。
「……だんだん、冬になるんだな」
そして、当たり障りのないことを言う。
「うん」
肩から流れる、美しい金の髪。アーデルハイトは、静かにうなずく。
手を繋いであたたかい、物理。冬が近くなれば寒くなる、気候。
でも、と思う。でも――。
「でも、きっと寒くはないよ」
「うん」
手を繋いだまま、歩く。
「……隣にこうして、アーデルハイトがいてくれるからな!」
「……うん! いるよ! ずっと一緒に……!」
宿屋まではあと少しの距離。でも二人にはとても長く感じられた。
明るい月と、星が二人の行き先を照らす。




