第40話 新しい感覚
雨にけぶる、窓の向こう。
翌日も、やはり小雨が降り続いていた。出発は、見送ることにした。
「出発は明日以降ってことなら、今日はゆっくり休んだり必要な物の買い出しに行ったり、各自自由に過ごそうぜ」
宿屋の食堂での朝食時、キースは皆に提案していた。
「俺、今日は外で過ごすわ。夕ごはんの時間には戻るから」
キースは、一日外で過ごすつもりでいた。キースが外出するということは、剣であるカイも自然と帯同することになる。
アーデルハイトと妖精のユリエは宿屋でゆっくり過ごすことにして、ミハイルと宗徳はそれぞれ気の向くまま自由に過ごすようだった。
「んじゃ、行ってきます」
キースとカイは、宿屋を出る。ぽつぽつと当たる雨を気にせず、キースは歩く。その隣を自然な距離でカイが歩く。
カイは、キースの外出の理由や行く先について、なにも尋ねなかった。カイが訊かなかったので、キースも答えなかった。大きな水たまりを避ける。キースもカイも、黙ったままだ。
キースは歩きながら、考えにふけっていた。
新しい感覚。幻影をも斬る感覚――。
あの幻影を斬ったとき、手応えが感じられなかったことを思い返していたのだ。
どうすれば、ミハイルの言っていた「感覚」がわかるようになるんだ……?
『自分が自然の中でひとつの命として純粋にただ在る、そんな感覚をつかむこと――』
退魔士であるミハイルの言葉を思い出していた。
修行、か。いったいどこで、どうすれば修行になるんだろう。
灰色の風景。道端の花も緑もくすんで見える。少し肌寒い。しかし、深い思索にはぴったりの天気のような気がしていた。
「キース。なにを考えてるんです?」
あまりにキースが黙っていたので、ついにカイのほうから話し掛けた。
「……カイは、俺の考えは全部お見通しなのかと思った」
黙っていても、なにを考えているかわかっている、カイにはそんな不思議な力があるのかもしれないと思っていた。
「そんなわけないでしょう。キースの低レベルなだじゃれの内容や、キースが妄想する『ほんのりエロい』ことについてなんて、俺にわかるわけないでしょう」
「……俺がそんなことばっかり考えてると思ってる?」
「えっ? 違いました?」
「違うわ!」
頬を赤くし、ツッコむキース。カイが、くすりと笑う。
「嘘です。それは冗談です。キース、もしかして今は、剣士としての新しい感覚をつかむためにどうすればいいか考えていて、それで外出することにしたのでは?」
「えっ!? カイも嘘や冗談を言うんだあ! それに、当たってる!」
「えっ!? そこは考えを当てたとこ重視の驚きじゃないんですか?」
カイの嘘や冗談のほうが上位驚きポイントだった。考えを当てたことは、キースにとっておまけ程度の驚きだった。
「……カイ。なんでわかってて聞く?」
「どこに向かう気なのかなあと思って」
「それが、まだわかんないんだよねえ。とりあえず、ミハイルが教えてくれたように、自然の中かなあと思って」
「そうですね。こうして、雨に打たれながら歩くだけでもなにか違うかもしれません」
「雨に打たれるだけで?」
「雨の感覚に、集中してみたらどうでしょう?」
雨の、感覚?
冷たい雨。体に当たる、小さな雨のしずく。
見上げると、どんよりと重い雲。雨はそこから落ちてくる。静かな雨の軌跡。
それから、感じる雨の匂い。
「ふう……、ん」
もしかしたら、世の中すべてのことに、改めて意識を向けてみると――、今この瞬間でしか感じられない発見があるのかもしれないな。
意識を向けると、新鮮な気持ちになった。今という時間にこそ、意味があるような気がした。ただの雨という現象に、時間の「今」を重ねると、特別なものが見えてくるような気がしてきた。
世の中に、変わらないものなどなにもない。だとすると、同じ雨の日でも、昨日と今日とでは違うものなのかもしれない。たとえば、匂い。昨日の雨の匂いと今日の雨の匂い、似ていてもまったく違うものなのかもしれない。
キースは、そっと呟く。あのときのミハイルの言葉を。
「……自分が、『ひとつの命として純粋にただ在る』ということ……、か……」
雨に打たれる自分。隣を見ると、雨に打たれるカイ。さらに視線を先に移すと、雨に濡れる大きな木。草。花。皆、等しく雨に濡れている。
「ただ、在る――?」
ふと視線を下げると、足元に、青い小さなカエルがいた。
俺も、カイも、大きな木も草も花も、そしてこの小さなカエルも、雨からすれば、きっと同じ。ただ地上で暮らす小さな「生き物」。雨雲からすれば、みんなみんな、地上に生きる小さなはかない「生き物」。広大な空にとって、俺たちは、ほんの小さな小さな、ちっぽけな「生き物」――。
「俺がなにをしようがどう考えようが、雨にとっては、ただの、小さな生き物――」
「…………」
隣に佇むカイは、ただ黙って微笑む。
「なんとなく――。ミハイルの言わんとすることはわかるような――。でも、それが剣の感覚とどう関係あるんだろうか」
「無心。ということじゃないでしょうか」
「無心?」
「ええ。無心の境地に至ると、実際の普段の五感に頼っていて今まで見えなかったもの、わからなかったものまでわかるようになるのではないでしょうか」
無心の境地――。
「カイ。ちょっと待て。『五感に頼っていて、見えないもの、わからないもの』? 五感は外界のことがわかるためにあるんじゃないのか?」
キースは、首をかしげる。
「ええ。普通の、人間が定める常識的な現実世界の物ごとは。でも、人間が認識する以上の物ごとがあるんです。世界は、人間が感じるよりはるかに広く深いのです」
「五感で感じる以上の物ごと、か。確かに、幻影は、五感を越えたところからやってきた感じだったな」
アーデルハイトやミハイルは魔法を使う。魔法も、普通の五感を越えた能力ということなんだろうな――。
「……俺に魔法使いや退魔士になれってか」
「そうではありません。まあ、感覚的には近いのかもしれませんね」
「うーん」
思わずキースは腕組みをする。
「キースはキースなりに、自分を高める努力をすること、それだけでいいんですよ。ミハイルさんもおっしゃってましたよね。そんなことを出来る剣士はおそらくいない、と。別に、今まで通りだっていいんです。あなたは充分優れた剣士です。ただ、様々な感覚を磨く、その意識はとても大事なことです」
「自然の中にただ在る感覚、いっけん、自分の感覚を手放して鈍らせてる気もするけど……」
「逆です。さっき、とても神経が研ぎ澄まされてましたよね?」
足元の小さなカエル。そして雨。空。同時に感じていた。
「うん。そんな感じはした」
「大きな自然を感じること。そして、自然の中で、自分をとてもちっぽけなものに感じる。でもそう思うことで、自然と一体となり、逆に自分がとても大きな存在に思えませんでしたか?」
「ああ。確かに――」
小さな自分を感じることで、逆に自分が大きな存在に思えた――。なぜだろう。自然……。自然の中の自分――。
キースはもっと歩いてみたくなった。もっと自然を感じてみたくなっていた。
「ちっぽけな、生き物……」
キースは噛みしめるように呟く。
命……!
突然、キースはひらめいた。まるで、雷に打たれたような感じがした。
きっと、命なんだ……! 俺は、さっき、改めて「命」を感じたんだ――!
自然の中の、ただ一つの命。カエルと同じ命。でも、ひとつひとつの命は違う。小さいけれど、それぞれが、唯一無二の存在。
自然と繋がる命の大きさというものが、自分が大きな存在に感じた理由なんだ。俺は、自然を深く意識することで、同時に俺の命を感じたんだ――!
自然の中で生きている自分。生かされている自分。
自然を感じることで、自分の魂を感じたんだ――!
キースは速足で歩く。気が付くと、目の前に森があった。キースは森へと足を運ぶ。ぬかるんだ道も、軽やかに歩く。まるでなにかが乗り移ったかのような、神がかったスピードでキースは歩く。カイも、まるで飛ぶような素早さでついていく。
人間も、大きな自然の一部、自然の中の命なんだ――!
深い緑。静かな雨音。
「……カイ。剣の姿になってもらってもいいか」
「はい……!」
カイは輝く笑顔でうなずく。そして、素早く剣の姿になる。「滅悪の剣」だ。
キースは、「滅悪の剣」を手にする。それから、静かに構え、大きく剣を振り上げてから、空を斬るように下ろす。
なんだろう……! 今までと、違う……!
伝わる剣の重み。空を斬る感覚。風。雨。静かにキースを見守るような、周りの木々――。
なにか……、まるで……! 体中電流が走るようだ――!
自分の中に、大きな力がみなぎるのをキースは感じていた。
これだ……! きっと……! 新しい、感覚……!
キースは、そこで動きを止めた。雨音が、頭の中で大きく響く気がした。
「でも……。命を深く感じ、命を斬る……。なんだか皮肉な話だな」
キースは、滅悪の剣を振り下ろした姿勢のままでいた。体から、剣から、雨のしずくが、落ちていく。少しの沈黙のあと、カイは、人の姿に戻った。
「それでは、命を深く考えずに斬るほうがいいのですか?」
カイの問いに、キースはハッとした。
「いや……、そんなことがいいわけがない!」
キースは、手に握った剣の重みを思い出す。ずしりとした手応えを思い出す。
人に害をなす魔物も怪物も、きっと同じ命――。
「キース。あなたには、剣士としての道は酷なのかもしれません。でも、俺は、そんなあなただからこそ、明るい光を見失わずに大きな力を使いこなしていけると思うのです」
「明るい光を見失わず……?」
「人は、大きな力を手にすると、どうしても道を間違いやすくなります。たとえば、クラウスのように――」
「俺は――」
「大丈夫。苦悩や迷いがあったとしても、あなたは正しい道をまっすぐ進んでいけます。そして、あなたのその優しさが、救いになるのです」
カイがにっこりと微笑んだ。
どのくらいそうしていたのだろう。いつの間にか、雨は止んでいた。雲間からやっと顔を出した太陽も、傾き始めている。
「あれ……? そんなに長い時間、過ごしてたのか……?」
キースは驚いた。まったく時間の感覚がなかった。
「いつの間にか、夕がたになってしまいましたね」
朝から夕がたまで、ずっと外にいた。
「と、いうことは……!」
「と、いうことは……?」
「俺、お昼食べてねーじゃん!」
ぐうう。
今更お腹が鳴る。
「あああ! なんか損した気分……! くそう! じゃあ、そのぶん夕ごはんを、めっちゃ食うぞーっ!」
「はい。どうぞ召し上がってください」
カイが、くすくすと笑う。
「食って食って食いまくってやるーっ!」
「はい。どうぞ」
「よし! カイ! 走るぞ! 宿屋まで競争だーっ!」
「競争!? なぜです!?」
「早く宿屋に着いたほうが勝ちーっ! イエーッ!」
キースはダッシュで森を抜ける。そのまま宿屋の方角へ全力疾走する。
「なんなんですか、もーっ!」
そう言いながら、カイも全力で走る。
街中を、競い合いながら全力で走る男二人。母親に手を引かれ、家路につく子どもが思わず振り返り、楽しそうに笑った。
「俺が勝つーっ!」
「いいえ! 勝つのは俺です!」
頬を撫でる夕風。街並みも夕暮れ色に染まる。
大きな夕日が、濡れたままで冷えた体を優しく包む。
たぶん、わかったぞ……! ミハイル……!
キースは、新しい感覚を掴んでいた。




