近づく、そのとき
魔界の館のテラスに、大きく背中の開いたドレスを着た女性が佇む。神秘的な深い緑色をしたそのドレスは、褐色の美しい肌によく似合っていた。
「ギルダウス……! ギルダウスは、いるか……?」
滅亡した小国の王女、ビネイアだった。ビネイアは、憂いを帯びた瞳でしばらくその場に立ち尽くしているようだったが、意を決したように薄闇に向かって呼びかけた。
たちまち、冷たい空気が渦を巻く。
「ビネイア様。ここに」
大気の渦がほどけていくと、ビネイアの眼下にギルダウスが跪いていた。
「……ギルダウス」
ギルダウスは、ビネイアが自分を呼び出した用件を即座に告げるものと思い、そのままの姿勢で待つ。しかし、ビネイアとギルダウス、二人きりの空間は沈黙に包まれていた。ビネイアの唇から、ためらいがちな吐息が微かに漏れた。
いつもとは違うビネイアの様子に、ギルダウスは少し動揺する。
「……ビネイア様。ご用件はなんでしょう」
ギルダウスは、頭を下げた姿勢のまま尋ねた。
「……ギルダウス。元気だったか」
どこかぎこちない、ビネイアの声。
「はい。お気遣いくださいまして、ありがとうございます」
低く堂々としたギルダウスの声が響いた。しかし、その声は空間に吸い込まれ、ビネイアには届かなかったのではないかと思われるほど、そのあと長い沈黙が訪れた。
風に、木の枝が揺れていた。魔界の薄闇は、次第に濃くなっていく。
ギルダウスは、自分の膝に置いた手の甲を見つめる。大きく武骨な手。魔族のためある程度再生可能な身とはいえ、あちこちに傷跡もある。ビネイアのほっそりとした気品のある美しい手とは全然違う。そんな違いを見ただけでも、男と女というものは、そもそもまるで違う生き物なのではないか、そんな気がしてくる。そんなとりとめもないことを考えながら、ギルダウスは、この沈黙がなにを意味するのか、特別意味するものなどないのか、判別出来ないでいた。
「……なにやら、久しぶりだな」
ようやく紡ぎ出されたビネイアの言葉。ギルダウスは、突然放り込まれた沈黙の世界から解放されたことに安堵した。
「はい。ご無沙汰してしまったようで誠に申し訳ありません。しかし、このギルダウス、ビネイア様のお呼び出しには、いつでも参上出来るよう常に備えております」
ふたたび訪れる沈黙。自分の言葉は、ビネイアには届いていないのではないか、そんな疑念がギルダウスの心に生まれる。ギルダウスは、ビネイアの真意を測りかね、顔を上げビネイアの瞳を見た。
二人の視線が合ったその瞬間、ビネイアの漆黒の瞳が揺れた。
「ビネイア様……?」
が、それはほんのつかの間のことだった。
「ギルダウス。そなたに、地上界の結界を解いてほしい」
いつも通りの、平静なビネイアの声が辺りに響く。いや、いつもの声とも違っていた。それは、冷たい機械から生み出されたような無機質な口調。魔族であるビネイアの、心が冷たく凍ってしまっているのか、もしくは、努めて感情を込めないようにしているのか――。
「ノースカンザーランド、王都ウイザルド。そこには、魔界から魔族が侵入出来ぬよう、厳重な結界が張られている。だが、地上界で直接結界に接触すれば、解くことは可能だろうと思う。そなたには、それを頼みたい」
ビネイアは、ミミアが地上界で入手した地図をギルダウスに手渡した。ほんの少し、指先と指先が触れた。
密やかに、辺りの空気が変化したような気がした。ほんの少し、時間が止まってしまったかのような――。
ビネイアは、急いで自分の手を引っ込める。ビネイアにしては不自然な動作だった。
「頼んだぞ。ギルダウス」
ビネイアは、さっとギルダウスに背を向けた。長い黒髪が揺れる。垣間見える、美しい、なめらかな背中――。
「はっ。かしこまりました。ビネイア様! このギルダウス、必ず任務を果たします……!」
ギルダウスは、勢いよく頭を下げた。
「……私は、クラウス様と共に王都ウイザルドに入る」
クラウス様と共に。
ビネイアのその一言が、切り取られたように薄闇の空間に浮かんでいた。跪き、首を垂れるギルダウス、褐色の美しいビネイアの背中、どちらも、その放たれた一言を受け取れないままでいるようだった。
「……頼んだぞ」
ビネイアは、もう一度、繰り返して呟く。
ゆっくりと遠ざかる、ビネイアの靴音。
ギルダウスは、そのまま跪き、離れていくビネイアの靴音を聞いていた。
ただ、地図を手にして。
武骨な手。
そのときギルダウスは、地図ではなく自分の手を見つめていた。
指先が触れたとき、ビネイア様は、どう思われたのだろう。
ビネイアが、手を引っ込めたのは、嫌悪感からだったのだろうか。ギルダウスは、戦いに明け暮れ、血塗られた自分の手を見つめ続ける。
クラウスの、白く長い美しい指とは全然違うな――。
ギルダウスは、拳を握る。数えきれない誰かの血、それから自分自身の血で汚れた、忌むべき手――。
数えきれないほどの誰か。それは、決して名もない誰かではない。ひとりひとりが名前を持ち、物語を持ち、そして未来を持っている、未来を持っていたはずだった――!
ギルダウスは強く拳を握りしめる。
王都、ウイザルド。
地図の一点に目を落とす。
私は、血塗られた道を歩んできた――! それが我が生、我の道――! そして、我が主はビネイア様――! それは、決して生涯変わらぬ――!
ギルダウスは立ち上がる。拳を強く握りしめたまま。
ギルダウスの瞳に、強い光が宿る。
王都、ウイザルドへ……!
ギルダウスは、マントをひるがえした。
「今晩は、この町で夕食と宿をとりましょう」
日も暮れかけてきたので、ウイザルド近郊の小さな町に降り立つキースたち一行。スノウラー山観測所を発ち、三日が経っていた。
「大きな夕日だな」
「ええ」
キースは、落ちゆく太陽を眺めた。カイも朱色に染まる空を眺め、うなずく。
気持ちが張り詰めているからだろうか、どこか心がざわざわと落ち着かない気分だった。
アーデルハイトが、キースの隣に来た。
ぎゅっ……。
アーデルハイトが、キースの手を握る。
「アーデルハイト……」
アーデルハイトは、黙ってキースに微笑みかける。アーデルハイトの首元からひょっこり顔を出した妖精のユリエも、微笑んでいた。
キースも微笑みを返し、強くアーデルハイトの手を握り返した。
「どうやら、私がキース様に肩を貸すという重大任務は終了したようですね」
オッドが、少し大げさに肩をすくめ、笑った。それからオッドは、捻挫の痛みはまだあるでしょうけれど、どう考えてもこんな暑苦しい野郎より涼やかな乙女の手を借りたほうがはるかにいいでしょう、と名医の見立てのような口調で付け加えた。
「あっ! あの宿、夕食も提供出来るって! いいんじゃない?」
レーヴィが一軒の宿を見つけ、指差した。
一行は、その宿に泊まることにした。
食事の注文を済ませ、席に着くと、皆少しだけくつろいだ気分になった。
「フレデリク先生たちも、他の皆さんも、現在王都ウイザルドへ向かっているそうです」
空を移動中、セシーリアとの通信をしていたカイが皆に報告をする。
「それから余談だが、セシーリアも、ビキニを着てみたいそうだ」
同じく空を移動中、セシーリアと通信していたコンラードが、セシーリアとの交信中の雑談をいきなり暴露する。
「カイは、ビキニを着てみなくていいのか」
「着てみなくていいです」
コンラードが、隣に座ったカイに聞くまでもない質問をする。
「着てみなくていいのか、本当に」
「着てみなくていいです、本当に」
コンラードが、無駄な質問を念押しで聞く。カイが、律儀に念押しで答えた。
「アタシは、着てみてもいいかな」
赤い髪をすくいあげながら、レーヴィが呟いた。
そこ、乗っかるんかい……!
これ以上、話を広げないで欲しい、最初のカイの話を一瞬忘れそうになる皆が、そう思ったときだった。
「むっ……!」
コンラードが、椅子から立ち上がった。
「コンラード兄さん! どうしました?」
コンラードのただならぬ様子に、カイが真剣な表情になる。
「強い、魔族の気配を感じる……!」
「え……!?」
「ここから、少し距離があるようだ……。これは、大変強い魔力の持ち主――!」
「コンラード! 案内してくれ……!」
キースが立ち上がった。
――いよいよか――!
そのときキースの心に浮かんでいた相手は、ただひとりだった。
自分をずっと待ち続けていた、あの魔族――。
――ギルダウス……!
いよいよ、決戦のときが来た、キースはそう確信した。




