消された記憶
暑さの残る日暮れのベンチ。公園の噴水が涼しさを運び、そよぐ深緑の葉が、強過ぎる西日を遮っていた。
「喉乾いたね! アーデルハイト! あの売店でジュース買ってきてあげる!」
クラウスは二人分の硬貨を握りしめ、ベンチを立つ。少しずつ遠ざかる、クラウスの影法師――。
「ありがとう! クラウス!」
アーデルハイトは、夢を見ていた。
それは、忘れていた遠い記憶だった。
まだ小さな子どもだったアーデルハイトとクラウス。アーデルハイトは、クラウスの愛書「初級魔法大全」と共にベンチで待つ。
「お嬢ちゃんは、魔法使いになりたいのかい?」
不意に、頭の上から声がした。アーデルハイトは首を回し、声の主を見上げる。
見知らぬ老婆が微笑んでいた。老婆は、「初級魔法大全」を懐かしそうな、ほんの少し寂しそうな瞳で――、見つめていた。
「うん!」
アーデルハイトは、屈託のない笑顔でうなずく。
「……そうかい」
老婆も笑ってうなずくと、売店に向かうクラウスに視線を移した。
強い風が、木々を揺らす。ざわざわと葉影が、不気味に蠢く。
「……あの子は、ちょっと大変だね」
老婆の表情は、厳しいものに変わっていた。
「えっ? なにが、大変なの?」
アーデルハイトは、老婆を見つめた。西日が差し込むせいか、さっきまで見えていた老婆の顔がよく見えない。
「あまりに強過ぎるものは、災いをもたらすことがある」
そう語る老婆の表情は、黒い影のようになって見えない。
「……私は、自らの魔力を封じたんだ」
老婆が、ぽつりと呟く。
「え……? お婆さん、魔法使いだったの……?」
「……もう、だいぶ昔の話さ」
「お婆さん……?」
アーデルハイトは、なぜだか少し老婆が怖くなっていた。老婆が、ゆっくりと口を開く。
「……お嬢ちゃんには、教えておいてあげよう」
「え……」
「あのお友達が大切なら、いつか必要となる日が来るかもしれないからね」
老婆の声は、優しかった。笑っているのか、悲しんでいるのか、老婆の表情はわからない。しかし、穏やかで力強い声だった。
「お嬢ちゃん。よくお聞き。魔力を封じる方法、それはね……」
ざわざわ……。
葉音。眩しい西日。クラウスの、呼び声が聞こえる。クラウスは、なにかを感じたのだろうか。お婆さんの、顔色が変わった気がした。クラウスに、勘付かれた、そう思ったのだろうか。お婆さんが慌てて教えてくれたのは――。
「お婆さん……!」
そこで、目が覚めた。
アーデルハイトが眠っていたのは、スノウラー山観測所の一室。そこは、女性職員の部屋で、アーデルハイトは妖精のユリエと女性職員と一緒に眠っていた。
まだ外は薄暗い。起きるには早い時間だった。
「夢……」
アーデルハイトの額には、汗が浮かんでいた。胸の鼓動も速くなっている。
ううん。夢じゃない。
アーデルハイトは、自分の額に手を当てた。頭痛がする。
あのお婆さんは、なんて言ったのだろう。
お婆さんの言葉。大切な、話。そして、お婆さんはそのあとどうしたのか。自分とクラウスは、そのあとどうしたのだろうか。
思い出せない――。
アーデルハイトのこめかみから、冷たい汗がしたたり落ちた。
どうして、忘れていたの――。
奇妙なほど、すっかり忘れていた。
アーデルハイトのエメラルドグリーンの瞳が揺れる。胸の動悸が、おさまらない。
アーデルハイトは、ハッと気付く。
記憶を、封じられていた――?
まだ子どもだったクラウス。お婆さんとクラウスの間には、距離があった。話の内容までは、クラウスにはわからないはずだった。
でも、クラウスは、きっとなにかを感じていたんだ――!
自分にとって、よくない話。自分にとって、不都合となる存在。自分の敵だ、そうクラウスは本能的に察したのではないか。
そして、クラウスは――。
お婆さん――! お婆さんは、あのあとどうなったの……!?
なにも、思い出せなかった。クラウスが、自分になにをしたのか。
そして――、老婆になにをしたのか……!
急に、吐き気が込み上げてきた。アーデルハイトは、洗面所へ走る。
「アーデルハイト。どうしたのー?」
後ろから、ユリエの心配そうな声が聞こえてきた。
アーデルハイトは、口元を抑えながら洗面台へ向かった。
少し、吐いてしまった。洗面台を両手でつかみ、崩れるようにしてうずくまった。
アーデルハイトがようやく思い出したのは、ジュースを差し出すクラウスの優しい笑顔。手を繋ぎ家路につく自分とクラウス。強い西日。深く濃い影――。
アーデルハイトは、震えていた。両手で自分の体を抱きしめるようにしたが、体の震えが止まらない。
優しくあたたかい、静かな夕暮れの記憶。そのことが一層、アーデルハイトには恐ろしく感じられた――。
食堂に向かうと、すでに皆集まっていた。
「アーデルハイトさん……! 実は……!」
カイが、挨拶もしないうちに深刻な表情でアーデルハイトとユリエ、女性職員のほうへ駆け寄ってきた。
「カイ……! なにかあったの……?」
どきん、アーデルハイトの鼓動が脈打つ。
「クラウスが、現れました……!」
カイの言葉に、血の気が、さっと引く。
「大丈夫ですか!? アーデルハイトさん!」
カイの声が、少し遠くから聞こえてくるようだった。皆の表情から、自分の顔色がどれほど悪いのか、アーデルハイトには想像がついた。いまにも、倒れそうに見えるのだろう、とアーデルハイトは冷静に考えていた。
「アーデルハイト!」
キースの大きくあたたかな手が、アーデルハイトの体を支える。アーデルハイトは、自分では普通に立っているつもりだったが、倒れる寸前だった。
「ありがとう、キース。大丈夫よ」
微笑むアーデルハイトの前に、ユリエが飛んできた。
「大丈夫じゃないよ! アーデルハイト! さっきも、なんだか具合悪そうだったもの!」
「アーデルハイトさん。もう少し、部屋で休んでいたらいかがでしょう?」
女性職員も心配していた。
「いえ……。カイ。詳しく話を聞かせて……?」
カイは、キースと顔を見合わせる。アーデルハイトを部屋で休ませたほうがいいとも思ったが、話を聞かせないのもかえって不安にさせてしまってよくないと思い、カイはアーデルハイトにもこの場にいてもらうことにした。
キースは、アーデルハイトを椅子に座らせてあげた。
「……先ほど、セシーリアから通信があったんです」
カイが、ゆっくりと話し始めた。アーデルハイトが動揺しないように気遣い、言葉を選んでいるようだった。
「……俺たちが到着したあの港に、クラウスが着いたそうです」
「あの港って……! フレデリク先生が警備していた……!?」
思わず、アーデルハイトは叫んでいた。
「フレデリク先生は……! フレデリク先生は無事なの……!?」
「大丈夫です! アーデルハイトさん!」
カイは、アーデルハイトが安心するよう笑顔で叫んだ。
「クラウスは、魔界の石を使って、皆が動けなくなる魔法を使ったそうですが、誰一人けが人はいなかったそうです……!」
「…………!」
アーデルハイトは、体中の力が抜けたような気がした。
「魔族も、現れなかったそうです」
「じゃあ、フレデリク先生も、港の皆さんも無事なのね……!」
カイは大きくうなずき、優しく微笑みかけた。ユリエも、アーデルハイトの髪を撫でてあげ、アーデルハイトと共に喜んだ。
「ただ……。クラウスは港の厳重な警備から難なく脱出し、現在の行方はわからないそうです」
「そう……」
魔族の力も借りず、誰一人傷付けることなく包囲網を楽々と抜け出したクラウス。彼の圧倒的な魔力の強さを見せつけられたような気がした。
「……アーデルハイト。俺たちはこれから、北の神殿には向かわず、そのまま港の方角へ行ってみようと思う」
キースが、アーデルハイトの瞳をまっすぐ見つめ、そう告げた。
「そうね……! セシーリアとカイやコンラードはお互いに通信が出来るし、北の神殿に戻るより、早くクラウスのいたほうへ向かったほうがいいのかも……!」
「アーデルハイト」
キースは、アーデルハイトの肩にそっと手を置いた。
「君は、北の神殿で待っていてくれ」
「キース!」
「さっき、皆と話し合っていたんだ。別行動にしよう。君は、エリアスに送ってもらってユリエと北の神殿に行ったほうがいい。そして、そこで待っていてくれ」
「キース! またそんなこと言って……! 置いていくって言わないでって、何度も言ってるのに……!」
「キース! アーデルハイトは体調が悪そうだからわかるけど、私は第一線で戦えるよっ!」
アーデルハイトとユリエが同時に叫んでいた。
「私、皆と一緒に行く!」
「アーデルハイト……、ユリエ……」
キースはため息をつき、首を横に振る。
「……それなら私が、皆さんと一緒に行きましょうか?」
急に、小鉢イチオシが名乗りをあげた。
「いえ、小鉢イチオシさんは大丈夫です」
キースは、なんでそこで小鉢さんが、と疑問に思いつつありがたいその申し出を断った。
「……それなら私が、行きましょうか?」
白衣かつ眼鏡の男性の職員が名乗りをあげた。
「いえ、白衣眼鏡男性職員さんは大丈夫です」
キースは、なんで白衣眼鏡男性職員さんが、と疑問に思いつつありがたいその申し出を断った。てゆーか、ここの職務はどうした、と思った。
「……それなら私が、行きましょうか?」
白衣かつ眼鏡の女性職員が名乗りをあげた。
「いえ、白衣眼鏡女性職員さんは大丈夫です」
キースは、なんで白衣眼鏡女性職員さんが、と疑問に思いつつありがたいその申し出を断った。てゆーか、この人までここの職務はどうした、と思った。
「……それなら私が、行きましょうか?」
白衣かつ眼鏡の性別不詳の職員が名乗りをあげた。
「いえ、白衣眼鏡プラス謎の職員さんは大丈夫です」
キースは、なんで白衣眼鏡謎性別職員さんが、と疑問に思いつつありがたいその申し出を断った。てゆーか、みんな一丸となってここの職務放棄する気か、と思った。
「えー。協力したいのにー」
小鉢イチオシ・ウィズ職員ズは、少し不服そうな声をあげた。
「みんな、アグレッシブだなあ!」
キースは感嘆した。
「キース! 皆さんのせっかくの協力の申し出を断ったんだから、私とユリエちゃんくらい一緒に行ってもいいでしょ!」
すかさず、アーデルハイトが無茶苦茶な論理を展開した。
「そうよう! 二人くらいついていったって、なんてことないじゃないっ!」
たたみかけるように便乗するユリエ。
「ん……? あ。そーか。これだけの人数を断っちゃったから、アーデルハイトとユリエくらい、一緒でもいいか」
わけのわからない交渉に言いくるめられるキース。
いや、なんかキースも、ズレてるし。
他の面々は、言葉が見つからなかった。
やっと、カイがこの場でかけるべき言葉を発見した。
「アーデルハイトさん。ユリエ。皆、二人のことを心配してるんです」
「私たちは、逆に皆のことを心配してるんですっ! 私たちの力が、皆には絶対必要なんですっ! ぜーったいに!」
アーデルハイトとユリエが声を合わせ、反論した。いつの間にか、アーデルハイトの顔色はよくなっていた。
「ここまで、覚悟の上で来てるんだから……!」
アーデルハイトがしっかりと立ち上がり、キースの瞳を見つめる。
「アーデルハイト……」
アーデルハイトは思う。自分は、絶対にクラウスと再び会わねばならない、と。安全な場所で待つ、そんなことは決して出来ない、と。暴走するクラウスにきちんとした決着をつけてあげねばならない――、と……!
そして、アーデルハイトは安堵していた。クラウスが、フレデリク先生を、港にいた人々を殺していなかったことに。
お嬢ちゃん。大丈夫だよ。
不意に、アーデルハイトの頭の中に、老婆の声が響き渡った。
私は、もうとうの昔に天寿をまっとうしたけれど、殺されてはいないよ。
アーデルハイトには、老婆の笑顔がはっきりと見えていた。
ただ、「怪しいやつめ、アーデルハイトに近づくな」って、弾き飛ばされたけどね。
私は、魔力の強すぎる男の子と魔法使いを目指す女の子が心配になった、ただの通りすがりのお節介な元魔法使いさ、それだけを告げると、老婆の姿は見えなくなった。
「お婆さん……」
アーデルハイトの頬を、流れるあたたかい涙。
彼に、人殺しをさせてはいけない……! その前に、私が止めなければ……!
クラウスの、優しかった笑顔。それを自分が守ってあげなければ。アーデルハイトは、震える手を握りしめ、改めてそう誓った。




