なにも掴めなかった、手
魔界。その空は、濁った赤紫色。
ギルダウスは、一人天を見上げる。
王の器にあらず――。
ギルダウスは、心の中で呟いた。
人とは、なぜあのように脆いのか。
先ほどのクラウスの動揺を、ギルダウスは思い返していた。
クラウスが、なぜあのように心を乱したのかはわからない。しかし、ギルダウスは、クラウスの脆さをはっきりと感じ取っていた。
ギルダウスは、空を仰いだまま瞼を閉じた。
いや――。違う。
ギルダウスが次に思い浮かべたのは、シーグルト、そしてキースの凛とした姿。
人の心は、一様に弱いわけではない。
あきらかに、魔族であるギルダウスより非力なはずの彼ら。しかし、彼らは堂々と、憶することなく対等な立場でまっすぐ向かってきた。
シーグルトの力強い目、キースの澄んだ瞳。
シーグルトは自分自身を、キースは他者を、それぞれ深く理解し、信じている――。
シーグルトも、キースも、人間というものを肯定して生きているのだ、とギルダウスは思った。
シーグルトは、主に魔族を相手に商売をしていた。とても魔族に近い、いわば魔族側の人間だった。シーグルトは、自分以外の他の人間に対し、冷淡ともいえる姿勢で特段思い入れはないようだったが、その代わり自分自身の魂に強く誇りを持っているとギルダウスは感じていた。シーグルトは、あくまで人間である自分に、誇りを持っていたのだ。キースは、常に周りの人間や仲間を大切に思い、自分を犠牲にしてまでも守ろうとしていた。
人間である自分の価値を信じる。または、人間をはじめ、その他の存在までも、守るべき価値のある存在であると信じている。そこに、彼らの強さがあるのだろう。
風が吹く。ギルダウスは、ふたたび空を見つめる。ギルダウスの口元に、いつの間にか微笑みが浮かんでいた。
価値、というと、きっとキースは「違う」というのだろうな。
なんとなく、ギルダウスにはキースの叫ぶ顔が浮かんでいた。
きっと、あやつは「価値なんてもんじゃねーよ! 大切だから、大切なんだよ!」などというのだろうな。
クラウスの弱さ。それはきっと、人間を、他者を、さらには自分さえも信じられない、見つめようとしないところにあるのだろう、そうギルダウスは思う。
『力のある者が、君臨する世界』、か――。
皮肉なものだ、とギルダウスは苦笑していた。クラウスは、己の弱さに気付いていない。そして――。
強いものが弱いものを駆逐する。それは、我が祖国が強国に滅ぼされたことと同じことなのではないか。
クラウスとビネイアはあの強国と同じことをしようとしている。ギルダウスは、自分の主人であるビネイアが、怨敵と同じことをしようとしていると認めたくはないがそう認めざるを得なかった。
ギルダウスは魔界の大地に目を落とす。大地は常にたくさんの死を受け入れ、そして生を生み出している。これまでも、そしてこれからも、たくさんの流れる血を受け入れ、そしてあまたの命を支えていくのだ。
きっと、魔界では、私のほうが異端なのだろうな。
魔族にとって、強いものが弱いものを淘汰する、それはごく自然な考えかただった。そこに、疑問を持つものはまれだった。強いものが残り、弱いものは滅ぼされるか、逃げ出して新しい居場所を探す。そういう歴史を魔界は繰り返してきた。魔界の大地に流されてきたのは血で、涙はそう多くはない。
シーグルトは、非常に魔族に近い魂を持つ人間であった。私は、きっと人間に近い魂を持つ魔族なのだろう。
ギルダウスは首を振って、自嘲気味に笑い、自分たちの隠れ住む館に足を向けようとした。しかし、枯れ枝を踏んだまま、足が動かない。
あの男のもとでは、国は成り立つまい――。
ギルダウスは、深いため息をつく。しかし、ビネイアに自分がなにをいえよう、と。ビネイアのために、いったいなにが出来よう、と。
ビネイア様は、あの男を深く愛していらっしゃる――。
『ギルダウス! ビネイアを、頼む……! どうか……、娘を、頼んだぞ……!』
亡き王の、叫び声が頭の中をこだまする。
ギルダウスは、ただうなだれ、立ち尽くしていた。
自分には、どうすることも出来ない――。
ギルダウスは、己の拳を、握りしめる。強く。強く。
部下たちを、守り切れなかった手。非力な民たちを、守り切れなかった手。
たくましい、力のみなぎる手。しかし、この手で守れたものはわずかだった。
いつの間にか、手のひらから血が流れだしていた。流れ落ちた血は、大地に吸い込まれていく。
ぽたっ。
血ではないものが、大地に落ちる。
ギルダウスはそれを認めようとしなかった。
涙。
ギルダウスは、認めない。己の頬から流れ落ちるものを。
ひび割れた大地は、すべてをただ受け入れていた。
太陽が海に姿を隠そうとしていた。
一隻の船が、港に接岸した。
港には、湾岸警備隊、ノースカンザーランドの軍隊、国家認定の魔法使いや退魔士たち、それからフレデリクと、フレデリクと同行していた数名の北の神殿騎士団が待機していた。
船から乗客たちが降りてくる。
「皆様、ようこそノースカンザーランドへ。これより、入国審査を行います」
乗客たちは、いつもと違ったものものしい港の様子に驚く。
「入国審査は、国境検問所で行うんじゃないんですか?」
乗客が、質問した。
「現在、ノースカンザーランドは特別警戒中でございまして、入国の皆様にはご協力をお願いしております。大変申し訳ございませんが、今回は、この場で簡易的な審査を行い、そのあと国境検問所で正式な審査と手続きをお願いいたします」
乗客たちは、一列に並んで審査を受けることになった。
「どうしたんだろう」
「それでは、二度手間じゃないか」
「長旅でようやく着いたのに、なんだか、いやあねえ。早く済めばいいんだけど」
乗客たちの間に動揺が広がる。船旅で疲れた体を早く休めたい、一刻も早くノースカンザーランドの家族や知人に会いたい、予定があるんだなどと、様々な事情を訴える不満の声が聞こえてきたが、皆大人しく説明に従った。
軍隊や湾岸警備隊員たちや北の神殿騎士団員、魔法使いや退魔士たちが一列に並んだ乗客たちの周りに立った。行列の先には、「簡易入国審査所」と書かれたテントがあり、乗客たちは一人ずつそこで審査を受けることになった。テントの中の長机には、三名の審査員が座っていた。審査員は、フレデリク、目つきの鋭いフードを被った男、大きな杖を脇に備えた老婆の三名だった。
乗客の目を見つめ、簡単な質問をする、それだけの入国審査。
優れた特殊な能力のあるものは、審査員の三名がどういう力を持つか、漂う魔力からすぐに判断出来た。彼らが魔法使いか退魔士である、と。
フレデリク以外の二人は、それぞれ、国家認定の魔法使いや退魔士の中でも、もっとも優れた能力の持ち主だった。
「あっ……!」
フレデリクが、短い叫び声を上げた。
「お久しぶりです。フレデリク先生」
フレデリクの目の前に、クラウスが立っていた。特殊能力者が審査にあたるまでもなかった。変装することもなく、顔をマスクやフードで隠すこともなく、ごく普通にクラウスは乗客たちの列に並んでいた。ただ、強大な魔力のみを隠して。
「クラウス君……!」
フレデリクの両脇にいるフードの男と老婆は身構えた。が――。
ドンッ……!
大きな音。地面が揺れた。
「クラウス君、君は――!」
クラウスは、笑っていた。
「先生以外の者は、動けないはずですよ」
「なに……!?」
「皆さんの動きを縛らせてもらいました」
「…………! そんな魔法が……!」
「大地に僕の魔力を走らせ、先生以外の皆さんの生体エネルギーを縛り付けています。僕の力だけでなく、魔界のこの石の力を借りてなせる技です。僕の魔力と僕のたゆまぬ魔法研究の成果、そして魔界の石、という素晴らしい三つの力の融合です。これは、魔族でも出来ない特殊魔法でしょう」
クラウスは、そういって紫色に光る石を懐から出して見せた。
フードの男と老婆が震えている。体を動かそうと、呪文を繰り出すために声を出そうとしているのだった。しかし、金縛りにあったように動けないでいた。
「このお二人は、さすがに強い魔力をお持ちですね。動かせないとしても、動かそうと震えることが出来るだけでも大したものですよ。大丈夫です。この魔法は、わずかな時間しか持ちません。僕がここを去るころには、綺麗に魔法は解けて、皆さんなんの支障もなく元通りになりますから」
「クラウス君っ!」
「先生は、昔のよしみで魔法から除外しました。先生、僕の成長ぶり、驚きましたか?」
クラウスは、ふふっと楽し気に笑った。
「ラーシュ君を……! ラーシュ君を返せっ!」
フレデリクは、長机を飛び越え、クラウスに掴みかかった。がたん、と長机が倒れる。
「教師ともあろうかたが、ずいぶん乱暴ですね」
カッ……!
クラウスを殴ろうとしたフレデリクの体に、鋭い衝撃が走る。
「くっ……」
「先生に、そんな凶暴な一面があるとは思いませんでしたよ。元教え子を殴ろうとするなんて……。仕方ありませんね。先生も止まっていてもらいます」
「クラ……、ウ……」
「おや。フレデリク先生程度の魔力でも、話そうとすることが出来るんですね。ちょっと、驚きです」
フレデリクの全身を、痺れるような痛みが貫く。
「ラー……、シュ……」
「安心してくださいよ、先生。ラーシュには、なにもしていませんから」
クラウスは、ふうっと、ため息をついた。
「……残念だなあ。広範囲に魔法をかけてしまったうえに、先生にも魔法をかけて、二回もエネルギーを使いましたから、もうこの石は使い物にならなくなりました。この魔法は、もっと切り札にとっておきたかったのですが……。これは、魔界でも大変貴重な石なんですよ?」
先生が悪いんですよ、とクラウスはフレデリクを一瞥する。
クラウスの傍に、漆黒のドラゴンが飛んできた。クラウスと一緒に船に乗っていたドラゴンである。
「先生……! それでは、僕はこの辺で失礼しますね……!」
クラウスは、フレデリクに笑顔で一礼すると漆黒のドラゴンに乗り、空高く舞い上がった。
「ラー……、シュ……!」
フレデリクは、力の限りを振り絞り、動かせないはずの手を伸ばす。無理にそうしたことで、激痛が走る。それでも、フレデリクは手を伸ばす。
しかし、その手は空に向かって伸ばされただけで、なにも掴むことは出来なかった。
あっという間に、クラウスとドラゴンは夕闇の中に溶け込み、見えなくなった。
闇の時間が、始まろうとしていた――。




