旅に出た理由
雪原を疾走する犬ぞり。犬ぞりを繰るのは、華奢な体つきの女性。輝く黒髪を緩やかに束ねたその可憐な女性の顔には、焦りと恐怖が色濃く浮かんでいる。心臓が早鐘を打ち、そりの持ち手を握る手のひらに汗がにじむ。
彼女は、魔物の大群から逃げていた。
背後から魔物の息遣いが聞こえる。彼女は、魔物の長い爪がその身を切り裂く瞬間を覚悟し、思わず目をつぶった――。
ザンッ!
鈍い音。ほとばしる鮮血。雪の上に肉塊が落下する。
一瞬、女性は自分の体に決定的な一撃を加えられたのかと思った。しかし、痛みも衝撃もなにもない。女性は、恐る恐る目を開ける。
「大丈夫かっ!? 助けにきたぜ!」
女性の瞳に映ったのは、純白のペガサスに乗った黒髪で青い瞳のたくましい若者。天から突然目の前に現れたその青年は、青空のような笑顔を向ける。
若者の剣によって一刀両断された魔物は、光を放ちながら消えていった。
「あ、ありがとうございます……!」
驚く女性の黒い瞳に、今度はドラゴンに乗った金の長い髪の女性が映る。女性の胸元には、かわいらしい妖精の女の子がぴょこんと顔を出している。
「さあ! 私たちが来たからもう大丈夫! あなたは逃げて!」
「え……? は、はいっ!」
空から、次々とドラゴンや翼獣に乗った勇ましい若者が降りてきた。それぞれ剣や長い杖を手にし、魔物の群れに向かっていく。
「さあ、あなたは早くここから逃げて!」
「ありがとうございます!」
女性は、ふたたびそりを握りしめ、犬ぞりを走らせる。
ガッ!
「あっ!」
慌てていたためか道を外れ、そりが雪に隠れた岩に乗り上げてしまった。そりは大きくバランスを崩し、女性は宙に放り出される――。
視界いっぱいの青空。眼下には雪をかぶった岩場。女性は、自分の体が岩に叩きつけられるさまを想像した。
ドサッ!
雪とは違う、あたたかな感触。
「……大丈夫か」
女性は、ダークブラウンの髪と瞳の青年の腕に抱かれていた。
「…………!」
女性は、思わず息をのんだ。
その深い茶色の瞳に、女性は引き込まれていた。
女性には、特殊な力があった。年月が経ち、もうだいぶその力は薄れてしまっているけれど。人とは違う不思議な力が、遠い記憶を呼び覚ます。
大切な、大切な記憶。
女性は、激しく心を揺さぶられていた。
「……宗徳……!」
女性は、懐かしいその名を呼んだ。
大型犬くらいの大きさで、イタチのような胴長の体型の魔物たちの群れ。鋭い牙をむき、赤い目には獰猛な光が宿る。
ザシュッ!
北の神殿騎士団副団長、エリアスの剣が力強く魔物を斬り払う。
「さすが兄さん! 鮮やかなお手並みね!」
エリアスの弟レーヴィは、エリアスに笑いかけた。そういうレーヴィも、赤い髪をなびかせながら、まるで舞うように剣を振るう。魔物は敏捷な動きでレーヴィに襲い掛かるが、動じることなく流れるように斬っていく。レーヴィの瞳は生き生きと輝き、真っ赤な唇には笑みが浮かんでいる。狂戦士、そんな表現が似合うような戦いぶりだった。
「そういうお前も、少しも腕が鈍ってないな!」
エリアスが、レーヴィに向かって叫ぶ。
「ええ! もちろんよ! 使命を果たすために、ずっと鍛錬は続けていたんだから!」
「使命……!」
「あ! えっと、あの、その……」
ついうっかり本当のところを口走ってしまい、動揺するレーヴィ。
「レーヴィ! ちゃんと使命を忘れないでいてくれたのか――!」
エリアスは顔を輝かせ、声を弾ませた。
「えっと、まあ――。うん! まあね、アタシにも一応イーヴァルじーさんの血が流れてるし!」
ザンッ!
レーヴィは、兄の純粋な喜びに満ちた視線に、なんとなく気恥ずかしさを感じていたが、それを振り払うように攻撃してきた魔物を斬った。
エリアスの部下のレオとトーレは、エリアスとレーヴィの見事な剣技を横目に、それぞれ確実に魔物を仕留めていく。レオとトーレは、レーヴィの冴えわたる剣を見て、内心安堵していた。強烈なキャラクターを見せつけていたレーヴィだが、やはりエリアス副団長の弟、尊敬に値する剣士だった、それがわかり気持ちの落としどころをようやく見つけた、そういう思いだった。
「騎士団組あーんどレーヴィ、素晴らしい手腕だなっ!」
キースも魔物をなぎ払う。キースの後方にいたミハイルが、静かに印を結び、術を唱え始める。
「輝く雪の精霊、氷の刃にて闇より来る使者を浄化せよ!」
ミハイルが手に持った大きな杖を振り下ろすと、魔物たちはまばゆい光に包まれながら消滅していった。
「悩殺フラーッシュ!」
え。
誰かが叫んだ。謎すぎる呪文。皆一斉にアーデルハイトを振り返って見た。
「ちっ、違うわよ! 今の、私じゃないっ!」
アーデルハイトは顔を真っ赤にし、大慌てで潔白を主張した。
「私だよ!」
誇らしげに胸を張ったのは、妖精のユリエ。
「ユ、ユリエちゃん……。『悩殺フラッシュ』って、いったい……」
アーデルハイトがユリエに尋ねる。ユリエは、満面の笑顔で答えた。
「私の色香で戦意を喪失させる呪文だよー! 見て見て! 完璧に成功してる!」
魔物たちは、ぐったりとしていた。
それは、色香で、なのか……?
皆、同じ疑問を抱いていた。なんというシンパシー。
「ほらっ! アーデルハイト! 私のオンナの魅力に感心してないで、早く魔物を魔界に追い返す呪文を!」
「あ! うんっ! 『我は扉を開く! 魔の者よ! 汝の住まう魔の国へ帰れ!』」
アーデルハイトは、感心していたわけではなかったが、呪文を唱えた。
魔物は、すべて殲滅した。退治した魔物はすべて跡形もなく地上界から消滅し、雪原は平和な静けさを取り戻していた。
カイも人の姿に戻る。
もう女性は遠くへ逃げただろうと、皆安心していた。
「みんな……!」
宗徳と女性が来た。
「あれ? 戻って来たのか? 戻ってこなくても大丈夫だったんだけど」
キースが女性に話しかける。わざわざ礼を言いに戻って来たのかと思っていた。
「みんな……! この人は、俺の姉さんだ……!」
女性の代わりに宗徳が答えた。
「えっ! なんだって!」
キースは、驚きのあまり叫んでいた。
「宗徳が探していた、幼いころ生き別れたお姉さん……!?」
宗徳は黙ってうなずいた。宗徳の瞳は、嬉しさで濡れていた。
宗徳が旅に出た理由。その姉に、ようやく会えたのだ――。
「そういえば……! どことなく宗徳に似ているな――!」
宗徳の姉である女性と宗徳は、顔を見合わせ、優しい微笑みを浮かべた。似ている、と言われたのが嬉しかったのだ。
「私は、みつ、と申します。皆さん、助けてくださって本当にありがとうございました。そして――、弟が、本当にお世話になりました」
みつは、深々と頭を下げた。
「私は、生まれたときから持っていた特殊な力を見込まれ、施設から『北の巫女』としてノースカンザーランドに引き取られました。ずっと、『北の巫女』として働いておりましたが、今は、結婚し子を持ち、普通にこの山里で暮らしております」
「えっ……!」
一同、驚きの声を上げた。まさか、宗徳がこんなに早く姉と再会出来るとは、そして、彼女が「北の巫女」だったとは――。
「そういえば……! ババニラさんが言ってたな、外国の女の子が『北の巫女』に選ばれることもたまにあるって! そうか! みつさんは、それでノースカンザーランドに……!」
みつは微笑んでうなずく。自分と同じように遠い国から選ばれた「北の巫女」は、何人もいる。「ババニラ」という響きにはちょっと首をかしげたが、そういう名前も世の中にはあるだろうと、みつは聞き流す。
「ええ……! 遠く離れておりましたが、弟のことは、片時も忘れたことはございません……」
みつは、あふれる涙をハンカチで抑え、宗徳の髪をそっと撫でた。そして、宗徳の頬にも光る涙を認め、微笑みながらハンカチで拭ってあげた。
「よかったなあ……! 宗徳……!」
皆、微笑んでいた。皆の胸は熱くなり、瞳は潤んでいた。さきほどとは打って変わり、あたたかな、穏やかな時間が流れていた。
「……ところで、姉さんは、どうして魔物などに追われていたのだ?」
宗徳が尋ねた。
「主人が……。森の小鬼がいたずらで放った、毒の矢に当たってしまって……。高熱を出して寝込んでいるのです……。解毒には、森の奥の湖の『泡の花』が効くのでそれを取りに行ったところ、魔物に遭遇して――」
「『泡の花』……?」
「ええ。それは、湖の底で眠る竜の息吹が水面で凍ったものです」
みつは、カバンの中から採取した「泡の花」を取り出した。水色の花びらのようなそれは、きらきらと清らかな光を放つ。
「姉さん! それじゃあ、早く帰ったほうがいいんじゃないか!」
宗徳が真剣な表情で叫んだ。
「ええ。でも……」
「俺は、いつか改めて姉さんの家を訪ねる。だから、一刻も早くご主人に薬を飲ませてあげたほうがいい!」
「宗徳……。でも……」
「必ず、会いに行くから……!」
「宗徳……!」
「絶対に、会いに行くから……!」
みつは、皆に向かって何度も頭を下げ、犬ぞりに乗って家路を急いだ。何度も、何度も宗徳のほうを振り返りながら。
「……宗徳……。いいのか……?」
キースが宗徳の傍らに立ち、尋ねた。
「いいんだ……。手紙は、渡したよ――」
宗徳は、今まで手紙を入れていた自分の胸元に、確かめるように手を当てた。
「そうか……。でも、せっかく会えたのに――」
宗徳は、姉の去って行ったほうを見ていた。
「……姉さんに、幸せかって、訊いたよ」
宗徳の瞳は、広がる雪原を映す。
「姉さんは、幸せだって、言ってた……!」
宗徳は、そう言って笑った。
抜けるような青い空。透明な風が雪を舞い上げる。
どこまでも続く雪原。しかし、それは確実に姉へと繋がっている。
いつか書いた手紙は姉へと届いた。
行こう。ノースカンザーランドへ。
姉さんが幸せであれば、それでいい――。
宗徳の笑顔に、悲しみの色はもうなかった。




