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第七話 海月


 いたい。何だかとても痛い。

 ……からだが?

 ううん、どこも擦りむいていないし捻ってもいない。でも痛いんだ。全身を鋭い痛みが駆け巡ってる。ああ痛い。痛いよ。

 きずぐちはどこ? みせてごらん。

 分からない。どこも傷は見当たらないんだ。不思議な痛みでしょう?

「ねえ、じゃあここは?」

 幼い少女の声色で目の前の人影が私の胸を指差す。私のカラダは透明で、そこに透けた心臓が漂っていた。心臓は動いている。当たり前だ、生命の重要器官なのだ。

 私は心臓に触れてその鼓動に耳をすませた。一定のリズムを刻む心臓の音は悲鳴のように聞こえた。私は人影に答える。

「……痛い。痛い。ここが、痛いんだ」

 人影は頷いて、両手で闇を払った。真っ暗だった世界が一瞬で塗り替えられる。変わった世界は見覚えのある風景をしていた。……学校の教室。



 無数の人間の声が交差している。私は世界の縮図のようなここが嫌いだった。

 複数人の個性のない人間達が集まってグループを作る。一見仲間意識の強い協力的な一団に見えるのに、一つ仲間外れがそこから発生すれば、そいつは排他的に処理される。一度ゴミ同然に捨てられた者はまず他の集団に保護してもらうことなど出来ない。そうして孤立し、飢えて死ぬか腐臭を放ってゴミクズとして生きるか、どちらかを選ばされるのだ。(希に捨てられた者が生贄を差し出して集団に戻る例もあるが、どちらにせよ私には汚いもの以外に見る価値はないと思っている)

 私はどちらにするか選び兼ねているゴミだった。騒がしい子どもの声とそれを切り裂く大人の権力が満ちている中、クラゲみたいに漂っていて、いつしか漂っていることを教室から忘れ去られた。

 理由が何であったか、もうそれは思い出せない。思い出したくない。記憶の奥の方に封じ込めてしまった。ただもう、誰も傷ついて欲しくないと強く思ったのは覚えている。

 あの夏の日。むせ返るような夏の空気に混じった塩素の臭い。ああ、拒みたいのに記憶は消えてくれない。

 誰も傷ついて欲しくない? 違う。自分が傷つきたくないだけだろう。

 他人が怖いと心の底から思っていた。なるべく関わらないように。彼らの機嫌を損ねないように。視界に目立って入らないように。ひそやかに漂う。そんな生活を続けた結果、息が出来なくなってしまった。早退を何度も繰り返す内に、あのピラニア達がいる水槽の中に戻ることが出来ず、辛うじて息が出来る自宅でぷかりと浮かんで生き続けた。

 そうだ。そんな時に聞いたんだ。いつも通り学校の宿題を持ってくる名前も知らないトモダチが「ドルフィンをはじめた」と。

 母づてに聞いた情報に興味を持って自分なりに調べた。今流行りのツール。利便性に富んでいる最新機器。このバーチャル空間に集まって談話する学生も多いという。もしかしたら、この空間でなら私は自分らしく生きられるかもしれない。違う自分になれるかもしれない。そんな考えが過ぎった。


「ドルフィン、やってみたい」


 普段口を開かない私が自分の意思を示したことを両親は喜んでいた。すぐに電気屋さんに飛んでメガネを与えてくれた。

授業にまともに出ていない私は元々の機械音痴も相まって古い自宅の箱型パソコンを壊してしまったことがある。今度はそういくかと、そっとダンボール箱からメガネを取り出した。そしてつるにあるスイッチを入れて、あの世界に飛び込んだ――――。


 痛い。心臓が。私の心が金切り声を上げて叫ぶ。


(私は生きたい。私らしく。私を見つけたい)


 だからこの世界に来たのだ。迷っていた自分に見切りをつけたくて。

 何が勉強のためだ。逃げ道を探していただけだろう。現実の自分の弱さに目を背けて。

叫ぶと同時に口内へ水が入り苦しい。それでも叫び続ける。


(私は生きたい。私らしく。私を見つけたい)


 そうだ。あの日。遠いあの夏の日。あの日に大切な感情を水底に置いてきてしまった。

 ずっと探していたんだ。どんな言葉が周りで波をつくろうと、それに飲まれない自分を。

 ふと、指先に何かが触れた。人間の指。瞬きをすれば、そこに自分のアバターが微笑んでいた。指を絡めて、私に囁く。


「名前なんて、何でも良かったのでしょう? あなたがあなたでいられれば」


***


 瞼が重たい。見えない糸で縫い付けられてるみたい。

 ぐっと力を込めて皮膚に縫われた瞼をこじ開けると、一番に飛び込んできたのは真っ白い天井だった。ぼやける視界を何度か瞬きし、実際には真っ白ではなく少しのシミがある天井を認め、今度は両脇を見やる。左脇は大きな窓。右脇には中くらいの機材と点滴がある。すると、母親の声が頭上から降った。

「まあ! 目が覚めたのね!」

 お母さん、と呟くと母親は目に涙を浮かべ、私がまる一週間意識不明で眠っていたことを教えてくれた。その後慌てて走りながら弟と父親を呼び、病室を騒がしくさせた母だったが、先生が穏やかな表情で注意してからはおとなしくなっていた。

 それから二日間は検査を念入りにされた。

どうやら私はメガネをかけて暫くした後、意識不明になったという。同時期、世間ではドルフィンの強制ログアウトが全世界のサーバーで起こり、それが原因と思われる意識不明者が続出した。ウィザード社側は強制ログアウトは社内で執り行われたものではなく、何者かが意図的に起こしたもの――つまりサイバーテロという見解を示している。原因を究明する為、現在ドルフィンは全てのユーザーのアクセスを禁止、調査を続けているが未だ解明されていない。

 脳裏に自分が最後に体験したドルフィンの異変が浮かび上がる。地響きと唸る風。電子空間であるドルフィンに擬似雨は発生すれど危険な天候や自然現象を起こすことは、安全性を優先するあの世界じゃ有り得ないはずだ。しかし、ウィザード社が言うサイバーテロと片付けるには引っかかる。

(……あれは、きっとカミサマが何かを起こしたに違いない)

 カミサマはあのノイズの後溶けるように消えてしまった。直後飛ばされてしまった自分には、カミサマはおろか他のメンバーがどうなったか分からない。

(カミサマ。サトウさん。オズワルドさん。ナンバーイレブンさん。……ナナシさん)

言い知れない不安が取り巻く中、病室に母親が入ってきた。

「起きてたのね。どう、調子は? あ、リンゴ買ってきたの。食べるでしょ。剥いたげる」

 返事を待たずに母親は袋からリンゴを取り出し、果物ナイフでしょりしょりと皮を剥く。

「でも、安心したわ。あなた一週間も目が覚めないままで……ずっと眠ったままになっちゃうのかと心配だったの」

「……そう」

「学校のみんなも心配してくれていたわよ」

 私はそれに答えなかった。腹の中で言葉がぐにゃりと捻じ曲がっていた。ピラニアが心配なんてするはずがない。待っているんだ。私が溺れて死ぬところを。

「あ、言い忘れてた。あなたが欲しいって言ったから買ったメガネだけど、何だか危険なことになってるみたいだし、処分することにしたから」

「!」

「そんな顔したってダメ。散々ニュースになってたんだから。今は大分落ち着いてるけど、あなたが倒れた日なんてテレビがみんなそのことばかり映してたのよ。大体あなた、機械いじれないでしょ。アナログが一番だって自分で言ってたじゃない」

 ゴミの日になったら捨てちゃうから。母親は一方的にそう告げて、綺麗に皮が剥けたリンゴを目の前に差し出した。皿と一緒に一通の封筒も手渡される。

「そうそう! 手紙がうちに届いてたの。あなた宛」

 私に手紙。不思議に思いながら差出人を見てみる。名前のところに「佐藤実菓子」と書かれているがそんな名前に覚えはない。ますます奇妙になり、開けても安全か封筒を触って中身を確かめてみるが、どうやら中身は紙だけのようだ。はさみを借り、中身を開ける。

 白い封筒から出てきたのは、可愛らしい薄桃色の便箋。花柄でデザインされたそこにびっしりと女文字で文章が綴られている。その手紙のはじまりは、『はじめまして、エイコさん』であった。思わず便箋を握り潰してしまいそうになる。


『はじめまして、エイコさん。あたしはウィザード社のオペレーターのサトウです。先日、サポートセンターの屋上で起きた事件の場にいた、あのサトウです。あの事件の後、色々あって貴方にどうしても連絡が取りたく、本当はいけないんだけど職権乱用で保管してあったユーザー個人情報を利用しちゃいました』


 そうだ、サトウという女の人。ナナシさんと一緒に私達を助けにきてくれたOL風の服を着た獣人アバターだ。そんな人が私と連絡を取りたがっているなんて。


『あなたが病院で目を覚ましたということは関係者から聞いています。この手紙が届く頃には、ドルフィンがどのような状態になっているか大体察しはついているかと思いますが、説明します』


 手紙には私がドルフィン内で意識を失ってからのことが細かく記されていた。

 ナナシさんやサトウさん、その他大勢のユーザーは一旦強制ログアウトさせられた。サトウさんはあの時気を失っていたけれど、すぐに現実世界で目覚め、その時には既に会社が騒然となっていたという。


『ドルフィンが稼働して以来はじめてのサイバーテロかと思われました。強制ログアウトによって意識不明者が続出しているのは、新手のハッカーがドルフィン内にウィルスをばらまいているからだと上層部は言っています。その後、一部の社員でドルフィン内部に入り原因を特定しに行きましたがみんな意識不明となりました。テレビで原因が未だ不明と報じられているのは、ドルフィンに入った人間が一人もまともに帰還が出来ないからです。唯一、アバターに導入したカメラで内部を映したのですが、そこに映っていたのは本でした。あなたがカミサマと呼んでいた少年が持っていた厚い本が、セントラルシティの中央上空で物凄い勢いで情報を吸収していたんです。それはカメラマンであるアバターをも吸収したようです。つまり、あの本は我々をも対象にした人食い本なんです』


 手紙はこう続けられていた。


『現在、ウィザード社はドルフィン内に安全区域を作成することに成功しました。無意味な情報の層を作り、それを壁にすることで作り得たエリアです。情報を食い荒らす本は壁を吸収しますが、本の吸収速度より早く情報の層を積み上げ、中のアバターを守るという仕組みです。それもいつまで持つか分かりませんが。

このエリアは本来社員しか入れないのですが、あたしはナナシさんに連絡をしてこの場所を教えました。今はこのエリア内に彼の拠点を作ってあります。勿論会社に背いてやっていることなのであたしのやっていることは褒められることではないですが、この状況はあのカミサマと名乗った少年に繋がっていると思っているんです。単なるハッカーの攻撃じゃない、何かがある……だから、あの場にいた彼なら、解決策が見つけられるかもって。

 エイコさん。あなたが一般ユーザーでただ巻き込まれてしまっただけだとはわかっているんです。でも、統括はその後意識不明で、あの場にいたのはあたしとナナシさん、そしてあなただけなの。こんな酷なこと言いたくないけれど、助けて欲しい。エリアに入る為のパスワードを書いておくので、良かったら来て下さい。サトウ』


 綴られたパスワードは『FoolishGod(神様のくそったれ)』。なんてパスワードだ。それを見て、私は唇を噛んだ。

「なあに。手紙なんて書いてあるの?」

「やだっ、見ないで!」

 母親が取り上げようとした手紙を死守し、病室から追い出す。ベッドの周りにあるしきり用カーテンをひいて手紙に視線を落とした。

 手紙の最後の方に、追記したような文章が綴られている。


『あたし、ハロルド統括が怖くて、自分の身の保身ばかり考えてきました。でも統括がやろうとしたことは多分身勝手なもので、同じ職場の人間として止めなければならなかったのよね。それが出来なかったことをとても後悔してます。だから今は、自分が出来る限りのことをするの。きっと、ナナシさんもそうだと思う』


『あたし達はあの世界が好き。だからやるわ。でも、これだけはあなたじゃないと出来ない。ナナシさんを支えられるのは、エイコさんしかいないのよ。だって彼、守りたいものがあると強くなるタイプだから』


 あのナナシさんを、私が支える? そんなこと、天変地異が起こってもありえない。

開いた窓から春風が吹き込む。飛ばされないように手紙を封筒にしまうと、頭を枕に預けて景色をぼんやりと見つめた。

(多分、私がこの世界に帰って来れたのは……ナナシさんとカミサマのお陰なんだろうな)

 封筒の端っこを持つ手をまじまじと見つめる。あの時カミサマが私に触れた。あの温もりは一週間経った今でも覚えている。忘れることなんて出来ない。

 それでも、与えられた選択肢を選ぶことは憚られた。

戻るだなんて、どうしてそんなことが出来るのだろう。死ぬかもしれないという状況下に置かれて、誘拐されて、殺されかけた。ドルフィンに戻るということは脳裏に焼き付いた恐ろしい体験をもう一度するようなことになる。

 戻らなければ元通り。クラゲの日常に舞い戻るだけだ。

「もう……嫌だ」

 くしゃっ。手紙を握り潰す。そこまでは出来るのに、どうしても手紙を破り捨てることは出来なかった。まだ私の中に燻る、あの世界に行かねばならないという使命感がそうさせる。

 ナナシさんが呼んでくれた、私の名前が頭の中で響き渡って仕方なかった。

(ただのネット上の関係。薄っぺらい紙みたいな繋がり。このまま忘れてしまえば楽になれるのに)

 温かい風がもう一度部屋に吹き込む。今度は私の頬を撫でるように。それで顔を上げると、桟のところに桜の花びらが舞い込んできていた。

 ベッドから立ち上がり窓から顔を出して病院の庭をぐるりと見回す。庭の奥の方に大きな桜の木が立っているのに目が留まる。

(……探検でもしてくるか。気分も滅入ってるし、気晴らししなきゃ)

 スリッパを履いて病室を出る。集団病室のせいか、人の出入りが激しい自室と比べて隣の部屋は物静かだった。スライド式の扉はぴったりと締まっている。他の病室には看護士が何度も出入りしているのにこの部屋には誰も見向きしない。

 個室の表札はデジタル板で「〇七七四」と表示されていた。苗字などはない。不思議に思って表札をじっと見つめていると、頭上に花びらが降ってきた。

「さくら……? わっ!」

 振り返ると真っ黒いコートを羽織った男が立っていた。ニット帽を目深に被っていて顔までは見えないけれど、その男はこちらを見下ろしていたので慌てて場所を退く。すると男は何も言わずにドアをスライドさせて吸い込まれるように中へ入っていった。ドアが開いた瞬間見えたのは、殆ど何もない病室に一つだけベッドがあったこと。そして男の手に、折られた桜の枝があったことだ。

「ねえ」私は忙しそうに小走りする看護士を呼び止めた。

「なあに、お嬢ちゃん」

「この部屋は個室?」

「え? ああ、そうよ。ちょっと重い病気の子がいてね」

「ふうん」

「あなたと同じくらいの歳の子だったかな。とにかく、この部屋の前では静かにね」

 もうすぐ死んでしまうのかしら、なんて不謹慎なことを思った。何でか、あの男の人が泣いているような気がしたから。帽子で顔なんて見えなかったのに不思議だ。

ああなんて不平等だ。どうせなら、私の方が死んで、この病室の人が生きればいいのに。

 神様の馬鹿。


 病棟内は医師と看護士、そして患者がぐしゃぐしゃに混じっていた。一通り歩き回り、売店も覗いてきた。母親に買ってもらったいちご牛乳は甘過ぎて、半分以上残したままずっと手に持っていた。その後母親を迎えに来た父と少しだけ話して二人とは別れた。

五時を示す夕方の音楽が遠くで鳴っている。病室の開け放たれた窓からそれに耳を澄ませながら、ふと向かいにある桜の木のことを思い出した。

(随分長く咲いているんだな)

 とっくのとうに開花時期は過ぎている。花びらが散って青葉が出始めている木もあるのに、あの桜だけは桜色を目立たせているのだ。

 ベッドから抜け出してスリッパを履く。そのまま私は耳に届く夕焼け小焼けの歌詞を頭の中で呟きながら、するりするりと進み病院の玄関をくぐった。

 思っていたより太い幹でどっしりとした桜の木を前に立ち尽くす。

 狂い咲き、ではないのだろうけど、その木を前にすると不思議と生命力のようなものを感じた。私にはないものだ。

 そっと木に触れる。ざりざりした表面に、よく見ると何かが彫ってあった。患者の悪戯なのだろう。『病気が治りますように』といった願い事がいくつも書かれていた。

(ばからし……)

 木に彫ったところで何にも変わらない。病気を治すのは自分との戦いだ。何かに縋るばかりじゃ変化なんて生まれない。祈るしか脳のない者に待っているのは死しかないはずだ。 

そう思ってもう一度幹に視線を向けた時、ひとつの言葉を見つけた。

『助けてやる』。

 そのたった一言。迷いの無い言葉は他の願い事に混じっていたが、やけに異彩を放って私の目に飛び込んできた。まるで自分の行く先に惑っている私の手を引くように。私はそっと彫られた言葉に指先を這わせた。

「よう、嬢ちゃん。そんなところにいたら毛虫が降ってくるぜ?」

 背後から声をかけられた。何の気配もなかったから気付かなかったが、低音の声から予想するに男のようだ。慌てて振り返ろうとすると、背後から腕がひゅっと伸びてきて木に腕をついた。幹と男の間に挟まれて動けずにいると、男は怖がるなと前置きをした上で、そのまま聞いて欲しいと言った。

「誰でもいいんだ。聞いて欲しい」

(……敵意は、ないのかな。とりあえず、言うことを聞かないと)

 コクンとひとつ頷く。男はふぅ、と短く息を吐いて、「俺は」と話し始めた。

「妹がいるんだ。いや、いたんだ、になるのか。そいつはこの病院で入院してる」

 男の影が幹にじわりと映る。私の影と混じっているが、かなり身長が高いらしく頭がひとつ飛び出していた。

「原因不明の病ってヤツ。意識不明で医者もどうしようもねえって匙投げやがった。それでも生命維持だけは施してもらって、命を繋いでる。医者が匙投げたモンを素人の俺がどうにか出来る訳ねー。それでも俺はあいつの病気を取り除くことが出来ないか方法を探したんだ」

「……どうして」

「理不尽だと思った。ただそれだけだ。いや、俺が負けず嫌いだからかもしれねぇし、単純にあいつが大事だったからかもしれねぇ」

 大事なんてこっ恥ずかしいこと、あいつの前ではぜってぇ言えねえな。

男は後ろでからからと笑うと、幹についていた手をずるずる落とした。私の肩に腕が乗っかると、そのまま自身の頭も私の背中にくっつける。男の髪の毛らしい感触が患者服の中に少し入ってくすぐったい。

 私は上ずった声で男に声をかけた。

「あ、あの」

「結局、そんな魔法の薬なんてどこにもなかった」

 肩に乗っている彼の腕がぴくりと動く。手のひらが肩を掴んで弱弱しく力が篭った。微かに指先が震えているのを感じて振り返りたくなるが、ぐっと堪える。

「はじめからそんなものなかったんだ。病気じゃねーんだからな。事故。現象。電子の海にあいつの意識は攫われちまったのさ。馬鹿みたいに絶望して、泣き叫んで。最後の足掻きで、無くしちまったもんを取り戻してやろうって決めてやったんだ」

「無くしたもの……?」

「――妹の身体。ドルフィンの中でネットダイブにしくじったんだ。アホだからな、あいつ。すぐにメガネを外しちまったんだ。そうしたらコロッと意識を手放しやがった。あいつが入院した後、残ってるはずのアバターを探しにネットに潜ったがどこにも妹の体はなかった。だから、あいつの意識が戻らないなら電脳体(アバター)だけでも取り返してやるって誓ったんだ」

 ネットの海を渡り歩いた。隅から隅まで、行けるところ全てを泳いだ。それでも妹の身体は無い。灰になって消えたみたいに跡形も無くなっていた。

 それでも『諦めたくなかった』。

 諦めたくないのは、一体何だったのか目を逸らして。

 遠い夏の日の、伸ばした先の届かなかった手が記憶を掠める。

「俺はそうやって逃げていたんだ。諦めたくないなんて思いながら死体(アバター)探しをずっとしていたんだ。性質の悪い悪夢を自分でずっと見続けていたんだ。そんなの俺らしくねーのに」

「……誰でも、逃げたくなる時はあります」

「ははっ、よく言うな。――ああ、そういえばあんたは妹によく似てる。だからかな、すごく構いたくなるんだ。そんなあんただから、俺に思い知らせてくれたのかな」

「……?」

「俺らしくあるってこと」

 男の震える手が肩から離れ、桜の木の幹に触れた。細長い指先が彫られた文字を一文字ずつ這っていく。『助けてやる』という迷いの無い決意。最後の一文字まで男の人差し指が撫でると、男がすっと息を吸い込むのが分かった。

「俺は、マイナス思考の奴が大嫌いなんだ。あんたも嫌いだろ?」

 私は答えない。分かっていたようにくつくつと笑いを零すと、男は私の肩を二度軽く叩いた。そうして自然な流れで耳元に口を寄せ、囁く。


「俺は俺らしくやってやるよ。なぁ――――エイコ」


 麻薬みたいに痺れる脳味噌。何が起こったのか理解するのにタイムラグが発生する。

どこかでカラスが羽ばたいた音がした。一瞬の硬直の後音速で振り返ったが、そこに男はもういなかった。夕暮れのオレンジで庭が満たされていく中、足元に落ちている桜の木の枝を拾って、華やぐ香りに私は目を閉じた。


(エイコ。確かにそう呼んだ。私のことを。あの世界の、あのへんてこな名前で)



 彼が付けて生まれ落ちた、もう一人の私。



 身体が空気に溶け込むみたいだった。人生ではじめて風に乗って走る感覚を覚えながらやってきた公衆電話に急いで十円を叩き入れて弟の携帯電話にかけた。今弟は家。まだ六時前だから外は明るい、家を抜け出してこの病院に来ることは可能なはずだ。三回目のコールが鳴り終わると、受話口から声が漏れる。

「どうしたの、お姉ちゃん」

「いい? これからお姉の言うことを守ってきちんと出来たら、あの箱型パソコンをどうにかして直してあげる」

「え、でもお父さんがもう直らないって言ってたよ」

「いいから。どんな手を使ってでも直したげる。お姉はこれでも情報技術科の生徒なのよ?」

「……機械オンチのくせにぃ?」

「渋ってないで、早く持ってきて、メガネ!」


 深夜の集団病室は、患者の寝息と布団が寝返りで擦れる音が目立つ。運が悪ければいびきが酷くて眠れやしないのだろうが、私は別の理由で眠ってはいなかった。

 枕の下に隠していたものを音を立てないように取り出して息を呑む。辺りを見回して誰も起きていないことを確認し、両手でメガネのつるに触れた。

(このままでいれば、今までと同じ生活が出来る。怖いことなんて無い)

 待っているのはクラゲの生活。波に揺られて誰にも干渉しない。見た目は平和で優しい生き方だ。

そこまで考えて自分の胸に手を当てる。ドクドクと鼓動を打つ心臓の音を感じて、もう一度自分に問うた。本当にこのままでいいのか。


(諦めたくない。そうあの人は言った。そんなこと、私だって同じ)


 カミサマのこと。ドルフィンのこと。自分のこと。


 はじめて流されるのをやめたいと思う。いつか溺れてしまうかもしれないと分かっていても、クラゲのように漂うだけは嫌だ。だって私はクラゲじゃない。ここに生きてる。

 あの夏をやり直せるわけじゃない。失ったものは取り戻せない。そうだ、私は失くすことを知っている。取り戻せないことがあることを知っている。だから手を伸ばす。あの日と同じように――水底が見えなくても、そこにあるものを信じて。

 気付かせてくれたのは『あなた』であり、あの広大な世界だ。

(私らしく、やってやるわ。だって私も本当は、マイナス思考が大嫌いなんだから)

 メガネをかけ、スイッチを入れる。ヴンッとディスプレイが光り、警告文の表示がされた。それを無視して手紙に書かれていたパスワードを入力する。

FoolishGod(神様のくそったれ)

すると警告文が消え、画面の中央に真っ黒い大きな穴が出現した。


「エイコ。前を向こう」


 私の呟きと共に、画面の向こうの私が微笑みながら頷いた。



to be continue...


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