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第三話 かつおぶしと海の槍

 あれから三時間は経過したと思う。


 ナナシさんに連れられ、セントラルシティでネットダイブ失敗後の対処法について情報を探していたが結果は上がらず。ネットに詳しいユーザーに聞いても、ドルフィンシステムの非公式研究チームの資料を読んでも有力な解決方法は無く、皆『サポートセンターに行け』と答えた。バカの一つ覚えみたい。

 一つ気になったのは、どの情報も、どんな人も、ネットダイブに失敗することは危険なことであると認識しているにも関わらず、実際にダイブ失敗経験者の話はどこにもない。私のような間抜けな理由で失敗する人がいるかは定かではないが、少なくとも事故で失敗してしまう人はいるはずだろうに。

 そんな中、私達は今休憩で訪れたお好み焼き店にいる。どういう風の吹き回しか、俺様男のナナシさんが『ドルフィンに来て擬似食事を経験してないのは俺が許さない』という理由でおごってくれることになったのだ。ちなみに、私の好物はお好み焼きだ。鰹節は山になるほどかける。

鼻を掠める香ばしい匂い。もくもくと煙が立つ中、私は目の前の鉄板で焼かれているお好み焼きに釘付けになっていた。

「アンタ、本当に初心者なんだな。今時こんなもんで驚いてるやつ、珍しいぞ」

「だってネット世界なのに匂いを感じるんですよ。お店の中の、煙たい感じも本物みたい」

「分かったから、ちょっと鉄板から顔離せ。ほらよっ」

 ポイッとナナシさんがヘラを使ってお好み焼きをひっくり返すが、勢いが足りないのかべしゃりと鉄板に崩れてしまった。ナナシさんが汚い叫び声を上げて、失敗を嘆く。

「ちょっと、ナナシさん! しっかりして下さいよ。私の初お好み焼きなのに!」

「うるせー! こんなもんリアルでいつだって食えるだろ」

「逆ギレですか。言っときますけどログアウトするなって言ったのあなたですからね」

「ちょいちょい、お客さん」

 肩を指先でつつかれたので、何ですか、とイラつきながら振り返る。和服姿の美人なお姉さんが、お盆を胸に抱えて立っていた。

「少し騒がしすぎまっせ。落ち着きな。それにまだ、これくらいなら綺麗になる」

 お姉さんは長い髪をくいっと後ろに結ぶと、ナナシさんからヘラを奪って鉄板のお好み焼きを綺麗に整形し直す。ソース、青のり、切り分けまでてきぱきと済ませると、それぞれのお皿に盛り付けまでしてくれた。これでええやろ、と男前に笑うお姉さんに、周りの客がパチパチと拍手をする。お姉さんはどうもと周りに応えながら、私にウインクした。

「あ、ありがとうございます」

「ええよ。それにさっきから気にしてたんよ。入ってくる時ずっと喧嘩みたいに言い合いしとったからね」

「話、聞いていたのか」

「少しだけや。ダイブ失敗だとか、サポセンに乗り込むとか。ちょっと危険なハナシ。そうやろ?」

「!」

 押し黙る。私は煙で薄く隠れる男をじっと睨みつけた。

店に入る前から言い合いをしていたのは本当だ。結局有力な情報は掴めないままで、私が泣き言をいいはじめてしまったのが悪かったのだが。ナナシさんは強硬手段としてサポートセンターに乗り込む提案をしてきたのだった。要はドルフィン社に殴り込みに行くのと同じ。そんなこと賛成出来るはずがない。

「焼き始めてから暫く落ち着いたなぁと思ってたけど、またうるさくなりはじめたからね。ウチとしては、この店の中で問題起こされたら困るんよ。店長やからね」

 店長さんは小声で「な?」と意味ありげに微笑む。

「す、すみません! 迷惑かけるつもりはなくて……」

「ええよ、分かれば。どんな問題抱えようとお客様やし。美味しくウチの味を楽しんでもらえたらそれでええねん」

 太陽のように眩しい笑顔を向けるお姉さんにもう一度頭を下げる。しかしナナシさんは彼女をじっと見つめ、小さく口を開く。

「なあ。話を聞いていたなら一つ忠告する。俺達のことは誰にも言うなよ」

 その目は威嚇の意味を込めていた。私はごくりと唾を飲み込んだが、お姉さんは動じず、接客スマイルでナナシさんに囁いた。

「誰に言うても、ウチが得することなんかなーんにもないし。安心せえ」

「……」

「とりあえずウチから言えることは、サポセンに乗り込むなんてアホなことはやめといた方がええってことだけや。あんなトコ、宝探しに行く場所違うで」

 何か知ってるんですか、と反射的に聞き返す。店長はにんまり笑った顔をお盆で隠して、私とナナシさんを交互に見つめ、背を向けた。それは秘匿の合図に思えた。

「ま、探し物してるなら、神様でも探しなよ」

 神様。そう言われて、脳裏にあの少年の姿が過ぎった。あの子なら私の今の状態の打開策を知っているだろうか。今頃、あの場所でどうしているのだろう。

「……神様がこの世界にいるのなら、どうして俺の前に現れねーんだ」

そんなことに思いを馳せていて、私はナナシさんの呟きを聞き流してしまった。


 『お好み焼き薔薇の花』のお好み焼きは、店名はともかくリアルで食べるお好み焼きより数倍美味しかった。実際に食べている訳ではないのに、ふんわり焼かれた生地の食感がまだ口の中に感覚として残っている。店長さんとひと悶着あった後不機嫌そうにしていたナナシさんも、結局お好み焼きを食べ始めたらすぐに機嫌が直ってしまった。案外簡単な人なのかも。

 一通り食べ終え、この後どうしようと口にしたのは私からだった。ご飯で幸せタイムを満喫したとはいえ、まだ自分に危機が迫っていることは変わっていない。テーブルに肘をついて、ナナシさんはそうだな、と考え込んだ。

「俺の知り合いにも一応聞いてみたが、全員知らねえと。しかしどこ探しても、経験者がいないってのは引っかかるな」

 宙を指でスライドする。半透明の小さなメニュー画面が表示され、その中から調査した文献や聞き込みをまとめた文書をさっと見直し、顔をしかめた。「やっぱ乗り込むしかねえよ」と、ナナシさんは低く自分に言い聞かせるように呟く。

 立ち上がりレジで会計を済ませると、のれんをくぐり私達は店外へ出た。おごって貰ったことに頭を下げつつ、私は彼の呟きに待ったをかける。

「だめですよ、乗り込むだなんて」

「危険だがしかたないだろ。お前が連絡した時、あいつらはお前を消そうとした。明らかに怪しいのはドルフィン側だろ」

「むう……。ねえ、ナナシさんはハッカーなんですよね?」

 私の質問に眉をひそめながら、ぶっきらぼうに「ああ」と答える。長い前髪で少し影がついた彼の表情は少しだけ困ったようだった。

 この世界でのハッカーは、ある特殊なプログラムをアバター内に組み込むことによってそれを可能にしているとオズワルドさんから教わった。ナナシさんなら目、オズワルドさんなら手の甲にあったような紋章だ。

 紋章によってハッキング能力に差異があり、それがナナシさんの言う『専門』らしい。ちなみにオズワルドさんはプログラムのコピーと書き換えが、ナナシさんはプログラムの破壊が専門という。私からしてみれば魔法のような能力。何でも出来そうな彼らの力で情報収集は出来ないのだろうか。

「無理だな。というより、もうやってんだよ、そんなこたあ」

「!」

「けどなあ。手当たり次第にアクセス侵入すれば足がつく。だから一番怪しいサポセンにハックかけるのが手っ取り早いんだが、流石にちっと難しい。ただ、あそこの内部地図データは掠め取ってやったんだ」

 褒めろ、と言わんばかりににんまり笑い、私にポイッと地図データを投げて寄越す。丸まったそれを広げてみれば、それはどこかのビルの内部が詳細に書かれていた。ナナシさんが指差す方を見れば、北西の方に高いビルが見える。

 セントラルシティは中央の高層ビル――――ドルフィンメインシステム課を中心に円形に出来た都市で、円の中に正方形を作るようにビルが四つ建てられている。それらはドルフィンの各管理室で、その内の北西に位置するのがサポートセンターなのだ。

「だから直接乗り込んじまった方がいいんだよ。分かったかアホ毛」

 私の頭頂部をわしゃわしゃかきまわしながら言う。人を小馬鹿にする言い方はやめてほしいと口を開くがどうにか押し留め、首を横に振った。

「でもやっぱり、乗り込むなんてダメですよ」

「あンだよ。俺にハッキングさせるのはよくて、サポセンに乗り込むのはダメなのか」

「ち、違います。ハッキングも本当は悪いことだって学校で教わりました。でも何が正しいとか悪いとか、そんなことどうでもいいんです。ただ私は、」

 俯くと影が落ちていた。この空に出ている太陽も、光も、影も、全部偽者だ。それでも、あの時――――あの黒頭巾達に襲われた時の恐怖は、本物。ホンモノなんだ。

 ふと、息苦しくなる。水の中にいるような感覚が蘇る。溺れていく。沈んでいく……。

(誰も、もう傷ついてほしくない)

 強くそう思った。気付けば手のひらをぐっと握り締め、唇を噛んでいた。

「あんな危ない目にあったのに、あんな危ない人たちがいるかもしれないサポートセンターに直接行くなんて、頷けません」

 だって、ナナシさんが傷つきますよね?

 はっきりと目を見て彼に言うと、ナナシさんは口を開いて何か言いかけた。直後目を細め、ばっと背後を振り返る。彼の影から後方を見やるが、特に何もない繁華街が広がっているだけだった。白髪の男を見上げて彼の名前を呼ぶと、男は小さく舌打ちし、宙にメニュー画面を開いてこちらに何かを渡してきた。

手の中を見ると、小さなプレゼントボックスの形をした箱だった。私は首を傾げる。

「これ、なんです?」

「いいから持ってろ。そんで、危なくなったら投げろ。いいな」

 本当の瞳を隠した黒い目は否定を認めなかった。黙ってこくんと頷く。

 あの電柱まで歩け。そこから先は走って、クリスタル使ってオズワルドの店まで行くんだ。ナナシさんは小さな声で命じると、コツコツとゆっくり歩く。

 繁華街といってもレストランが多いこの通りは、昼を過ぎれば人はまばらになる。それでもユーザーは少なからずいる。まさか、こんなところで襲われるなんてことはないだろう。……ないでしょう?

 電柱が近づく。細長く伸びた電柱の影の先が果てしなく遠い気がした。あの影を越せば、地区を移動出来るクリスタルがある。それに触れればいいだけ。いいだけなんだ。

「そのまま歩け」

「――――!」

 ナナシさんはそう耳元で囁くと立ち止まった。私は彼を追い越し、ぼうっと立っている電柱を通り過ぎる。

「つけられてたんだな。俺様としたことが、ぬかっちまった」

 私が走り出すのと、ナナシさんが大声で叫んだのは同時だった。

「出てきやがれ! こンのストーカー野郎!」

 風を切り裂くヒュンッという音が耳を掠めた。私は思わず足を止めて振り返る。辺りにいた通行人はどこにもいなかった、いや、通行人自体が、彼が警戒したモノだったのだ。

通行人は泡が弾けるように一瞬で黒頭巾へ変貌する。その他、今回は騎士のような鎧に身を包んだ人たちが、剣の切っ先をナナシさんに向け襲いかかっていた。騎士達はなだれ込むように彼を取り囲み覆い被さっていくが、一つ間を置いてその場の空気がピリッと変わる。まるで空想世界のドラゴンのような――電流が迸り、ナナシさんを押さえつけていた多くの騎士を跳ね飛ばした。小爆発を起こした周囲からは薄く白い煙が漂う。その中で、赤い閃光のように妖しく光る瞳が楽しげに細まった。

「けっ、トリトンもざまあねーな!」

「ちょっと、ナナシさん! 後ろっ」

 油断した彼に叫ぶ。彼は瞬時に振り返り、体を反らした。ブオンッと風を掻っ切る音と共に槍が彼に振り下ろされる。間一髪避けたナナシさんは、軽く跳躍しながら後退して槍使いの女を睨みつけた。

 槍使いの女騎士はキリリとつり上がった目を彼に向ける。白い鎧、白い槍、そして赤く燃えるような色をした長い髪が印象的だ。明らかに敵意を向けられていると感じた私は、知らずのうちに一歩下がる。すると女騎士は槍を構えたまま私に視線を移し、口を開いた。

「小娘、私はドルフィンの安全を守る海神隊(かいじんたい)のリーダー、ナンバーイレブンだ。抵抗せずこちらに来い。これは命令だ」

 上から押さえ込むような、有無を言わせぬ物言い。私は飲み込みかけた言葉を搾り出す。

「で、でも! そちらに行って、私のアカウントは安全が保たれるんですか」

「貴殿の言う安全と、我々が守る安全は必ずしも一致しない。我々が守るのはドルフィンの安全だ。そしていかなるユーザーも、この世界の平和を脅かしてはならない」

「そんな……。サポートセンターに連絡したら襲われるし、アバターは壊れるし、一体私が何をしたっていうんですか!」

 答えないまま、女騎士は槍の先端をこちらへ向けて構える。

 ――――逃げなきゃ!

「おいおい、こっち無視すんなよ、ナンバーイレブンさん」

「くっ、緋の目、貴様! いつもいつも……邪魔をするな!」

 私が再び走り出そうとした時、黙っていたナナシさんの目から閃光が迸った。赤く光った彼の紋章の瞳は魔法陣を浮かび上がらせ、先程と同じ電流を宙に放つ。槍でその電流を切り裂く女騎士は、標的を私から彼へと変え刃を振りかざした。



(ダメだ、そんなのダメだ)



恐ろしい想像が脳裏を過ぎる。溺れるような感覚に息が詰まっていく。

ぎゅっと握った手の中に違和感があった。彼から貰った箱。

危なくなったら投げろ。確かに彼は言った。誰が、とは言わなかった。

「何してる! 行け!」

「あなた一人残していけるわけ、ない、でしょ!」

 大きく振りかぶり、箱をナナシさんと女騎士が戦う中に投げ込む。瞬間、爆発と共に茶色の屑が辺りにどっさりと降り何も見えなくなる。すぐにそれが目くらましの道具だと気がついたが、もう辺りが茶色の屑だらけで道が見えないし、何だか香ばしい匂いでくらくらする。

 目くらましとはいえ、一体これは何なの! 呆然と立ち尽くしていると、右横からぬっと出てきた腕が私の腕を掴んだ。

「止まってんな、行くぞ!」

「な、ナナシさん! これって一体」

「メシがうまかったからな。感動ついでに、便利道具を作ってみたまでだ! 驚いたか!」

 ああ、この香ばしさ……かつおぶし、ですか。


 大量のかつおぶしの中から現れたナナシさんに手を掴まれ、引っ張られるがまま走る。後方で女騎士が怒声を上げるのが聞こえたけれど、私達は振り返らなかった。


***


「君のデータを探知して追ってきたんだと思う。僕の偽装が甘かったんだろうね。ごめん」

「オズワルドさん。あの、謝らないで下さい」

「いや、悪いのは僕だからね。でも、もう一度書き換えておくから、暫くは安全だよ」

 今度こそね。私の服の袖を捲くり、データの書き換えを始めた店主は申し訳なさそうに微笑むと、作業に戻った。

 オズワルドさんの店に戻り、私は再びデータの書き換えを受けている。作業中は動けないので、髪の毛に絡まった先程のかつおぶしを一つ一つ取り除きながら暇を潰した。

ちらりとオズワルドさんを見やると、彼の横に謎の数値が表示された画面が浮かんでいた。かつおぶしをテーブルの上にちょんと乗せながら、私は尋ねる。

「これ何です?」

「これはアバターの破損度を示す画面。普通はゼロなんだけど、君みたいに破損してるとその部分が黄色や赤になるのさ」

「へえ。そんなのも確認できるんですねえ」

「一般アバターには馴染みないと思うけどね。僕らみたいなハッカーはハッキング先の防衛システムに攻撃されることが多いから、いつでもアバターのチェックが出来るようにしているのさ」

 そんな面倒なことになるのを承知で、どうして不正アクセスなんてするのかしら。顔をしかめると、店主はにへら、と意味深に笑った。まるで心を読まれてるみたいで、唇をぎゅっと噛む。

「そういえば、昔破損度が百なのに動いてるアバターがいる、なんて怪談があったりしたなぁ。そんなアバター幽霊以外ありえないってのに」

「あんまり笑い話に出来ないですよ、それ……」

 そういった方面は得意ではない。ただしUFOの類はテレビ番組を録画しちゃうくらい興味はある。

表示されたアバターの破損表示画面には、腕の部分だけ赤くなっていた。修復と書き換えが完了すると、やっとかと肩をなで下ろす。

笑い話から表情を変え、「彼らはやはりエイコちゃんを探しているようだ」と難しい顔をして店主が呟いた。誰に、とは言わずもがな。

「結局何の情報も得られなかったんだろ。もうおとなしく海神隊(やつら)の言う通り、アカウント破棄を受け入れて、新しくアバターを作り直すしかないのかもね」

「いや、それはダメだ。そんなことをしたらおしまいだ」

 オズワルドさんの言葉をすぐに否定する。ナナシさんはあれからむすりと不機嫌そうに椅子に蹲り、背もたれをギシギシ言わせて考え込んでいた。何がおしまいなのか分からないが、私としてもこのアバターを手放すことには賛成しかねた。

 せっかく作った自分のアバター。ネット世界に依存している訳ではないけれど、何となく愛着があった。メガネを通して、アバターを通してドルフィンを感じているからだろうか。この体がただのプログラムとして消去されるなんてことは認めたくない。

「しかし、ナンバーイレブンまで出てきたんだろ。あいつの執念深さと強さはお前だってよく知ってるだろ」

 ナナシさんは黙る。ギシギシと背もたれが悲鳴を上げた。

 私は首を傾げながら尋ねた。気になっていることがあったんだ。

「あの隊長さんとはお知り合いなんですか」

「知り合いっていうか、犬猿の仲だよ。僕はあんまり表立ってハッキングとかしないけど、こいつは堂々と正面突破するタイプでね。そんでよくトリトンに追いかけられてるんだけど、よくバトルするのがあの女騎士隊長さんってワケ」

 なるほど。初対面じゃなかったのか。もしかして、ナナシさんの運営嫌いの理由もそこに含まれてるのかしら。

「ま、俺様があの女に負けるはずがねえけどな」

「しかし、油断は禁物だぞ。今回の連中の動きは明らかにおかしい。血眼になってお嬢さんを始末しようとしてる」

うへぇ、と情けない声で項垂れる私に、ナナシさんはぽんぽんと頭を撫でた。黒い手袋の感触に、変な感じがする。何だろう、今まで経験したことのないような。

「そうだな。やっぱ何か隠してるんだよ、システム側は。だがそれを暴くのが俺の仕事だ」

 ナナシさんはそう言って、先刻手に入れたサポートセンター内部の地図データを広げた。この店の店主は呆れたように溜息を吐きながら、この秘密部屋の戸をしっかりと締める。長年の付き合いからか、ナナシさんが言わずとも彼の取りたい行動が分かるようだった。

「行くのか。言っとくが僕は行かないからな。お前みたいに身軽に動ける自信がない」

「構わねえ。俺とエイコで行く。お前はここで敵の位置を教えてくれればいい」

「結局手伝わすのな。ま、長い付き合いだし、お嬢さんのためでもあるし、別にいいけど」

「ちょっと待って下さい!」

 私の制止に二人が同時にビクッと肩を震わせる。

 何だか勝手に話が進んでいるけれど、つまりサポートセンターに乗り込む話だよね。それについては認めるわけにはいかない。

「ダメです。乗り込むだなんて、危ないです!」

「エイコ、お前なぁ……」

 呆れられようと、これは曲げられないことだ。私はキッと強い視線で白髪のハッカーを見つめた。

(……どうして、ナナシさんは、)

 この人は、見ず知らずの私のことを、こんなに気にしてくれるのだろう。

(見返りを求めている? 私がドルフィン初心者と知っているのだからそんな期待するはずない。慈善事業をするような人でもないはず)

 どうして――――。

「自分の立場分かってんのか。トリトン達がお前を消そうと隊長クラスまでが躍起になってるんだ。お前の体もいつまで持つか。今は時間がねぇんだよ」

「それでも、私は頷けません!」

 てめえ、とナナシさんが椅子から立ち上がる。無機質な部屋に椅子が倒れる音が煩く響いた。私の胸ぐらを掴み顔を引き寄せ睨みつける。鋭い眼光に怯みそうになったけれど、私は意地でも目を逸らさなかった。少しして、舌打ちしながら彼は私から手を離す。

「お前はそのままでいいのかよ」

「私のことで、無関係のお二人を危険な目に合わすなんてこと、出来ません」

 リアルの自分が拳をぎゅっと握った。こみ上げてくる吐き気と、喉の奥から歪に震える悲鳴を押し込める。


 誰かが傷つくのは、嫌だ。


 体の中に海水が充満して肺を腐らせていくみたい。何だか息苦しかった。

「よく言うぜ。俺より弱っちい、ただの初心者ネットダイバーが」

「そう、初心者なんです、私。だから、正直ネットが怖いです。色んなこと分からなくて迷ったりします。でもそれって普通ですよね。無知だから怯えるのは、悪いことですか」

「臆病者。弱虫。っていうんだ、そういうのを」

「私は、ただ」


 目を閉じた。瞼の裏に焼き付いた、あの夏の日の水面(みなも)。嗤う子ども。飛び散る水飛沫。

 息苦しい。息苦しい。

 ここは、あの水底じゃないはずなのに。


「……会ったばかりの人を信用できないんです。だから迷うし、臆病になる」

「……てめえ」

「とにかく、危ないことはしないで下さい。ね?」

 背を向けた彼に触れようと手を伸ばしたが、何となく今は触れてはいけない気がして、その手を引っ込めた。代わりに、もう一度情報集めに行ってくると言い残し、私は秘密部屋を後にする。


「――――馬鹿野郎。それじゃ、遅いんだよ」


 ナナシさんの呟きは、そのまま空気に溶けて私には届かなかった。



to be continue...



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