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棺に花  作者: きくらげ
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氷解

元々は氷の心臓という仮題がついていました。が、刊を同じくする同士と、タイトルがかぶりました。まさかの。

僕はこのオムニバス、全てハッピーエンドのつもりで書いているのですが、同士にハッピーエンドだと認められたのはこの作品だけでした。故にある意味一番自信作で問題作。

 雨の音がヘルメットの中にこもる。少し遅咲きの金木犀の香りが排気ガスの中に混じって、不快とも言い切れない匂いを漂わせる。視界を曇らせる雨と朝もやに、ハンドルを握る手も慎重になる。交差点で減速をしたとき、奥に作りかけなのか、むき出しの梁が見えた。

 バイクの振動音が赤信号とともに緩くなったとき、私は自分の左側を見た。そこには吹き付ける風雨などお構いなしに、私の横に浮遊する彼女がいた。肩の長さで切りそろえられたコバルトブルーの髪が揺れ、アメジストの理知的な眼が怪しく輝き自らの爪を眺める。傷一つない掌から、一筋の光が零れ落ちる。

 その色へと感想を抱く前に歩行者用信号の音が止む。バイクを発進させると、彼女も滑るように追従した。

 彼女は幽霊でもなければ超人でもない。

 彼女は、私の幻覚なのだ。

 勤務先の大学へと到着し、バイクを降りて早々に研究室へと向かう。白いものが混じりかけた髪はヘルメットで抑え込まれていたせいか、額に張り付いていた。サイドミラーに映る、老男の窪んだ瞳。少々の坂を上り、さらにエレベーターで上がり、研究室の扉を開ける。荷物をおろし書類やパソコンを机に出す。長年連れ添ってきた眼鏡をそっと外し、汚れを拭き取る。節くれだった指に、小さな傷が馴染んでいる。

 備え付けの古いテレビを確認すると、中継で写された妙齢の女性が小雨の中で快晴を告げた。気温は二十度、暑くもなく寒くもない。バイクで冷えた体には少し肌寒いほうだろうか。窓際を見ると、外の木が美しい木漏れ日を作り出していた。窓には太陽光が宝石のように反射して輝いている。

 しかし、私の眼に青空は映らない。曇天の空は静かに雨を降らせているのみである。これもまた、幻覚だと自覚している。

 カバンから取り出したレポート用紙の数を数えながら、慣れた手つきでコーヒーメーカーのスイッチを入れる。朝はやはりコーヒーがなければ。一欠片のチョコレートと、小さじ一杯のグラニュー糖を小さなカップの中に落とし込む。

 彼女は狭い研究室内を歩き回った後、テレビの前に陣取った。画面が見えなくなり、ニュースキャスターの能天気な声とコーヒーの静かな匂いだけが、空間を支配する。そこにそっと、レポートがめくれる音を加える。

 講義の開始まではまだ時間がある。研究室の奥に佇む小さなオフィス椅子に腰かけ、学生たちの小レポートに眼を通していく。

 彼女はテレビの前にいる。私はテレビの横にいる。



 彼女は氷の中にいた。否、この言い方では語弊があるだろう。一メートル弱ほどの氷柱の中には、彼女の形の空洞が存在しているだけだったのだから。

 何故そのようなことが起こり得たのかは一切合財不明である。しかし髪や睫毛の一本、爪の一枚、皺や指紋の一つでさえも、一糸まとわぬその神々しい姿態を一つも漏らさず、その氷柱は鮮明に、克明に彼女を物語っていた。

 その表面は吸い付くように滑らかで、一点の曇りもない。その冷淡な色は水晶のようにも思えたが、一緒に発掘された小さな立方体を解析した結果、IX相の氷に似た状態であるという結果が出たらしい。結晶のような長距離秩序はなく、ガラスのような非晶質状態に近いというのが最近の見解である。便宜上氷と呼ばれているその柱は、我々考古学者にとっては未知の世界の遺物だ。かくいう私も考古学者の端くれ、興奮を抑えきれない。まるで縛り付けられたかのように、彼女から目を背けることができない。教授は達観したような表情をしていたが、それでも瞳の奥に宿る光を隠しきれていないようだ。最近落ちた視力を補う眼鏡が、黒い前髪を払いのける。

 空洞内は見たところ少しの埃すらなく、中で人が死んだ等という仮説は立つことすらなかった。誰かの吐息が空気を揺らすたび、滑らかな表面が光を反射させる。

 生物の手で作り出せるとは思えないほど澄み渡ったその美しさが、氷の少女という空洞によってのみ、歪められていた。



 ふと気付くと携帯電話から授業十五分前のアラームが鳴っていた。どうやら、うたた寝をしていたらしい。あらかじめ出しておいた道具一式を抱え、急いで教室へと向かう。やはり夜更かしは避けるべきだと、最近白髪の増えた頭髪を撫でつけながら考える。教室に入る前にもう一度身支度を整えて深呼吸。扉を開けると、大きな教室にまばらに見える学生たちが私を迎えた。

「おはよう、皆さん。出席確認を始めるよ」

 一人一人苗字を呼んでいく。先週より人数が減った気がするのは気のせいではないだろう。

「今週からは貝塚について講義するって話だったけど、皆さんは覚えていたかな」

 ノートやルーズリーフを取り出す子、眠そうな顔で肘をついている子、すでに半分寝入っている子など、実に様々である。それでも、一人でも私の授業を聞いてくれる子がいる限りは、頑張ろうと思える。考古学分野は必修でも何でもなく、単位も取りづらい。必然的に人気のない授業となっていたが、それでも毎年、受講生が一定以上はいる。

 最前列の机には彼女が座っていた。褐色の足を窮屈そうに机の下へ押し込み、ムーングレイの髪を耳へかける。深いアイスベージュの眼が、私をすり抜けて黒板を射抜いていた。

 彼女の熱視線に応えるかのように、黒板は授業内容を語りだす。チョークが黒板を叩くたび、埃が瞳の奥を貫いた。薄い窓から仄かに雨の音が聞こえる気がする。

「日本最古の貝塚は千葉県の西之城貝塚と神奈川県の夏島貝塚であり――」

 彼女の眼は私を見ない。私は彼女に背を向ける。



 いよいよ、氷柱を調べる時が来た。というのも、それ以外に調べることが見つけられなかったのだ。一緒に発掘された小さな立方体は、管轄が他の研究所に回ってしまった。成分の解析も全く進展がなく、実に数年の間、調査は滞った。新たな調査材料を手に入れるために、ついに彼女に手を出すことが決定したのだ。

 一介の助手に過ぎなかった私に、止める手だてなどなかった。彼女に傷を付けるなんて、などというふざけた思いが渦巻いていた。

 最初に傷を入れるのは私の役目となった。皆に、期待していると肩を叩かれ、上司からはこれが成功すれば出世すると言われた。正直、出世などはどうでも良かった。ただ得も言われぬ動揺が、私の中の何かを突き動かしていた。きっと脳とは別のどこかが、私の体を操っている。

 カメラや測定器が設置される中、ただひたすらに彼女を眺めていた。左手に握りしめた冷たいのみが、手汗に塗れている。右手のハンマーを今すぐにでも投げ捨ててしまいたい。しかし、私の体は頑として動かない。彼女を傷つけたくないと、理性が力の限り喚き散らす。

 それでも、少しだけ期待する自分もいた。今までで一番、彼女に近付ける。もしかすれば彼女の内面に触れられるかもしれない。薄暗い欲望の快楽が、皮膚のすぐ内側を這いずり回っていた。

 撮影の準備が整い、ついに私の出番となる。そっと彼女の台座のわきにしゃがみ込むと、そっと手袋をずらした。親指の付け根のあたりが、氷の表面にそっと触れる。

 想像よりずっと滑らかで、想像よりは冷たくなかった。

 触れた部分に震える手でのみを当てる。硬質な氷柱に、小さなのみが途端に頼りなく感じる。私は本当に彼女を傷つけられるのだろうか。そう考えた時、この行為の本当の意味が分かった気がした。

「では、始めてください」

 静かな声が後ろから響く。薄暗い恐怖。しかし同時に湧き上がる恍惚。そして、彼女にのみを突き立てたときふと思ったのだ。これで彼女に会えるかもしれない、と。

 瞬間、彼女の崩壊は始まった。傷の付いた位置から霧散するかのように、ゆるやかに、しかし素早く。彼女は私の前から消え散って行った。



 チャイムの音が鈍く響き渡った。眠っていた生徒たちも起き上がる。頬に机の跡が付いている子もいた。

「それでは、今日の講義はここまで。来週に試験要項を出すので、欠席しないようにしてくださいね」

 あからさまに顔を歪める子もいれば、さっそくノートを見返し始める子もいる。そろそろ長時間話し続けるのは辛くなってきていた。年を取った証拠だろうか。

 静かに扉を閉め、自分の研究室へと向かう。道すがら吹く風が冷たく、降ってはいないだろう雨から隠すように荷物を抱え込んで体を小さくした。私に寄り添う彼女の赤毛が、枯葉に映えて美しい。風に吹かれて広がる白いワンピースは、見ているこっちが寒くなりそうだ。

 彼女は見る度々に色合いを変える。色付いた彼女を見たことがないからだろうか。時には新芽を思わせるペールグリーンの髪。また時には青銅色の四肢。

 そして今はそばかすが似合いそうな赤毛に、揃いの情熱的な深緋の眼。その肌は少しだけ小麦色に色付いていた。どのような色をしていても彼女は美しいのだから不思議だ。涼しげに髪を揺らす彼女を追いかけ、足早に研究室へと急ぐ。

 研究室の中に入ると暖かさにため息が出た。コーヒーメーカーのスイッチを入れる。彼女がもしコーヒーを飲めば、どう思うのだろうか。苦いといって顔をしかめるのだろうか。案外味わい深くため息をつくのだろうか。

 聞いたこともない彼女の声が、脳内をかすめる錯覚。

 吹き始めた風を追い出すかのごとく、そっと窓を閉める。彼女は備え付けの本棚にかじりつき、分かったような顔をして一人うなずいていた。

「君とブレイクタイムが過ごせれば、きっと楽しいだろうね」

 彼女は振り向かない。私はコーヒーを片手に、彼女の背を見つめる。



 傷が広がるでもなく、ただただ霧散していく彼女。瞼の裏側にその光景が何度でも甦る。

 後から分かったことだが、今まで隠されていただけで他の小さな欠片でもこの現象は起きていたらしい。こうなることは予想されていたのだ。全てを承知の上でことは行われ、全ての責任を私たちの研究所へと押し付けられ、トカゲの尻尾のようにあっけなく私個人が切り捨てられる結果となった。彼女に熱を上げていた私は、まさに体のいいスケープゴートだったのだろう。

 少し気の毒そうな、見下すような瞳をした教授。三日以内にデスクを片付けるようにと通告が来る。元々物の少なかったデスクが、さらに殺風景になっていく。唯一の装飾品である家族の写真は、中身だけをカバンに入れて写真立ては捨てることにした。ダンボール一つ分の荷物は思った以上に軽く、それを抱えた自分を後ろから見ている、どこか達観した自分がいた。

 そうして私は職を失った。妻は私にどう接すればいいか戸惑っていた。娘は気を使ってか遊びに誘ってくることもなくなり、少し寂しかった。

 私に残ったのは、彼女への胸を締め付けられる痛みと、のみを突き立てた固い感触からなる罪悪感だけだった。

 しかし、彼女で肺が満たされたその瞬間、少しだけ気付いていたのだ。彼女から解放されると、安堵を覚えた自分に。



 受け持っている講義が終わり他の用事もなく、一人静かに本を読む。文字を追いかけて疲れた眼を休ませようと顔を上げ、ふと彼女を見つめる。コーヒーメーカーを興味深そうに眺めたり、窓の外を眺めたりと、一段と落ち着きがない。

 記憶の中の彼女に色はない。しかし、幻覚の彼女は多種多様な色を持つ。見る度に変わるその色彩は、彼女に似合う色を探しているかのようだ。

 今日の彼女は薄く、氷のように滑らかな白い肌。艶のあるオリーブイエローの髪は太陽の光を浴びているのだろうか、プリズムを纏っているかのようだ。爪は泡沫のように壊れてしまいそうなアクアマリン。氷柱にいたころは一糸まとわぬ姿だったが、今はその肉体を蜂蜜色のAラインワンピースに隠していた。それによって見え隠れするようになったその膝からは、得も言われぬ艶めかしさが浮かび上がる。

 千年の時を生きたようにも、生まれ落ちたばかりのようにも見えるそのリンドウ色の眼は、静かな海のように凪いでいるかと思えば、嵐のように激しくなったり、深海のごとき神秘を醸し出したりなど、信じられないほど感情豊かだ。

 まるで生きているようだと、何度思ったことだろうか。

 私のそばにいるのが暇だったのだろうか、ふと眼を離したすきに彼女は何処かへ消え去っていた。いつものことなので本を読み進める。日本のミイラに関する特集は、なかなかに興味深い。

 窓から差す光が強くなり、夕方になったのだと理解する。窓の外はいつもの通り曇り空に包まれ、夕焼けの幻想的な風景と色付かない雨の違和感が強い。しばらく窓の外を眺めていると、やがて此方へ近付く慎ましやかな足音に気付いた。

 静かにしかし力強く響くノックの音。入室を促すと、そっと扉が開けられる。

「失礼します。炭田(すみた)先生、少々お時間宜しいでしょうか」

「ええ、どうぞ。何の用でしょう」

 授業の質問にきたのだと、その学生は答える。先ほどの授業で真直ぐにこちらを見ていた子だ。肩甲骨までの長い黒髪を無骨なピンで止めている。鋭い切れ長の瞳でこちらを真直ぐに見つめ、松野(まつの)明子(めいこ)と名乗った。

「松野さんですね。先ほどの授業についてですか?」

 勉強熱心なのはいいことだ。考古学に興味を持ってもらえるのは嬉しい。一度は嫌いになりかけた道だが、やはり私に熱意を持たせるのは考古学なのだ。

 松野さんの持ってきたノートにはきっちりと書き込みがなされていた。私の言ったことや自分の疑問点なども書き込んであり、授業での集中具合がうかがえる。

 視界を掠めた扉の外に、彼女の蜂蜜色のワンピースがちらついた気がした。雨の音が、珍しく聞こえてこない。

「夏島貝塚で発見された猪の大腿骨の釣り針は――」

 私は彼女を探さない。彼女はどこかにいるだろうか。私の視界の外でも、はたして彼女は存在しているのだろうか。



 硝子(しょうこ)くんの――妻の真直ぐな声が耳孔をすり抜ける。何と言ったのか聞き取れていたはずなのに、脳が処理を拒否する。窓を打つ雨粒が大きく音を立てる。

「離婚しましょう、と言ったのよ」

 そっと机上に出された離婚届には、妻の名前が既に記入されていた。なぜ、と聞き返す言葉が、自分でも聞き取り辛いほどかすれている。

「クビになったこと自体が原因ではないの。それに、あなたのことは今でも愛しているわ」

 もう一度、なぜ、と聞いた気がするが、妻の耳には届いたのだろうか。机に触れた指先が、酷く冷えている。襖の奥で眠る娘の寝息までが聞こえそうなほどの静寂。静かなリビングに、耳鳴りが響き渡るようだ。

「一か月前……あなたがクビになるよりも前。その頃から、少しずつ考えていたの。あなたは段々と私を見なくなった。少しずつ、家から離れていった」

 視線を部屋に向けると、娘が書いた私の絵が飾ってあった。かくれんぼが大好きな娘。いつも隠れるところに悩んでもういいよと答えられない、娘のあっちゃん。妻の小さなため息に、視線を前に戻す。

 妻はその猫のような鋭い瞳を細くし、軽く伏せる。薄く色付けられた人差し指の爪が、離婚届を力無く柔く撫でる。犬歯にかまれた唇。以前は似合っていると言えた朱色のシンプルなピアスは、疲れた様子の表情とは裏腹であった。妻の瞳が涙にあらがって揺れ動く。

「それだけの理由ならまだ私はあなたの傍にいたでしょうね。でも……私といると、あなたが駄目になるんじゃないか、そんな気がするの」

 小さな溜息がピアスを光らせる。身じろぎした肩口から、愛用の香水の匂いが少しだけ漂う。春を思わせる桜の香り。彼女の好むこの香りが、私も好きだった。

「私以外に好きな人ができたのかとも思ったわ。でも、違うと感じる私もいる」

 寂しげな妻の声を振り切るように、離婚届を引き寄せる。震える手で用紙を持ち上げる。

「娘は任せてくれないかしら」

 雨の音に混じって、娘のまーだだよ、と答える声が聞こえた気がした。



 あれから松野さんは、時折私に質問をしにきた。試験が近いということもあり、張り切っているようだ。教えることに集中しているからだろうか、雨の音が途切れて松野さんの声だけが響くようになる。

 松野さんを見ているうちに気付いたことがあった。少し、彼女に似ているのだ。例えようのない瞳の奥に、静かな知性の泉を湛えている。考古学への熱意は、松野さんの瞳へ強かに光を灯していた。まだ二回生だが、うちの研究室へと誘いたくなるほどだ。決して彼女に似ているからでは、無いと思いたい。不思議なことに私は彼女に、性的魅力を抱いたことはなかった。幻覚になる前の彼女にはあれほどまでに入れ込んでいたというのに。

 もうすぐ年末休みになる。その前に一度試験を挟み、学期末にもう一度試験を行う。年末の試験結果が悪かった生徒は年末休みに呼び出し、救済の講義を行う予定だ。そのためにもテストを作成していく。パソコンの光が眼に刺さる。

 最近やっと使い始めたストーブの熱が、足元を温めてくれている。目頭を押さえてふと横を見ると、彼女がストーブの傍へと座り込んでいた。見下ろしているからだろうか、普段よりも髪が長いように見える。紺鼠色の髪は肩を流れ落ち、その髪の生え際から項にかけたラインを薄暗く彩る。

 白い肌と少し対照的に見えるその色は彼女には珍しく、随分と人間的に見えた。それだけでなく、最近の彼女を飾る色彩は、随分と人間味を帯びている気がする。まあそれでも、人間だとは思えないのだけれど。

 ふと立ち上がった彼女は静かな研究室の中、風に吹かれる木の葉のように動き回る。ストーブを止めて換気をしようと窓を開けると、すかさず寄ってきて窓から身を乗り出した。枯れ葉がこすれあう音と、遠くに人の話し声。傘をさしている者は一人もいないので、今もきっと晴れているのだろう。冬の冷たい風に包まれた彼女は大きく深呼吸をする。クチナシ色のワンピースが老いた眼にまぶしい。

 彼女にならって伸びをすると、体の節々から関節の鳴る音がした。眼鏡をはずし、白髪の混じりかけた頭髪をなでつける。眼鏡の蔓を眺め、レンズをゆっくりと拭いていく。いつの間にか隣からいなくなっていた彼女は、作りかけのテストを前に頭をひねっていた。濃いセピア色の眼が鋭くとがる。真っ直ぐに伸ばされた腕の皮が、肘のあたりで皺を作り出す。

「発掘調査の基礎に関する問題。興味はあるかな」

 彼女は答えない。彼女の声は聞いたことがない。私がただ一方的に、彼女を気に掛けるだけだ。

 風が室内へと吹き込み、部屋の温度が下がる。雨が中に入ってくるが、どうせ幻覚なので気にすることはない。そういえば、雨の幻覚はいつから見始めたのだろうか。

 彼女はパソコン画面のテスト問題を指でなぞる。私は彼女に触れられない。



 彼女が消え去って三か月。昔の伝手から再就職の目処も立ち始め、生活も安定の兆しを見せ始めた頃。

 珍客は私が家に帰ると当然のようにそこにいた。アパートの四畳半を舞台に三拍子のリズムを刻む真っ白の足。同じく白い髪を優雅に揺らし、水晶の瞳が天井を通り越して遥か宇宙のアルファルドを映し出す。大きく広がるチュチュワンピースが、沈みかけの夕日に照らされ茜色に輝いた。

 右足を軸に回る彼女がこちらを向いた瞬間、脳が理解した。大地に水が染み込むように静かに、確実に、氷の少女だと理解した。

 そっと近寄る。彼女は回るのをやめ、こちらへと近付いてくる。とっさに彼女を呼びとめようとし、当然に口を閉ざした。彼女を呼ぶべき名前を私は知らないのだから当然だ。それでもとっさに手を伸ばす。私の手が彼女に触れることはなく、彼女は私を眼に移すことはなかった。私が開け放していた扉に小さな手をつき、外を物珍しそうに見渡す。彼女の目に、私は映らない。

 彼女の眼線の先で一つ二つと雨粒が落ち始め、瞬く間に大降りとなった。連れ戻されたように意識が鮮明になり、窓際に干していた洗濯物へと走り寄る。急いで回収するが、濡れた様子がない。外に手を伸ばすと仄かに暖かく、近くの植木鉢が小さな木漏れ日を作り出している。

「おや炭田さん、開け放しているなんて不用心ですよ。どうかしました?」

 開いたままの扉の外からお隣さんが私へと尋ねる。彼女はお隣さんを観察するかのように真ん前に立つ。お隣さんはまるで見えていないかのように、彼女を透かしてその奥の私を見る。震える声で換気だと告げると、興味を無くしたように去っていくお隣さん。その背へ向けて幼い子のように手を振る、あどけない表情の彼女。

 これは、私への罰なのだろうか。彼女からの解放を得た、私の罪への粛清。

 それとももしくは、全てを失った私への救済だというのだろうか。



 杉玉と赤提灯に挟まれたのれんをくぐると、テーブル席から名前を呼ぶ声がする。居酒屋独特の熱気と酒臭さに包まれ、理由もなく気分が高揚する。

 忘年会と称した飲み会は、数年前から恒例になっている。気心の知れた昔の馴染みを集め、数人で開かれる小さな宴会だ。今年は数年ぶりというようなメンバーもおり、自然に話題は時代を遡る。昔話に、とうに白くなってしまった髪を揺らす。

「研究所時代の写真がこの前出てきてよ、みんな若くて涙が出てきちまったよ」

 個人でも撮っていたのだと、古いカメラを取り出す。あまり感心しないことだがどうしても懐かしく、皆がそれに食いついた。目端で彼女が、脱ぎ捨てられた靴の数を数えている。

「ほら、あの氷柱の前で撮ったやつだぜ」

 ほんの少しの痛み。それでも昔に比べれば、随分と笑えるようになった。あのころはサボテンを飲み込んだとしてもあれほど胸は痛まないだろうと思っていたのに。辛いことを積極的に忘れる人間の脳は、意外によくできているものだ。

「ほら、炭田も映ってるよ」

 元同僚が持ってきた一枚に眼を落とし、箸を取り落とす。たった一枚の写真から眼が離せない。

 それは、氷柱のサイズを図るために撮った一枚。棒を持った私の横に、大きく氷の少女が映っている。一メートル弱ほどの氷柱の中に映った少女。彼女の髪は私の記憶の、幻覚の彼女よりも短い。閉じられた眼元はどうみても幻覚の彼女よりもたれぎみで大きい。写真の中の彼女のほうが、幼さの残る輪郭をしている。傍に来た彼女と見比べても、あきらかに違う。氷の少女は彼女よりももっと神秘的で幼く、人間的ではない。テーブルの上を見て笑顔で首を傾げた、ずいぶんと人間的な彼女。写真の中で静かに眠る氷の少女。

 私は彼女を見ない。彼女は、彼女は……。

 誰だ。



 静かに扉を開ける。いまだに降り続く雨。あの日から、彼女を見た日からずっと、私の視界から雨が降りやまない。足早に待ち合わせ場所へと急ぐ。

 昔の住処の近く、待ち合わせ場所の喫茶店に着くと既に元妻――空木(うつぎ)くんが紅茶を飲んでいた。相変わらず紅茶派らしい。向かいの席に座り、コーヒーを注文する。

「久しぶりね……炭田くん」

 雨が音を吸い込んでしまったかのように、一瞬喫茶店が静まり返り、すぐに物音が帰ってくる。お互いの呼び方にも、もう慣れてしまった。そっと返事を返し、鞄から封筒を取り出す。

 離婚するときに決めたこと。それは、こうして年に一度連絡を取り合うことだった。お互いの生活の話をするわけでもなく、ただ会う。一度だけ今について聞いたこともあったが、はぐらかされてしまった。それ以来、空木くんから話してもらえるまで待つと決めた。夫婦になる前からずっとそうだった。空木君が悩みぬくまで、私は待つ。たとえ娘――あっちゃんのことが気になって喉を掻き毟りたくなったとしても、私は待つ。

 取り出した封筒をテーブルの上に置くと、空木くんは深く頭を下げてから受け取った。

「ありがとう」

 頭を上げた空木くんは息を吐いて言う。養育費とは別に、毎年会うたびにいくらか包んで渡すようにしている。受け取るまで私が譲らないことが分かっているからか、今では無言で受け取ってくれる。

 今年で七度目のこのやり取り。あと何年、続けるのだろうか。人は辛い記憶から忘れていくと言うが、あの日々の記憶を辛いものだとは思いきれない。長くなりそうだ。

 空木くん越しにちらつく彼女のフレアワンピースは蓮の花のように広がる。彼岸花を思い起こす眼が、真直ぐに空木くんを射抜く。紅茶を飲む空木くんのルージュと同じ色だ。ようやく届いたコーヒーを飲み、一息つく。窓の外に眼を向けると、霧雨に包まれて町が見えないほどだ。

 正面に眼を戻すといつの間に移動していたのか、彼女の青灰色の肌に包まれた薄緑の爪が、紅茶の横でテーブルを叩いた。しばらくの静寂。

「ごめんなさい。本当に、本当に」

 罪悪を湛えた、濁った瞳。小さくこぼされた謝罪が何に対することなのか聞く前に、空木くんは席を立つ。その背を追いかけるように、彼女も扉の外へと消えた。霧雨に包まれた背中は、やがて見えなくなった。



 いつか見た交差点奥の作りかけの家を通り過ぎ、待ち合わせ場所へと急ぐ。馴染みの喫茶店に着くと、待ち人は既に来ていた。耳心地の悪い椅子の音とともに、向かい側へ座る。春近くになり寒さはだいぶと和らいだが、それでもまだ指先が冷える。

「久しぶりだね、空木くん」

「今はマツノよ。再婚したの」

 驚きに言葉が詰まる。よく見れば、隈も心なしか薄くなっている気がする。傍を通った店員にコーヒーを注文すると、空木くんが再度話し始める。

「娘も一人で暮らし始めたし、いい機会かと思ってね」

 空木くんから娘の話を聞くのは本当に久しぶりだ。意図的に避けられていた話題を出したあたり、空木くんの決心がついたということだろうか。いつも私と会うときは揺らいでいた瞳が、今日はこちらを真直ぐに見て笑みを浮かべている。いつかの意志の強いつり目が帰ってきたようだ。赤いルージュが空木くんを華やかに彩っている。

「だから、年一回の定期連絡も、これで終わりにしましょう。私も家族を持ったわけだし」

「ああ、分かったよ。惰性的に続けていた面もあったから。……思えばもう十七年、こんなことを続けていたんだね」

「べつに、お互いが嫌いになったわけじゃなかったし。十七年……あの子も今や大学生よ」

 軽い笑い声をあげた空木くん――硝子くんは、まるで一緒にいたころのように穏やかだった。私の前に運ばれてきたコーヒーの熱気が窓に結露の汗を作り、窓際に小さな水たまりを作る。

「硝子くんに似て、美人になったのだろうね。成人はもうしたのかな」

「もうすぐよ。三月生まれだから。……覚えてないのも無理はないわね。十七年間、あの子の話題を避けてきたのは私。あなたには何一つ教えなかったから」

 硝子くんが紅茶をスプーンでかき混ぜながら、右目が少し細くなった笑みを見せる。あれは硝子くんが許してほしいときの笑顔だ。変わった部分と、それでも変わらない部分。下にひかれたソーサーがスプーンからこぼれた紅茶を受け止め、机の汚れを防いでいる。

「別に意地悪でそうしていたわけじゃないわ、あなたには悪いと思ってる。これは私のエゴ」

 フレッシュをコーヒーに混ぜると、すぐに小さな渦を作りやがて見えなくなった。スプーンを抜いて一口。そういえば、コーヒーを飲み始めたのは硝子くんの影響だっただろうか。

「あなたとメイコが会ったら、私は前に進めない気がして……」

「ちょっと待ってくれ…メイコ? アキコではなく?」

 呆然。落ち着くはずのコーヒーの匂いが、今は全く感じられない。思わず硝子くんの顔を凝視する。

「名前まで覚えてないの?」

「いや、あっちゃんとしか……」

 硝子くんはあきれたとでも言いたそうにため息をつく。時間が止まったような感覚。記憶を探るが、一向に名前が出てこない。

「メイコよ。今はマツノメイコ。メイコかアキコで喧嘩になって、私が勝ったのよ」

「そうだ、それで、どちらにも読める明の字を使ったんだ」

 沸々と思考が線を繋いでいく。氷の少女と、見た目を変えた幻覚の彼女。彼女に似た松野さんではなく、松野さんに似た彼女だとしたら。聞こえない雨の音。

 後ろから、聞いたことのない少女の声に、呼ばれた気がした。

「すまない硝子くん、急用ができた」

「あら、なんだかいい顔してるじゃない。いいわ、じゃあ、またいつか」

 最後に硝子くんの瞳を見つめる。瞳の奥に浮かぶ光は、もう陰りを見せない。もう一度つぶやき落とした謝罪を、硝子くんは拾い上げただろうか。

「あなた、変わったわ」

「変わったのは君だと思ったのだけれど」

「いいえ、変わったのはあなたよ」

代金だけを置いて、急ぎ足で喫茶店を出る。雨の音が聞こえない。

 ああ、私の永遠。消えてしまった、消してしまった氷の少女。人間の可哀そうな脳により、姿を変えてしまった氷の少女。

 君の瞳の奥に、温度を感じたいのだ。



 三十まで数え終わり、もういいかいと尋ねる。するとすぐに、まーだだよと声が返ってきた。

「ありがとうねえ炭田さん。うちの子の面倒見てもらっちゃって」

 お隣さんの声が傍から聞こえ、ゆっくり振りむく。ぎっくり腰でも子供の面倒は見なければいけない。子育てとは大変である。

「炭田さんは子供っているのかしら」

 少し考えてから首を振ると、お隣さんは何か聞いてはいけないことでも聞いたかのように首をすくめた。後ろから聞こえてきた子供の声に振り向き、お隣さんの子供を探し始める。すぐに、和室で布団の陰に潜り込む小さなお尻と、それを見つめる彼女を見つけた。藤色の肌が障子越しの光に照らされ、薄く輝く。そっと見ていないふりをして別の部屋を探しに行くと、背後から殊更に嬉しそうな声が聞こえた。少ししてからもう一度和室を覗き込む。

 お隣さんの家はうちと違い和洋二部屋なので不思議な感覚になる。そもそもご近所付き合いというものをあまりしてこなかったため、他者の家にあがること自体殆ど経験がなかった。あの日言葉を交わして以来の微妙な関係は、今も続いている。

 しばらくして背中に軽い衝撃。見ると、お隣さんの子供が腰にしがみついている。抱き上げてやると、満面の笑みを浮かべた。

「つぎ、おじちゃんが隠れる番ね!」

 子供がその場でしゃがみこみ数を数え始め、慌てて隠れるところを探す。彼女は子供に付きっきりで、今度はそのカナリア色の眼を手のひらで覆い隠し、子供と同じポーズをとっていた。その姿が少しだけ、あっちゃんと似ている。

 胸のところがぽっかりと空いた感覚。あっちゃんを思い出すたびに、空洞音がする。穴をふさぐ方法を、埋めるものを、誰も教えてはくれない。

 もういいかいと尋ねる声に、まーだだよ、と大きく答えていた。



 規則的に動いていた足はやがて速度を上げ、店が見えなくなったあたりで駆け足となった。作りかけだった家にはいつの間にか、立派な扉が建てつけられている。先日見たときは気付かなかったが、既に住人も決まっているようだった。

 交差点で立ち止まると、息が上がっている。体力はあるほうだと自負していたが、老いた体は少しの運動で悲鳴を上げた。ネクタイを緩め額の汗を拭うと、青信号とともにまた走り出す。耳元に聞こえる風の音すら置いていくように、ひたすらに走り抜ける。

 耳の後ろ、血管に血が流れていく音。記憶の中にある、何かの状況と酷似している。そう、あれは病院へと疾走した日だ。初めて、娘が生まれた日の興奮。自分の呼吸の音すらおいていくように、ひたすら駆け抜けた記憶。

 途中で足がもつれ、こける寸でのところで立ち止まった。周りが奇異の視線を向けている。それでも、俯くわけにはいかない。顔を上げ、前を見据える。

 少女がいた。私の真ん前に、私を見つめる氷の少女がいた。脳内で変えられた姿ではなく、昔の写真そのままの姿で、少女の瞳が私をとらえている。黒い肩までの髪に茶色い瞳、少し黄色めの肌は日本人のそれだ。

 少女の口が動く。聞いたことのない少女の声。喧騒にまぎれたのかそもそも何も言わなかったのか、聞き取ることはできなかった。それでも何と無しに、何と言ったか分かる気がした。その言葉に答えるためにも、私は再度走り出す。少女の脇を、走り抜ける。

 やがて見え始めた大学に、速度を落とさず滑り込む。エレベーターを待つ時間が惜しく、息も絶え絶えに階段を上る。一段ごとに息を吐く。階段を上りきったあたりで立ち止まり、息を整える。研究室の扉を開けると、当然のようにそこには誰もいなかった。

 思考が風を浴びて冷静になったのか、何故という思いが込み上げてきた。今は春休みの真っ最中だ。当然松野さんはいるはずもない。それにも関わらず、私は一番にここへと向かった。ここに来れば彼女に会えるとでも思ったのだろうか。研究室の中に足を踏み入れる。俯くまいと思っていた頭が、足元に影を作る。

 ふと聞こえた声ともいえない声。耳元でささやかれたような不思議な感覚。惹かれるように振り返ると、そこには彼女がいた。

 汗だくの私を見て驚いたのか、何かあったのかと言って周囲を見回す。

 松野さん。松野明子さん。彼女へと近寄り、その前に立った。彼女の切れ長の瞳が、私をまっすぐに射抜く。瞳の奥に見える炎が、私を勢いよく焦がそうとしてくる。

「先生?」

「……握手を、してもいいかな」

 そっと手を差し出す。一瞬あっけにとられたような顔をした後、彼女は微笑んで握手を返した。彼女に触れて初めて、私の手は汗まみれだったと気付く。しかし彼女は手を放しはしなかった。

 しっかりと握りしめられた手。生活の中で付いたのであろう傷のある、柔らかくしかし芯のある手。節くれだった関節近くには、大きなペンだこがあった。血の通う、確かな暖かさ。

「すまない、いきなり……」

「いえ。驚きはしましたが、嫌ではありませんから」

 そう言った彼女が手のひらを眺めるように少しだけ頭を下げる。その向こうに、氷の少女が立っていた。その姿に色はなく、水のようにも空気のようにも見える。

 もういいよ、と小さくつぶやくと、少女は静かに微笑んだ。丸い瞳を愉快気に細めた、松野さんの笑みには少しも似ていない、少女の笑みだった。いつかと同じように、霧散していく少女。視線を逸らさず、最後まで見届ける。

 先生、と私を呼ぶ声がした。そういえば松野さんは何かしらの用事があってここへ来たのだろう。聞くと、レポートの提出だという。時間があるならここで添削するというと、彼女はコーヒーをいれると言ってくれた。

 窓の外からは、雲一つない三月の空が見渡せた。


 全ての登場人物の名前には由来があります。特にこの話の名前の由来は分かりやすいのではないでしょうか。

 雨の音は結構好きです。窓に当たる音、アスファルトを濡らす音、傘に落ちる音。風の音も好きなので、嵐の日にはテンションが上がります。そとには絶対出たくありませんが。

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