第5話 カエルの王子様
第5話 カエルの王子様
ここで話は1年以上前、ヴィヴィエンヌがグランディール王国を脱出し、セレディア王国へ渡った直後までさかのぼる。
セレディア王都の公爵家別荘では、朝から人の出入りが続いていた。
建物を開けたばかりの頃は、来客用の部屋に覆いが掛けられ、厨房の棚も空に近かった。だが、ヴィヴィエンヌが到着時に連れてきた使用人たちに加え、この別荘へ公爵家が滞在するときに仕事を頼んでいた近所の人々が集まり、住まいはたちまち整っていった。
「今回は長く滞在することになりそうです。いつもの短期のお仕事より、長い契約をお願いできますか」
ヴィヴィエンヌが頼むと、仕事を引き受ける者が数人現れた。メイドたちの勤務日と給金、食事、休みの取り方を確認し、屋敷を継続して維持できる体制にする。
それを取り仕切る侍女は、爵位のある貴族の娘ではなく、ジェントルの家の娘だった。ヴィヴィエンヌは、薬物事件で公爵家と王家が対立しかねない状況に、貴族の令嬢やその実家を巻き込みたくなかった。侍女には身の回りの世話だけでなく、屋敷全体の管理も任せている。
グランディールの実家からは、衣装や書物、当面必要な品が数便に分かれて届いた。しかし、後続の荷馬車はアレクサンドル3世橋の手前で止められた。
「お嬢様、お荷物の残りが国境を越えられないそうです」
「分かりました。届いた分で暮らせます。足りないものはこちらで買いましょう」
ヴィヴィエンヌは荷の目録を閉じた。自分が出国を決めるのが数日遅れていたら、今度は馬車の中にいる自分が止められていたかもしれない。
セレディアへ渡ってからも、実家との手紙のやり取りは続いていた。父から届く書状には公爵家の封蝋が押されていたが、当初は問題なく届いていた。父が国内で婚約解消の手続きと薬物事件への抗議を続けていることも、その書状から分かった。
ほどなくして、召喚状がグランディールの公爵邸に届いた。ヴィヴィエンヌが予測していたとおりだった。父は娘の出国後に届いた文書を受け取り、国内で対応することになった。
ヴィヴィエンヌは別の手紙をしたためた。宛先は、学生時代から親しいセレディアの王子である。事情を直接説明したいと伝え、面会の都合を尋ねた。
返事が届き、2日後に会うことになった。
◇ ◇ ◇
王子は久しぶりに会ったヴィヴィエンヌの話を、途中で遮らずに聞いた。
学院で匂い袋から禁制薬物が見つかったこと。官憲の取り調べを受け、父が迎えに来たこと。シャルロットから危害を加えたと訴えられ、王太子から婚約解消を宣言されたこと。召喚状が来ると読んで川を渡り、実際に後から届いたこと。公爵家の荷物が途中から止められたこと。
「先に渡って正解でしたね」
「ええ。父が国内の手続きを引き受けてくれています。私はここでできることを考えます」
「父上には私から話しておきます。グランディールの王家が何を言ってきても、こちらが事情を知らないままでは困りますから」
王子は少し考えてから尋ねた。
「資金は大丈夫ですか。荷物まで止められているのでしょう」
「今のところ困っておりません。実家から送金もしてもらえますし、別荘も使えますから」
「それなら安心です。警備は増やしましょう。こちらへ来てからも、誰が何を仕掛けてくるか分かりません」
カエルの研究となると話が長くなる王子だったが、この日は一度もその話題を持ち出さなかった。旧友が犯罪の容疑をかけられて国外へ出てきたのである。いま優先すべきことを、王子も理解していた。
「それと、殿下。私、仕事をしてみたいのです」
「仕事?」
「ええ。ここでずっと屋敷におりますのも、もったいない気がして。以前から興味のあった仕事に携わってみたいのです」
「どんな仕事を考えているのですか?」
「博物館で働ければと思っています。収蔵品の調査や整理、展示の企画、解説資料の作成などです。まずはできるところから、お手伝いしたいのですが」
「博物館ですか」
王子は、ヴィヴィエンヌが学生時代から本や資料を好んでいたことを思い出し、変わらない落ち着いた表情に笑みを返した。
「ここは君の国ではありませんし、公爵令嬢だから働けないということもないでしょう。王立博物館へ行ってみませんか。館長を紹介できますよ」
「ぜひお願いいたします」
「では、今日の午後にしましょう。館長には、見学と仕事のご相談をしたいと伝えておきます」
王子は一度王宮へ戻った。
昼食の席で、ヴィヴィエンヌはふと笑ってしまった。
急いで移り住んだ別荘なのに、食卓には温かな料理が並び、清潔な食器も揃っている。前世でフランスに留学し、暖房費や食費を計算しながら勉強していた頃の暮らしより、はるかに豪華で華やかだった。しかも、午後にはまた博物館に行けるという。
「お嬢様、何かよいことがございましたか」
侍女は、婚約を破棄されて避難してきたばかりの主人が楽しそうにしていることを、不思議に思ったらしい。
「本当に楽しいのよ」
ヴィヴィエンヌは笑った。
「仕事を始めるつもりだけれど、お金に困っているわけではないの。あなたのお給金も心配しなくて大丈夫」
「そのような心配をしていたわけでは……」
「ええ、分かっているわ。でも、安心して屋敷のことをお願いしたいから」
侍女はようやく表情を和らげた。午後の外出中も、別荘の管理は彼女が引き受ける。
◇ ◇ ◇
午後、王子が迎えに来た。ヴィヴィエンヌは王家の馬車に同乗し、王都の外縁部へ向かった。
王立博物館は、中世の城壁の一角にあった砦を改装した建物である。厚い石壁と広い中庭に軍事施設だった頃の面影が残り、古い通路をつなぎ直して展示室にしていた。
館には「午後から王子が訪れる」と前触れが届いていた。馬車が止まると、館長が出迎えた。
「殿下、お待ちしておりました。こちらがヴィヴィエンヌ様ですね」
「今日は見学をお願いできますか。少し相談もしたいのです」
「もちろんです。どうぞこちらへ」
館長の案内で回った展示室には、王家ゆかりの宝物が並んでいた。
王冠は実物の形と装飾を忠実に再現しているが、材料はメッキを施した金属や色ガラスである。本物は厳重に保管されている。しかし、職人の細工と製作の手間は変わらず、展示される複製品も相当な高額品だった。
別のガラスケースには、王家の秘蔵品と同じ時代、同じ技術の系統に属する工芸品が収められている。こちらは独立した真正の作品であって、複製ではない。展示は管理棟に近い区画で入れ替えながら行われていた。
たとえば日本なら、東京国立博物館の「三日月宗近」と南宮大社の「太刀 銘三条」のような関係である。姿のよく似た同じ刀工の作品でも、それぞれが本物の文化財なのである。
「王家の宝物を見せながら、保管上の危険も抑えているのですね」
「本物の王冠をこちらへ置くとなれば、警備も管理も大変ですから」
ほかには、王国の歴史や文化を紹介する展示が続いた。館長が長年かけて集め、内容を整えたものだ。遠方から来る王族や上位貴族、富裕な旅行者には案内人や通訳が同行する。セレディア語をよく知る個人旅行者もいるので、説明板は今のところ国内の言葉だけで用が足りていた。
自然史の展示室には、古代生物の化石、岩石や鉱物の標本が並ぶ。その規模は、日本で言えば豊橋市自然史博物館と中津川市鉱物博物館を合わせた程度にあたる。扱う資料は少なくなく、展示を維持する職員もいる。
「王都には美術館や民族学博物館、図書館もありますね」
ヴィヴィエンヌが尋ねると、館長は嬉しそうに頷いた。
美術館では、展示面積のおよそ2/3を制作後1年以内の新作に割り当てている。画家、陶芸家、彫刻家から学生まで、販売する意思のある者が作品を出す。早々に売約済みとなっても、展示期間が終わるまで飾られる作品がある。売れないものもあるが値下げは認めず、翌年には新作展示の対象から外れる。残る1/3は美術館の非売品で、画商や作家から買い取ったもの、他館と交換したもの、寄贈されたもの、来歴も定かでないほど昔から残るものなどだ。
民族学博物館は、屋内の展示室に加えて、広い敷地に屋外展示も設けられていた。敷地の規模を日本の施設に置き換えるなら、犬山のリトルワールドと大阪の国立民族学博物館を合わせた面積の、およそ1/10程度だろう。各地の人々の衣食住や工芸、土地による暮らしの違いを扱う収蔵品が揃っている。
図書館の規模は、岐阜の「みんなの森 ぎふメディアコスモス」から映像・音響資料とその設備を除いたくらいだ。大学の学生たちもよく利用していた。カルチェラタンの大学、古書店、印刷所とともに、これらの文化施設が王都を学園都市にしているのである。
「それで、外国の貴族も留学してくるのですね。私たちも学生時代には随分お世話になりました」
「そう言っていただけると、嬉しいですね」
館長はそこで少し考え、展示板に目をやった。
「もう少し幅広い方々に来ていただきたいとも考えています。外国語が十分にできなくても、知的好奇心を持っている方はたくさんおられますから。学生や商人、遠くから働きに来た人々にも、展示を楽しんでいただきたいのです」
「言葉の問題があるのですね」
「ええ。解説をほかの言葉に直す仕事が進みません。分野が広すぎるのです」
現在の説明板がセレディア語だけでも、案内人や通訳を伴う王侯貴族には不自由がない。館長はさらに多くの人に、展示品そのものへの興味を持ってもらいたかった。
語学の達者な者を集めるだけでは、鉱物も農機具も衣装も、その専門的な意味を読み違えかねない。研究担当者が書き、すでに使われている説明文を正しく訳す仕事である。解説を新たに書き起こす必要はないが、原文の専門用語や学術的な留保を保ち、各言語で展示にふさわしい文章にするには、語学と内容の双方を理解しなければならなかった。
「でしたら、私に翻訳をさせていただけませんか」
「ヴィヴィエンヌ様が、ですか」
「はい。こちらにある説明板を、そのままほかの言葉に直すお仕事ですね。試しに、いま3枚、辞書なしで訳してみてもよろしいでしょうか」
館長は驚いたものの、すぐに3枚を選んでくれた。館内には、4か国から来ている博物館実習の学生がいる。それぞれの母語で内容を確認してもらうことにした。
「ちょうど彼らもおります。仕上がりを見てもらいましょう。専門的な用語も含まれていますが、よろしいですか」
「ええ。原文を見せてください」
最初の解説は、800年前の王の姿を刻んだ金貨だった。金の品位は80%で、王国東北部の河原で偶然発見されたという。ヴィヴィエンヌは原文の数値と発見の経緯を確認した。金貨を作った場所と、実際に見つかった場所を混同してはならない。王国の東北部というのは、発見地点を示している。
次は3000年前の農機具だった。木製部分は復元されており、元の構造と異なる可能性がある。脱穀機の一部と考えられているものの、用途も構造も完全に確定したわけではない。その不確かさを省くと、解説として別の意味になってしまう。
最後は薄緑色のウェディングドレスだった。緑色の糸を出す野生の蛾の繭から取った糸で織られている。染めた布が緑色になったのではなく、繭から得られる糸そのものの色なのだ。どの言語でも、そこが伝わる表現を選んだ。
ヴィヴィエンヌは説明板の原文を順に読み、机に向かった。文章の専門的な意味を確かめながら、4つの言語で次々に訳していく。辞書を開くことも、途中で言葉を探して手を止めることもなかった。
「まず金貨の解説です。皆さん、読んでみていただけますか」
学生たちは自分の国の言葉で書かれた訳文を読み、原文と照らし合わせた。数値にも地名にも誤りはない。続く農機具の説明では、木製部分が復元であることと、脱穀機の一部と推定されていることが、どの言語でも明確に区別されていた。
「こちらの言い回しなら、展示の文章として自然ですか」
ヴィヴィエンヌは学生たちに尋ねた。日常会話と展示解説では文体も異なる。文語と口語の使い分け、よく似た形の文字、規則どおりには変化しない語尾など、母語話者が気づく点まで慎重に見てもらった。
「この専門用語も正しいです。普通の会話なら別の言い方をしますが、説明板ならこちらです」
別の学生も自分の訳文を読み返し、頷いた。4人がそれぞれ3枚の内容を確かめたが、訂正を求めるところは1つもなかった。
館長は翻訳された12枚の文章を改めて並べた。原文3枚を4言語に訳した結果が、すでに目の前に揃っている。これまで担当者を探しても進まなかった仕事だった。
「学生の頃より、ずいぶん語学力が伸びたね」
王子は訳文を見比べていた。
「外交でも活躍できるように、素晴らしい王妃教育を受けてきたんだろう。でも、それを身につける君の吸収力と理解力も、人並み外れているんだね」
「ありがとうございます。実際の展示に使うなら、これからも学生の皆さんに確認をお願いしたいと思います」
「ぜひお願いしたいです」
館長が言った。
「これほど正確に、しかも速く訳せる方を待っていました。既存の説明板を各国の言葉に直す仕事を、明日からお引き受けいただけますか。学生たちにも引き続き協力してもらいます」
「喜んでお受けいたします」
こうして、ヴィヴィエンヌは翌日から博物館で働くことになった。最初の仕事は、専門職員がすでに書いた説明板の多言語化だった。
「もう1つ、ご相談してもよろしいでしょうか」
ヴィヴィエンヌは展示室を見渡した。
「美術館では作品を販売しているそうですが、博物館でも、見学するだけで終わらない楽しみを用意できないでしょうか。例えば、世界各地の衣装を実際に着たり、この国ではレストランの少ない地域の料理を味わったりするのです。衣装や食事について解説も添えれば、展示の内容を体験できます」
王子と館長が顔を見合わせた。
「料理を出す場所も、展示の一部にするということですか」
「ええ。使われる食器や道具も一緒に紹介できます。服を着てみたい方には、それぞれの土地の作法も案内できるでしょう」
ヴィヴィエンヌは窓の外の中庭に目を向けた。
「さらに屋外の広い場所が確保できれば、開発で取り壊される建物を移築して、建物そのものを展示できないでしょうか。昔のこの国の住居を、記録に基づいて再現するのも面白いと思います。室内で絵や模型を見るだけでなく、その住まいに入って暮らしを体感できるのです」
彼女の前世には、古い建物を移して保存し、地域ごとの住宅や暮らしを実際に見せる施設があった。明治村やリトルワールドのような場所で積み重ねられた運営経験を、この世界の事情に合わせて考えていた。
「構想は素晴らしいですね」
館長はすぐに答えたが、続けて尋ねた。
「ただ、どこまで具体化できるのでしょう。建物を運ぶとなれば、相当な仕事です」
「詳しく聞かせてもらえますか」
王子も身を乗り出した。そこで3人は、博物館に付属する資料室へ移った。
資料室には、王都の古い建物を記録した図面、取り壊し予定の建物を含む街区の資料、地域ごとの住居の調査記録があった。3人は実際の図面を机に広げた。ヴィヴィエンヌが建物の種類を尋ね、館長が保存状態や所有者について知っていることを説明する。架空の建物を思い描いて話すのではなく、現に残っているものの候補を絞り始めた。
「場所も先に考えたいですね」とヴィヴィエンヌは言った。「この砦の中庭だけでは、いくつも建物を移して公開するには限りがあります。王都のどこなら来館者が通いやすく、展示を増やしても足りるだけの土地があるでしょう。博物館から歩いて行ける場所か、別の場所にまとまった敷地を取るかで、運営も変わります」
王子は王都の地図を取り寄せ、博物館からの道と、広い土地を確保できそうな区域を確認した。館長は管理する職員の配置や、収蔵品の運搬について意見を述べた。
「まず、移築する建物の状態を調べます。使える部材を記録し、解体前に位置と組み方を分かるようにしておけば、再組立てのときに迷うことが減ります。土台は移築先の地盤に合わせて考え直す必要があります」
王子が尋ねた。
「運んでくる費用は、どう見積もりますか」
「建物ごとに分けます。解体の職人、部材への番号付けと記録、運搬、保管場所、移築先の基礎と再組立て、仕上げ、公開後の補修です。建物を譲っていただけても、移築にかかる費用が小さいとは限りません。壊される予定の建物なら、所有者と解体時期を早めに相談する必要があります。取り壊しの日が決まってから職人を探しても、間に合わなくなりますから」
「すべてが移築できるとは限りませんね」と館長が言った。
「ええ。保存できる部材、補って使う部材、復元する部分を調査の段階で分けておくと、費用も工期も見積もりやすくなります」
館長は資料をめくった。
「古い住居を復元する場合は?」
「残っている建物の実測と、当時の記録を合わせます。分からない部分は復元であると明示した方がよいですね。使ったことのない生活用具をただ並べるより、住まいの中でどう使われていたか見せられると、来館者にも伝わります」
衣装体験については、衣装を作る職人、異なる体格に合わせた寸法、着付けの係、洗濯と補修、衛生面に話が進んだ。来館者が試着する衣装を、展示ケースの中の貴重な現物と取り違えてはいけない。体験用に製作する衣装と、保存する収蔵品は分ける。館長もそれにはすぐ賛成した。
地域料理については、料理人を招くだけで終わらない。食材の仕入れ、季節による供給の差、調理設備、勤務する人員、継続して提供できる品数を検討する。食材がない季節には別の料理を出せるのか、同じ文化圏の料理でも地域で味がどう変わるのか。王子と館長が質問するたび、ヴィヴィエンヌは必要な職人や資料、仕入れの見込みを順に挙げた。
「開館した日は立派でも、翌年には食べられない料理ばかりでは困りますから」
ヴィヴィエンヌは費用を、建設時の支出と、開館後に毎年必要になる支出に分けて示した。資料室の机には建物の図面、必要な職種、運営上の項目が次々に並ぶ。
館長が細部を尋ねても、答えは具体的だった。現在ある施設を長年動かし、来館者を迎え、設備を更新してきた事例を知っているかのように、成功しそうな方法と難しい方法を区別する。
王子は、ヴィヴィエンヌの説明が一段落したところで息をついた。
「王妃教育って、ここまで教えるものなのかい?」
「さあ、どうでしょう」
ヴィヴィエンヌは微笑んだ。前世で知っていた博物館や野外展示施設のことを、2人に説明するわけにはいかなかった。
館長は思った。構想を話す人なら大勢いる。しかし、この若い公爵令嬢は、実際に建物を移し、人を雇い、何年も運営するところまで頭の中で見ている。
館長は移築展示の記録をまとめると、机の別の端にあった書類を引き寄せた。
「実は、殿下と私で、別に科学館の構想を進めているのです」
「科学館ですか」
「はい。まだ構想と計画書の段階で、建物はありません。一度ご意見を伺ってもよろしいでしょうか」
「ぜひ」
2人が建設を考えている科学館は、まだ図面も固まり切っていない。ヴィヴィエンヌは建てられていない館について、王子と館長が用意していた構想を聞いた。
「展示物が古くなったときは、どうなさるおつもりですか」
「傷んだものは直します。改良された装置が出れば、更新も考えます」
「それも必要ですね。ただ、科学館で長く運営すると、もっと面白いことが起こります。開館した頃は最新だった展示が、何年もたつと科学技術の歴史資料になってしまうのです。私は、それを展示物の博物館化と考えています」
王子は手元の計画書を見た。
「壊れていなくても、古い技術の展示になるということか」
「ええ。最初の最新技術を、後から歴史展示の年表に移すのもよいと思います。昔はこうだった、と懐かしむ方もいますし、技術がどのように発達したかを知ることができます。ただ、その分だけ、今の科学技術を紹介する展示も新しく必要になります」
「最新技術を企業から借りられるでしょうか」
「重要な開発成果をそのまま出していただくのは難しいでしょう。見学者に知らせてよい情報にも限りがあります。ですから、大学や研究所、企業から、公開できる研究成果を持つ方に来ていただくのはどうでしょう。研究者や開発者自身が、いま取り組んでいる仕事を実演する展示です」
「まだ完成していない研究でもよいのですか」
「公開してよい部分なら、むしろ面白いと思います。実用化前の技術であっても、特許の出願などが済み、研究機関や企業の了承を得られたものなら紹介できます。何が分かっていて、どこを調べているのか、研究する本人から聞けるのです。公開できる内容と、まだ秘密にしておく内容は事前に確認します」
館長は、書きかけの計画の余白に次々と書き込んだ。
「常設展示と、研究者による実演を組み合わせるのですね」
「はい。天文学なら観望会も開けます。化学や物理については、週に2回ほど会費制の実験教室を続けるのもよいでしょう。展示で知ったことを、実際に確かめられます」
館長は、展示をいつどのように入れ替え、研究者を呼び、実験教室を続けるかまで尋ねた。ヴィヴィエンヌは、新しい資料を受け入れる係、展示の解説を直す係、外部の研究者と日程を調整する係、講座を担当する職員の役割を分けて答えた。準備中の予算書では、建物や装置の取得費と、開館後の人件費や展示更新費を別に考えた方がよいと提案する。
王子と館長は、さきほどから同じことを考えていた。彼女の答えには、まだ建ってもいない科学館が何年も営業し、展示内容が古くなり、それを更新してきたような実感がある。
この子の頭の中には、すでに完成して長く運営されている、高度な科学館があるのではないか。
とても王妃教育だけで説明できる話には思えなかった。
「ヴィヴィ」
王子が、学生時代と同じ呼び方で話しかけた。
「科学館の館長、やってみない?」
館長も頷いている。
「やらせてもらえるなら」
ヴィヴィエンヌは静かに答えた。
「もう少し具体的な提案書をお出しします。設計図面と展示物の案、予算案なども含めて。王子様宛でよろしいでしょうか」
「もちろん。私宛にお願いします。館長とも一緒に拝見しますよ」
建設予定地も建物も、まだ図面の上にしかない。ドックにも入っていない戦艦の艦長が、先に決まるような話だった。
館長は考えた。犯罪の疑いをかけられ、婚約を失って亡命してきた元王妃候補が、このような人物だったとは。贅沢な暮らししか知らない高位貴族の令嬢にも見えない。禁制薬物に手を出すような人柄とも思えなかった。
あちらの国は、しばらくごたつくだろう。問題の根は、王族のところにまで届いているのかもしれない。
もちろん、館長が知っているのは目の前の人物と、彼女から聞いた事情だけである。それでも、長年人を見てきた目が、放っておけないと告げていた。
「当面はこちらで仕事をしてください。部屋を2つ用意しましょう」
館長は、既存の王立博物館にある空き部屋を案内した。
1つは「科学館準備室」。もう1つは「科学館長仮室」。科学館の建物も人員も、正式な設置はこれからである。それでも準備の責任者が働く場所は先に用意できる。
「翻訳の方は、明日から学生たちと進めてください。科学館については、殿下宛ての提案書をこちらで一緒に整えましょう」
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
ヴィヴィエンヌは丁寧に礼を述べた。翌日からはその2室を拠点に、博物館実習の学生たちと既存展示の多言語プレートを作り、並行して新科学館の計画に取り組むことになった。
帰りは王子が、別荘まで送ってくれた。
◇ ◇ ◇
その日から、王子は毎日のように王立博物館へ来るようになった。
博物館の学芸員や学生実習生が解説プレートを扱う間、科学館準備室では建設の図面が広げられる。ヴィヴィエンヌが展示構成や運営計画をまとめ、王子が法令や予算、行政との調整を引き受ける。王子は行政の仕組みに精通しており、担当部署への確認や必要な手続きを次々と進めてくれた。ヴィヴィエンヌが1人で進める場合と比べれば、手間は10分の1以下で済んだ。
王子が毎日訪れる理由は、それだけではなかった。
学生の頃から、ヴィヴィエンヌが好きだった。しかし彼女は幼い頃からアルベールの婚約者で、将来の王妃と決まっていた。研究室でならよく話せても、奥手の王子には、それ以上近づくことなど考えられなかったのである。
今は同じ机で、新しい科学館について話し合える。
図面上の展示室には、国内の自然と環境を紹介する「里の生き物たち」の区画も設けられた。子供たちが興味を持つ昆虫、道端のきれいな小石、普段は雑草と呼ばれる草花、そしてカエル。どれも、身近な自然を知るための展示である。
この区画の監修を担当したのは王子だった。
ただ、資料が仕上がってくるにつれ、カエルの解説だけ妙に詳しくなった。種類ごとの暮らし方や繁殖、鳴き声の違いまで、ほかの生き物よりずっと丁寧に書かれている。
実際の日本にも似た例がある。1992年に開館した名古屋港水族館では、ウミガメ研究者の内田至博士が初代館長を務め、開館当初からウミガメの飼育と繁殖研究に力が注がれた。研究者の専門分野は、施設の展示にも反映されるものなのだ。
「ここだけ説明がずいぶん詳しくなりましたね」
ヴィヴィエンヌが言うと、王子は真顔で答えた。
「まだ足りないところがあるんだ。子供たちには、鳴き声も聞き比べてほしいから」
「では、その体験も展示案に入れましょう」
王子は嬉しそうに新しい用紙を取り出した。
ヴィヴィエンヌが科学館の仕事を始めてから、王子と準備室以外で過ごす時間も増えた。
ある日の昼、2人は護衛を連れて城下町のカルチェラタンにある書店へ出かけた。講義を終えた学生が行き交う通りには、屋根の低い古書店と印刷所が並んでいる。店頭には、印刷所から運ばれたばかりの本と、持ち主の名前が書かれた古い本とが混じっていた。
この書店には、ヴィヴィエンヌも王子も学生の頃から通っていた。主人は彼女が探していた科学技術史の書物を奥の棚に残してくれていた。王子の方には、動植物の図譜が入ったと知らせた。2人はそれぞれの本を受け取り、帳場の前でしばらくページをめくった。
「この店は留学中にも来ました。授業で必要だった本を、ずいぶん探しました」
「留学中も、休日には本を探していたのかい」
「図書室にないものもありますから。本を見つけた日は、嬉しくて部屋へ戻るまで何度も鞄を開けました」
王子は彼女の横顔を見た。幼い頃から王妃候補として育ち、外国の学校でも王妃教育を続けていたヴィヴィエンヌ。彼女にとって、本を見つける喜びは、今も変わらないらしい。
店を出ると、通りの角から焼き菓子の甘い匂いがした。
「今日は私がおごります」
「殿下におごっていただくと、国家予算を使ったような気がしますね」
「自分の財布ですよ」
2人は笑いながら菓子を選び、広場のベンチで食べた。王子の袖に粉砂糖が落ちたのを、ヴィヴィエンヌが指さして教えた。
「準備室に戻っても、そのままでは図面に粉が落ちますよ」
「そこまで心配されるとは」
「あなたは何かに夢中になると、すぐ忘れますから」
王子は布巾を取り出して袖を払った。少し離れた場所で護衛たちが、2人のやり取りを聞かないふりをしていた。
◇ ◇ ◇
別の日、2人はカルチェラタンの路地にある「カフェ・ラパン・アジル」に寄った。大学の講義を終えた学生が帳面を抱えて入ってくる。窓際には読みかけの新聞が置かれ、奥のテーブルでは教師らしい人が学生の質問に答えていた。
ヴィヴィエンヌは学生の頃、ここで講義のノートを書き直していた。アルベールが歴史の課題を広げ、セレディアの王子が動植物の図譜を持ち込んだこともある。川向こうのグランディールへ帰る学生たちは、時刻を気にしながら教科書を閉じていた。
「この店、変わりませんね」
「アルベールは、いつも歴史の課題を最後まで残していましたね」
「ええ。君は課題を終えるのが早くて、よく助けられたよ」
「王子殿下も、図譜を読み始めると同じでしたよ」
昔の話をしながら、2人は飲み物と焼き菓子を注文した。王子は持ってきた科学館の展示原稿を鞄から出しかけ、ヴィヴィエンヌと目が合って笑った。原稿はそのまま鞄へ戻した。
王宮の晩餐では、別の顔を見せることになった。
セレディア国王が招いた東方の大国の使節が、商人の通行に関する古い取り決めを話題にしたのである。通訳が言葉を探している間に、ヴィヴィエンヌが原文の一節を思い出した。
「その条文なら、河川の通行税を定めたもので、陸路の税については別の文書があります。必要でしたら、明日、写しを確認いたします」
ヴィヴィエンヌは使節の言葉でそう答え、セレディア国王へ内容を伝えた。使節は少し驚き、次の質問を直接彼女へ向けた。
王子は隣で静かに聞いていた。ヴィヴィエンヌは使節の質問を丁寧に受け、自然に会話を続けている。
食事のあと、王子が廊下で言った。
「君はああいう席でも楽しそうだね」
「言葉が通じると、相手が何を困っているのか直接聞けますから。古い取り決めも、文書を読めば面白いですよ」
「父上が安心した顔をしていたよ」
「殿下も外交のお勉強をご一緒にどうですか」
「カエルの名前を8つの言葉で覚えるところからなら」
「それは殿下の専門分野ですね」
2人は、灯りのともる廊下を並んで歩いた。
仕事を通じて2人が顔を合わせる時間は増え、話すことも科学館のことだけに限らなくなった。王子は少しずつ、学生時代から胸にしまってきた気持ちを言葉にするようになった。ヴィヴィエンヌも、その誠実さをよく知っている。やがて2人は、仕事だけでなく将来も一緒に考える間柄になった。
父王が息子とヴィヴィエンヌの関係を知ったとき、喜んだのは息子のことだけではなかった。王国の新しい科学館について、2人が国の将来まで考えていることも、すでに報告を受けていたのである。長らく棚上げされていた王位継承の問題にも、ようやく見通しが立ち始めていた。
その間も科学館は、まず書類の上で形を整えていった。建築の図面、展示物の案、人員計画、開館後の運営予算。王子とヴィヴィエンヌは資料を揃え、セレディア国王と行政の予算担当部門に提出した。
検討を経て、計画は正式に認可された。
まだ建物は建っていない。けれど、科学館準備室の机の上には、これから造る科学館の姿が、確かな図面と予算になって並んでいた。
◇ ◇ ◇
セレディアの王宮からマレーヌ川の対岸を望むと、グランディール王宮の長い石造りの正面が見えた。ヴィヴィエンヌは、かつての同級生アルベールの国で続く混乱を思う。
国境を越えて届く父の書状にも、変化があった。しばらくは公爵家の封蝋を押したものが届いていたが、やがて途絶えた。
そこで、公爵家の封蝋を使わず、差出人からも公爵家と分からない普通の封筒で送ってもらった。すると、それまで止まっていた父からの手紙が、再び届くようになった。
封蝋があれば、公爵家の書状だとすぐに分かる。封蝋付きの書状だけが途中で選び出され、没収されていたのだ。一方、封蝋を外した普通の郵便は通っている。大量の郵便を1通ずつ調べ、差出人や内容を確かめるだけの人員も能力も、検閲を担当する軍や官憲にはすでに残っていなかった。麻薬組織による浸透は、手紙を監視する組織にまで及び、その機能を衰えさせていたのである。
仕事を失った人々、薬物事件に巻き込まれた家族、脅迫を受ける官吏。送られ方こそ変わったが、父から届く手紙には、グランディールの落ち着かない状況が記されていた。
「アルベールのことが心配なんだね」
王子に尋ねられ、ヴィヴィエンヌは頷いた。
「長い友人ですから。婚約を解消したことより、犯罪の疑いを私に負わせた判断の方が残念です。でも、あの国で暮らす人々の苦労まで、彼だけに背負わせたくありません」
「私も昔からあいつを知っている。助けてもらったことだってあるよ」
「でしたら、できることを考えましょう」
王子は窓の向こうを見た。2人が一緒に作る科学館の仕事と、川向こうの人々を助ける仕事は、どちらも目の前にあった。
◇ ◇ ◇
その頃、アルベール国王はグランディール王国の国境に近い侯爵領の屋敷で、身を隠しながら王都へ戻る準備を進めていた。机には、別の種類の資料が積み上がっていた。
王都の王宮には、今は安全に戻ることさえできない。王弟とシャルロットの周辺で何が起きているか、報告が届くたびに顔色が変わった。
朝、アルベールは書類を読みかけたまま子供の声に顔を上げた。廊下の向こうで、エレオノールが乳母と話している。子供はもう歩き始めており、小さな足音が扉の前を往復した。
「今日はお元気ですね」
エレオノールが書斎へ入ると、アルベールはようやく笑った。
「君に似たんだろう。私は子供の頃、朝から走り回る方じゃなかった」
「あなたは走り回る前に、忘れ物を探していましたね」
「毎回ではないよ」
「何回だったか数えましょうか」
アルベールは書類に目を落とし、降参したように手を上げた。
エレオノールは彼のために持参した報告を机へ置いた。侯爵領の兵の勤務表と、王都で連絡を取れる官吏の一覧だった。子供のことを気にかけながら、国王が王都の王宮へ戻る準備にも手を抜かない。
「王宮の警備を、今の軍に任せたままでは帰れません。父の兵なら、当面の門番と王族の警護を引き受けられます」
「君たちには、本当に苦労をかけるな」
「そのお話は、王宮に戻ってからにしましょう。今は仕事を進めてください」
アルベールは頷き、勤務表の上に手を置いた。彼には守るべき家族も、戻るべき王都もある。安全な場所で暮らしていても、父の王国をこのままにするわけにはいかなかった。
◇ ◇ ◇
後日、セレディア王国の王子はヴィヴィエンヌとともに、マレーヌ川のアレクサンドル3世橋を渡り、グランディール王国の侯爵領へ向かった。
2人が屋敷を訪ねてくると、アルベールは散らかった机を見て肩をすくめた。
「自分の王都へ戻るのに、他国の助けがいるとはな」
エレオノールが書類を揃えながら答えた。
「それを言っている場合ですか。あなたが王宮へ戻れるようにする方が先でしょう」
「昔から変わらないな」
「あなたもです」
セレディアの王子が笑った。アルベールとは留学時代の同級生で、互いの欠点もよく知っている。
「王様になったら、もう少ししっかりすると思っていた」
「お前に言われたくないな。学校にいる頃からカエルの話ばかりだったじゃないか」
「今もそうだよ。でも今日は、そっちの国の話をしに来た」
王子は笑いを収めた。
報告書には、王弟とつながる商会の名前、麻薬の流通、殺された憲兵隊長の事件、捜査官の家族が脅された日付が並んでいた。
ヴィヴィエンヌは地図を広げた。事件の起きた場所に印をつけ、日付を順に読む。
「この町で捜査が始まった直後に、別の地区で家族が襲われています。担当者の名前が漏れた時期とも重なります」
「漏らしているのは誰だ」
「今ある記録から、関係を絞り込みます。名前だけで断定せず、出入りの記録と帳簿を確かめましょう」
王子は商会の台帳を見て、同じ取引が別の書式でも記録されていることに気づいた。
「この2冊、数量は一致するのに日付がずれていますね」
「書き写した日と、実際に荷が動いた日が違うのかもしれません」
ヴィヴィエンヌが別の束を取り出す。科学館の設計や展示資料を確認するときも、2人は出典と日付を照らし合わせていた。資料を並べるほど、犯罪組織の輪郭が見えてくる。
王子の鞄から、「里の生き物たち」と書かれた科学館の展示原稿が少しのぞいていた。アルベールはそれを見つけた。
「2人とも、科学館でもこんなふうに資料を確かめているのか」
「扱う内容は違うけれどね。今日はあまり楽しい資料ではないよ」
王子が答えた。
記録が集まっても、自国軍を動かすのは難しい。麻薬の常習者がほぼ半数に及び、取り締まりの情報も漏れる。刑務所に入った幹部が外の組織へ命令を出し続けている。
「末端だけを逮捕しても、また同じことが起きます」
◇ ◇ ◇
侯爵領の屋敷では、セレディア国王の代理として王子が加わり、作戦の協議が始まった。アルベールと王子が席に着くと、ヴィヴィエンヌは資料を閉じて説明した。
「薬物そのものは、技術がある限り作られ続けます。今回止めるべきなのは、王国の行政と軍を支配している犯罪組織です」
彼女が示したのは、麻薬マフィアの中枢と各地の拠点を14日間で掃討するための時限立法だった。証人やその家族への殺害・脅迫が続き、官憲と司法にも組織の金が入り込んでいる。通常の逮捕と裁判だけでは、監獄の中からさえ命令を出す組織を解体できない。捜査で裏付けた対象へ一斉に踏み込み、武装した構成員や逃亡する売人を現場で制圧する一方、幹部や背後の有力者はできるだけ身柄を確保し、組織の全体像を明らかにする。期間が終われば通常の法律に戻す。現場の官憲が故意なく犯した職務上の誤りは免責し、意図的な不正は対象から外す。
ヴィヴィエンヌは期限を書いた文書を、アルベールと王子の前に置いた。
「発効と失効の日付を明記します。延長する場合には、別の手続きを必要とする形です。組織を追い、その記録を押さえ、後の裁判へ渡す案件も分けておきます」
アルベールは資料を読み、王子と意見を交換した。互いの権限を区別し、グランディール国内の捜査命令はアルベールが発する。セレディアは信頼できる兵と官憲を提供し、共同作戦を支える。王子は父王への報告と派遣の承認手続きを引き受けた。セレディア国王は自国の王宮で承認し、必要な文書を侯爵領へ送ることになった。
協議のあいだ、エレオノールは憲兵隊長の遺族から届いた手紙を黙って読んでいた。手紙には、葬儀の日付と、隊長の妻が子供を連れて侯爵領の親類を頼ったことが記されている。
ヴィヴィエンヌが隣の席へ移ると、エレオノールは手紙を差し出した。
「この方たちは、誰が王位に就くかより、明日の生活を心配しておられます」
「そうですね。家に帰る道で、何が起きるか分からないのですから」
アルベールは2人の言葉を聞いていた。
「軍と官憲を立て直す話ばかりしていた。先に守らなければならない人たちがいるな」
「今度は、王様が守ってください」
エレオノールは手紙を畳み、アルベールの前へ置いた。彼は署名を入れる予定の命令書と並べて、その紙を見た。
王子が確認した。
「兵はどうするのですか。こちらの兵士が、そちらの王宮を捜索することになりますよ」
アルベールが答えた。
「命令は私が出す。王宮の全室を対象とする捜索令状も、私の名で発行する」
「こちらからは、王子の護衛の名目で多数を同行させられます」
侯爵領の兵も合流させることになった。王宮を囲む兵が信用できなければ、作戦は始められない。
「名前はどうします?」
王子が尋ねると、ヴィヴィエンヌは前世に知っていたフィリピンの大統領を思い出した。
「『ドゥテルテ作戦』としましょう」
アルベールも王子も、その名の由来を知らなかった。
協議を終えた後、ヴィヴィエンヌはひとつの屋敷の名前を示した。マフィア首領の邸宅である。
「こちらの突入予定だけは、外へ伝わるようにします」
アルベールは驚いて彼女を見た。
「わざと漏らすのか」
「はい。首領が逃げ込もうとする場所を、こちらで押さえておきます」
ヴィヴィエンヌは王宮の全室を対象とした令状に目を落とした。
その場所へ続く道は、すでに用意されていた。




