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第4話 王宮の裏門

第4話 王宮の裏門


 ヴィヴィエンヌがセレディアへ移った後、グランディール王宮では、シャルロットが王太子妃となるための教育を受け始めていた。


 王太子アルベールとヴィヴィエンヌの婚約は解消された。シャルロットにとっては、ゲームの筋書きどおりに進んだ最初の大きな成果だった。だが、アルベールはまだ王太子である。シャルロットが目指す王妃の座にも、攻略ポイントにも、国王の即位が必要だった。


 シャルロットは、王妃教育から逃げ出すような生徒ではなかった。下層の暮らしから貴族社会へ入ってきたため宮廷の儀礼には不慣れだったが、前世では日本の大学に通っていた。この国では一部の人々しか受けられない高等教育を、すでに経験していたのである。語学も数学も、教えられる内容を理解し、習得するのに困らなかった。


 教育を担当する教師たちは、ある日、王太子に進み具合を報告した。


「シャルロットの教育はいかがですか」


「順調です、殿下。ヴィヴィエンヌ様は幼い頃から長く教育を受けてこられましたので、現時点ではそこまでの習熟には至りません。ただ、シャルロット様も明るく素直で、たいへん優秀な方ですよ。学習はよく進んでいます」


「語学や数学はどうでしょう」


「どちらも心配はありません。宮廷の作法は経験を重ねていただく必要がありますが、熱心に取り組んでおられます。担当者たちの評判もよろしいですよ」


「それなら安心しました。引き続きお願いします」


 アルベールは安堵した。教師たちが評価したのは、実際に見てきたシャルロットの理解力と態度だった。裏で彼女が何を企んでいるかなど、知るはずもなかった。


 シャルロットの頭には、ゲームの攻略本に載っていた裏技があった。普通は端役のイケメンたちとの恋愛で経験値とポイントを積み、最後に王を攻略する。王1人なら100ポイント。港の男なら10ポイント。200ポイントを集めると、海の向こうの帝国の皇太子が迎えに来る特典ゲームが開かれる。


 攻略本には、端役を何人も攻略する代わりに、王を2人攻略する方法が記されていた。100ポイントずつで、ちょうど200ポイント。王弟のままなら50ポイントのリシャールも、国王になれば100ポイントになる。すでにガブリエルとの関係で10ポイント分の経験があると考えるシャルロットにとっては、これ以上ない近道だった。


 アルベールを国王にし、その後は王弟を即位させる。そうすれば、ゲームにあった帝国皇太子の迎えを待てる。シャルロットは現実の王国を、攻略本に書かれた順序で動かそうとしていた。


 彼女は国王に毒物を飲ませた。致死量の数倍に相当する量だった。


 国王は倒れ、急いで呼ばれた医師たちの手当ても及ばず、息を引き取った。王宮に弔鐘が鳴り響き、王都には服喪が布告された。


 アルベールは父の死と同時に王位を継いだ。王国の統治を止めるわけにはいかない。まだ戴冠式を行っていなくても、国王として政務を執ることになった。


 シャルロットは王妃になる日が来たと喜んだが、王宮の式部官が伝えた日程は、彼女の思い描いたものと違っていた。


「戴冠式は3か月後、シャルロット様と陛下の婚礼は4か月後を予定しております」


「どうしてそんなに先なの? アルベールはもう国王なんでしょう?」


「先王陛下の葬儀と宮廷の服喪が続きます。戴冠式と婚礼には、それぞれ準備も必要です」


 シャルロットの知る『恋して♡プリンセス!』では、王太子が国王になれば、婚礼も同じ日のうちに済んだ。現実の宮廷は、ゲームの場面転換のようには進まなかった。


 地球の歴史でも、1894年に父アレクサンドル3世を亡くしたロシア皇帝ニコライ2世は、即位から25日後、服喪中に婚礼を挙げている。婚礼の日には宮廷の喪の規定が一時的に緩められたが、戴冠式は1896年まで待った。王位を継ぐことと、戴冠式や婚礼を執り行うことは、それぞれ別の問題だった。


 とはいえ、シャルロットを婚礼まで子爵家のタウンハウスに住まわせるのも難しかった。屋敷は小さく、国王の婚約者を狙う者が現れた場合の警備にも適していない。王宮は彼女に宮殿内の居室を与え、侍女と警護の人員を付けた。シャルロットはそこに暮らしながら婚礼の日を待つことになった。


 葬儀を終えたアルベールは、喪服のまま執務室へ戻った。父の最後の日について医師や侍従に尋ねると、同じ時刻を説明しているはずの記録が食い違っていた。先王が突然亡くなった事情を、彼は気にかけ始めた。


 シャルロットは、毒殺に関係する記録が表へ出ないよう動いていた。だが、アルベールが父の死を調べようとしていることまでは止められなかった。


 3か月後、アルベールの戴冠式が行われた。王宮には各地の貴族と外国の使節が集まり、広間の壁には王家の旗が連なった。式部官が王国に伝わる式次第を読み上げ、アルベールは儀礼に従って王冠を戴いた。国王としての政務は父の死後から執っていたが、戴冠式はその地位を人々の前に示す盛大な儀式だった。


 シャルロットは息をのんだ。王冠が掲げられる瞬間、金糸を織り込んだ衣装、光を受ける広間。ゲームで何度も見た一枚絵と、目の前の光景が驚くほど似ていた。式の言葉や進め方は、王国で昔から守られてきた本物の儀礼である。それでも、彼女の目には『恋して♡プリンセス!』の戴冠式がそのまま現れたように見えた。


 その1か月後、アルベールとシャルロットの婚礼が行われた。服喪の間には見られなかった華やかな装いが王宮に戻り、磨かれた床を長い衣装の裾が滑った。高い窓から光が差す中で、2人は王国の正式な婚姻の儀礼を終えた。シャルロットはようやく王妃となった。


 この場面も、覚えていたゲームの結婚式の絵によく似ていた。現実には即日婚礼とはならず、4か月も待たされた。それでも、これほどの一致を見せられれば確信は深まる。


 ――やっぱり、ここはゲームの世界だ。


 王妃の地位を得た後も、攻略本の200ポイントと、海の向こうから迎えに来る皇太子のことが、彼女の頭から離れることはなかった。


 婚礼の後、シャルロットの部屋へ見知らぬ男たちが訪れるようになった。


「王妃陛下にお目通りの約束があります」


 男たちはそう告げたが、侍従が名乗るよう求めても、はっきりした返事はなかった。数日後にも同じような訪問があった。


 アルベールは妻の周辺で見知らぬ人物が頻繁に出入りしていることを気にし始めた。シャルロットの学習態度や人柄は、今も信じている。気にかかるのは、訪問者の背後に麻薬密売組織の影がちらつくことだった。父の死因を調べようとしても、聞く相手によって話が食い違う。


 そこで彼が足を向けたのは、幼なじみの侯爵令嬢エレオノールと、その父のいる屋敷だった。


 侯爵家の応接室で、国王はようやく口を開いた。


「最近、シャルロットの周りが妙なんだ」


 侯爵はすぐには答えず、詳しい事情を聞いた。誰がいつ王宮へ来ていたか。先王の死の前後に、何が変わったか。国王が説明を終えるまで、エレオノールは黙っていた。


「あなたは昔から、気になることがあっても話すのが遅いんです。私が何とかしなきゃと思っていましたけれど、今度は国王陛下でしょう」


「またそれを言うのか」


「大切なことですから」


 彼の欠点をいちいち挙げればきりがない。それでも、幼い頃から見てきたこの人を、エレオノールは放っておけなかった。


「王妃のそばに入れば、分かることも増えるでしょう」


 エレオノールの申し出に国王は顔を上げた。


「君が侍女になるのか」


「はい。誰かが調べる必要があります」


 侯爵は娘と国王を交互に見た。2人の気持ちについて、父親として気づいていないはずがない。彼は調査に協力することを認めた。


 こうして、侯爵令嬢であるエレオノールは、王妃シャルロットの侍女となった。



 王宮では、エレオノールが差し出す書類をシャルロットがぞんざいに受け取ることもあった。


「それ、そこへ置いておいて」


「承知しました」


 エレオノールは返事をし、書類をそろえて置いた。侍女の立場なら聞こえてくる会話がある。廊下で鉢合わせする訪問者もいる。彼女は目にしたことを記録し、信頼できる経路で父に伝えた。


 その間も、国王とエレオノールは会うようになった。かつて学校のことを話していた2人が、今は王宮の危険を相談している。夜遅くまで資料を確かめたあと、国王は彼女の手を取った。


「君には、いつも助けられている」


「いつも私に心配をかけるからです」


「それでも、ここにいてくれるのか」


 エレオノールは握られた手を引かなかった。


◇ ◇ ◇


 侯爵も2人の関係を承知していた。エレオノールが身ごもったと分かった日、彼女は国王を侯爵家の書斎へ呼んだ。


「お話ししておきたいことがあります」


 国王は彼女の顔を見て、椅子を引いた。


「身体の具合が悪いのか」


「大丈夫です。お医者様にも診ていただきました。子供ができたそうです」


 アルベールはしばらく何も言わなかった。それからエレオノールの手を取った。


「私の子だね」


「はい」


「書状を残そう。君も、生まれてくる子も、私の言葉だけに頼らずに済むように」


 父の侯爵も同席し、認知の文言と日付を確かめた。アルベールは自分の子であることを出生前に正式に認め、署名した。侯爵は封印された書状を預かり、保管するよう命じた。


 彼女は書状を父に渡し、ようやく安堵した。


 この頃、エレオノールはシャルロットと王弟の関係についても確証を得ていた。調査で分かったことを父とアルベールに伝え、王妃付き侍女を辞することにした。妊娠はまだ外見からは分からなかったが、独身のまま王宮で働き続ければ、いずれ子の父親を詮索されることになる。


 退職は侯爵家の事情として届け出た。シャルロットは引き留めず、エレオノールは実家の侯爵家へ戻った。シャルロットは、彼女が国王の子を身ごもっているとは知らなかった。



◇ ◇ ◇



 王宮の別の部屋では、シャルロットがアルベール国王の異母弟と密かに会っていた。黒髪の王弟リシャールである。


「兄上は、また侯爵家へ出かけたのですか」


 王弟が尋ねると、シャルロットは肩をすくめた。


「いろいろ聞き回っているみたい。そんなことより、あなたは私の言うことを聞いてくれるでしょう?」


「もちろんですよ」


 王弟の返事に、シャルロットは満足した。攻略本で覚えた言葉は、この人物にも通じるはずだ。王弟を攻略するだけなら50ポイント。彼が王座に就けば100ポイントになる。2人の関係は深まり、シャルロットは国王がまだ王宮にいる間に、王弟の子を妊娠した。


 王弟と王妃の距離が近すぎるという噂は、エレオノールが確証を得る以前からアルベールの耳にも届いていた。しかし、それまでは本気にしなかった。王妃になったばかりのシャルロットが、わざわざ身分を危うくして王弟を選ぶとは思えなかったからだ。彼女が何より望んでいた地位を、もう手に入れている。アルベールには、王弟を国王にすれば攻略ポイントが増えるという計算など、知りようがなかった。


 医師から告げられたとき、彼女はしばらく言葉を失った。


「……私が、NPCの子を?」


 だが、次に考えたのは、子の父親が誰かということだった。王弟の子だと自分は知っている。国王が妻を疑っている今、この事実をいつ表へ出すかは慎重に決めた方がよい。


 シャルロットは王弟にだけ妊娠を知らせた。


「私たちの子よ」


 王弟は少し驚き、それから彼女を抱き寄せた。シャルロットは、その反応も攻略の成功だと受け取った。



◇ ◇ ◇



 国王が内乱の鎮圧に向かうことになったのは、その後だった。


 出征の日、王宮では多くの者が見送った。国王はすでに不審な動きを警戒しており、信用できる者と秘かに連絡を取っていた。


 前線では、国王の姿をした影武者が味方の兵士に背後から刺され、命を落とした。


 王都へ伝えられた報告には、「国王戦死」と記されていた。


◇ ◇ ◇


 その頃、アルベール本人はセレディア王国の宮廷で身を隠していた。影武者が襲われる前に安全な経路へ退き、セレディア国王の庇護を受けていたのである。


「この国では、客人としてお迎えします」


 セレディア国王の言葉に、アルベールは深く頭を下げた。


「友人の父君に、こんな形でお世話になるとは思いませんでした」


「国境はマレーヌ川1本です。あなたの国で起きていることが、こちらと無関係ではいられませんから」


 しばらくは秘密の食客として暮らし、王宮や侯爵家との連絡をつなぐ。アルベールには、それが最初の仕事となった。



 王都に「国王戦死」の報が届くと、シャルロットは喪服をまとった。悲嘆に沈む王妃を演じることは、彼女にとって難しくなかった。国王が生きていれば、王弟とは結婚できない。邪魔な人物が退場すれば、ゲームは次へ進むはずだった。


 彼女は王弟の離宮を訪ねた。


「今夜は、ここにいてもいいでしょう?」


 王弟は黙って喪服の黒いヴェールを外した。2人はすでに子を授かっていた。シャルロットは王弟の首に腕を回し、彼も彼女の腰を抱き寄せた。


 夜更けに寝室の扉が閉まり、翌朝になってもシャルロットは離宮にいた。侍女が入ったとき、喪服は椅子の上に畳まれていた。


◇ ◇ ◇


 やがてシャルロットは王弟と再婚した。2人は、これから生まれる子を自分たちの子として迎えることで一致していた。


 婚姻の儀式が終わり、2人は王宮の控えの間へ戻った。シャルロットは衣装の裾を直し、侍従が次の予定を告げるのを待っていた。


「シャルロット様、お部屋のご用意が整いました」


 シャルロットは侍従を見た。


「……えっ? 今、何て言ったの?」


「シャルロット様、と申し上げました」


「王妃陛下でしょ? さっきまで、そう呼んでいたじゃない」


 侍従は式部官の方を見た。式部官が一礼して進み出た。


「婚姻の記録が整いましたので、呼称も変わりました」


「どういうこと?」


「アルベール国王陛下の戦死が公表されたあとも、次の国王は即位されていませんでした。その間、国内で『陛下』とお呼びする方は、王妃陛下お1人でした」


「だったら、今も王妃陛下でしょう?」


「先ほど王弟殿下とのご婚姻が成立しました。シャルロット様は王弟殿下の奥方となられました。王弟殿下は国王に即位されておりませんので、これからはシャルロット様とお呼びいたします」


「……王弟は、いつ国王になるの?」


 式部官は王弟に目を向けた。


「即位については、まだ何も決まっておりません」


 王弟は黙っていた。


「そんなの、聞いてないわよ」


 シャルロットは唇をかんだ。王弟のままでは50ポイントにしかならない。国王になって初めて100ポイントになるのに、即位の予定すら決まっていなかった。再婚を終えれば次の段階へ進めると思っていたが、儀式の前に、誰も呼び名が変わるとは告げなかった。


 侍従が扉を開けた。


「こちらへどうぞ、シャルロット様」


 礼の深さも、丁寧な口調も先ほどまでと同じだった。呼びかけだけが変わっていた。


 月日が経ち、シャルロットは黒髪の子を産んだ。生まれた子の髪を見て、王弟は小さく笑った。金髪の兄とは違い、自分と同じ黒髪である。


「私たちの子よ」


 シャルロットが言うと、王弟も頷いた。


 2人は担当の役人を呼び、出生と親子関係についての文書を確認した。王弟とシャルロットが連名で、子を2人の実子と正式に認知する。署名を終えると、役人は記録を持って退出した。


 シャルロットは文書が運び出されるのを眺めていた。自分と王弟の子だという事実は、これで公の記録になった。


 侯爵家では、エレオノールが金髪の子を育てていた。その子には、アルベール国王が生前と信じられていた時期に署名した出生前の認知書状がある。シャルロットは、侍女が国王の子を産んでいたことも、その書状のことも知らなかった。


 アルベールはセレディア王国から王宮の動向を確かめ続け、やがてグランディール王国の国境に近い侯爵領へ身を移した。自国の宮廷へ戻る準備は、信頼できる者たちだけで進められていた。


 シャルロットも王弟も、彼が生きているとは思っていなかった。



◇ ◇ ◇



 王宮の小会議室へ来たのは、王都の貴族と、港の商会主だった。


 ガブリエルが生きていた頃、シャルロットはその商会主を見たことがある。相手も彼女に気づいたらしく、軽く頭を下げた。


「まさかシャルロット様とお呼びする日が来るとは」


「昔話はいいわ。新しいお客の話をして」


 商会主は封筒から名簿を出した。寄付の申し出という名目で招かれた貴族たちの名が書かれている。


「北の社交界に取引先を増やしたいのです」


「新しいお友達なら、私が紹介してあげる。王宮の夜会に呼ばれるだけで、彼らは安心するもの」


「分配の件は、従来どおりで」


「売り上げが増えた分は私の取り分を増やすわ」


 王弟は椅子に座り、楽しそうに聞いていた。


「では私から軍の知り合いにも声を掛けましょう」


「そうして。私の名前を使った分は、ちゃんと記録してね」


 話が終わり、商会主が退出すると、王弟は小さな包みを取り出した。シャルロットはすぐに顔をしかめた。


「それ、自分で使うつもりじゃないでしょうね」


「売り物ですよ」


「売るのは構わないの。あなたが使うのは嫌なのよ」


「分かっています」


 王弟は包みをしまった。シャルロットが出ていったあと、別の部屋で使うつもりだった。


◇ ◇ ◇


 王都の下町では、荷運びの少年が使い走りに誘われた。


「手紙を届けるだけなら、今の仕事より稼げるぞ」


 少年は母に靴を買いたかった。しかし、近所の家で薬を売る男が出入りするようになってから、夜中に怒鳴り声が聞こえることも知っていた。


「何を運ぶの」


「知らない方がいい」


「じゃあ、やらない」


 男は舌打ちをし、肩を押してどかした。少年は走って家へ戻った。その夜、近所の別の少年が仕事を受けたと聞いた。


 数日後、その家の母親が町の役人を訪ねた。息子は戻らず、男たちは「借金を返せ」と家へ押しかけるという。役人は書類を読み、顔を曇らせた。


「警察へ回します」


「警察にも、あの人たちの仲間がいるんです。息子が話したことが、次の日には向こうへ伝わっていました」


 役人はペンを置いた。少年の名を書けば、それ自体が危険になるかもしれなかった。



◇ ◇ ◇



 それより前に、密売を捜査していた官憲の妻と子供が殺される事件があった。町外れの道を進んでいた馬車が止まり、馭者が声を上げた。


「止まってください。道に人が倒れています」


 乗客が窓を開けようとすると、馭者が振り返った。


「見ない方がいい。子供もいます」


 道沿いに放置されていたのは、その捜査官の家族だった。駆けつけた役人が名前を確認すると、周囲に集まっていた人々は口を閉ざした。


「どうして家族まで殺されたんですか」


 若い役人の声に、年長の官吏が答えた。


「捜査をやめろという見せしめだ。あの組織は、逆らう者の妻や子まで殺す」


 事件は王都に広まり、役所の者も、門番も、家族のいる軍人も知っていた。


◇ ◇ ◇


 グランディール王宮の川に面した正面は、塔や窓を整えた華やかな姿を見せていた。その反対側にある裏門は、まだ朝露が残る時間から開いていた。


 紋章のない荷馬車が石畳に止まる。荷台には果物の木箱が積まれていた。馭者が通行証を渡すと、門番はシャルロットの名を見て顔をしかめた。


「昨日も来ただろう。この伝票には食料庫の印がないぞ」


「奥の方へお届けする品です。王弟殿下もご承知ですよ」


 馭者は小さな封筒を通行証の下に重ねた。門番はその厚みを指で確かめ、同僚を見た。同僚はわざと背中を向けている。


「荷を改めますか」


 若い衛兵が尋ねた。


「王弟殿下のご用だ。余計なことを言うな」


 門番は封筒を袖に入れ、通行証へ印を押した。馬車が通ると、若い衛兵は開いた木箱の隙間から、果物とは違う小包が幾つも見えたことを告げた。


「余計なことを言うな。捜査官の妻と子が殺されたのを知っているだろう。お前の家族もこの都にいるんだぞ」


 若い衛兵は口を閉じた。その夜、出入りの記録には「果物、王弟殿下付」とだけ記された。荷の数も、受け取った者の名も空欄だった。



 数日後、王宮の小広間で貴族たちの集まりが開かれた。


 シャルロットが入ると、王弟は窓際の長椅子にいた。金の刺繍を施した上着を着ているが、瞳は落ち着かず、指先が細かく動いている。


「あなた、また薬を使ったの?」


「何のことでしょう」


「顔を見れば分かるわ。もうやめて。薬を使うあなたなんて見たくないの」


 王弟は彼女の手を取り、正面から目を合わせた。


「分かりました。もう手を出していません。あなたが心配するようなことは、何もありませんよ」


「本当ね?」


「ええ」


 シャルロットは胸を撫で下ろした。これで更生の選択肢は成功した。攻略対象はヒロインの言葉で生まれ変わる。そういうイベントだったはずだ。


「よかった。やっぱり私がいれば変われるのね。さて、次の注文の話をしましょう」


「北の伯爵家から紹介がありました」


「それなら私の名で招待状を出すわ。王宮の集まりに呼ばれれば、向こうも安心するでしょう。でも売上から私の取り分を引いておいてね」


 シャルロットは今日の商談を済ませたつもりで部屋を出た。王弟はすぐ脇の扉を開いた。


 小部屋には3人の貴族が待っていた。1人が財布を机へ置き、別の男が小さな包みを受け取る。王弟は金額を確かめ、自分の印を押した紙を渡した。


「次からは招待状を持って正門からお入りください。王宮の招待客として名簿にも載せておきます」


「殿下のお力添えのおかげです」


「感謝なら、来月の支払いを遅らせないことで示してください」


 貴族が退出すると、王弟は残った包みを自分のものとして取り分けた。彼が売っていたのは、今も自分で使い続けている薬と同じものだった。



 財務官の部屋では、支出帳の記載が変わり始めていた。


 シャルロットの衣装代に見せかけた支払いが、王弟の知人の商会へ流れている。会計係が差し戻した伝票には、翌朝になると上役の承認印がついて戻ってきた。


「この商会は宮廷に何を納めたのですか」


「シャルロット様のお取り扱いだ。帳簿に余計な注記を残すな」


「品目が分からなければ、決算で照合できません」


 上役は扉を閉めた。


「殺された捜査官の家族のことは知っているな。お前の子供も同じ目に遭わせたくなければ、私が承認した伝票は黙って通せ」


 会計係は帳面を抱えたまま立ち尽くした。捜査官の妻と子が実際に殺されたことは、役所でも知られていた。上司の言葉は、その事件をもう1度起こすという脅迫だった。



 軍の憲兵隊長は、宮廷の出納記録と裏門の出入りを調べ始めた。


 部下が持ってきた名簿には、王弟の出入りする小広間に顔を見せる貴族と、港で密売に関わる商会の名前が重なっていた。


「王宮の中へ持ち込まれているのですか」


「少なくとも荷は入っています。門番の記録が抜けていますが、外の商会の台帳には運搬日が残っていました」


「門番が受け取ったことを認めれば、そこから調べられますね」


 隊長は紙をそろえ、部下を見た。


「捜査に関わる者の名前は私が預かります。以前、捜査官の家族が殺されています。今度は誰が狙われるか分かりません」


 隊長が庁舎を出た頃には、通りの店が看板を下ろし始めていた。


 彼は部下から預かった資料の入った鞄を抱え、家路を急いだ。角を曲がると、街灯の下に立っていた男が声をかけた。


「隊長殿ですね。お渡ししたいものがあります」


「明日の朝、庁舎へ来てください」


 隊長が歩みを緩めたとき、背後で足音がした。


「王宮の荷のことを調べているそうですね」


 隊長は振り向いた。男が上着の下から短い銃を取り出している。


「待ちなさい。あなたは――」


 銃声で言葉が途切れた。近くの店から客が飛び出し、店主が慌てて扉を閉める。隊長の鞄が石畳へ落ち、数枚の紙が風に飛ばされた。


 男たちは鞄を奪い、夜の通りへ消えた。店主が助けを呼んだとき、隊長はもう動かなかった。



 翌朝、軍務庁へ戻ったのは、隊長の遺品だけだった。


 後任の将校は空いた席を見つめた。机の上には隊長が前日に書きかけた報告が残っている。まだ押していない印もあった。


「昨日まで、ここに座っていたんです」


 部下が言うと、将校は報告を受け取った。


「捜査を続けます。隊長の残した資料を出してください」


 後任の将校は、その日、会議を開いた。


「ここでやめたら、次の隊長も同じ目に遭います。関係する役人と商会を調べます」


 会議の終わりに、将校は調査を引き継ぐ部下の名を読み上げた。


 翌日の昼、名を呼ばれた部下の自宅に、見知らぬ男が訪ねてきた。玄関先に置かれた手紙には、昨日の会議でしか使っていない言い回しが、そのまま写されていた。


「奥様とお子様が、お元気で何よりです」


 結びの1行を読んだ部下の手が震えた。


 将校は手紙を読み返した。捜査官の家族が殺された事件を思い出していた。


「会議にいた者しか、家族の名前を知りません。誰が漏らしたのですか」


 答えられる者はいなかった。実際には、取締りの予定と担当者の氏名が王弟の手を経てマフィアへ渡っていた。



 王都の監獄では、密売人の収監をめぐって口論が起きた。


「囚人が外部の者に面会を求めています。まだ取り調べの途中です」


「面会許可証が出ている。王弟殿下の印だ」


 看守長が差し出した紙を、若い看守は何度も見直した。


「昨日逮捕したばかりの者ですよ」


「私に言われても困る。印があるんだ」


 面会人が帰ったあと、監獄の外では別の密売人が店を開いていた。収監中の幹部が、部下に次の取り引きを指示していたのである。



 王宮警護を担当する軍の詰所では、夜番の兵士が椅子から立てずにいた。


「交代の時間だ。起きろ」


 当直将校が肩に手をかけると、兵士はようやく顔を上げた。机の隅に残る包みを見て、将校の表情が変わった。


「またか。昨日も別の班で見つかったばかりだぞ」


 別の兵士が小声で答えた。


「城壁の詰所でも同じです。使わない者だけで番を組んだら、持ち場が埋まりません」


「予備兵を呼べ」


「予備兵にも常習者がいます」


 将校は詰所の名簿を開いた。赤い印をつけた者の名前が、ページの半分近くを占めている。自分の部隊でこれほどなのだ。軍全体の調査結果を聞いても、もう驚けなかった。


 薬を使うだけで勤務を放棄する者がいる。売る側に回って金を受け取る者もいる。マフィアの依頼を受けて、殺人に加わった兵士まで確認された。


 衛兵が守るはずの門を犯罪組織の使者が通り、捜査官の名簿が犯罪者へ渡る。王宮は少しずつ、王弟と麻薬マフィアのために働く場所へ変わっていた。


 シャルロットは、販路が拡大していることを承知していた。届けられた伝票のうち、売上の取り分に関わるものだけは自分で目を通した。


「シャルロット様、先月分のお支払いの明細をお持ちしました」


「貴族向けの分が増えたのね。私の取り分も増えるわよね」


「ご指示どおりになっています」


 彼女は金額を確かめてから署名した。薬物に手を出した購入者が、その先どうなるかには興味がない。


 ただし王弟が自分で使うことだけは、別の話だった。シャルロットは、彼の言った「もうやめた」を信じようとしていた。夫がこっそり使い続けているなど、ゲームの主人公として認めたくなかった。



 侯爵領の屋敷で、国王は軍と官憲から届いた報告を読んでいた。


 何度読み返しても、数字は変わらない。自国軍のほぼ半分を信用できない。国内の指揮系統を使えば、摘発の予定は敵へ漏れる。


「王都へ戻っても、動かす人間がいないな」


 国王は書類を閉じた。


 窓の向こう、マレーヌ川を隔てたセレディア王国の都には、夕方の灯がともり始めていた。家々の屋根の上には、丘の王宮が黒い輪郭を見せている。向こうにいる旧友たちへ相談するしかなかった。


 王都の北端では、商人の妻が、夫の帰りを待っていた。


 夫はもともと荷車の修理をしていた。仕事が終われば子供の顔を見るために帰宅する人だった。ところが最近は働きに出る日も減り、道具を売っては薬を買い、家に戻ると怒鳴った。


「今月は家賃が払えません」


「分かっている。明日、仕事を探す」


「先週も同じことを言いました」


 夫は返事をしない。薬が切れたあとには、起き上がることさえつらそうな日がある。娘が近づいても、以前のように抱き上げなかった。


 妻は幼い子の手を引き、親戚の家へ向かった。道の途中で、同じ薬を売る男が笑いながら別の客を迎えていた。誰かが1包み買うたび、その金の一部が王宮へ流れている。



 別の晩、近衛の若い兵士が当直室で倒れた。同僚は水を運び、息をしているか確かめた。


「医師を呼びます」


「勤務中の使用が報告されたら、俺まで調べられる」


「このままにしたら死ぬかもしれません」


 若い兵士は医師に運ばれた。救命は間に合ったが、勤務に戻れるかは分からなかった。事情聴取を受ける同僚は、泣きながら言った。


「初めは眠気を飛ばすと言っていました。次は休みの日だけだと言いました。やめると何度も言っていたんです」


 記録を取る官吏は、紙の上で手を止めた。同じ証言を聞くのは初めてではなかった。



 王弟とシャルロットの夜の食卓には、貴族への販売実績をまとめた紙が運ばれた。


「西の伯爵夫人は、もう2人紹介してくれたわね」


「ええ。軍からの注文も増えています」


「軍が買うなら、もっと上にも売れるでしょう」


「私の名を使うと、調査が難しくなります」


「あなたの名前だけじゃだめ。私の招待状も使いなさい。売上に応じて分け前を増やす約束、忘れていないわよね」


 王弟は笑って紙を畳んだ。シャルロットは彼が杯へ口をつける前に、顔を見た。


「でも、あなた自身はもう薬を使っていないのよね」


「もちろんです」


 王弟は平然とうそをついた。


 シャルロットはほほえんだ。他人の家族が崩れることより、自分の攻略対象が約束した台詞を返したことの方が、はるかに大切だった。


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