第3話 婚約破棄の広間
第3話 婚約破棄の広間
マレーヌ川の岸に立つグランディール王宮の長い廊下には、午後の光が斜めに差し込んでいた。川側の窓からは、橋へ向かう馬車と、対岸の丘の上にあるセレディア王宮が見えた。
公爵令嬢ヴィヴィエンヌは、王宮の長い廊下を静かに進んでいた。学院での薬物事件はまだ捜査中である。婚約者から突然呼び出された理由も告げられていなかったが、どのような話にも落ち着いて応じられるよう、気持ちは整えてあった。
「ヴィヴィエンヌ様、こちらです」
王太子の使いが広間の扉を示した。用件は聞かされていない。
「ありがとうございます」
ヴィヴィエンヌは資料のことを頭から追い出し、背筋を伸ばした。幼い頃から王妃候補として教わってきた作法は、意識しなくても身体が覚えている。
広間には王太子がいた。その傍らでは、淡い色のドレスを着た子爵令嬢シャルロットが、彼の腕に寄り添っている。
シャルロットはヴィヴィエンヌを見つけると、嬉しさを隠そうともしない笑顔を浮かべた。
王太子は口を開きかけて、いったん閉じた。学校で一緒だった頃、準備した説明がうまく言葉にならないときの癖だ。ヴィヴィエンヌには見覚えがあった。
「ヴィヴィエンヌ。君との婚約を解消する」
広間の端に控えていた者たちが息をのんだ。
ヴィヴィエンヌは王太子を見た。子供の頃から互いを知っている。彼と一緒に、川向こうの国の学校へ通った時期もあった。そこで知り合った同級生たちとは、今も親交が続いている。
ただ、彼を恋人として思い描いたことは、ほとんどなかった。休暇中に講義のノートを貸し合い、歴史の試験について話す。結婚の約束は王家と公爵家のもので、2人の間には長い友情があった。
「承知しました。必要な書類は確認させてください」
「……それだけか」
「婚約の解消は、王家と公爵家が正式に扱うことでしょう。私の署名が必要なら、内容を確かめます」
王太子は何か言いかけたが、隣のシャルロットが彼の袖を握り直した。
「殿下、このまま終わらせるのですか。私は命まで狙われたのに」
ヴィヴィエンヌは顔を上げた。シャルロットは婚約解消だけで満足するつもりはないらしい。
王太子は彼女にうなずき、ヴィヴィエンヌへ向き直った。
「君の匂い袋から禁制薬物が発見された。学院には官憲が入り、君も長時間の取り調べを受けた。王家はこれ以上、婚約者を公の場へ出せない」
「薬物が発見されたことは承知しております。私は持ち込んでおりません。司法官からも、まだ持ち込んだ人物が分からないと伺っています」
「世間がそう簡単に納得すると思うのか」
「世間に説明する前に、事件を調べていただかなければなりません」
広間の端に控える貴族たちは黙っていた。学院で官憲が証拠品を押収し、公爵が娘の取り調べに抗議したことは、王宮にも伝わっていた。
王太子は続けた。
「シャルロットも君に危害を加えられたと訴えている」
「その件も調べていただいております。私は危害を加えておりません」
「彼女は君を恐れているんだ」
「殿下がその方と結婚なさりたいのでしたら、そうおっしゃってください。私が犯していない犯罪を、婚約を解く理由に加える必要があるのでしょうか」
王太子は言葉を詰まらせた。ヴィヴィエンヌは王太子から目をそらさなかった。
「婚約の解消については、王家と公爵家の書面を確認いたします。薬物事件の捜査には、これまでどおり協力いたします」
「……書類は用意させる」
シャルロットは不満そうに唇を噛んだが、王太子の腕を離さなかった。
「分かりました。必要な書類が届きましたら、確認いたします」
ヴィヴィエンヌは礼をして広間を出た。
広間を出たヴィヴィエンヌは、王宮の廊下を進みながら次の行動を決めていた。
匂い袋から禁制薬物が見つかった事件は、まだ捜査中である。シャルロットの訴えた殺人未遂についても、自分が関与した証拠は示されていない。それなのに、王太子はそれらを婚約解消の理由として公の場で口にした。
次に届くのは、おそらく召喚状だろう。出頭を求められ、今度は国外へ出る自由まで制限されるかもしれない。
マレーヌ川を隔てて向かい合うセレディアの王都へなら、馬車で橋を渡れば行ける。公爵家には、あちらにも別荘がある。
公爵邸に戻ると、父が待っていた。ヴィヴィエンヌは広間でのやり取りを簡潔に報告し、考えていたことを伝えた。
「召喚状が届く前に、セレディアへ移ります」
「そうするのがよい。こちらの書類と捜査のことは私が引き受けよう」
「お願いいたします。私が国外にいても、必要な事実関係はいつでもお伝えします」
公爵は娘を見た。家名のために娘を王家へ差し出すつもりはなかった。学院で官憲の長時間の取り調べを止めさせたときと、考えは変わらない。
「お前は自分の身を守りなさい。罪を犯していないことは、私が承知している」
「ありがとうございます、お父様」
準備は急いだ。別荘へ向かう馬車には、身の回りの世話をする侍女、到着後に屋敷を開けて使える状態にする男性、食事を担当するメイドを乗せる。侍女には貴族の娘を選ばなかった。今の騒動に同行者の実家まで巻き込む可能性を、ヴィヴィエンヌは考えていたのである。
衣類と当面必要な品を積み、残りは後から実家に送ってもらうことにした。セレディアには公爵家の別荘があり、当面の生活費も確保できる。父との連絡も続けられる。着の身着のまま逃げ出す必要はなかった。
馬車は王都の通りを抜け、マレーヌ川のアレクサンドル3世橋へ進んだ。
川岸のグランディール王宮には、長い石造りの正面と中央の丸屋根、細い塔が並んでいる。対岸のセレディアでは、家々の背後の坂道を上った先に、増築を重ねた王宮があった。
学生時代には何度も渡った橋だ。今、ヴィヴィエンヌを乗せた馬車は、両王国が飾り立てた石橋を通り、何事もなく国境を越えた。
セレディア側の広場を抜けると、馬車は王宮へ向かう坂道を外れ、公爵家の別荘へ進んだ。
「着きました。お嬢様」
同行した男性が先に降り、鍵を開ける。メイドは厨房を確かめ、侍女は部屋の支度を始めた。ヴィヴィエンヌは屋敷に入り、必要な仕事を順に頼んだ。
王宮へ赴くのは、こちらで生活を整え、適切な連絡をしてからでよい。
その日のうちに、別荘には灯りがともった。




