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Fleur Ange〜使い魔に転生して最推しを甘やかしていたら、ヤンデレ魔法少年に目の敵にされました〜  作者: 柊原 ゆず


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第八話 放課後の推し活


 先ほどまでこの場の空気を氷のように凍てつかせていた、あの息の詰まるようなただならぬ気迫。それが最初から幻であったかのように、樹は牡丹の隣でふわりと穏やかな微笑みを浮かべている。

 その極端な温度差に、牡丹は内心で深く息を吐き出し、強張っていた肩の力を密かに抜いた。彼女は隣の樹に悟られないよう視線だけを動かして、無機質な貯水タンクの陰へとちらりと目を向ける。

 そこには、息を殺して身を隠すルルの姿があった。こんな状況に巻き込んでしまった申し訳なさに、牡丹が痛ましげに眉を寄せると、ルルは必死に首を横に振った。


『私は大丈夫だから、絶対に気にしないで』


 ——そんな声なきメッセージを全身で表現するルルの健気さに、牡丹は胸を痛めつつも僅かに救われた心地がした。


「牡丹ちゃん?」


 ふいに、鼓膜を甘く撫でるような声が落ちてきた。

 びくりと肩が跳ねそうになるのを必死に抑え、牡丹が視線を戻す。そこには、樹が至近距離でじっとこちらを見つめていた。口元には変わらず柔和な笑みを湛えているが、その双眸だけは違う。牡丹の思考の裏側、隠し事の底の底までを暴こうとするかのように、暗く淀んだ光を宿していた。

 一切の誤魔化しを許さない、ねっとりと這い回るような探る視線。

 牡丹は心臓が早鐘を打つのを悟られないよう慌てて目を逸らし、膝の上に広げたお弁当へと無理やり意識を向け直した。


「……何?」


 声が震えないよう細心の注意を払い、あくまで平然を装って問い返す。

 樹はしばらくの間、何か言いたげな顔で牡丹の横顔を見つめていた。肌が粟立つような痛いほどの視線を感じながらも、牡丹は決して横を向くことなく、気にしていないふりを徹底する。

 ぎこちなく動く箸で卵焼きを掴み、ぱくりと口に運ぶ。咀嚼を繰り返しても、甘いはずの卵焼きの味は、今の牡丹には少しも分からなかった。






 昼休みのあの息の詰まるような時間——『強すぎる保護者』である樹の放つ、じっとりと絡みつくような視線と異様な圧を前にしては、ルルは息を潜めることしかできず、生きがいである『推し活』など到底できるはずもなかった。

 そうして不完全燃焼のフラストレーションを抱えたまま、ようやく放課後のチャイムが鳴る。

 記憶が正しければ、樹はたしかアーチェリー部に所属しているはずだ。練習場所が違うのであれば、あの恐ろしい保護者の目を盗むことができる。

 ルルはふわりと浮き上がり、少しだけ開いた重い鉄扉の隙間から恐る恐る体育館の中を覗き込んだ。キュッ、キュッと床を擦るシューズの摩擦音や、ホイッスルの音、そして熱気を含んだ掛け声が反響している。目に飛び込んできたのは、コートを縦横無尽に走るバスケ部やバレー部、そしてフロアの隅で柔軟やステップの確認をする、牡丹のいる新体操部の姿だった。

 ルルはぐるりと周囲を見渡し、そこに樹の姿がないことを入念に確認する。心底からの安堵に大きく胸を撫で下ろしたルルは、いよいよ待ちに待った牡丹の応援を開始することにした。

 フロアの端で、牡丹は手首を滑らかに返し、長いリボンを空中に躍らせていた。爪先立ちで軽やかにステップを踏み、しなやかにターンを決めると、色鮮やかなリボンが彼女の周囲に美しい螺旋を描き出す。


「牡丹ちゃん、リボン上手! 可愛い!!」

「……」


 牡丹は聞こえないふりをして涼しい顔を保ち、次なる動作へと移行した。細くしなやかな腕が天に向かって伸び、空中で大きく弧を描く。手元の繊細な動きに合わせてリボンは生き物のように波打ち、流麗な軌跡を空間に紡いでいく。他者には見えないルルの声援に決して反応すまいと、牡丹は唇を微かに引き結び、ひたすら己の演技に没頭しようと努めていた。


「素敵! 最高!!」

「…………っ」


 体育館の喧騒を突き抜けて鼓膜を直接打つような、あまりに直球で熱烈な賛辞。無視しようとすればするほど、ルルの黄色い声援が頭の中で反響する。大きく軽やかな跳躍(リープ)をこなした直後、着地の瞬間に僅かに肩が跳ね、涼しげに澄ましていた牡丹の表情に微かな動揺が走った。完璧な弧を描いていたリボンの軌道が、一瞬だけわずかに乱れる。


「キャー! ずっと見ていたーい!!」


 自分という存在が、牡丹以外の人間には見えていないことをいいことに、ルルはフロアの端からありったけの想いの丈を叫び続けた。両手を振り、ぴょんぴょんと飛び跳ねて全身で愛を表現する。

 ——もう、うるさい、恥ずかしい、でも無下にはできない……!

 葛藤を隠して澄ました表情を取り繕おうとするものの、限界だった。集中力はとうに削がれ、首すじからじわじわと込み上げた熱は、みるみるうちに牡丹の白い頬を林檎のように赤く染め上げていく。


「っ、先生……! 少し、休憩をいただきます」


 これ以上平常心を保てないと悟った牡丹は、ピタリとリボンの動きを止めると、振り絞るような声で顧問に一言だけ伝えた。そして、周囲から不審に思われない程度の小走りでルルのもとへ歩み寄るやいなや、周囲からは見えないことをいいことに、タオルを拾い上げるふりをして、「キャアキャア!」とまだ騒ぎ立てているルルの首根っこを掴み、そのまま逃げるように体育館を後にした。


「ちょっと……!」


 人目を忍んで体育館裏の死角へと滑り込むと、牡丹はルルを地面へと下ろした。

 周囲に誰もいないことを確認してから、彼女は茹で上がりそうな頬を手の甲で冷ますように押さえつつ、ジロリと足元を見下ろす。


「ルル……! 貴女、ちょっとうるさいわ!」


 誰かに聞かれないよう声を潜めながらも、羞恥と焦りが入り混じった切実な響きでぴしゃりと嗜める。すると、ルルはびくっと肩を震わせた。頭頂部に生えた猫耳が、しゅん、と音を立てんばかりに力なくペタンと垂れ下がる。


「ごめんね牡丹ちゃん……。部活してる牡丹ちゃんを見るのが初めてで、ついテンションが上がっちゃって……」


 上目遣いで牡丹を見上げるルルの瞳は潤み、全身から「反省しています」というオーラが痛いほどに滲み出ていた。あざといと分かっていても、あまりにも健気で可愛らしいその姿に、牡丹の胸の奥でチクリと罪悪感が痛む。

 ——……っ、そんな顔されたら、これ以上怒れないじゃない……!

 牡丹は誤魔化すように視線を逸らし、ンンッ、とわざとらしく小さく咳払いをした。


「……反省してるならいいの。じゃあ私、練習に戻るから。これからは静かに見学していること。いいわね?」


 ほんのりと頬に朱を残したまま、あくまで毅然とした態度を装って言い含める。ルルがコクコクと頷くのを確認し、牡丹が安堵の息を吐きながら踵を返そうとした、その時だった。

 ——ピクリ。

 ルルの垂れ下がっていた耳が、微かな異変を察知したかのようにピンッ、と垂直に跳ね上がった。

 空気が、変わる。先ほどまでの長閑な放課後の空気が一瞬にして張り詰め、ルルが鋭い声を発した。


「……! 牡丹ちゃん! 『魔法少女』の出番だよ!」

「えっ……!?」


 突然の緊迫した言葉に、牡丹は弾かれたように振り返る。日常から非日常へと引きずり込まれる急展開に、牡丹の心臓がドクンと大きく跳ねた。


「場所はこの学校のすぐ近くの公園だ! 急がないと!」


 切羽詰まった様子でそう告げると、ルルはどこからともなく取り出した小さなブローチを牡丹の掌へと押し付けた。古びた金色の縁取りに、中心には淡く発光する真紅の宝石があしらわれた、神秘的な意匠のブローチ。それは、触れた指先から微かな熱と脈動を伝えてくるようだった。


「そのブローチに触れて、変身したいと強く願って!」


 ルルの言葉に、牡丹はごくりと息を呑む。

 迷っている暇はない。牡丹はギュッと目を閉じると、両手で大切に包み込むようにブローチを胸元に押し当てた。

 ——お願い……私に、力を……!

 強く念じた瞬間、手の中のブローチが眩いほどの閃光を放ち、牡丹の髪をまとめる大きな黒いリボンの結び目へと引き寄せられるようにカチャリとはまった。

 真紅の宝石からブワッと吹き荒れる魔力の風が牡丹の髪を激しく揺らす。魔法の光を帯びてふわりと解けた黒いリボンが、純白と桜色を帯びた光の帯へと姿を変え、まるで新体操のリボンのように彼女の華奢な身体を何重にも包み込んでいく。光の粒子が弾けるたびに、着ていたレオタードが煌びやかな魔法少女の衣装へと鮮やかに編み換えられていく。

 光の奔流が天へと抜け、舞い散る花びらのような残光の中、そこには日常の顔を捨て去り、凜とした決意をその瞳に宿した『魔法少女』の姿があった。


つづく

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