第七話 不穏
ルルは、もふもふの小さな両手で己の口を限界まで強く塞ぎ、薄暗い物陰に同化するようにただ息を潜めていた。小さな心臓が早鐘を打ち、全身がガタガタと小刻みに震えている。視線の先を通り過ぎていく『樹』の足音が、今の彼女にとっては死神の跫音のように聞こえていた。絶対に気づかれてはいけない。見つかればただでは済まない——そんな本能的な恐怖に耐えながら、ルルは樹の背中が完全に視界から消え去るのをじっと待った。
やがて足音が遠ざかり、周囲を覆っていた重苦しい空気がふっと緩む。完全に平穏が訪れたことを悟ると、ルルは「ぷはっ」と溜め込んでいた息を吐き出し、安堵からへなへなとその場にへたり込んだ。
どうやら、やり過ごせたらしい。恐怖から解放された彼女は気を取り直して立ち上がると、ぽんぽんと身体の埃を払い、向かうべき場所——愛しの『牡丹』がいる学校へと歩みを進めた。
今回のルルの目的は、ひっそりと『推し活』をすることだった。
大好きな、そして何よりも尊い最推しである『天海 牡丹』。彼女が普段どんな学校生活を送っているのか、どんな空気を吸って、どんな景色を見ているのか。その輝かしい日常の欠片に、少しでも触れてみたかったのだ。
——ああ、牡丹ちゃん……! 本編では描かれなかった日常が見られるなんて……!!
先ほどの恐怖などすっかり忘れ、ルルの足取りは羽が生えたように軽い。わくわくとした期待に胸を膨らませながら、彼女は器用に学校の敷地へと潜り込んだ。
目指すは『1-A』の教室。
なんとか学校に到着した頃には、すでに授業が始まっていた。授業中の静けさが漂う校舎で、ルルは足音を立てないよう慎重に窓辺へと近づいた。窓枠に小さな手をかけ、胸を高鳴らせながらそっと中を覗き込もうとした、その瞬間だった。
——ゾクリ。
唐突に、背筋を這い上がるような強烈な寒気に襲われた。
ルルは恐る恐る、教室の中へと視線を向ける。
そこには、教科書とノートを広げ、背筋をピンと伸ばして真面目に授業を受けている牡丹の姿があった。その凛とした横顔は、ルルが期待していた通り、いやそれ以上に尊く、輝いて見えた。
だが、問題はその斜め後ろの席だった。
黒いオーラでも纏っているのではないかと錯覚するほど、凄まじい殺気を周囲に撒き散らしている人物——樹が座っていたのだ。
その鋭い眼光は、まるで『少しでも妙な動きをする輩がいれば、即座に命を刈り取る』と告げているかのようだった。教室という平和な空間に、そこだけ局地的な戦場のようなピリピリとした空気が渦巻いている。
——ヒィッ!? ま、まだ警戒されてる!?
ルルは心の中で悲鳴を上げた。先ほど物陰でやり過ごしたばかりの恐怖が鮮明に蘇り、もふもふの毛が総毛立つ。どうやら樹の警戒心は全く解けておらず、牡丹に近づく害悪を徹底的に排除する気満々のようだった。
——あれは……絶対に近づいちゃダメなやつだわ……。
すっかり意気消沈してしまったルルは、しょんぼりと肩を落とす。あの濃密な殺気の中へ飛び込んでいく勇気は、今の彼女には微塵も残されていなかった。
「……大人しく、授業が終わるのを待つとしますか……」
誰に聞こえるでもなく小さく呟くと、ルルは教室の窓からそっと身を引いた。そして、安全で誰も来ない屋上へとトボトボと歩き出す。
澄み切った青空の下、屋上の隅に座りながら、ルルは永遠とも思える時間を過ごす。大好きな推しに気兼ねなく会える時間が来るのを、ひたすらじっと待ちわびるのだった。
やがて、待ちに待った昼休みを告げるチャイムが校内に鳴り響く。そそくさと階段を下り、再び『1-A』の教室をそっと覗き込むと、先ほどの戦場のようなピリピリとした空気は嘘のように消え去っていた。代わりに、教室の片隅では黄色い声が飛び交っている。樹の席の周りに、彼を取り囲むように女子生徒たちが何重もの人だかりを作っていたのだ。
一方、ルルの最推しである牡丹は、その喧騒から少し離れた自分の席で、静かにお昼の準備を始めていた。可愛らしいお弁当袋を机に置くその何気ない仕草すら、ルルにとっては眼福である。美しい牡丹の姿に目を輝かせていたその時——ふいに、牡丹がこちらへと視線を向けた。
ぱちり、と目が合う。
牡丹は少しだけ目を丸くした後、花がほころぶような柔らかな笑みを浮かべ、お弁当袋を手に取ってわざわざ廊下へと出てきてくれた。
「ルル……?」
「牡丹ちゃん……! ごめんね、勝手に来ちゃって。牡丹ちゃんが心配で、つい学校まで来ちゃったの」
迷惑だっただろうか。ルルは申し訳なさに、もふもふの黒い耳をしょんぼりと力なく垂れ下げた。しかし、牡丹は怒るどころか、心底ほっとしたように安堵の吐息をこぼして微笑んだのだ。
「ううん、来てくれて嬉しい。丁度良かったわ」
牡丹は手元のお弁当袋を少し持ち上げて見せた。
「いつもはお昼、樹と一緒に食べてるんだけど……あの通り、周りの女子の視線が痛くて、少し居心地が悪かったの。だから、これからはルルと一緒に食べるわ」
「えっ? で、でも……月舘くんが嫌がるんじゃない……?」
推しと一緒にご飯を食べられるなんて、ルルにとっては天に昇るほど嬉しい提案だ。しかし、ルルは慌てて聞き返した。
ルルは知っているのだ。元の『ゲーム』の世界線において、樹というキャラクターは、幼なじみである牡丹と離れて行動することはほとんど無かったはずだ。誰よりも彼女を大切に思い、いつも傍で騎士のように付き従っていた。だからこそ、ぽっと出の自分が二人の大切な時間を邪魔してはいけない——そう思い、ルルは控えめに遠慮しようとした。
しかし、牡丹は静かに首を横に振る。
「樹はね、私が学校でよく一人でいるから、心配して一緒にいてくれているだけなの」
そして、牡丹はルルの目を真っ直ぐに見つめた。まるで、この上なく大切な宝物を見るような、とびきり優しくて、無防備な笑顔で。
「でも、もう私にはルルがいるから大丈夫」
ドギュンッ!!
——ううっ! かっっっわいいっ!!
ルルの心臓が、文字通り物理的な衝撃を受けたかのように大きく跳ね上がった。自分に向けて微笑みかけてくれる、天使のような笑顔。そして、『あなたがいるから大丈夫』という、頼りにしてくれていることが伝わる真っ直ぐな言葉。推しからの致死量レベルの供給に、ルルの胸は見事なまでに撃ち抜かれた。
——これ以上遠慮するなんて、私には無理だわ……!
牡丹のあまりの可愛さと破壊力に、ルルの理性は完全に消し飛んだ。ゲームの設定や樹への懸念などという些末な問題は、もはや彼女の頭からきれいさっぱり抜け落ちてしまい、ただただ目の前の尊い存在の言葉に、ブンブンと全力で頷くことしかできなくなるのだった。
一方、牡丹とルルが静かに廊下の奥へと消えていった、その直後のこと。
1-Aの教室では、依然として樹の席の周りに華やかな女子生徒たちの輪ができていた。
「月舘くん、これから一緒にお昼食べない?」
「ねえ、昨日貸してくれたノートなんだけどさ」
次々に投げかけられる黄色い声と甘い誘い。樹は持ち前の爽やかな笑みを微塵も崩すことなく、誰に対しても愛想よく、完璧な『誰からも好かれる優しい優等生』を演じ切っていた。
しかし、彼の意識の大部分は、目の前の女子たちではなく、常に特定のただ一人へと向けられている。楽しげな会話に気の利いた相槌を打ちながらも、樹の視線はごく自然な動作で、自分の斜め前——愛しい幼馴染がいつも座っているはずの席へと向かった。
——だが、そこには誰もいなかった。何重もの人だかりで一瞬死角になってしまったせいで、牡丹がいないことに気づくのが遅れてしまっていたのだ。
綺麗に片付けられた机。つい先ほどまでそこに置かれていたはずの、手作りのお弁当すらない。いつもなら自分の傍から離れないはずの彼女が、姿を消している。
「……牡丹ちゃん?」
賑やかな喧騒の中にポツリとこぼれ落ちたその呟きは、誰の耳にも届かないほど低く、ひどく冷え切ったものだった。その瞬間、周囲の女子たちに向けられていた柔和な笑顔の仮面が、ピシリと音を立てて歪む。光を反射して穏やかに澄んでいたはずの彼の瞳から、スッと温度が抜け落ちていった。代わりに満ちてきたのは、光を一切通さない、底なしの沼のように昏くどろりとした闇色だった。
——どこへ行ったの? 僕に何も言わずに。……誰かと一緒にいる?
胸の奥底で、どす黒く重たい感情がどくどくと脈を打ち、渦を巻き始める。それでも、樹は表情の筋肉を巧みに操り、表面上は美しい微笑みを張り付けたままだった。すぐ目の前で微笑みを絶やさない美しい青年の内側に、ぞっとするような異常な執着とどす黒い狂気が膨れ上がっていることなど知る由もなく。彼のその決定的な変化に気づく者は、きゃあきゃあと騒ぎ立てる女子生徒たちの中には誰一人としていなかった。
二人だけの秘密の昼食場所に選んだのは、誰も寄り付かない静かな屋上だった。
心地よい風が吹き抜ける中、屋上の床に腰掛けた牡丹が、膝の上でそっとお弁当の包みを解く。パカッと蓋が開かれると、そこには海苔で愛らしい表情が描かれたコロンとした小さなおにぎりや、ちょこんと並んだタコさんウインナー、鮮やかなハート型の卵焼きなど、まるで絵本の世界から抜け出してきたかのような、乙女心をくすぐる可愛らしいおかずがぎゅっと詰め込まれていた。
「わあ! 素敵なお弁当だねっ!」
あまりのクオリティの高さに、ルルは目をキラキラと輝かせ、もふもふの耳をぴくぴくと興奮気味に動かした。そんなルルの無邪気な反応に、牡丹は少し照れくさそうに頬を染め、ふわりとはにかむ。
「自己満足よ。可愛いお弁当があれば、午後も頑張ろうって思えるでしょ」
少し恥ずかしそうに目を伏せながら言う牡丹に、ルルはなんて健気で愛らしいのだろうと内心で悶絶した。
「いただきます」
小さく手を合わせ、上品にお弁当を口に運ぶ牡丹。その優雅な所作や、美味しそうに目を細める表情の一つ一つを、ルルは近くで、まるで世界一の芸術を鑑賞するように嬉しそうに眺めていた。
——だが、その優しく穏やかな時間は長くは続かなかった。
バタンッ!!
唐突に、静寂を切り裂くような大きな音を立てて屋上の重い鉄扉が開かれた。
本能的な危機感を察知したルルは、咄嗟の判断で近くにあった貯水タンクの陰へと身を翻し、息を殺して隠れる。ビクッと肩を揺らし、驚いて扉の方へ視線を向けた牡丹の前に現れたのは——少し息を切らした、樹だった。
「牡丹ちゃん、こんなところにいたんだね」
樹は、周囲を見回して牡丹の姿を捉えると、心底安堵したように息を吐いた。しかし、その瞳の奥にはどこか暗く、執着めいた光が揺らいでいる。
「……樹?」
予期せぬ幼馴染の登場に、牡丹は戸惑いの声を漏らす。そんな彼女の反応を気にする素振りも見せず、樹はスタスタと近づいてきた。
「屋上で食べるなら教えてよ」
彼はまるでそれが世界で一番当たり前のことであるかのように、ごく自然な動作で牡丹のすぐ隣にぴたりと腰を下ろした。二人の間に隙間などないほどの距離感に、隠れているルルの方がハラハラしてしまう。
「女の子たちは?」
牡丹は、教室で彼を囲んでいた華やかな女子生徒たちのことを思い出し、不思議そうに首を傾げた。
「え? 断ってきたよ」
樹は悪びれる様子もなく、あっけらかんと言い放つ。そのあまりに軽やかな返答に、牡丹はわずかに眉を寄せた。
「どうして? 一緒に食べたらいいのに」
「酷いなあ。僕は牡丹ちゃんと一緒に食べたいんだよ」
牡丹が窘めるように言うと、樹はあからさまに肩を落とし、拗ねたような、傷ついたような声を出す。
「遠慮しなくていいのよ。私、一人でも大丈夫だから」
ルルの存在があるため、今は一人ではないのだが、牡丹はそれを伏せつつ樹を気遣って言葉をかけた。樹が無理をして自分に合わせてくれているのだと、彼女は思い込んでいるからだ。
しかし、その思いやりの言葉は、今の樹にとっては逆効果だった。
「っ……僕、邪魔だった?」
ぴたり、と樹の動きが止まる。空気が急激に冷え込んだような錯覚を覚えた。先ほどまでの甘えたような声色は消え失せ、彼の顔にはどこか切羽詰まったような、ひどく思い詰めたような影が落ちていた。有無を言わせぬ重い圧が、牡丹に向かってのしかかる。見えない鎖で縛り付けようとするかのようなその眼差しに、牡丹は息を呑んだ。
「そういうことを言ってるんじゃないの」
牡丹は戸惑いながらも、慌てて否定する。すると、樹の瞳に再び強い光が宿った。
「じゃあ、一緒に食べてもいいよね?」
それは質問の形をとっていたが、実質的には拒絶を許さない強烈な懇願だった。その場を支配するただならぬ気迫と、すがりつくような瞳に見つめられ、牡丹は思わず小さく頷いてしまう。
その瞬間だった。
樹の顔からどんよりとした陰りが嘘のように消え去り、ぱあっと花が咲いたような眩しい笑顔が広がったのだ。
「よかった!」
彼は上機嫌に笑うと、買ってきたばかりの購買のパンの袋を開け、美味しそうに齧りついた。隣でパンを食べる彼の姿は、どこからどう見ても好青年のそれだが、先ほどの異様な空気を感じ取っていたルルは、物陰でガクガクと震えながら、前世のゲーム知識以上の恐怖を肌で感じ取っていた。
つづく




