第五話 残酷な真実
重たい金属音を立てて冷たく閉まったドアが、牡丹と外の世界、そして樹の視線を完全に遮断した。静まり返った玄関ホール。牡丹は冷たいドアに背中を預けたまま、小さく息を吐き出し、乱れた呼吸を整える。
樹、私は大丈夫よ。もう、あの頃みたいに、ただ怯えて逃げるだけの私じゃないんだから。
心の中でそう自分に言い聞かせ、固く結んだ唇を緩めると、彼女は決意を宿した足取りで自室へと向かった。
不器用で、いじっぱりで、そのうえ切れ長の瞳のせいで周囲からは冷たい印象を持たれ、誤解されがちな牡丹だが——実は、可愛いものが大好きだった。
一歩足を踏み入れた彼女の部屋には、趣味の良さがうかがえる可愛らしい小物や、フワフワとしたぬいぐるみが所狭しと並んでいる。そして、その穏やかな空間のなかに、ルルがちょこんと座っていた。周囲のぬいぐるみたちと見間違うほど自然に部屋に溶け込んでおり、その姿は形容しがたいほど愛らしい。
「あ、牡丹ちゃん! おかえりなさい!」
ドアが開くやいなや、ルルはぱっと顔を輝かせ、嬉しそうにパタパタと駆け寄ってきた。しかし、牡丹の瞳にはいつもの日常とは違う、真剣な光が宿っている。
「……ねえ。どうして樹を見て逃げたの」
ずっと心の隅でくすぶり続けていた疑問を、牡丹はそのまま真っ直ぐにぶつけた。その問いかけに、ルルはぴたりと動きを止め、申し訳なさそうなしょんぼりとした顔をしながら、部屋に置かれたクッションの上へととぼとぼ歩いて座った。
「……ごめんね。月舘くんのことが嫌いなわけじゃないの。彼は多分、私のことが……見えるから。だから今は、あまり会わない方がいいと思って……」
『Fleur Ange』の世界において、天海牡丹と月舘樹はすでに『魔法少女』と『魔法少年』としての契約を交わし、それぞれに専属の使い魔を従えていた。しかし、二人がどのようにしてその運命を背負うに至ったのか、その契約の裏側は原作ゲームの本編でもまだ明かされていなかった部分である。
なにより、ルルが命を落としたその日は、運命の『大型アップデート当日』だった。アップデート後に、二人の過去編を描く限定シナリオが解放される予定だったのだ。
だからこそ、ルルは慎重に動くしかなかった。自分がゲームの筋書きを超えて他のキャラクターに不用意に接近しすぎることで、未来や物語の輪郭にどんな変化が起こってしまうのか——それを何よりも恐れていたからだ。
「……今は?」
ルルが口走った意味深な言葉を、牡丹は聞き逃さなかった。低い声で問い返されたルルは、はっとしたように慌てて前足をぶんぶんと動かした。
「あっ、あはは、な、なんでもないよ! こっちの話だから! ……ええと、それより、牡丹ちゃんにこれまでのこと全部説明するって、約束したよね」
「ええ。早く説明してほしいわ。あの化け物たちのこと、そして、『魔法少女』である私のことについて……すべてをね」
牡丹のまっすぐな視線を受け止め、ルルは小さく頷いた。部屋の空気が少しだけ引き締まり、物語の核心へと踏み込む時間が静かに始まろうとしていた。窓の外から差し込む淡い光が、畳の上に落ちる二人の影をくっきりと縁取っている。
「まず、私みたいな『使い魔』について話すね」
ルルは真剣な眼差しで、その小さな胸を微かに上下させながら口を開いた。普段の無邪気な声色とは打って変わって、どこか哀切を帯びた響きが部屋に染み渡っていく。
「私はこの世界とは異なる世界に住んでいるんだ。その世界には『穴』が時々空いちゃうんだけど、その穴に落ちちゃうと、君たちのいるこの世界に出ちゃうの。でも、私たちはこの世界では一人で生きていけない。だって、君たちの『負の感情』を吸い込んで『化け物』になっちゃうから……」
「え……!?」
牡丹は息を呑み、ルルの言葉に目を見開いた。頭の中で、さっきまで自分を襲ってきたグロテスクで禍々しい異形の姿が、ルルの小さな姿と重なり合っていく。
「もしかして……あの化け物って、貴方の仲間だったってこと……?!」
喉の奥から絞り出した牡丹の問いに、ルルは痛ましそうに瞳を伏せ、重たく首を縦に振った。
「……うん……」
「……そんな……!」
牡丹の手が小さく震え、膝の上で強く拳を握りしめた。あの身の毛もよだつほど醜く、恐ろしい形相で迫ってきたあの存在も、元は目の前にいるルルのように意志を持ち、愛らしい姿をしていた使い魔だった。命の危機だったとはいえ、自分はその同胞に刃を向け、滅ぼしてしまったのではないか——心優しい牡丹の胸を、鋭い罪悪感と後悔の棘が容赦なく突き刺した。
青ざめる牡丹の様子に気づき、ルルは慌てて羽を震わせ、両手を振って懸命に言葉を継いだ。
「人間が幽霊や妖怪だと話している存在は、実は私の同胞たちなんだ。でも、心配しないで! 君たち『魔法少女』が倒すことで、彼らは『浄化』されるんだ!」
「そう、なの……?」
牡丹は縋るようにルルを見つめ返した。その瞳には、まだ拭いきれない不安と痛みが揺らめいている。
「この小瓶に浄化された魂を入れると、向こうの世界で生まれ変われるんだ。私たちでは、『浄化』はできないし、一人だと『化け物』になってしまう。だから、魔力を持つ人間と契約して、化け物にならずに、『浄化』を手伝ってもらうようになったんだ」
ルルが胸元に掲げた小瓶は、淡く柔らかな燐光をたたえていた。決して命を奪ったわけではない。悪夢のような穢れから魂を救い出し、還るべき場所へと送り届けるための戦いなのだと、ルルの言葉は告げていた。
牡丹はゆっくりと自分の手のひらを見つめた。白く、細い指先。その奥に眠る、目に見えない力に思いを巡らせる。
「……私に、魔力があったのね」
「牡丹ちゃんの魔力はすごいんだよ! 『化け物』が欲しがって近づくくらい、魅力的なんだ!」
ルルは牡丹を励ますように、無邪気な賞賛を込めて声を弾ませた。しかし、その言葉は牡丹にとって、あまりにも重く残酷な真実を突きつけるものだった。
「っ……!」
牡丹の息が止まり、全身の血の気がすっと引いていくのを感じた。
幼い頃から、ずっと続いていたあの悪夢。登下校の薄暗い路地裏、雨の日の校舎の影、夜中にふと目を覚ました寝室の片隅。いつも自分だけに見えていた歪な気配と、執拗に自分を追い回し、狙い続けてきた異形たちの群れ。どうして自分だけがこんな目に遭わなければならないのかと、幾度となく恐怖に震え、泣きながら耐えてきたあの日々——その元凶が、他ならぬ自分自身の内に宿る『魔力』だったというのか。
牡丹の瞳が激しく揺れ、胸の奥底で押し殺してきた過去の痛みが、冷たい波のように一気に押し寄せていた。
幼少期の記憶が、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。誰にも信じてもらえなかった異形の影、怯えながら過ごした夕暮れ時の帰り道、布団を頭からかぶって震えていた無数の夜。ただ普通でありたかった。みんなと同じように、何気ない日常を笑って過ごしたかっただけなのに。その平穏を脅かし続けてきた恐怖の根源が、外部の不条理な災厄などではなく、自らの身体の内側に宿る力そのものだったという事実は、牡丹の心を冷酷に締め上げた。震える唇を必死に動かし、牡丹はか細い声を絞り出した。
「……なら、私はこの魔力がある限り、ずっと狙われ続けるってこと……?」
その問いは、答えを聞くのが恐ろしくなるほど重く、静まり返った部屋に落ちた。もしそうだとしたら、この悪夢には終わりがない。どれほど逃げても、どこへ隠れても、自分の存在そのものが化け物を引き寄せる標的であり続けるということになる。
逃げることのできない過酷な未来。それが冷たい刃のように、真っ直ぐに牡丹の喉元へと突きつけられていた。
ルルは牡丹にかけるべき言葉を探すように口元を歪め、胸を痛めながら、悲痛な顔でゆっくりと頷いた。
「……うん……。彼らにとって、牡丹ちゃんの魔力は暗闇の中で燃え盛る篝火みたいに見えちゃうんだ。だから、どうしても引き寄せられちゃう……」
嘘をついて誤魔化すこともできたはずだった。けれど、ルルは痛みを分かち合うような真摯な眼差しで、その過酷な現実を肯定した。牡丹の肩が小さく跳ね、そのまま力なく落ちていく。逃げ場のない真実を前にして、部屋の中には痛々しいほどの沈黙がただ重く横たわっていた。
窓から差し込む青白い月明かりが畳の目を静かに照らす中、ルルはそっと牡丹の膝へと身を寄せた。
「……ごめんね、牡丹ちゃん。ずっと一人で、すごく怖かったよね……。今まで誰にも言えなくて、辛かったよね。でも、もう絶対に一人で泣かせたりしないよ。これからは私がずっとそばにいるから……一緒に戦って、全部終わらせよう?」
ルルは、牡丹が樹と二人で化け物に怯え逃げていたという、本当の過去を知らない。ただ、目の前の少女がこれまで誰の理解も得られず、孤独の闇の中でずっと恐怖を抱え込んできたのだと、その痛切な震えだけを感じ取っていた。
牡丹はそっと視線を落とし、自分にすがりつくように寄り添うルルの背中に触れた。ふわふわとした柔らかな毛並みを、震える指先で静かに撫でる。ルルは安心させるように小さくゴロゴロと喉を鳴らし、牡丹の手のひらへと頭を擦り寄せてきた。
『ずっとそばにいる』。
その言葉は、決してその場しのぎの慰めなどではなかった。出会ったばかりの、見ず知らずの自分を身を挺して全力で守ってくれたルルだからこそ、その小さな身体から紡がれる約束には、魂を揺さぶるほどの強い説得力があった。牡丹はたまらなくなり、ルルの小さな身体を両腕でそっと、壊れ物を抱くように抱きしめた。
張り詰めていた心の糸が、音を立ててほどけていく。堰を切ったように、牡丹の瞳からボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。幼い頃からずっと胸の奥底に押し込め、誰にも見せないように蓋をしてきた恐怖、孤独、そして先の見えない苦しみ。そのすべてが、牡丹の桃色の瞳からあたたかな涙となって溢れ、ルルの柔らかな毛並みを濡らしていった。
泣きじゃくる少女の温もりを全身で受け止めながら、ルルは牡丹への愛おしさにきゅっと胸を締め付けられた。
「大丈夫、大丈夫だよ……」
ルルは小さな前足を伸ばし、震える牡丹の頭を優しく、愛おしそうに撫で続けた。重苦しかった部屋の空気を溶かすように、二人の静かな温もりだけが、ゆっくりと夜の静寂の中に満ちていった。
つづく




