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Fleur Ange〜使い魔に転生して最推しを甘やかしていたら、ヤンデレ魔法少年に目の敵にされました〜  作者: 柊原 ゆず


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第四話 心配性の幼馴染


 すっかり日が落ち、家々の窓から漏れる生活の明かりだけが頼りの閑静な住宅街。等間隔に並ぶ街灯がアスファルトに落とす円形の光の中に、ひとつの人影がじっと佇んでいた。牡丹の家の門扉の前。そこに立つのは、すれ違う誰もが思わず振り返るような、爽やかで端正な顔立ちをした美青年だった。ふわりとしたオリーブアッシュのショートヘアーが夜風に揺れ、街灯の薄明かりが、本来なら優しげな深緑の瞳をひどく影深く見せている。彼こそが、牡丹の幼馴染である月舘 樹(つきだて いつき)だった。

 その姿を視界に捉えた瞬間、牡丹の肩越しに顔を覗かせていたルルが、弾かれたように息を呑んだ。


「私、後でお部屋に行くね! 牡丹ちゃんは先に帰ってて!」

「え……?」


 ルルは小声で早口にそう告げると、牡丹が引き止める間もなく、大慌てで空に溶け込むように姿を消してしまった。ルルの突然の行動に、牡丹が呆然と首を傾げた、まさにその時だった。


「牡丹ちゃん……!!」


 静寂に包まれた夜の空気を引き裂くように、切羽詰まった樹の声が牡丹の鼓膜を激しく揺さぶった。瞬きする間も与えぬ凄まじい勢いで距離を詰めてきた樹は、牡丹の正面に立つなり、その両肩をガシリと力強く掴んだ。


「いっ……!」

「どこに行ってたの」


 思わず短い悲鳴が漏れる。骨が軋むほどの強い力に、牡丹は痛みに顔を歪めた。誰に対しても穏やかで、いつも王子様のように優しい微笑みを絶やさない彼からは想像もつかないほどの強い束縛。至近距離で見上げれば、深緑の瞳には明らかな焦燥と恐怖がドロドロと渦巻いていた。


「僕、バケモノに牡丹ちゃんが襲われたんじゃないかって、心配したんだよ……!」


 ギリッと唇を噛み締める樹の言葉に、牡丹は息を呑む。気づけば、牡丹の肩を掴む彼の手は、微かに、しかし確かな怯えをもってガタガタと震えていたのだ。

 樹と牡丹。二人が共有する世界には、幼い頃から常に『バケモノ』の影が落ちていた。大人や他の友達には決して見えない、悍ましい異形の存在。なぜかそのバケモノたちは、揃って二人を標的にしては執拗に追いかけてきた。二人はお互いの手を強く握り合い、暗がりで息を殺して隠れたり、人通りの多い明るい場所に逃げ込んだりすることで、これまで幾度となく危険を回避してきたのだ。

 だからこそ、痛いほどにわかる。樹がどれほどの恐怖に苛まれながら、帰りの遅い牡丹をたった一人で待ち続けていたのかが。もし自分が逆の立場だったなら、間違いなく同じように半狂乱になって心配しただろう。牡丹は、自身の肩に食い込むように掴む彼の腕へ、そっと両手を添えた。彼に伝わるように、わざとゆっくりと、優しい熱を込めて。


「樹……ごめん。ちょっと寄り道していて、遅くなっちゃったの。私は大丈夫だよ」


 牡丹は、少しでも樹を安心させようと、精一杯の明るい笑みを作ってみせる。

 自分が『魔法少女』という存在になり、さっきまでその『バケモノ』と命懸けで戦っていたなど、同じようにバケモノに怯え、共に震えながら生きてきた樹に教えるわけにはいかなかった。そんな真実を知れば、彼は「危ないからやめて」と泣きそうな顔で強く反対するに決まっている。けれど、もう逃げるだけの怯えた日々には戻りたくない。あの恐ろしい『バケモノ』を倒せる力が手に入ったのなら。目の前で震える、この優しくて大切な幼馴染を守ることができるのなら。

 私は、戦う。

 彼に真実を隠し通すことへの小さな罪悪感を、チクリと痛む胸の奥底へと深く封じ込めながら。牡丹は、強張っていた樹の筋肉から徐々に力が抜け、その微かな震えが完全に治まるまで、自身の温かな両手で彼の腕をしっかりと包み込み続けた。

 夜風が二人の間を静かに通り抜けていく。やがて、牡丹は彼を安心させるように、ふっと息を吐いて言葉を紡いだ。


「怖かった、よね。待っててくれて……その、ありがとう」


 面と向かって素直な言葉を口にするのは、いくら気の置けない幼馴染と言えど、不器用な牡丹にとってはひどく気恥ずかしいものだった。誤魔化すように視線を泳がせ、足元の影へと目を逸らした彼女の頬は、夜の暗がりの中でもわかるほどにうっすらと朱に染まっている。そんな照れ隠しをする牡丹の姿を見て、樹の顔からようやく焦燥の色が消えた。張り詰めていた空気がふっと緩み、ふにゃりと、彼本来の優しくて嬉しそうな微笑みが唇に浮かぶ。


「いいんだ。僕、牡丹ちゃんのためならどんなこともできるから」


 その甘く穏やかな声色に、牡丹はいつものように彼がからかっているか、冗談を言っているのだと思った。「またそんな大げさなことを言って」と、軽く笑い飛ばそうとして——顔を上げた牡丹は、思わず息を呑んだ。

 街灯の光を浴びた樹の顔は、真剣そのものだった。そこには微塵の照れも、冗談めかした色もない。深緑の瞳はまっすぐに牡丹だけを射抜き、仄暗い熱情すら孕んだような、どこか底知れぬ重さと切実さを帯びている。彼が放つその静かで強烈な想いの気迫に、牡丹の心臓がドクンと大きく跳ねた。


「も、もう。言い過ぎ!……じゃあ、明日。学校でね」


 このまま見つめ合っていれば、得体の知れない樹の甘く重たい空気に全身を呑み込まれてしまいそうだった。牡丹は耐えきれずに視線を振り切ると、その言葉を強引に『ただの冗談』ということにして会話を断ち切った。

 弾かれたように背を向け、逃げるような足取りで自宅のポーチへと駆け上がる。玄関の扉を開け、滑り込むようにして家の中へと入る。

 バタン、と。

 重たい金属音を立ててドアが閉まり、外の世界と樹の視線を完全に遮断した。静まり返った玄関ホールで、牡丹は冷たいドアに背中を預けたまま、先ほどの彼の真剣すぎる眼差しを思い返し、しばらくの間、早鐘のように打つ自身の鼓動を持て余していた。


 その扉の向こう側。

 街灯の冷たい光だけが取り残された夜の空間で、樹は閉ざされた牡丹の家をじっと見つめていた。先ほどまで見せていた甘く穏やかな表情はなりを潜め、深緑の瞳には底なしの沼のような執着が静かに沈殿している。


「……冗談なんかじゃないんだけどな」


 夜風に溶けるようにこぼれ落ちたその呟きは、ひどく低く、彼女への重たい熱を孕んでいた。深緑の瞳には、ほんの数秒前まで交わしていた会話の余韻を愛おしむような、ひどく名残惜しげな熱が残っている。やがて、彼の中で何らかの区切りがついたのか、ふっと吐息を漏らすと、すぐ隣にある自身の家へと歩みを進めるべくゆっくりと踵を返した。

 その時だった。

 夜風が微かに木の葉を揺らす音に混じって、這いずるような、あるいは粘着質な何かが蠢くような異音が鼓膜を打った。樹の視線が、音の発生源である牡丹の家のポーチへと滑る。

 街灯の光が届かない仄暗い場所で、それは不気味にうごうごと蠢いていた。周囲の闇よりもさらにどす黒く、輪郭を持たない泥のように這い回る異形の影。間違いなく、牡丹が魔法少女として命を懸けて戦っている『バケモノ』と同種の存在であり、樹自身が彼女の前で『恐ろしい』と肩を震わせて怯えてみせた、あの悍ましい怪物そのものだった。

 しかし、その異様を捉えた樹の瞳には、かつて見せたような恐怖の色など微塵も浮かんでいなかった。先程まで扉に向けていた柔らかな熱は瞬時に消え失せ、代わりに浮かび上がったのは、絶対零度を思わせる氷のように冷酷で、鋭い光。悲鳴を上げて後ずさることも、恐怖に身を竦ませることもない。彼の呼吸一つ、鼓動一つすら乱れることはなかった。

 樹は無言のまま、滑るような足取りですぐさまその黒い影へと近づいた。

 バケモノが彼の気配に気づき、威嚇するようにその悍ましい体を蠢かせた瞬間——樹の足が、ごく自然な動作で高く振り上げられた。そこに特別な感情はない。憎悪も、怒りも、正義感すらも皆無。まるで、靴の裏に引っかかった道端の不快な石ころや、這い出てきた羽虫をただ払いのけるかのような、ひどく無造作でひどく退屈そうな所作だった。

 次の瞬間、間髪入れずに振り下ろされた靴底が、黒い影の頭上へと正確に叩きつけられる。

 グチャッ。

 夜の住宅街に、嫌悪感を催すような肉の潰れる鈍い音が響き渡る。

 樹の靴底によって容赦なく踏みにじられた異形は、断末魔の叫びを上げる間すら与えられず、瞬時に無残に砕け散った。そして、淡い光の粒子へと分解され、ふっと夜の闇の中へ溶けるように消えてゆく。


「……『駆除』したと思っていたのに。まだ引き寄せていたのか」


 靴の裏をわずかに擦りながら吐き出された声は、ひどく冷酷で、絶対的な強者の響きを帯びていた。


「ほんと、牡丹ちゃんは危なっかしいんだから」


 言葉そのものは呆れたような響きだったが、その声色には、彼女のすべてを守りたいと願うような歪んだ愛おしさがべったりと張り付いていた。

 虚空へ消えてゆく光の粒子を冷徹に見下ろす樹の顔。そこには、先ほど牡丹の前で見せていたような『怯え』や『弱さ』などという感情は、ただの一欠片も存在していなかった。あるのはただ、愛するものを脅かす害虫に向けられた底冷えするほどの氷の眼差しと、残酷なまでの静けさだけだった。


つづく

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