第三話 初めての変身
薄暗い路地裏に、硬質なガラスが軋むような不気味な音が響き渡っていた。半透明に輝く光のバリアの外では、『異形』が、獲物を逃すまいと禍々しい唸り声を上げている。その圧倒的な脅威を背にしながらも、ルルの小さな胸の内は、かつてないほど熱く固い決意に満ちていた。
——絶対に牡丹ちゃんを一人になんかしない。どんな辛い戦いでも、私が一番近くで支えて、褒めて、世界一甘やかして幸せにしてみせるんだから!
ルルは、悪魔のような小さな黒い羽をぱたぱたと羽ばたかせながら、くりくりとした赤い瞳に強い光を宿して目の前の少女を見据えた。
「天海牡丹ちゃん。私と契約して、魔法少女になってほしいの!」
真剣な眼差しでまっすぐに契約を持ちかける目の前の生き物に、牡丹は完全に言葉を失っていた。切れ長の瞳が信じられないものを見るように見開かれている。艶やかな漆黒の毛並みを持つ、黒猫のような愛らしい存在。それが突然現れて自分の命を救い、あろうことか名前まで知っているのだ。
——魔法少女って何? それに、なんで私の名前を……?
混乱と警戒、そして未だ冷めやらない恐怖が入り混じる中、牡丹の震える唇から微かな声がこぼれ落ちた。
「あ、あなたは、だれ……?」
怯えを隠しきれないその問いかけに、ルルは迷うことなく言い切った。
「わたし……私、は……ルル。貴女を助けに来たの!」
その瞬間、牡丹の美しい瞳が大きく揺れ動いた。普段はプライドが高く、他人に弱みを見せるのが苦手な彼女の心の奥底を、その温かい言葉が真っ直ぐに射抜いたのだ。
——誰かに助けてほしい。心のどこかで、ずっとその言葉を求めていた。
これまで幼馴染にしか見せられなかった弱さを丸ごと肯定し、寄り添ってくれる存在を。それを、この不思議で可愛らしい生き物が、真っ直ぐに与えてくれたのだ。
しかし、静かな感動に浸る時間は残されていなかった。
メキィッ……!
背後で嫌な音が鳴る。異形の化け物が太く歪んだ腕を振り下ろし、ルルが展開した魔力のバリアを執拗に攻撃し続けていた。半透明の障壁には無数のヒビが走り始めており、激しい衝撃に耐えきれず壊されるのは、もはや時間の問題だろう。
「でも、私だけじゃこの『異形』をどうすることもできないの。お願い、私の手を取って! 魔法少女として、戦ってほしいの……!」
ルルは、ぷにぷにとした桜色の肉球を持つ、小さくふわふわの黒い前足を真っ直ぐに差し出した。視界の奥で迫り来る死の恐怖。この絶望的な現状を変えるには、目の前の小さな黒猫の言う『魔法少女』とやらになるしかない。牡丹が青ざめた顔でキュッと唇を噛み締め、やがて恐怖を振り払うかのように決意を込めた強い瞳を上げて、その華奢な手でルルの小さな黒い前足をしっかりと握り返した瞬間だった。
パァァァッ……!
ルルの桜色の肉球から、夜の暗闇を切り裂くような眩い真紅の光が溢れ出した。その光は瞬く間に牡丹の身体を包み込み、薄暗い路地裏を幻想的な輝きで照らし出す。光の渦の中で牡丹の制服がふわりと解け、魔法の粒子となって新たな衣装へと再構築されていく。
光の粒子が舞い散る中、魔法の力は衣装だけでなく、牡丹自身の姿にも劇的な変化をもたらした。普段は肩甲骨のあたりまでだった鮮やかな赤髪のハーフアップが、溢れ出す魔力を帯びてふわりと宙に舞い上がると、光の糸を紡ぐようにさらさらと長く伸びていく。しなやかな波を打つ髪はやがて腰のあたりまで届く豊かなウェーブヘアへと変わり、一部が優雅に編み込まれてまとめられ、まるで気高き女王を思わせるような、息を呑むほど美しく大人びた髪型へと姿を変えた。
彼女の身体を包み込む赤と黒を基調としたドレスは、ダリアを思わせる幾重もの豪奢なフリルがあしらわれており、その大人びた佇まいにふさわしい圧倒的な気高さと気品を漂わせている。それでいて、華奢なウエストを絞るコルセット風のデザインや、ふんわりと広がるスカートの裾、そして女王のように結い上げられた髪を彩るトレードマークの大きなリボンが、近寄りがたい冷たさだけではない年相応の愛らしさを絶妙に引き立てていた。
そして彼女の右手に力強く握られているのは、しなやかで長い真紅の鞭。柄にはダリアの花を模した美しい装飾が施され、地面に優雅な曲線を描いて垂れている。
光が弾け、舞い散る花びらのように収まると、そこには息を呑むほど美しい『魔法少女』の姿があった。
「わあ……!」
その圧倒的な美しさに、ルルは思わず感嘆の声を漏らしてしまった。
これまで、スマートフォンの液晶画面越しに何百回、何千回と拝んできた『最推し』の変身バンク。しかし、こうして間近で見る生変身の迫力と美しさは、次元が違った。光を帯びて煌めくピンク色の切れ長の瞳も、凛と引き結ばれた唇も、すべてが画面で見るよりもずっと、ずっと美しくも可愛らしい。恐怖に打ち勝ち、自らの足で立って鞭を構える気高き姿に、ルルの中のオタク心と深い感動が限界まで満たされていくのだった。
「……これで、戦えばいいの……?」
眩い光が収まった後、牡丹は自身を包み込む豪奢な赤と黒のドレスと、右手に握られたしなやかな真紅の鞭を戸惑いがちに見つめた。
「そう! 武器は、『魔法少女』に合わせて作られるの。君なら、この武器の使い方が分かるでしょう?」
ルルは、悪魔のような小さな黒い羽をパタパタと羽ばたかせながら、誇らしげに告げた。牡丹は幼い頃から新体操を習っており、特にリボンを得意種目としている。競技用リボンのようなこの真紅の鞭の扱い方は、手にした瞬間に想像がついていた。
「武器には魔力が込められているから、『異形』に向かって攻撃してみて!」
「え、ええ! 分かったわ!」
背後で唸る異形へと振り返り、牡丹はしなやかな体幹を生かして大きく踏み込んだ。腕のしなりと共に、真紅の鞭が美しい螺旋を描いて虚空を切り裂く。
バチンッ!
甲高い破裂音が薄暗い路地裏に響き渡った。鞭の先端が異形のドロドロとした巨体を捉えた瞬間、異形が「ギャアァァッ!」と断末魔のような不気味な悲鳴を上げ、全身が眩い浄化の光に包まれる。
——すごい……!
ルルは、驚愕に赤い瞳を丸くした。ゲームのチュートリアルでは、正規ヒロインである小春が複数回攻撃を当ててようやく無力化させていた『異形』。牡丹が倒したのはそれと同じ種類の個体だったが、彼女はたったの一撃で完全に沈めてみせたのだ。ゲームのステータス画面に記載されていた『魔力に溢れた上級の魔法少女』という牡丹の説明は、伊達ではないのだとルルは生で見て肌で感じていた。
やがて眩い光に包まれていた異形は完全に姿を消し、代わりに空中にふわりと浮かぶ『小さな火の玉』へと姿を変えた。
——これが、浄化なのね。
ルルはハッとして我に返り、慌ててどこからともなく可愛らしい小瓶を取り出すと、その蓋を開けた。淡く温かな光を放つ小さな火の玉は、まるで自ら帰る場所を見つけたかのように、すうっと吸い込まれるようにしてルルが掲げた可愛らしい小瓶の中へと収まっていった。コトリ、とルルが小さな前足で小瓶の蓋を閉めると、薄暗い路地裏には再び冷たい夜の静寂が舞い戻った。
「ルル……と言ったかしら」
ピンと張り詰めた空気の中、牡丹は静かに声をかけた。戦闘を終えたばかりの彼女の息は恐怖と緊張、そして安堵に微かに乱れており、切れ長のピンク色の瞳が、宙に浮かぶ小さな黒猫の姿を真っ直ぐに射抜いている。
「どうしたの? 牡丹ちゃん」
最推しの華麗なる初陣を一番の特等席で見届けたルルは、オタクとしての深い感動と圧倒的な達成感で、艶やかな漆黒の尻尾をゆらゆらと大きく揺らした。背中の小さな悪魔の羽をぱたぱたと羽ばたかせながら空中でくるりと振り返り、くりくりとした愛らしい赤い瞳で牡丹を見上げる。しかし、牡丹の表情は真剣そのものだった。彼女は手にした真紅の鞭を握り直し、凛とした声で問い詰める。
「あの化け物は何。魔法少女やあなたについて、……そして今、何をしているのか。答えてちょうだい」
その声には、隠しきれない戸惑いと強い警戒心が滲んでいた。
牡丹の疑問は、あまりにももっともであった。日常の裏側で突然、『異形』に襲われ、理不尽な死の恐怖に直面させられたのだ。そして生き残るための自衛手段として、目の前の不思議な生き物と半ば強制的に契約を結ばされ、有無を言わさず『魔法少女』にされてしまった。自分自身の身に一体何が起きたのか、これから何を背負わされるのか、彼女にはそのすべてを知る権利がある。
牡丹の真っ直ぐで強い視線を受け止めたルルは、ふっと穏やかな表情になると、浄化された魂が入った小瓶を大事そうに懐へと仕舞い込んだ。
ルルは、ぷにぷにとした桜色の肉球がある小さな黒い前足を胸の前でちょこんと揃えると、張り詰めた空気の中で警戒する牡丹の不安を少しでも和らげるように、真っ直ぐに向き直った。
「うん。牡丹ちゃんが知りたいこと、全て教えるよ。……でも、君みたいに可愛い女の子が路地裏にいたら危ないから、家に帰ってから話そう?」
静かな夜の路地裏に、鈴を転がしたような愛らしい声が響く。その言葉を聞いた瞬間、キリッと引き結ばれていた牡丹の表情がピタリと止まった。
「か、可愛い……!?」
牡丹の切れ長のピンク色の瞳が、驚きでパチクリと瞬きを繰り返す。大人びた顔立ちと気高い雰囲気から、周囲から「綺麗だね」と称賛されることはあっても、「可愛い」と真っ直ぐに言われたことは、彼女のこれまでの人生で一度もなかったのだ。しかもそれを、悪魔のような羽が生えているとはいえ、どう見ても『可愛いの権化』である小さな黒猫に言われているのである。
普段はプライドが高く強気な彼女だが、不意打ちの褒め言葉に激しい気恥ずかしさを感じ、美しい白い頬をポッと林檎のように赤く染め上げた。
——ぼ、牡丹ちゃんが照れてるっ! 可愛いっ!!
その瞬間、ルルの内なるオタク心が大爆発を起こした。生前、スマートフォンの画面越しに何百回と見てきた『最推し』の、ゲーム内でも滅多にお目にかかれない貴重すぎる生照れ顔。あまりの尊さに、ルルは頭の上の黒い猫耳をピコッと前に傾け、艶やかな漆黒の尻尾を垂直にピンと立てた。そして、歓喜のあまり背中の羽をぱたぱたと忙しなく羽ばたかせ、嬉しそうにふわふわと宙を浮き沈みする。
「うんっ! 牡丹ちゃんはとっても可愛いよ!」
ルルは満面の笑みで力強く肯定すると、すっ、と牡丹のそばまで近づき、華奢なその手を自分の小さな桜色の肉球でそっと包み込んだ。
「こんな危ない場所を出て、お家に帰ろう!」
ルルが導くように優しく引っ張ると、牡丹を包み込んでいた豪奢な赤と黒のドレスが淡い光の粒子となってふわりと解け、見慣れた学園の制服姿へと戻っていく。まだ少し頬を赤くしたまま戸惑う牡丹の華奢な手を、ぷにぷにとした桜色の肉球がある前足でしっかりと引きながら、ルルは推しと手を繋いで歩く幸せをこれでもかと噛み締めていた。薄暗く冷たい路地裏を抜け、夜の街灯が照らす表通りへと向かって、背中の小さな黒い悪魔の羽をぱたぱたと羽ばたかせる。
「ちょ、ちょっと……!」
周囲の目を気にしたのか、引っ張られる牡丹が慌てたような声を上げた。
「安心してね。私は『魔法少女』の魔力適性がある人間にしか見えないから!」
ルルが空中で振り返り、くりくりとした赤い瞳で自信満々に胸を張って答える。しかし、牡丹は困惑したように切れ長のピンク色の瞳を瞬かせた。
「そういうことじゃなくて……! 家は、逆よ!」
ピタッ、とルルの動きが止まる。
どうやら、意気揚々と牡丹を反対の方向へと力いっぱい引っ張っていたらしい。
「わああっ! ごめんね、牡丹ちゃん」
先ほどの自信満々な態度はどこへやら、ルルは頭の上の黒い猫耳をしょんぼりとペタンと垂らし、艶やかな漆黒の尻尾を足の間に丸め込んでちんまりと縮こまった。そのあまりにも分かりやすい小動物のような反省のポーズと可愛らしさに、張り詰めていた牡丹の表情がふっと僅かに和らぐ。
「あなた、少しドジなのね」
呆れたような、けれどどこか優しさを孕んだ声。普段はプライドが高く、他人に弱みを見せたり素直になったりするのが苦手な彼女が見せた、年相応の柔らかい表情だった。
「うん、そうみたい……。でも、牡丹ちゃんの使い魔として役に立てるように頑張るからっ!」
最推しからの思いがけない言葉に、ルルはパァッと表情を明るくした。やる気に満ちたルルは、夜風に乗るように牡丹の隣をふよふよと飛びながら、今度こそ正しい帰路へと着くのだった。
——しかし、穏やかな時間は長くは続かなかった。
すっかり夜の帳が下りた住宅街。牡丹の家に近付いた時だった。彼女の家の門扉の前に、街灯の光に照らされた一人の人影が立っている。一見すると誰もが振り返るような、王子様系の爽やかな美青年。特徴的なオリーブアッシュのショートヘアーに、優しげな深緑の瞳——牡丹の幼馴染である月舘 樹であった。
つづく




