第二話 推しとの出会い
光り輝く大きな扉をくぐり抜けると、視界を埋め尽くしていた眩い光の渦がすっと引くように消え去った。ひんやりとした湿り気を帯びた空気が、ルルの艶やかな黒い毛並みを撫でていく。ぱちぱちと赤い瞳を瞬かせながら周囲を見渡すと、そこは先ほどまでの幻想的な異世界とは似ても似つかない、薄暗く人通りの少ない裏路地であった。
両側を高いコンクリートのビルに挟まれ、頭上には蜘蛛の巣のように電線が張り巡らされている。遠くからは、かすかに車の走行音や街の喧騒が聞こえていた。見紛うことなき、現代日本の街並みだ。
「……ここはどこ……?」
ルルは背中の小さな黒い羽をぱたぱたと羽ばたかせ、地面から少し浮いた状態でキョロキョロと辺りを見回した。
まずは契約者となるはずの『彼女』を探さなければならない。小さな前足を胸の前で揃え、周囲を探索しようとふよふよと路地を進みかけた——その時だった。
「……!」
ぴくり、とルルの頭の上で黒い猫耳が動いた。
風の音や遠くの雑踏に混じって、何かが蠢くような不気味で重苦しい気配と、荒い呼吸音を、使い魔の鋭敏な聴覚が検知したのだ。ただ事ではない禍々しい空気の揺らぎが、路地のさらに奥深くから漂ってくる。
ルルは息を呑み、その音を頼りにふよふよと宙を滑るようにして急ぎ移動していった。角を曲がり、袋小路になった路地の奥へと飛び込んだ瞬間、ルルの目に映り込んだのは、おぞましい光景だった。
そこには、黒くドロドロとした塊のような『異形』の怪物が立ち塞がっていた。そしてその足元——冷たいアスファルトの地面にへたり込み、恐怖で動けずにいる一人の女子高校生の姿があった。
その少女の姿を見た瞬間、ルルはくりくりとした赤い瞳を限界まで見開いた。
薄暗い路地の中でも目を引く、燃えるように鮮やかな赤髪のハーフアップ。その髪を彩る大きな黒いリボンに、見覚えのある学園の制服とストライプのリボン。そして何より、恐怖に彩られてなお美しさを失わない、キリッとした切れ長のピンク色の瞳。
——間違いない。天海 牡丹だ。
スマートフォンの画面越しに何百回、何千回と見つめ、声を聴き、その幸せを願って課金を捧げ続けた、前世からの愛おしい『最推し』が、今、すぐ目の前に生身の人間として存在していた。見れば、牡丹の華奢な肩は小刻みに震えていた。それでも、腰が抜けたように座り込みながらも、彼女は決して目を瞑って諦めたりはしていなかった。鋭い眼差しで異形を睨み、唇をきゅっと噛み締め、恐怖に震える身体を必死に奮い立たせて、指先で地面を掻くようにしながら少しでも後ろへ逃げようともがいている。
——ああ……やっぱり牡丹ちゃんはすごい。すごく怖いはずなのに、全然心が折れてない……!
ゲームのストーリーでも見た、どんな逆境にも屈しない彼女の気高さと強さに、ルルの小さな胸は熱い感動でいっぱいになった。
だが、感極まっている場合ではない。
獲物の少女が逃げようと身じろぎしたことに気づいた異形が、不気味な唸り声を上げながら、太く歪んだ腕を大きく振り上げ、今まさに攻撃の体勢に入ったのだ。
——させるわけないでしょっ! 私の最推しに、指一本触れさせないんだから!!
ルルは思考するよりも先に、背中の黒い羽を力いっぱい羽ばたかせていた。
黒い閃光のように咄嗟に牡丹の目の前へと飛び出すと、小さな桜色の肉球がある前足をぐっと前に突き出し、自身の持つ魔力を一気に解放する。次の瞬間、ルルの前足から眩い魔力の光が溢れ出し、牡丹をすっぽりと包み込むようにして、半透明に輝く魔法のバリアが路地裏に展開されたのだった。
「……!?」
目の前で突如として弾けた眩い煌めきに、牡丹の切れ長の瞳が信じられないものを見るかのように大きく見開かれる。
直後、異形が振り下ろした太く禍々しい腕が、半透明の障壁へと激しく叩きつけられた。
ガァンッ!!
硬質なガラスにぶつかったような澄んだ衝撃音が薄暗い路地裏に響き渡り、光の粒子が火花のようにパチパチと宙に散る。しかし、ルルが全力で展開したバリアは揺らぐことすらなかった。逆に、攻撃を仕掛けた異形の方がすさまじい反発力に弾き返され、濁った苦悶の唸り声を上げながら、不格好に体勢を崩す。
まさか獲物の前に小さな邪魔者が現れ、これほど強固な魔力で阻まれるとは思ってもみなかったのだろう。異形はドロドロとした巨体を震わせ、目の前に浮かぶ小さな黒い影——ルルの存在を強く警戒するように、じりじりと後ずさった。
——ふう、間に合った……! でも、使い魔の私にできるのはこうして一時的に身を守ることくらい。このピンチを切り抜けるには、どうしても牡丹ちゃん自身の力が必要なのよね……!
ルルは背中の小さな黒い羽をぱたぱたと羽ばたかせながら、くるりと空中で身を翻し、背後のアスファルトに座り込んでいる牡丹の方へと振り返った。
至近距離で向き合う、最推しの少女。
恐怖で青ざめた頬も、驚愕に揺れる美しい瞳も、すべてが画面越しに見ていた以上に繊細で、胸が締めつけられるほど愛おしい。
本来、この世界の契約は人間側にとって何のご褒美もない、ただ自分の身を守るためだけの過酷な戦いの始まりだ。原作のルルなら、ここで冷淡に事実だけを告げて、半ば強引に契約を結ばせていたことだろう。
——だけど、私は違う! 絶対に牡丹ちゃんを一人になんかしない。どんな辛い戦いでも、私が一番近くで支えて、褒めて、世界一甘やかして幸せにしてみせるんだから!
ルルは小さな胸の内で固い決意を誓うと、くりくりとした赤い瞳に強い光を宿し、牡丹を真剣な眼差しでまっすぐに見つめて口を開いた。
「天海牡丹ちゃん。私と契約して、魔法少女になってほしいの!」
つづく




