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Fleur Ange〜使い魔に転生して最推しを甘やかしていたら、ヤンデレ魔法少年に目の敵にされました〜  作者: 柊原 ゆず


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第十話 シナリオ崩壊


「牡丹ちゃん、僕が鞄持つのに」


 足早に体育館を出た牡丹の隣に、樹がひらりと並んだ。

 夕暮れの風が吹き抜ける渡り廊下。肩が触れ合いそうな距離で、樹は少し眉を下げ、甘えるような、けれどどこか捨て犬のような悲しげな声色で話しかける。長年一緒に過ごし、彼女のあらゆる表情を見てきた樹であっても、先ほどのような頑なで明確な拒絶の態度は初めてのことであり、彼の心に微かな波風を立てていた。


「いらない」


 牡丹は樹の方を見向きもせず、前だけを見据えて短く切り捨てる。その言葉の鋭さに、樹の緑の瞳が僅かに揺さぶられた。牡丹はさらに歩く速度を上げ、彼から距離を取ろうとする。


「待ってよ」


 スルリと、樹のしなやかな指先が牡丹の華奢な手首を捉えた。痛みを感じるほどではないが、絶対に逃がさないという確かな力強さがこもっている。思わず足を止めた牡丹に対し、樹は顔を覗き込むようにして、切実な声で問いかけた。


「僕、何かした? 直すから言ってよ」


 その声には、彼女を失うことへの焦燥感と、微かな怯えのようなものが滲んでいた。

 幼い頃から牡丹と共に『バケモノ』の影に怯え、互いに身を寄せ合って生きてきた。彼女に恋心を抱き、彼女にとっての『唯一無二の存在』であり続けるために、底知れぬ自分の力を隠してまで『優しい幼馴染』を演じ続けてきたのだ。長年片想いを続け、誰よりも大切にしたいと願い、執着してきた愛しい幼馴染。樹にとって、牡丹からこれほどまでに明確に距離を置かれることは、心臓を直接鷲掴みにされるほど耐えがたい出来事だった。

 手首を掴まれた牡丹が、観念したようにゆっくりと振り返る。その顔を見た瞬間、樹はハッと息を呑んだ。彼女の切れ長の瞳は潤み、今にも泣き出しそうなほど悲痛に歪んでいたのだ。周囲の悪意ある言葉に傷つき、それでも彼を庇おうとするような、痛々しいほどに脆い表情。


「……樹は何も悪くないわ。もう、私のことはいいから。一人にさせて」


 震える声で紡がれた言葉は、樹を突き放すためのものだった。自分と一緒にいることで彼まで悪く言われないように、そして自分自身がこれ以上傷つかないようにするための、不器用な自己犠牲。


「……そんな顔されて、一人にできる訳ないだろ……!」


 樹の声に、ギリッとした焦燥と隠しきれない熱が混じる。自分のせいで彼女が傷ついている。その事実が樹の心を激しく掻き乱した。牡丹がこんなにも悲痛な顔をしているのに、ただ見過ごすことなど絶対にできるはずがない。


「っ……!」


 彼から発せられた痛切な叫びに、牡丹はビクリと肩を震わせた。


「ねえ、言って。僕たち、小さい頃から何でも言い合う仲だったでしょ?」


 すがりつくような、哀願するような響き。互いの弱さを知っているからこそ、隠し事などないはずだった。これまでずっと、牡丹が泣きたい時は必ず自分を頼ってくれていたではないか。


「……離して。もう、あの頃とは違うの」


 しかし、牡丹の口から出たのは、樹が最も恐れていた拒絶だった。

 彼女の脳裏には、ルルの存在があった。異形と戦うための魔法少女の力を得て、どんな時でも自分を全力で肯定し、甘やかしてくれる温かい存在。もう、ただ怯えて泣くだけの弱い自分ではないのだ。


「樹が心配性なのは分かるけど、これからは必要ないわ」

「でも――」

「離して」


 懇願しようとする樹の言葉を遮り、牡丹は切れ長の瞳で彼を真っ直ぐに見上げた。潤んだ瞳の奥に宿る、決して揺るがない強い意志。それは、彼への依存からの脱却を告げる、残酷なまでの決別宣言だった。


「っ……」


 彼女の言葉は絶対だった。これ以上踏み込まないで、という明確な拒絶の壁を前にして、樹はそれ以上抗うことなどできなかった。ゆっくりと、指先から力が抜け、牡丹の華奢な手首が解放される。

 自由になった牡丹は、もう二度と振り返ることなく、夕暮れの渡り廊下を足早に駆け去っていった。

 取り残された樹は、自分の空っぽになった掌をじっと見つめながら、その場に立ち尽くしていた。彼の指先からすり抜けていった、牡丹の華奢な手首の感触。そして、涙を堪えるように潤んだ彼女の切れ長の瞳と、自分を真っ直ぐに突き放した強い拒絶の言葉。

 ――もう、あの頃とは違うの。これからは必要ないわ。

 その言葉が、耳の奥で何度も呪いのように反響し、樹の心を激しく掻き乱していく。深緑の瞳の奥で、どす黒く重たい感情が、静かに、しかし確実に渦を巻き始めていることなど、遠ざかる牡丹は知る由もなかった。






 一方、牡丹は足早に帰路を目指しながら、胸の奥でズキズキと痛む罪悪感を必死に噛み殺していた。

 大好きな幼馴染の樹。幼い頃からずっと二人でバケモノの影に怯え、身を寄せ合ってきた大切な人。彼が純粋に自分のことを心配し、不器用ながらも守ろうとしてくれていることは、誰よりも痛いほど理解している。

 だが、彼と一緒にいると、学校中の女子生徒たちから向けられる嫉妬の視線と、わざと聞こえるように落とされる悪意ある言葉の数々に、心が押しつぶされそうになってしまうのだ。それは決して、誰にでも優しく爽やかな樹のせいではない。悪いのは、彼の隣にいることでいらぬ波風を立ててしまう自分自身なのだと、牡丹は不器用な自己嫌悪を抱えていた。

 これまでは、どんなに周囲から冷たい目を向けられても、樹まで拒絶してしまうことだけはできなかった。もし彼を突き放せば、バケモノの影に怯える恐怖の中で、自分は本当にひとりぼっちになってしまうという脆さがあったからだ。そのどうしようもない孤独への恐怖から、彼が過保護に焼いてくれる『お世話』を断りきれず、甘え続けてしまっていた。

 しかし、今は違う。

 牡丹の黒いリボンには、真紅の宝石をあしらった魔法少女のブローチが付けられている。

 そして何より、今の牡丹には、ルルがいるのだ。

 例え学校という閉鎖された空間でひとりぼっちになろうとも、どんな時でも自分の近くをふよふよと飛び回り、自分のすべてを肯定して、愛おしい存在として真っ直ぐに見つめてくれる小さな使い魔がいる。彼女がいるから、もう一人でバケモノに怯える夜はない。もう、独りではないのだ。

 ならば、自分に向けられる周囲の鋭い嫉妬の目から逃れ、樹とは距離を置いて一人で過ごす方が、絶対にいい。

 ――ごめんね、樹……でも。

 樹には、彼を慕うたくさんの取り巻きがいる。愛想もなく、可愛げのない自分がいなくとも――いや、不釣り合いな自分が彼の隣から消えることで、樹はより煌びやかで充実した学校生活を送れるはずだ。

 牡丹は、夕暮れの空の下で、本気でそう思い込んでいた。自分のその不器用な自己犠牲が、結果的に彼の中に眠る底知れぬ『執着』の引き金を引いてしまったことなど、微塵も気づかないままに。






 すっかり日が落ち、家々の窓に明かりが灯り始めた頃。

 牡丹が重い足取りで自宅へと帰り着き、自室のドアを開けると、そこには先に帰っていたルルがちょこんとクッションの上に座り、主人の帰りを待っていた。


「あっ、牡丹ちゃん! おかえりなさ——」


 嬉しそうにパタパタと悪魔の羽を羽ばたかせて駆け寄ろうとしたルルだったが、牡丹の顔を見た瞬間、その言葉は途切れた。


「ルルぅ……!」


 牡丹はルルの姿を認めるなり、これまで必死に張り詰めていた心の糸がプツリと切れたように、ボロボロと大粒の涙をこぼし始めたのだ。学校ではあんなにツンとして、気高く振る舞っていた彼女が、まるで迷子になった子供のように泣きじゃくっている。


「ぼ、牡丹ちゃん!? どうしたの?!」


 予期せぬ最推しの涙に、ルルはパニックに陥った。もふもふの小さな身体をわたわたとさせながら、牡丹の周りをオロオロと飛び回る。

 牡丹はその場にしゃがみ込むと、宙を飛ぶルルの柔らかな身体をぎゅっと抱きしめ、そのフワフワとした毛並みに顔を深く埋めた。ルルからは、お日様のような、どこか安心する甘い匂いがした。


「わたし……っ、樹に、酷いこと言っちゃった……!」

「酷いこと……?」


 ルルは牡丹に抱きしめられたまま、くりくりとした赤い瞳を瞬かせた。


「周りの女の子を刺激したくなくて……『もう一人にさせて』って、突き放しちゃった……」

「え……!?」


 牡丹の震える声から絞り出されたその告白は、ルルにとってあまりにも衝撃的な言葉であった。

 原作の『Fleur Ange』の世界線において、牡丹と樹は常に双子のようにセットで扱われ、決して離れることのない強固な共依存関係にあったはずだ。牡丹が樹を自ら突き放し、距離を取るなどという展開は、本編のどこを探しても存在しなかった。

 ルルは息を呑んだ。

 自分が牡丹を全力で甘やかし、彼女が弱音を吐ける『心の拠り所』になってしまったことで。ゲームでは常に一緒だったはずの二人が今、完全にすれ違い、致命的な距離を取ってしまったのだという事実に、ようやく直面したのだった。


「でもね……これでいいの」


 ルルのやわらかな毛並みに顔を埋めてひとしきり泣き、少し落ち着きを取り戻した牡丹は、赤く腫れた切れ長の瞳で真っ直ぐにルルを見つめ、ふわりと笑いかけた。


「私にはルルがいるから。学校で一人でも、もう平気よ」


 その笑顔は、涙の跡が残りながらも、どこか憑き物が落ちたように晴れやかだった。ルルがいるから、もうバケモノに一人で怯えることはない。ルルがいるから、一人ぼっちでも寂しくない。だから樹にはもう迷惑をかけなくて済む。

 そんな牡丹の健気で真っ直ぐな言葉を聞きながら、ルルは牡丹の頭を撫でるもふもふの前足から、嫌な汗がじわりと滲み出すのを感じていた。


「樹と離れたらもう、あんな酷いこと言われなくても済むわ」


 自分の行いが正しいと信じて疑わず、どこかスッキリとした様子の牡丹を前にして、ルルは全身の血の気がサァァッと引いてゆくのを感じた。

 ――違う、違うの牡丹ちゃん!

 心の中で絶叫する。あの規格外の強さと狂気を秘めた樹が、幼い頃から大切に執着してきた牡丹を、あっさりと一人になどさせるはずがないのだ。そして何より、あの暴走しかねないバケモノのような樹の狂気の手綱を無意識のうちに引くことができたのは、これまで彼に依存して傍にいてくれた牡丹ただ一人だけだったのに。

 ――もしかして私、取り返しのつかないくらい、ゲームの根幹のシナリオを壊しちゃった……!?

 『最推しを甘やかしたい』という己の純粋なエゴが引き起こしてしまったバタフライエフェクト。

 それに伴う自らの業の深さと、これから訪れるであろう魔法少年樹を底知れぬ狂気へ突き落とす引き金を引いてしまったことに気づき、ルルは絶望的な冷や汗を流し続ける。

 しかし、牡丹の背中に回した手は、もう二度と離すことなどできなかった。前世から愛してやまない彼女を、この先どんな恐ろしい展開が待ち受けていようとも、最後まで守り抜くしかない。

 残酷な運命の歯車が狂い始めた音を聞きながら、ルルはもう後戻りなどできないという事実を、深く深く噛み締めていた。


つづく

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