第十一話 『ぬいぐるみ』
『最推しを甘やかしたい』。
その純粋な愛情とエゴが引き起こしてしまった、ゲーム本編の根幹を揺るがす取り返しのつかないシナリオ崩壊。
静かな夜の自室で、疲れ果てて眠りについた牡丹の穏やかな寝顔をじっと見つめながら、ルルは己の引き起こしたバタフライエフェクトの重さにただ一人、震えていた。
原作の『Fleur Ange』の世界線において、牡丹と樹は常に双子のように、決して離れることのない強固な共依存関係にあったはずだ。牡丹が樹を自ら突き放し、距離を取るなどという展開は、本編のどこを探しても存在しなかった。
樹から、大切な幼馴染である牡丹を奪い、あろうことか彼女の口から明確な拒絶の言葉を突きつけさせてしまった。底知れぬ狂気と力を持つあの『魔法少年』が、このまま大人しく身を引くはずがない。彼がこれからどういった行動に出るのか、ルルにとって全くの未知数であった。不安と恐怖に押しつぶされそうになりながらも、ルルはきゅっと小さな黒い前足を握りしめ、くりくりとした赤い瞳に強い決意の光を宿した。
――例えどんな恐ろしい展開が待ち受けていようと、絶対に牡丹ちゃんを一人にはしない。私が、命をかけてもこの子を守り抜いてみせる……!
翌朝。
空がまだ白み始めたばかりの早い時間に、牡丹はそっと自宅の玄関を開けた。ひんやりとした朝の空気が頬を撫でる。彼女は恐る恐る周囲を見渡したが、いつもなら門扉の前で爽やかな笑顔を浮かべて待っているはずの幼馴染の姿は、どこにもなかった。
胸の奥でチクリと痛む罪悪感を必死に抑え込みながら、牡丹は足早に家を後にする。彼女の肩越しでふよふよと宙を浮いていたルルは、樹がいないことを確認するなり、心の底から安堵の息を吐き出した。
「牡丹ちゃん、今日は空気が澄んでて気持ちいいねっ!」
ルルは牡丹に余計な心配をかけまいと、背中の小さな黒い羽をパタパタと忙しなく羽ばたかせながら、わざと無邪気な声で話しかけた。牡丹は少しだけ驚いたように目を丸くした後、ふわりと柔らかい笑みを浮かべる。
「ええ、そうね。ルル」
朝日を浴びて歩く牡丹の足取りは、昨日までの重苦しさが嘘のように軽やかだった。樹と一緒に登校しないことで、周囲の女子生徒たちから向けられる冷ややかな嫉妬の視線も、悪意のある言葉の棘も浴びずに済む。ルルが隣にいてくれるおかげで、一人で歩いていても少しも寂しくない。
そんな牡丹の晴れやかな横顔を見上げながら、ルルは樹の影に怯えつつも、推しと一緒に穏やかな朝の通学路を歩ける幸せをひしひしと噛み締めていた。
やがて学校に到着し、1-Aの教室で本を読み、ホームルームの開始を待っていた時のことだった。
教室の入り口が開き、いつもの時間に樹が登校してきた。綺麗に整えられたオリーブアッシュの髪と、誰をも惹きつける優しげな深緑の瞳。一見すると王子様のように完璧なその姿を目にした瞬間、牡丹はビクリと肩を震わせ、自分の席で身を固くした。
昨日、あんなにも冷たく突き放してしまったのだ。怒っているかもしれない。あるいは、また懇願されるかもしれない。様々な不安が牡丹の頭をよぎり、彼女は息を潜めて彼を直視しないように俯いた。
しかし――樹は、牡丹の方へは目もくれなかった。
彼は牡丹の席を素通りし、いつものように自分の席へと向かう。あっという間に、「おはよう、樹くん!」と甘い声を上げる女子生徒たちの華やかな輪に取り囲まれてしまった。
樹は持ち前の爽やかな微笑みを微塵も崩すことなく、彼女たちの他愛のない会話に気の利いた相槌を打ち、完璧な優等生として振る舞っている。牡丹に声をかけるどころか、その視線を一度たりともこちらに向けることはなかった。
まるで、昨日までの過保護な執着が嘘のように、完全に距離を置かれた状態。
その光景を目の当たりにした牡丹は、強張っていた肩の力をゆっくりと抜き、机の下で密かに安堵の吐息をこぼした。
――良かった。樹も、私が一人でいることに納得してくれたんだわ。
彼女は心底ほっとしたように、少しだけ寂しさを伴う微かな笑みを浮かべた。自分という不釣り合いな存在が傍を離れたことで、樹は彼にふさわしい華やかな輪の中で、充実した学園生活を送ることができる。これでもう、お互いに傷つくことはないのだと、彼女は本気で思い込んでいた。
だが、窓の外からその教室の様子をこっそりと覗き込んでいたルルの背筋には、氷の刃を当てられたようなゾクリとした悪寒が走っていた。
女子たちに囲まれ、和やかに微笑み合っている樹のその笑顔が、あまりにも完璧すぎたからだ。あんなにも牡丹に異常な執着を見せていた男が、一晩で綺麗さっぱり諦めるはずがない。
あの優しげな緑の瞳の奥底で、彼が一体どんなドロドロとした狂気を煮詰めているのか。その不気味なほどの静けさが、嵐の前の静けさであることを、ルルだけが痛いほどに察知していたのだった。
その日一日は、拍子抜けするほど穏やかな学校生活であった。
牡丹はいつも通りに授業を受け、昼休みになればルルと共に誰もいない静かな屋上へと向かい、手作りのお弁当を広げた。放課後は新体操部の活動に打ち込み、リボンの感触を確かめながら汗を流す。
その間、幼馴染の樹と会話を交わすことは一切なかった。昼休みに彼が屋上へやって来ることもなく、部活終了後に彼が体育館の入り口で牡丹の帰りを待っていることもなかった。昨日までの、執拗なまでに彼女の傍を離れようとしなかった彼の態度は、完全に鳴りを潜めていた。
学校中がその明らかな異変に気づき、女子生徒たちの間で様々な憶測が飛び交い始める。
「樹くんたち、喧嘩したのかな?」
「ありそう!あの態度に、ついに樹くんも愛想を尽かしたんじゃない?」
「だよねー!いつも一緒にいるから、樹くんに会えるの楽しみにしてたんだけど……今日は残念だわ」
廊下ですれ違うたびに、コソコソとした不満の声や、牡丹への当てつけのようなヒソヒソ話が微かに耳に届く。完全に悪意ある言葉が消えたわけではない。
だが、それでも。
牡丹にとって、常に樹の傍にいることで浴びせられていた強烈な嫉妬の視線と比べれば、今の状況はずっと居心地が良かった。
自分という不釣り合いな存在が身を引いたことで、樹は彼を慕う華やかな輪の中で過ごしているはずだ。これでお互いに不要な波風を立てることも、傷つくこともない。牡丹は密かに安堵し、部活を終えた後も、軽やかな足取りでルルと共に帰路につく。
夕食を終え、自室でルルとまったりと話していた時だった。
「牡丹!樹くんが来てるわよー!」
「え!?」
階段の下から、牡丹の母親が弾んだ声を上げる。ルルは「ヒィッ!」と小さく悲鳴を上げて慌てて部屋の隅のぬいぐるみたちの山へと身を隠し、牡丹はパタパタと階段を降りてゆく。玄関には、ニコニコと人の良い笑顔を絶やさない樹が立っていた。
「……樹……?どうしたの、こんな時間に……」
昨日の気まずさから、牡丹は思わず目線を外してしまう。すると樹は持っていたノートを取り出し、困ったように眉を下げた。
「宿題、やるの忘れてたんだ。牡丹ちゃんに教えてほしいなって思って」
牡丹は困惑した。樹と牡丹では、樹の方が圧倒的に学力が上だからだ。これまでの学生生活において、牡丹が彼に教えられることはあっても、教えることなど一度もなかった。
「私よりもアンタの方が頭いいでしょ。教えられることなんて――」
「ね、教えてよ」
にこり。
樹は有無を言わさぬ笑顔でそう言い切り、牡丹の返事も待たずに靴を脱ぐと、迷うことなく彼女の自室へと向かってゆく。
「ちょっと、樹ってば……!」
牡丹は慌てて樹の背中を追いかけた。彼が自分の部屋に入れば、隠れているルルが見つかってしまうかもしれないという焦りがあった。しかし、樹の足取りは止まらず、そのまま牡丹の部屋のドアを開け放った。
そこに、確かにルルはいた。可愛らしいぬいぐるみたちの中に器用に擬態していたのだ。
「牡丹ちゃんのお部屋に来たの、久しぶり」
樹の甘く穏やかな声が、夜の静寂に包まれた部屋にひんやりと響き渡る。
「そう、かしら」
牡丹は努めて平坦な声を装い、わざとらしく視線を逸らして短く答えた。心臓が早鐘を打つのを悟られまいと、彼女は自身の指先をキュッと固く握りしめる。その少し離れた場所――部屋の隅に並べられた数多の愛らしいぬいぐるみたちの山の中で、ルルはまるで本物のぬいぐるみのように息を潜め、一切の身動きを取らずにじっと耐え忍んでいた。
「……うん。一週間ぶりだよ」
樹は迷いのない滑らかな足取りで、ゆっくりと室内を歩き始めた。まるで、自分が立ち入れなかったこの一週間の空白という溝をじっくりと埋めるかのように、あるいは自身の縄張りに異常がないかを確かめるかのように、彼の視線が牡丹の部屋の隅々を舐めるように見渡していく。
「それ、久しぶりでもなんでもないわ」
牡丹はあえて呆れたような態度で平静を装い、言葉を返した。しかし、彼から無意識に発せられるじっとりとした圧に耐えきれず、その声の語尾には、苛立ちとも焦りともつかない微かな震えがどうしても混じってしまっていた。
「そうかな?また新しい子、増えてるし……」
ピタリ、と樹の足が止まる。部屋を巡っていた彼の視線が、ある一点で完全に固定された。
樹は、部屋の隅に置かれた数あるぬいぐるみたちの中に器用に擬態し、完全に気配を消していたはずのルルを、優しげな緑の瞳で真っ直ぐに捉えていた。一見すると愛らしいものを見つけるような柔らかな眼差しだが、その奥には氷のように冷たく、一切の誤魔化しを許さない底知れぬ狂気がどろりと潜んでいる。
――ヒィッ! み、見つかってる……!?
完全に気配を消していたはずのルルは、心臓が跳ね上がるのを感じた。あの圧倒的な魔力を持つ魔法少年の視線に射抜かれ、もふもふの小さな身体を固くさせて、必死にぬいぐるみを演じる。
「可愛いでしょう?お気に入りなの」
牡丹は顔を青ざめさせながらも、咄嗟の判断でさっとルルを抱き抱え、ギュッと腕の中に収めた。
「へえ。お気に入りなんだ」
樹は、牡丹の腕の中で震えるルルから視線を外さないまま、低く、ねっとりとした声で相槌を打つ。その言葉には、『異物』への明確な警戒心が張り付いていた。
「も、もう、この子のことはいいから!宿題、やるんでしょ?」
耐えきれなくなった牡丹は、逃げるようにルルを自身の隣にそっと下ろすと、急いで自分の学習机に向かい、宿題のノートを開いた。
しかし、依然として、テーブル越しに樹のじっとりとした異様な眼差しが注がれ続けている。牡丹がノートにペンを走らせる間も、その視線は決して牡丹から、そして彼女が『お気に入り』と称したルルから外れることはなかった。
――は、はやくっ!宿題終わってぇ!!
ルルは隣に置かれたまま、必死に身を固くしながら、この息の詰まるような恐怖の時間が終わるのをただ待つことしかできなかった。
つづく




