第5章 第1話「記録の海」
古文書館は、丘のいただきの地下にあった。
6柱総本山の奥。石の階段を下りた先。
ひんやりとした空気だった。光は乏しく、燭台の火が長い書架の列を照らしていた。革と羊皮と古い紙の匂い。前の世で、私がこよなく愛した匂いだった。図書館の奥の、誰も来ない書庫の。
ナタリの神官としての権限が、ここでも効いた。本来なら上位の神官しか入れない古文書館に、私たちは特別に入ることを許された。
「ここはね」
ナタリが書架を見上げながら言った。
「この国の神殿に残る記録のほとんどが集まってる場所なの。神託の記録。儀式の記録。各地の神殿からの報せ。——何百年分も」
「すごい量だ」
ファルが首を巡らせた。書架は天井まで届き、奥へ、奥へと続いていた。記録の海だった。
私は、その海を見て、奇妙なことに気づいた。
記録は膨大だった。けれど、その膨大さの中に空白があった。ある時期のある種類の記録だけが抜け落ちている。神々の声に関する古い記録ほど、薄かった。まるで誰かが不都合な頁だけを抜いたように。あるいは最初から、書かれなかったように。
「気づいた?」
ナタリが私の視線を追って言った。
「そう。空白があるの。神々のおかしさに関わる記録ほど、少ない。残ってない。——わたしが何年も苦労して点を集めなきゃならなかったのは、これが理由よ。神殿は書かない。書いても残さない」
「なぜだ」
「さあ。悪意か、無意識か。——たぶん両方。都合の悪いことは書かないうちに忘れる。忘れたものは、なかったことになる。人も神殿も、同じよ」
書かれなかった空白。それ自体が、ひとつの点だった。神々の異変は記録されない。意図的にか、無意識にか。神殿は神が衰えていくという不都合を、記録に残さなかった。だからナタリは、巡礼や商人の口伝えを何年も拾い集めるしかなかったのだ。公の記録が空白だから、私的な噂を点にするしかなかった。
私は前の世のことを思い出した。都合の悪い実験結果を報告書からこっそり落とす。そういうことをする者がいた。データを隠せば、失敗はなかったことになる。けれど、隠された失敗は、次の誰かがもう一度繰り返す。空白は罪なのだ。
けれど私たちがここに来たのは、神々の記録のためではなかった。もっと個人的な糸をたぐるためだった。神殿が書き残さなかった空白とは別の、もっと古い足跡を探しに。
曽祖父エミールの足跡だった。
父から聞いていた。曽祖父は半世紀ほど前に、この中央の地を訪れた。そして中央未踏地へ向かい、消息を絶った。その途上で、この聖都に立ち寄ったはずだ、と。もし立ち寄ったなら——この記録の海のどこかに、その痕跡があるかもしれない。
「半世紀前の閲覧者の名簿は、あるか」
私が訊くと、ナタリは奥の書架を指した。
「閲覧記録は年ごとに綴じてあるわ。でも——半世紀分をめくるのは骨よ」
「いや」
私は書架へ歩いた。
「それは得意だ」
四人で手分けをした。
こういう作業は四人だと早かった。
ナタリが年代の見当をつけた。彼女は、この記録の海の勝手を知っていた。どの棚に何があるか。どう綴じられているか。アスリさんが高い書架の重い綴じ本を難なく下ろした。剣を振る腕は、こういうときにも役に立った。ファルが古い綴じ本の埃を丁寧に払い、傷めないよう慎重に机に運んだ。獣の世話で培った手つきは優しかった。
そして私が頁を繰った。
私には完全記憶がある。一度目を通した頁は忘れない。だから、膨大な名簿でも、目を滑らせていけば、探す名前があるかどうかすぐに分かった。何百という閲覧者の名前が流れていった。神官の名。学者の名。巡礼の名。
半世紀前の綴じ本にたどり着いた。神暦九六三年。私は、頁を繰る手をゆっくりにした。一行ずつ目でなぞった。
そして——見つけた。
エミール・ヴァルメール。
異国のつづりで書かれていた。けれど、間違いなかった。私の家の名。曽祖父の名。半世紀前の、ある日、彼は確かにここにいた。この記録の海の前に座り、何かを調べていた。
「あった」
私の声は少し掠れた。
「曽祖父だ。ここに来ていた。神暦九六三年。——私が生まれる、ずっと前に」
ファルが覗き込んだ。アスリさんも。ナタリはその一行をじっと見て、それから静かに言った。
「五十二年前ね。あなたの曽祖父さまが、この同じ場所に座ってた。同じ記録を見てたのかも」
不思議な感覚だった。会ったことのない曽祖父。肖像画でしか知らない人。その人が半世紀前に、私と同じ場所に立っていた。同じ書架を見上げ、同じ匂いを嗅いで。私は彼の足跡を、半世紀遅れてたどっている。
故郷の屋敷に曽祖父の肖像画があった。家の誰も語りたがらない人だった。中央へ向かい消えた人。家系の禁忌。父がその封印を解いてくれたから、私は今ここにいる。あの肖像画の目が何を見ていたのか。世界の何を解こうとしていたのか。その答えの端が、この記録の海のどこかに沈んでいる。
「あなた、その人に似てるの?」
ナタリが訊いた。
「分からない。会ったことがない。——ただ、同じものを見ようとしているらしいとは、思う」
似ているかどうかは知らない。けれど、半世紀の時を隔てて、私は彼と同じ問いの前に立っている。それだけは確かだった。血の繋がりより、それが奇妙に近しかった。
閲覧記録には、付記があった。
当時の司書が残した覚え書きらしかった。閲覧者の名前の横に小さく書き添えられた走り書き。多くは何も書かれていなかった。けれどエミールの名の横には——長い一文があった。
ナタリがそれを読み下した。古い聖教国の言葉を。
「『ヴァルメール卿の研究は——』」
彼女の声が途中で止まった。それから続けた。
「『——世界の根本に迫る』」
世界の根本。
「『だが、彼は』」
ナタリは一字ずつたどった。
「『中央未踏地への決行を決めた。我々は——止められなかった』」
古文書館が、しんと静まった。燭台の火が揺れた。
止められなかった。半世紀前、この記録の海の番をしていた司書は、曽祖父を止めようとした。けれど、止められなかった。曽祖父は中央未踏地へ向かった。そして——帰ってこなかった。
私はその一文を見つめた。会ったことのない曽祖父の、最後の足跡が、そこにあった。世界の根本に迫り、止められず、消えた人。
「曽祖父は」
私は呟いた。
「ここにいた。確かに、いた。そして——ここから先へ、行った」
誰も何も言わなかった。古文書館の奥の闇が、半世紀前のその足跡の続きを、まだ隠していた。




