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第4章 第2話「六つの、祭壇」

朝の光が聖域に満ちていた。


六つの祭壇は中央の大聖堂を囲むように、配されていた。


私たちは神官の案内で、一つずつ、巡ることになった。イリヤも、付き添った。ナタリは、短杖と聖印札を手にしていた。観察のためだ。彼女は、祈るのではなく、記録を取るためにここにいた。


最初は賢者の神の祭壇だった。


白い、石の間。書を抱えた、立像。私が生まれたときから、しるしを佩いている、神。膝を、つくとすぐにそれは来た。


——ありがとう。進め。


明瞭だった。これまで、聞いたどの声より。痩せて、遠かった、あの声がここでははっきりと届いた。お膝元だからだろう。胸の奥が熱くなった。


けれど、私はただ、受け取るだけではいられなかった。


確かめたかった。イリヤと言葉にした、判別条件。呼べば、応えるのか。私は、初めて、声を返そうとした。心の中で、問うた。あなたは進め、と言う。けれど、どこへ。何のために。あなたは何を抱えているのか。


返ってきたのは声ではなかった。


何か、もっと静かな、ものだった。文字を指で、なぞるような。すでにそこに書かれている、ものに触れる、ような。声、というより——読む、感覚に近かった。神は今、新しく、語っているのではない。すでに、刻まれた、ものを私がなぞっている。そんな、奇妙な心地。


私の問いに明確な、答えはなかった。けれど、確かに何かに触れた。一瞬だけ、神の奥にある古い何かに指先が届いた、気がした。それ以上は届かなかった。深く、踏み込もうとすると感覚はすっと、退いた。


私は目を開けた。額に汗が滲んでいた。今のは何だったのか。これまでのただ、聞くだけの神託とは、違った。けれど、それを言葉にする術がまだ、なかった。私はただ、帳面に一行、書いた。「呼べば、何かに触れた。だが、答えは無い」と。


ナタリが隣で、目を閉じていた。


「あなたの神はわたしには『観察を続けよ』って」


彼女は、薄く、笑った。


「観察者には観察を。——律儀な、神様ね」


次は戦と均衡の神の祭壇だった。


青鋼の立像。アスリさんが膝をついた。北の剣士の神。


しばらくして、彼女は目を開けた。いつもの無表情だった。けれど、その奥に何かが揺れていた。


「『お前は私の代わりに見届ける者だ』」


低く、彼女は、言った。


「それだけ、だった。前は——もっと語ってくれた。今日は一言。短い」


私にはその祭壇で、「剣を背に」という、断片だけが聞こえた。ファルも、ナタリも、同じだった。アスリさんにだけ、明瞭な声が届きしかも、それが短かった。いちばん、健やかな、はずの神。その声でさえ。


そして、契約と絆の神の祭壇に、来た。


ファルの神だった。


彼が膝をついた。シェフを傍らに置いて。獣使いの少年は目を閉じた。


最初は穏やかな、顔だった。けれど、すぐにその表情が変わった。眉が寄り、口元が強張った。何かに耐えるような。あるいは何かに引き裂かれるような。


「……っ」


ファルが小さく、呻いた。


「テオ兄」


声が震えていた。


「分かれて、聞こえます。一つじゃ、ない。いくつも——七つ、くらい。ばらばらの方向から。『絆』。『契約』。『縁』。『結び』。みんな、同じ神様のはずなのにばらばらに言ってる」


彼の肩が、震えていた。自分の神の声が割れて、聞こえる。それはファルにとって、世界でいちばん、怖いことだった。砂の都で、彼を彼たらしめてきた、契約の神。その声が一つではなくなっている。


「待って、ください」


ファルが息を、呑んだ。


「一つだけ……一つだけ、別のことを、言ってます。ほかの声と違って。——『還りたい』って」


還りたい。


私はファルの傍に、寄った。彼の背に手を置いた。少年は青ざめていた。


「大丈夫だ。ここに、いる」


「テオ兄……契約の神は」


ファルが目を、開けた。涙が滲んでいた。


「契約の神も——こんなふうに分かれて、しまうことを望んで、いたんでしょうか。望んで、いないなら、なんでこんな……」


私は答えられなかった。望んで、いたのか。望んで、いないのか。それは神にしか、分からない。けれど、ファルのその問いは私の胸にも、深く刺さった。彼は、感知の報告をして、いるのではなかった。自分の神を案じて、いた。


私はファルの震える、肩をしばらく、支えていた。


残りの三柱はそれぞれに違っていた。


大地の神の祭壇。苔生した、古い座像。四人とも、明瞭な声を聞かなかった。沈黙だった。


けれど、ファルだけがふと顔を上げた。


「……震えてます」


彼は祭壇を見て、言った。


「声は聞こえません。でも、祭壇全体がごく薄く震えてる、みたいな。とても、遠くで、何かがまだかすかに息をしているような」


私には何も感じられなかった。ナタリにも、アスリさんにも。ファルの繊細な、感受性だけがそのかすかな、震えを捉えた。声を発さない、神。けれど、完全に絶えたわけではない。とても、遠くでかすかに。


ナタリが素早く、書きつけた。「大地の神=声なし。だが、ファルのみ、微震を感応」と。


最後に、私たちは丘のいただきの中央の大聖堂に、入った。


六つの神殿のまんなかにひとつだけ、大きくそびえる、聖堂。流れの神、循環の神。この国の人々が何より、篤く祀る、中央の神。——そして、それは導きの神でも、あった。導く者の神。すなわち、ナタリの神だ。


この国が丘のいただきに据え、参道を捧げ、巡礼の足を集めるその神。ナタリはその神に仕える家に生まれ、その神から、神託を受けた。なのに、彼女はその神を観察対象にしている、異端だった。


ナタリが膝をついた。彼女の神の前に。


目を閉じた、彼女の顔がふとこわばった。それから、皮肉な、ような笑みが浮かんだ。


「『お前は私を回す、道具を持つ。よろしい』」


彼女は目を開けて、言った。


「……十のときに神託で、言われたのと一字一句、同じ。何年も、経つのにまるで、同じ言葉を繰り返すだけ。新しいことは何も、言わない」


この国で最も、大きく祀られる神。最も、多くの人が祈る神。その神が何年も、同じ言葉しか、返さない。丘のいただきのいちばん、高いところで——それは、起きていた。私は背筋が冷えるのを感じた。誰よりも、篤く祀られている神が誰よりも、同じことを繰り返すだけになっている。そのちぐはぐさが。


回す、道具。彼女のリソースを計算する、力のことだろう。けれど、ナタリの声には喜びはなかった。同じ、言葉を繰り返すだけの神。それが何を意味するのか——彼女はもう薄々、気づいて、いる顔だった。


最後は創造の神の祭壇だった。


黒い鉄と鈍い銀。歯車の細工。四人とも、声は聞こえなかった。


けれど、ここには別のものがあった。


重い、気配だった。祭壇の前に立つと胸の奥がずん、と沈んだ。悲しみとも、違う。後悔。あるいは罪の意識。何か、取り返しのつかないことをした者が長い年月うずくまって、いるような。そんな、気配が声の代わりに満ちていた。


「……なんだろう、これ」


ファルが呟いた。彼も、感じていた。


「悲しいというか……謝ってる、みたいな」


謝っている。誰に。何を。分からなかった。けれど、創造の神の祭壇には声の代わりに深い罪悪感のようなものが横たわって、いた。私は帳面に書いた。「創造神=声なし。だが、重い悔いの気配」と。


六つの祭壇を巡り終えた。


聖域の空気は朝より、重くなっていた。あるいは私たちの心が重くなっただけ、かも、しれなかった。


六つの神。痩せた声。短い声。分裂した声。そして——残りの三柱。大地の神は遠い震えだけ。導きの神は同じ言葉の繰り返し。創造の神は罪の気配だけ。声を、発さなかったのは大地と創造の二柱だった。


並べて、みるとひとつの形が浮かびそうだった。けれど、私はまだ、それを言葉にしなかった。聖域のただなかで、軽々しく口にすることではない、気がした。


四人で、聖域を出た。誰も、口をきかなかった。声を発さない、二柱の沈黙が私たちの背について、きていた。

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