第4章 第1話「謙抑の、旧友」
特別参拝の許しは、思いのほか、早く下りた。
ナタリが、動いたのだ。
循環の家の娘。流転神殿に代々仕える家柄。その名は、総本山の奥でも、まだ効いた。異端と囁かれていても、家の格は別だった。ナタリは、それを承知で使った。
「使えるものは、使うのよ」
彼女は悪びれずに言った。
「わたし一人なら、断られる。でも、家の名で客人の参拝を願えば、上も無下には、できない。——こういうのは、計算よ」
おかげで私たち四人は、本来なら神官しか入れない6柱総本山の奥の聖域に、特別に参ることを許された。明日、一日かけて六つの祭壇を順に巡る。私がずっと抱えてきた神々への問いを——初めて、そのお膝元で確かめられる。
その、前日。
総本山の回廊で、私は思いがけない声をかけられた。
「テオ?」
振り返ると、黒と銀の神官服を着た若者が立っていた。私より少し背が高い。柔らかい目をした青年だった。見覚えがあった。けれど、すぐには名前が出てこなかった。最後に会ったのは、まだ互いに子供の頃だ。
「……イリヤ?」
「覚えていてくれましたか」
青年は嬉しそうに笑った。イリヤ・ノヴァク。学院の寮で隣の部屋にいた留学生。中央ルシアから学びに来ていた、導師系の同期だった。彼が故郷に帰ったあとは、便りも途絶えていた。
「帰国していたのか」
「ええ。学びを終えて。今は、この総本山に勤めています。——まさか、あなたがここに来るとは。世界は狭いですね」
懐かしさが、こみ上げた。
学院の寮で夜遅くまで話したことがあった。イリヤはよく私の部屋に来た。異国から来た留学生で、最初は言葉も文化も馴染めずにいた彼を、私はなんとなく放っておけなかった。前の世で、私も研究室でよそ者だった時期があったからかもしれない。
夜、二人で茶を飲みながら、神のことを話した。彼は信心深かった。私はそうではなかった。それでも話はよく合った。互いの見方が違うからこそ、面白かったのだ。
あの卒業間際の雑談を、私は覚えている。私が賢者神の声の聞こえ方に感じていたかすかな違和感を、彼に話したことがあった。神の声がどこか遠い、と。あのとき、イリヤはそれを否定も肯定もせず、こう言った。神が遠いのは、恩寵の働きの一つの説明として、私には興味深い、と。
その言葉が、ずっと私のどこかに残っていた。彼は神を疑わなかった。神が遠いことにすら、意味を見いだそうとした。私には、できない見方だった。だからこそ、忘れられなかった。
あれから何年も経った。私は旅に出て、いくつもの土地で、いくつもの神の違和を見てきた。あのときのかすかな違和感は、今や、いくつもの点になって私の帳面を埋めている。
「イリヤ」
私は言った。
「お前に聞きたいことがある。——あのとき、寮で話した神の声のこと。覚えているか」
イリヤの笑みが、少しだけ静かになった。
「覚えています。——あなたが、まだそれを追っているということも、今、分かりました」
私たちは、回廊の隅に腰を下ろした。
私は彼に、これまでのことを話した。神々の声が土地ごとに揺らいでいること。賢者神の声が痩せていること。契約の神の声が分裂して聞こえること。戦の神の声でさえ短くなっていること。ナタリのデータと私たちの体感が揃ったこと。
イリヤは静かに聞いていた。否定もせず、頷きもせず。
私は最後に、自分の仮説を口にした。慎重に。まだ断定はしなかった。
「私は——神々が弱っているのではないか、と思っている。少しずつ力を失って、私たちから遠ざかっているのでは、ないか、と。まだ確かめては、いない。けれど、点は、その方向を指している気がする」
イリヤはしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと首を傾げた。
「テオ。私は——そうは、思いたくないのです」
「神々の声が遠いのは」
「神々が私たちに、自立を促しておられるからかも、しれません」
彼の声は柔らかかった。けれど、芯があった。
「神は間違えません。神が遠ざかるなら、それには意味がある。私たちを甘やかさぬように。自らの足で立てるように。——神殿は、それを謙抑と呼びます。神があえて身を引いておられる、と。私は、そう信じたいのです」
謙抑。彼の兄弟子のようなイーゴリも同じ言葉を使った。けれどイーゴリのそれが制度の言葉だったのに対し、イリヤのそれは、もっと個人的な祈りに聞こえた。信じたい、と彼は言った。信じている、ではなく。
「お前の言うことも、分かる」
私は頷いた。
「同じ点を見ても、それを神が弱っている、と読むか、神があえて退いている、と読むかは——見る者の立つ場所で変わる。私には、まだお前の読み方を覆す証拠は、ない」
「では」
私は言った。考えながら。これは二人で初めて言葉にする問いだった。
「どうすれば見分けがつく。神があえて退いているのか。それとも、意図せずそうなっているのか。——その二つを分けるしるしは、何だ」
イリヤが目を見開いた。それから真剣な顔になった。彼も、それを考えたことがなかったのだろう。信じることと確かめることは、違う。私は確かめたい側の人間だった。
「……もし謙抑なら」
イリヤがゆっくりと言葉を紡いだ。
「神はあえて退いておられるだけ。だから——強く呼べば、応えてくださるはずです。声は減っても、その質は変わらない。神は、そこにおられる」
「もし弱りなら」
私は引き取った。
「呼んでも、応えない。あるいは、応えても、その声が、痩せ、欠け、崩れている。——神はそこにいても、もう十分に応える力がない」
二人とも黙った。
判別条件が言葉になった。謙抑なら、呼べば応え、質は保たれる。弱りなら、呼んでも応えず、質が劣化する。どちらが正しいのか。それは今、ここでは決まらなかった。けれど初めて、二つの読み方が検証できる形になった。
「明日」
私は聖域の奥を見た。明日、私たちが巡る六つの祭壇のある場所を。
「明日、私たちは六柱の祭壇を巡る。そこで神の声を聞けば——どちらか分かるかもしれない。呼べば応えるのか。応えても痩せているのか」
イリヤは私を見た。柔らかい目の奥に、かすかな怯えがあった。彼はたぶん、確かめるのが怖いのだ。信じたいものが確かめられて、崩れるのが。
「テオ」
彼は静かに言った。
「あなたが何を見ても——私は、まだ神を信じたいと思います。それだけは言っておきます」
私は頷いた。彼のその祈りを否定するつもりは、なかった。ただ私は、見なければならなかった。信じるためにも、信じないためにも。まず見る。それが私のやり方だった。
回廊の外で夕の鐘が鳴っていた。明日、私は神の声を聞く。そして、たぶん——もう、後戻りのできないことを、知る。




