第3章 第2話「三つの声」
ナタリの私室は紙の海だった。
前に来たときと同じ。けれど、今日は机の上が片づけられて、いた。
私たちが来るとナタリは机のまんなかにあの分厚い、帳面を、置いた。革の背表紙。何百枚もの紙。何年もの観察の厚み。彼女は、その帳面に手を置いて、私を見た。
「先に、見せてくれたんですって?」
イーゴリから、聞いたのだろう。私が、前の生のことをファルとアスリさんに明かした、ということを。
「はい」
私は頷いた。
「あなたが言った、通りです。私は——向こうの人間でした。前の生で。それを二人に話しました。だから、今度は私の側の点も出せます」
ナタリはしばらく私を見てそれから、ふっと笑った。さっきまでの軽さとは違う、笑い方だった。仲間を見つけた、者の笑い方。
「やっぱりね」
「わたしも、よ」
軽く、彼女は言った。あまりに軽く言ったので、ファルが一拍遅れて、目を見開いた。
「わたしも、向こうの人間。前の生の記憶がある。——だから、あなたのこと一目で分かったの」
匂いで、分かると彼女は言った。あれは軽口ではなかった。同じ、根を持つ者を見分ける、勘だったのだ。観察者どうし、というだけではなかった。私たちはもっと深いところで、同じだった。
私は訊きたいことが山ほど、あった。向こうで、何をしていたのか。なぜ、ここに生まれ直したのか。けれど、それは今夜の本題ではなかった。互いに向こうの人間だ、と確かめ合った。それで、今は十分だった。前の生のことを語り合うのはまた、いつか。今は点を突き合わせる、夜だ。
「じゃあ、始めましょうか」
ナタリは帳面を、開いた。最初の数十枚だけ。残りはまだ、見せない。それでも、十分だった。びっしりと書き込まれた、観測の記録。日付。場所。誰が何を言ったか。
「あなたたちが実際に声を聞いた、神様。それだけ、突き合わせましょう。聞いてもいない、神様のことをあれこれ言っても、当てずっぽうになるから」
実直なやり方だった。手元にある、確かな点だけをまず、繋ぐ。
最初は賢者の神だった。
「知と探究の神。あなたの神ね」
ナタリは頁を指で、たどった。
「わたしの集めた、記録だと——この神様の声を聞いたっていう、人はみんな同じことを言うの。『前より、細くなった』『遠くから、絞り出されるよう』って。何十年も、前から少しずつ。あなたは?」
私は頷いた。胸の奥が冷えた。
「同じ、です」
故郷の大神殿で初めて、あの声を聞いたときから。あの声はいつも、どこか、痩せていた。途切れがちで、遠かった。砂の都を出て、北の海を渡るあいだに声はなお、遠くなった。私はそれをずっとこういうものだ、と思って、きた。けれど、記録は言っていた。昔はこうではなかった、と。
「次は契約と絆の神。獣使いのあなたの」
ナタリがファルを、見た。
「この神様は——おかしいの。記録がばらばら、なのよ。ある人は『一つの声』、ある人は『いくつもの声』。まるで、聞く人によって、神様の数が違うみたいで」
ファルがシェフを抱えたままこくりと頷いた。
「……分裂、してます」
小さな、声だった。
「僕が感じるのはひとつじゃ、ないんです。七つ、くらい。ばらばらの方向から。最初はこういう神様なんだと思ってました。でも——」
彼は言葉を切った。
「最近、そのばらばらのひとつがときどき『還りたい』って、漏らすんです。何に還りたいのか、分からないけど」
ナタリが素早く、何かを書きつけた。「七つ」「還りたい」と。彼女の記録にファルの体感が新しい、点として、加わった。
「最後は戦と均衡の神ね」
ナタリはアスリさんを、見た。
「この神様はいちばん、健やか、ってことになってる。声がいちばん、はっきりしてて、迷いがない。——でも、最近の記録だとひとつだけ、変化があって」
「短くなった」
アスリさんが引き取った。低い、声で。
「私の夢にあの声は来る。昔は長かった。いろいろと語った。だが、近頃は——一言二言で、終わる。『見届けよ』。それだけ。前はもっと語ってくれた、気がする」
剣の人はそれきり、口をつぐんだ。けれど、その短い、言葉に私は引っかかった。いちばん、健やかな、はずの神。その神でさえ、語る、言葉が短くなっている。
三つの神。三つの声。痩せていく、声。分裂する、声。短くなる、声。——並べてみると症状はばらばらだった。けれど、ばらばらのまま、ひとつの方向を向いている気がした。どの神も、少しずつ、こちらから遠ざかっている。
そこまで、思って、私は口をつぐんだ。言いかけた、言葉を呑み込んだ。まだ、早い。三つだけで、結論を出すのは。残りの三柱をまだ、見て、いない。
「——なるほど」
それまで壁際で、黙って、聞いていたイーゴリが口を開いた。
「妹の集めた、点とお前たちの体感が揃う。確かに揃って、見える。だが」
兄は静かに言った。
「それは、神々の試練だ、と神殿は言う」
部屋の空気が張りつめた。
「神々が遠ざかるのは私たちを試して、おられるからだ。声が、細くなるのは私たちに自らの足で、立てと促しておられるからだ。——お前たちのデータは確かに揃っている。だが、それをどう、読むかは別の話だ。お前たちの読み方は、解釈のひとつに過ぎない」
誰も、すぐには言い返せなかった。
イーゴリの言うことにも、筋は通っていた。同じ、点を見てもそれを神々の異変と読むか神々の試練と読むかは見る者の立つ場所で、変わる。私たちにはまだ、それを異変だと断じる、証拠はなかった。揃って、見えるというだけで。
私は反論、できなかった。ナタリも、しなかった。ただ、彼女は小さく肩をすくめて、言った。
「だから、もっと点が要るのよ。兄さん」
そのときだった。
ナタリが頁を繰る、手が一枚の紙の上で、止まった。
帳面に綴じられていない、走り書き。前に床に落ちた、あの一枚だった。彼女がノイズ、と呼んだ、紙。今日はそれがほかの頁に紛れて、卓上に出ていた。
私の目に一瞬、文字が映った。地名らしき、もの。東。嶺。それから、年。約七年、前。そして、その横に小さく、「一件のみ・説明できず」と。
「ねえ、それは」
私が訊きかけるとナタリはもう、その紙をほかの束の下に滑り込ませていた。
「これはノイズ」
軽く、言った。けれど、目は笑って、いなかった。
「東のほうの古い、記録。一件だけ。前後に似た、点がひとつも、ない。だから、線にならない。——文脈がまだ、無いの。こういうのは脇に置いておくしかない」
誰も、それ以上、訊かなかった。アスリさんも、ファルも、イーゴリも。一件だけの文脈のない、記録。それは確かに今夜の話とは繋がらなかった。誰も、拾わなかった。私さえ、そのときはすぐに忘れた。三つの声のことで、頭がいっぱいだったから。
夜は更けていった。
三つの神の点は揃った。痩せる、声。分裂する、声。短くなる、声。テオたちの体感とナタリの記録が確かに重なった。けれど、それを神々の異変と呼ぶにはまだ、足りなかった。イーゴリの言う、試練、という読み方を覆すには。
私の内側にもやもやとした、ものが残った。三つは揃った。なのに何かが足りない。三つ、では足りないのだ。世界には六つの神がいる。私たちが声を聞いたのはそのうちの三つだけ。残りの三つを見なければ——このもやもやは晴れない。
ナタリが帳面を閉じた。革の背表紙がぱたりと音を立てた。
「続きは明日」
彼女は言った。けれど、その目はもう明日のことを考えて、いる目だった。残りの三柱をどこで、どう、見るか。




