第3章 第1話「天秤」
その夜、私はなかなか、眠れなかった。
巡礼宿の部屋は暗かった。
ファルは寝台で、丸くなって、寝息を立てていた。シェフがその足元にナフーが枕元に。アスリさんは壁に背を預けて、剣を抱えたまま、目を閉じていた。眠っているのか、いないのか、北の剣士はいつも見分けがつかなかった。
私は小さな、灯りをつけて、帳面を開いていた。
書いていたのはいつもの観察の記録ではなかった。天秤だった。左の頁にひとつ。右の頁にもうひとつ。明かす理由と明かさない理由を書き出して、量って、いた。
明かす、理由。
ナタリの手記。あの数百ページ。私はまだ、中身を見ていない。けれど、彼女が口にした断片だけでも、分かったことがあった。彼女は神々のおかしさを何年も、集めてきた。私が旅の途中で、感じてきたいくつもの腑に落ちないこととそれはたぶん、繋がる。
けれど、突き合わせるには私の側の点も出さなければ、ならない。私がなぜ、神々の声の揺らぎに人より、早く気づいたのか。なぜ、十かそこらの子供が世界をこんな、ふうに見るのか。その根を、明かさずに彼女のデータとだけ、突き合わせるのは片手落ちだった。
それに——と私は思った。神々のことが急いでいる、気がする。北の地を発ってから、声は前より、遠くなった。何かが進んでいる。ゆっくり、確かめている暇はないのかも、しれない。一人で、抱えて、安全でいるより二人で三人で早く見たほうがいい。そういう、刻なのかも、しれなかった。
明かさない、理由。
右の頁は一行で、済んだ。
——失うかもしれない。
私は前の世の記憶を持っている。それを明かせば、ファルとアスリさんは私をどう、見るだろう。これまで、賢い年少の賢者だと思って、旅をしてきたその相手が実は中身は別の生を生きた人間だったと知ったら。
二人の信頼の形が変わるかも、しれない。気味悪がられる、かも。あるいはずっと騙されていた、と思われる、かも。砂の都で、北の地で、命を預け合ったあの信頼がひびくのが——私は怖かった。
それが右の頁の一行だった。
私は長いあいだ、天秤を見ていた。
灯りの油が減っていった。
理屈で、量れば、左の皿のほうが重かった。情報を早く、統合する。神々のことは急いでいる。一人より、二人。——けれど、右の皿のたった一行がなかなか、軽くならなかった。失うかもしれない。その重さだけは理屈では削れなかった。
帳面を閉じた。
理屈で、決めることではない、と気づいたからだ。これは量って、決めることではなかった。賭けるか賭けないか、だ。そして、私はもう、賭けると決めていた。たぶん、天秤を書き出す前から。
「……アスリさん」
私は声をかけた。
「起きて、いますか」
壁際で、目が開いた。
「ああ」
「ファルも、起こして、いいですか。——話したい、ことがあります」
三人で、灯りを囲んだ。
ファルは寝ぼけ眼をこすって、シェフを膝に抱えた。アスリさんは剣を傍らに置いて、私を見た。何も、急かさなかった。二人とも、ただ待っていた。私が話し出すのを。
私は言葉を探した。何度も、頭の中で、組み立てたはずの言葉がいざとなると出てこなかった。喉が渇いた。
それでも言うしか、なかった。
「私は」
「前の生の記憶を持っています」
言って、しまった。
十五年、誰にも、言わなかったことだった。父にも、母にも兄にも、妹にも。砂の都の友にも。この二人にも。生まれた、ときから、私の中にはもう一人の人間がいた。別の生を生き別の名を持ちそして、死んだ、人間が。その記憶を私はぜんぶ、抱えたまま、この世に生まれた。
「この世界に生まれる、前の。別の生の。——その記憶が私にはあります。生まれた、ときから、ずっと」
どこの世界のことかは言わなかった。言えなかったというより、言っても、伝わらないと思った。それに私自身、なぜ自分がここに生まれ直したのかその仕組みは何も分かって、いなかった。分かっているのはただ、記憶があること。それだけだった。
「私が物をこんな、ふうに見るのも。年に合わない、考え方をするのも。——ぜんぶ、そのせいです。賢いんじゃ、ない。ただ、一度、大人をやったことがあるというだけで」
言い終えて私は二人の顔を見るのが怖かった。それでも、見た。
ファルが先に口を開いた。
「……あ」
小さな、声だった。彼は目を見開いて、それから、ゆっくりと頷いた。何かが腑に落ちた、という、顔だった。
「だから、だったんですね」
「え?」
「テオ兄から、ずっと感じてたあの気配。何か、重いものを背負ってる、みたいな。——あれ、ずっと何だろうって、思ってたんです。砂の都で、初めて、会ったときから」
共鳴の心。人の奥にあるものを読む、ファルの力。彼はずっと感じ取って、いたのだ。私が隠していた、もう一人の生の重さを。言葉にはできないまま。今、その答えが合った。
「気味悪く、ないか」
私は訊いた。声が掠れた。
「ぜんぜん」
ファルは即座に首を振った。
「だって、テオ兄はテオ兄です。前に何をしてた人だろうと。——僕を砂の都から、連れ出してくれたのはテオ兄、でしょう」
アスリさんはしばらく黙っていた。
火明かりがその横顔を照らしていた。何かを考えている、目だった。長い、沈黙のあと彼女はようやく、口を開いた。
「ひとつ、訊く」
「はい」
「それは」
剣の人はまっすぐに私を、見た。
「お前の剣の振り方を変えるのか」
私は虚を突かれた。
「……いえ」
考えて、から、答えた。
「変わりません。私は剣も、ろくに振れませんが——理屈で世界を見て点を打って、線を探す。それは前の生から、ずっと同じです。これからも、変わりません」
「ならいい」
アスリさんはそれだけ言って、また剣を引き寄せた。
「お前が何を抱えていようと。お前が海底の祠の前で、私の隣にいた。それは変わらん。——前の生など、私には関わりのない、話だ」
私は言葉を失った。
恐れていた、ことは何ひとつ、起きなかった。気味悪がられも、しなかった。騙されていた、とも、言われなかった。二人はただ、私が私であることを受け入れてそれで、終わりだった。
十五年、抱えてきた、重さがふっと軽くなった。秘密がなくなった、わけではない。世界の誰もが知ったわけでも、ない。けれど、この二人が知っていてそれでも、変わらないでいてくれる。それだけで、こんなにも違うのか、と思った。
賭けて、よかった。右の頁のたった一行は——ただの私の恐れだった。
「ありがとう、ございます」
私は頭を下げた。二人とも、何のことか分からないという、顔をした。それがまた、嬉しかった。彼らにとっては当たり前すぎて、礼を言われることでも、ないのだ。
灯りの油はもう、ほとんど、尽きかけていた。けれど、部屋は来たときより、ずっと温かい気がした。
明日——いやもう、今日か。私たちはナタリのところへ行く。今度は私の側の点を持って。




