第2章 第3話「まだ、ただのノイズ」
ナタリは私たちを奥の部屋へ通した。
修行所のさらに奥。小さな、私室だった。
寝台がひとつ。机がひとつ。あとは——本と紙の山だった。
棚に収まりきらない、巻物。机の上に積まれた、紙束。壁に貼られた、走り書き。薬瓶も、いくつか、転がっていた。神官の私室というより、研究者の巣だった。前の世で、私がこもっていたあの研究室にどこか、似ていた。
その紙の海の中心に一冊の分厚い、帳面があった。
机のいちばん、いい場所に置かれていた。革で、装幀された背表紙。何百枚もの紙が綴じられて、厚みで、たわんでいる。長い年月、書き足され続けたものだとひと目で、分かった。
背表紙の端から、無数の付箋らしき、紙片がはみ出していた。色や、形で、分けてあるらしかった。何かを種類ごとに整理する、ためのしるし。私の帳面にも、似た、工夫があった。点を打つだけではいつか、どこに何を書いたか、分からなくなる。だから、印をつけて、後から辿れるようにする。観察を続ける者が必ず、行き着く、工夫だった。
この一冊に彼女の何年もが詰まっている。そう、思うとそれはただの帳面には見えなかった。誰かがたった一人で、世界の辻褄の合わなさと向き合い続けた、年月の厚みだった。
ナタリはその帳面に手を置いた。けれど、開かなかった。
「これがわたしの見せたい、もの」
「神々のおかしいことぜんぶ」
おかしいこと。
彼女はそう、言った。機能がどうのという、難しい、言い方はしなかった。ただ、おかしいことと。神々をめぐる、辻褄の合わない、ことの数々。それを何年も、かけて、集め書きつけてきたらしかった。
「各地の巡礼や、商人から、聞いた話。神殿の古い記録。自分で、見たこと。——ぜんぶ、ここに書いてある。日付と場所と誰が言ったかも、つけて」
私はその帳面を見た。開いて、みたかった。中に何が書かれているのか。私が旅の途中で、感じた、いくつもの腑に落ちないこととそれは繋がるのか。手が無意識に伸びかけた。
ナタリはその手を見て、帳面の上に自分の手を置いたまま、言った。
「見たい?」
「なら、あなたたちが何者か、先に見せて」
取引だった。
軽い、口調のまま。けれど、目は笑って、いなかった。これはわたしの何年分かなのとその手が言っていた。簡単には渡さない。渡すなら、対価が要る。あなたが何者か。あなたが向こうの人なら、向こうで、何を知っていたのか。それを見せてくれたら、わたしも、これを開く。
私は答えられなかった。
さっきと同じだった。私は私の根をまだ誰にも、明かして、いない。ファルにも、アスリさんにも。十五年、抱えてきた秘密だ。それを会って、間もない、相手に取引のために差し出す。——できなかった。
「……今は」
私は言葉を選んだ。
「まだ、お見せできません。すみません」
ナタリはしばらく私を見て、それから、ふっと肩の力を抜いた。
「いいわよ」
意外なほど、あっさりと彼女は引いた。
「無理にとは言わない。信用ってのはそういうものでしょ。会って、すぐ、ぜんぶ見せ合えるなら苦労しないわ」
彼女は帳面から手を離した。
「待つわ。何年も、待ったんだもの。あと少し待つくらいどうってことない」
それから、急にいつもの軽い調子に戻って、私たちを見回した。
「それにね」
彼女は机の紙の山をぐるりと手で、示した。
「ここまで、集めてもまだ分からないことだらけ、なの。点はいっぱい、ある。でも、線にならない。神様のおかしいことがあるのはもう、間違いない。でも、それが何で、どうしてそうなってるのかは——わたし一人じゃどうにもならない」
その言葉に私ははっとした。点がいっぱい、ある。でも、線にならない。それは私がいつも、帳面に向かって、感じていることと同じだった。一人で、見ているだけでは点は点のままだ。誰かと突き合わせて、初めて、線が見えることがある。
彼女が何年も、私たちを待っていたという意味が少しだけ、分かった気がした。観察する者はいつか、もう一人の観察する者を必要とする。一人の目では見落とすものを二人なら、拾えるかも、しれないから。
「でも、まあ、せっかく来たんだし。今日は顔合わせ、ってことで、いいわよね。——ようこそ、わたしのダンジョンへ」
ダンジョン。
また、だった。私にはすぐに分かってしまう、言葉。迷宮、地下牢——いや彼女が言っているのはそういう、意味ではない。宝と罠の詰まった、潜る場所。挑む者を待つ場所。前の世の遊びの言葉だ。
ファルがきょとんとした。
「だんじょん……?」
「あー、こっちの話。気にしないで」
ナタリは手を振った。それから、私をちらりと見て、にやりとした。あなたには通じたでしょ、という、顔だった。私は思わず、目を逸らした。通じて、しまったことを認めるのがなんだか、悔しかった。
アスリさんが怪訝な顔で、私を見た。私は小さく首を振った。説明、できるはずも、なかった。
そのちぐはぐな間がなぜか、可笑しくて私は少しだけ、肩の力が抜けた。聖都に来てから、ずっと張りつめていた何かがほんの少し、ゆるんだ。この娘の軽さはたぶん、わざとだ、と私は思った。重い、ものを扱う者ほど、軽く振る舞う術を覚える。
帰り際のことだった。
ナタリが帳面を棚に戻そうと抱え上げた、そのとき。
分厚い紙束のいちばん、後ろから、一枚の紙が滑り落ちた。
ひらり、と床に落ちた。ほかの整然と綴じられた紙とは違った。綴じられて、いない。折り目がよれて、端が破れた走り書きの一枚だった。
私の足元に落ちた。
書かれていたのは——日付と地名らしき、文字。そして、数字。ほかの記録と同じ、様式のはずなのにどこか、違った。線が乱れ、何度も書き直され最後に大きく線で囲って、あった。書いた者がこれをどう、扱えばいいのか、決めかねている。そういう、一枚だった。
私がそれを見て、しまう前に。
ナタリの手が伸びた。
素早く拾い上げた。
いつものゆるい動きとは別人のような、速さだった。彼女はその一枚を帳面の奥に押し込んで、何ごとも、なかったように棚に戻した。
「ごめん。散らかってて」
軽く、言った。けれど、その声にほんの一瞬だけ、 さっきまでの軽さがなかった。
「今の紙は」
私は訊いた。訊かずにはいられなかった。たった、一瞬、見えただけの走り書き。けれど、ほかの記録とは明らかに扱いが違った。整理された、観察の海の中で、それだけが整理を拒んでいた。
ナタリは私を見た。琥珀色の瞳がまた少しだけ、細くなった。それから、彼女は軽く笑って、言った。
「ああ、あれ」
「あれはまだ、ただのノイズ」
ノイズ。
雑音。本筋ではないもの。意味のない揺らぎ。——けれど、彼女がそれを口にしたときの目はそれがただの雑音だとは思って、いない目だった。意味が分からない。どこにも、繋がらない。だから、ひとまず、ノイズと名づけて脇に置いてある。整理できる日が来るまで。
観察者は知っている。いちばん、気になる点ほど最初はノイズに見えるものだ、と。
私はそれ以上、訊かなかった。彼女が開かないと決めた、ものをこじ開ける、権利は私にはなかった。私自身、まだ、自分の根を見せていないのだから。
けれど、私の帳面の隅にその一枚は点として、残った。中身は知らない。場所も、日付も、読み取れなかった。ただ、「神々のおかしいことぜんぶ」を集めた観察者がただ一枚だけ、整理できずにノイズと呼んでいる紙がある。——それだけが私の中に新しい、点として、刻まれた。
修行所を出ると夕方の鐘が鳴っていた。
ナタリ・ヴォルコワ。神を観察する異端の娘。何年も、私たちを待っていた、人。私たちはまだ、互いに何も見せ合って、いなかった。けれど、点はまた増えた。そして、そのいちばん、奥に——彼女自身が名前をつけられずにいる一枚の紙があった。




