表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
89/103

第2章 第2話「向こうの人」

「まだ、名乗ってなかったわね」


彼女は、胸に手を当てた。聖印のしるしでは、なかった。ただ、自分を指すしぐさだった。


「ナターリャ・ヴォルコワ。長いから、ナタリで、いい」


それから、少しおどけて付け足した。


「流転神殿の、はぐれ神官。——神様を、観察対象に、している、異端よ」


異端。自分で自分をそう呼んだ。咎められる言葉のはずだった。けれど、彼女は、それをまるで自慢の肩書きのように口にした。


戸口の近くで、イーゴリが目を伏せた。


「ナターリャ。客人の前だ」


「あら、隠すことじゃ、ないでしょ。イーゴリ兄さんだって、知ってるくせに。わたしが、何を、してるか」


「神を、量るのは、信仰では、ない」


「神を、見ないで、どうやって、信じるの。見ないで信じるのは、ただの思い込みよ」


兄妹のやりとりは、慣れたものだった。何度も繰り返してきた問答。どちらも、相手を言い負かそうとは、していなかった。ただ、決して交わらない二本の線を、また確かめている。祈る兄と、見る妹。


イーゴリは、それ以上言わなかった。小さく首を振って、壁際に退いた。妹を止められないことを知っている、兄の退き方だった。


私は、二人を見比べた。同じ家に生まれ、同じ神に仕える兄と妹。けれど、その立つ場所は、正反対だった。兄は、神を祈るために見ない。妹は、神を信じるために見る。どちらも、神を軽んじては、いない。むしろ、どちらも必死に神に向き合っている。ただ、向き合い方が、鏡のように裏返っているだけだ。


南の関を抜けてから、この国の神官たちに感じてきた、あの張りつめ。ファルが、警戒と呼んだもの。その正体の一端が、この兄妹の間にあるような気がした。神を、どう扱うか。祈るか、見るか。その答えをめぐって、この国は静かに揺れているのかもしれなかった。


ナタリは、私たちに向き直った。


そして、私の顔を、まっすぐに見た。琥珀色の瞳がすっと細くなった。さっきまでの楽しげな色が消えて、別の目になった。観察する者の目だ。私には、見覚えがあった。鏡の中で、見たことのある目だった。


「ねえ」


彼女は言った。軽い調子のまま。けれど、言葉だけは軽くなかった。


「あなた、向こうの、人でしょ」


私は、答えられなかった。


向こう。その一言が、何を指しているのか。私には、すぐに分かった。分かってしまった。だから、答えられなかった。


この世界の誰にも、明かしていない。父にも、母にも、兄にも。砂の都の友にも、北の剣士にも。私が前の世の記憶を持って生まれた、ということを。十五年、誰にも言わずにきた。言えば、私が、私でなくなる気がして。


それを、初めて会った神官の娘が、振り向いてすぐに言い当てた。


「……どうして」


ようやく、それだけ言った。声が、わずかに掠れた。


「どうして、そう思うんですか」


ナタリは、肩をすくめた。それから、いたずらっぽく笑った。


「ま、匂いで、分かるのよね」


匂い。


私は思わず、自分の袖を見た。何日も旅をしてきた。確かに、いい匂いはしないだろう。けれど、そういうことを言っているのでは、ないことくらい、分かっていた。匂い……?と、私は内心で小さく突っ込んだ。そんなふわふわしたことで、人の根を当てられて、たまるか。


私のその戸惑いを見て、ナタリは、もっと笑った。


「冗談よ。匂いなんて、しないわ。——あなたの、言葉の選び方。道具の置き方。物を見るときの目。十五かそこらの子供がするには、年を取りすぎた考え方をする。そういうのを、何年も見てると、分かるようになるの」


それは、匂いでは、なかった。観察だった。彼女は、私の何もかもを見て、そこから推し量っていたのだ。運命でも、予感でも、なかった。一つずつ積み上げた、観察の結論。


私が、いつも世界に対してしていることを——彼女は、私に、していた。


背筋が冷えた。けれど、不思議と嫌な冷たさでは、なかった。むしろ、どこか安堵に近かった。十五年、私は自分の見方を誰とも分かち合えずにきた。理屈で世界を剥いていく、この癖を。家族は私を、賢い子だと褒めた。けれど、褒めることと分かることは、違う。誰も、私と同じ目で世界を見ては、いなかった。


ここに、一人いた。私を、私のやり方で見抜く人が。それは、見抜かれる怖さであると同時に——たぶん、生まれて初めて「同じ言葉を話せる相手」に出会った、ということでもあった。


「答えなくて、いいわ」


私が何も言えずにいると、ナタリはあっさりと引いた。


「無理に認めなくていい。否定もしなくていい。——観察すれば、分かるもの。あなたが何者かなんて、あなたが口で言うより、ずっと確かに分かる」


そう言って、彼女は、またいつもの軽い顔に戻った。獲物を追い詰めるようなところは、なかった。ただ、見て分かったことを口にしただけ。認めさせる必要も、感じていない。観察者の流儀だった。


私は、まだ声が出なかった。肯定も否定もしなかった。できなかった、と言うほうが正しい。けれど、その沈黙そのものが、彼女にはひとつの答えに見えているのだろう、とも思った。黙ることでしか答えられない、ということが。


そのとき、ファルが口を開いた。


ずっと私とナタリのやりとりを見ていた少年が、ぽつりと言った。


「あの……ひとつ、いいですか」


ナタリが、ファルを見た。


「ファル、です。召喚士の。——あなたから、テオ兄と、同じ気配がします。うまく言えないんですけど。何か、重いものを、ずっと背負っているような」


共鳴の心。人の奥にあるものを読む、ファルの力だった。砂の都から、ずっと彼は、私の内側の何かを感じ取ってきた。その同じ何かを、彼はナタリからも感じ取ったらしかった。


ナタリの眉が、わずかに動いた。今度は、彼女が見られる番だった。


「……へえ」


彼女は、ファルをまじまじと見た。


「あなた、いい目を、してるわね。いえ——いい鼻、かしら」


アスリさんが低く言った。それまで黙っていた、剣の人が。


「お前は」


ナタリに向かって。


「戦士では、ない。だが、戦士に通じる重心の取り方をする。座っていても、立っていても、いつでも動けるように体を置いている。——そういう立ち方をする者を、私は知っている」


均衡の感応。アスリさんが、相手の体の釣り合いから、その生き方を読む力だった。北の剣士は、ナタリの軽い口調の奥に、隙のない身のこなしを見抜いていた。


ナタリは三人を順に見て、それから声を上げて笑った。


「いいわね、あなたたち。一人が頭で当てて、一人が気配で当てて、一人が体で当てる。——三方向から見られたの、初めてよ」


楽しそうだった。観察する者が、初めて自分を観察し返される楽しさ。


私は、まだ彼女を測りかねていた。


明るくて、気さくで、軽い。けれど、その軽さの底に、何年も神を見つめ続けてきた観察者の目がある。私の根を、一目で見抜く目が。


この娘は——と、私は思った。いったい、どこまで見ているのだろう。私の前の世のことを。神々のことを。そして、まだ私が気づいていない何かを。


ナタリは、私のその警戒を見て取ったのか、ふっと笑って言った。


「そんな顔しないで。取って食ったり、しないわよ。——ただ、わたしも、あなたたちに見せたいものが、あるの」


見せたい、もの。


その言葉に、私は初めて、彼女の軽さの奥の本気を見た気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ