第2章 第1話「振り向かない神官」
イーゴリは、先に立って歩いた。
鐘の街の奥へ、奥へと、私たちを案内した。
書記の間を出てから、彼はほとんど口をきかなかった。妹に会わせると言った、その口で、もう一度、やめておけ、とも言わなかった。ただ、黙って歩いた。背中が、何かをこらえているように見えた。
流転神殿の裏手に回った。表の大きな伽藍とは別に、低い石造りの建物がいくつか連なっていた。神官の住む区画らしかった。窓辺に薬草が干され、どこかで写本をする羽根ペンの音がしていた。
表の参道の賑わいは、ここまでは届かなかった。巡礼の流れも、観光めいたざわめきも、なかった。あるのは、祈りと勉学のための静けさだ。すれ違う神官たちは、若い者も年老いた者も、皆、足音を立てずに歩いた。声を潜め、目を伏せ、自分の内側に向かって生きている人々の街だった。
私には、少しだけ馴染みのある静けさだった。前の世で、研究棟の夜遅く、一人だけ灯りをつけてこもっていた、あの時間。世界のざわめきから切り離されて、ただ目の前の問いだけに向き合う静けさ。神官と学者は案外、似ているのかもしれない。見ているものが、神か自然か、というだけで。
ファルが、肩のシェフを両手で抱え直した。獣を連れた私たちは、この静けさの中で、やはり浮いていた。ホルは、建物の低い軒先を落ち着かなげに飛んでいた。聖都に入ってから、ずっと高くは行かないままだった。
「妹は」
イーゴリが、ひとつだけ言った。
「修行所の奥に、いる。たいてい、そこにいる。神に祈るためでは、なく——神を、見るために」
その言い方に、また、あの翳りがあった。祈ると、見る。同じ神殿にいながら、兄と妹は、別の目的でそこにいるのだ。
修行所は、薄暗かった。
奥に、小さな祭壇があった。流れの神の輪の意匠。蝋燭が数本、揺れていた。
その祭壇の前に、一人の女性が座っていた。
こちらに背を向けていた。赤みがかったブロンドの髪を、長い三つ編みにして垂らしている。白を基調にした神官服。その上から、何かを書きつけるための板を膝に抱えていた。
私たちが入っても、彼女は振り向かなかった。
蝋燭の光の中で、手だけが動いていた。祭壇を見上げ、何かを書き、また見上げ、また書く。祈っているのでは、なかった。観察しているのだ。神像を。蝋燭の揺れを。あるいは、その両方を。
私は、その手元を見た。書きつけているのは、祈りの詩では、なかった。短い言葉と数字。日付らしきものも見えた。記録だ。誰かに見せるための清書では、ない。自分のために取る、観察の記録。
私には、見覚えのある手つきだった。前の世で、何度も見た。実験のノートを取る手だ。見て、書き、また見る。それを繰り返す者の、手。観察するということが体に染み込んだ人間の、手の動き。
私自身が、いつもしていることだった。世界を見て、帳面に点を打つ。確かめる術のないものを、ひとまず書いておく。点が増えれば、いつか線になる。そのやり方を、私は誰にも教わらず、ただ前の世の癖として続けてきた。
なのに、ここに、もう一人、同じことをしている人がいた。神官服を着て、流れの神の祭壇の前で。蝋燭の揺れを数字に変えながら。私は、その背中を見て、奇妙な心地になった。遠い異国の神殿で、自分の鏡を見たような。
腰に、薬瓶の並んだ革帯を巻いていた。
短い杖が、傍らに立てかけてあった。それから、聖印を刷った札の束。神官の装いだが、祈る者の装いとは、どこか違った。何かをすぐに試せるように、手の届くところに道具を置く。そういう並べ方だった。
「妹だ」
イーゴリが、低く言った。
「ナターリャ」
呼ばれても、女性は振り向かなかった。手を止めもしなかった。ただ、書きつけながら、軽い調子で言った。
「ちょっと、待って。今、いいところなの。蝋燭の揺れ方が、さっきと変わったから——」
通商の言葉だった。流暢な。私たちに合わせているのだ。客が誰か、見もせずに、言葉を選んでいた。
私たちは、戸口で待った。
ファルが、私の袖を軽く引いた。小さな声で囁いた。
「テオ兄。あの人——背中で、僕たちのこと、数えていますよ。さっき、入った瞬間に」
私は頷いた。私も同じことを感じていた。彼女は振り向いていない。けれど、私たちが三人だと、もう知っている。足音か、衣擦れか、気配か。背を向けたまま、入ってきた者の数を数える。それも、観察のひとつなのだ。
アスリさんは、何も言わなかった。けれど、剣を負った人は、その女性の座り方を、じっと見ていた。隙のある座り方では、なかった。背を向けていながら、いつでも振り返れる、重心の置き方。武人の目で見れば、分かるのだろう。
しばらくして、女性は板に最後の一行を書きつけた。それから、ペンを置いた。
そして、ようやく振り向いた。
琥珀色の、瞳だった。
火の色をした瞳が、私たちを順に見た。一人ずつ。値踏みでは、なかった。イーゴリのような警戒でも、なかった。もっと無遠慮で、もっと楽しげな目だった。珍しいものを見つけた子供のような。
笑うと、印象が一気に柔らかくなる顔だった。そして、彼女は笑った。
「あ、来た」
「3人パーティだって、聞いてたけど、本当に、3人ね」
彼女は私たちを、もう一度、端から端まで見て、それから満足そうに頷いた。
「賢者・召喚士・魔剣士。前で、剣。後ろで、理屈。横で、獣。——職業バランス、いいわね」
蝋燭の光が彼女の頬を照らしていた。からかうようでも、媚びるようでも、なかった。ただ、目の前に現れた三人を、ひと組のなにかとして面白がっている口ぶりだった。
職業バランス。
私は、その言葉に、わずかに引っかかった。聞き慣れた響きでは、なかった。少なくとも、この世界の神官が使う言葉では。けれど、私には、なぜか、その言いたいことがすぐに分かってしまった。前衛と後衛と補助。役割の組み合わせ。——どこかで聞いた考え方だった。前の世で。
ファルが、首を傾げた。アスリさんも、わずかに眉を寄せた。二人には、その言葉の底にあるものが届いていないらしかった。届いてしまったのは、私だけだった。
「妹さんは」
私は、慎重に口を開いた。
「私たちを、待っていた、と。お兄さんから、聞きました」
「待ってたわよ」
彼女は、あっさりと認めた。膝の板を傍らに置き、立ち上がりながら。
「ずーっと、待ってた。何年も、ね。あなたたちみたいな人が、いつか、来るんじゃないかって。——やっと、来た」
何年も。
その言葉の重さと、彼女の軽い口調が、釣り合っていなかった。何年も待っていたと、まるで昨日の続きのように言う。私は、そのちぐはぐさを、どう受け止めていいのか、分からなかった。
壁際で、イーゴリが低く言った。
「ナターリャ。客人は、参拝に来たのだ。お前の酔狂に付き合わせるな」
「参拝?」
ナタリは、兄を振り返っておかしそうに笑った。
「イーゴリ兄さん。この子たちが、神紋を三つも抱えて、はるばる西から、ここまで来て——ただ、お行儀よく祈って帰ると思う?」
兄は答えなかった。妹は、それを答えと受け取ったらしかった。また、私たちのほうに向き直った。
「ね。あなたたち、祈りに来たんじゃ、ないでしょ。——何かを、探しに来た。違う?」
私は、すぐには答えなかった。けれど、否定もできなかった。彼女の言う通りだったからだ。私たちは、参拝のために聖都に来たのでは、ない。曽祖父の歩いた道の先を見るために。神々をめぐる、腑に落ちないものの正体を知るために。
ナタリは、私の沈黙を見て、満足そうに頷いた。図星を当てた者の顔だった。
彼女は、三つ編みを肩の後ろに払って、私たちのほうへ一歩踏み出した。蝋燭の光が、琥珀色の瞳の奥で揺れた。
何年も待っていた、というその人は——まだ、自分の名前さえ、名乗っていなかった。




