第1章 第3話「妹を、探しているのか」
書記の間は、流れの神殿のわきにあった。
写本と巻物の匂いのする、小さな部屋だった。
棚という棚に、巻物が詰まっていた。古いものも、新しいものも。墨と羊皮と埃の混じった匂い。私には懐かしい匂いだった。前の世でも、今の世でも、私はこういう書物の匂いのする部屋で長い時を過ごしてきた。学者の部屋の匂いだ。
机の前に、若い神官が座っていた。黒と銀の衣。痩せた肩。手元の書きものから顔を上げて、私たちを見た。
冷たい目ではなかった。けれど温かい目でもなかった。値踏みをする目だ。賢者神の声を聞いたあの儀の日に、私を見定めた神官たちの目に少し似ていた。感情を表に出さず、ただ相手の奥を測ろうとする目。
「参拝の取り次ぎをお願いしたいのですが」
ファルが通商の言葉で用件を告げた。
すると若い神官は、流暢な通商の言葉で答えた。この街に来て初めて、言葉がすんなりと通じる相手だった。聖都に着いてからずっと、言葉の壁の中にいた。その壁がこの部屋で初めてひとつ低くなった。
「西から来たのか」
彼は私たち三人を順に見た。一人ずつ、丁寧に。
「フランディアの賢者。エジプティアの召喚士。ノルディアの魔剣士」
私は息を呑んだ。
何も名乗っていなかった。クラスも出自も告げていない。なのに彼は、三人の素性を言い当てた。まるではじめから知っていたかのように。
「……なぜ、それを」
私が問うと、彼は机の上の一枚の書付を指で軽く叩いた。
「南の関から報せが来ている。神紋を三つ同時に佩いた三人連れ。賢者と召喚士と魔剣士。西から聖都を目指している、と」
彼は書付をこちらへ見せはしなかった。けれど、そこに何が書かれているかは、想像がついた。
「この国は、西から来る者を見ている。とりわけ神紋を佩いた者を。お前たちが関をくぐった日には、もうこの街は、お前たちのことを知っていた」
南の関で老兵士が神紋を検めた。千年の節目だ、と呟いた。あれがただの感慨ではなかったのだ。あの検めは報せとなって川を上り、この都まで先回りしていた。一行の素性は、私たちが着くより先にこの都に知られていた。
ファルが言っていた警戒。神官たちが息を詰めている、と。その理由の端がいま、目の前の書付にあった。この国は見ているのだ。西から来る者を。何かを恐れて。あるいは、何かを待って。
若い神官は書きものを置いて、まっすぐに私を見た。
「ひとつ、訊きたい」
「妹のことを、お前たちが探していると、いうのか」
妹。
私はファルと顔を見合わせた。アスリさんも、わずかに眉を寄せた。
「妹さんを?」
私は戸惑った。
「いえ……私たちは知りません。誰のことをおっしゃっているのか」
嘘ではなかった。この都に知り合いなどいない。妹も姉も誰も。私たちはただ、曽祖父の歩いた道をたどってここまで来ただけだ。神々のことで腑に落ちないものは抱えていた。けれど、それを誰かと分かち合おうと思って来たわけではなかった。
若い神官は私の戸惑いをしばらく見ていた。本当に知らないのか、と確かめるように。それから低く言った。
「だが妹は」
「お前たちのことを、知っている」
部屋の空気がわずかに張りつめた。
「彼女はここ数年、独自に、神々の異変を追っている。神官団の誰にも頼まれず、ひとりで。各地から来る巡礼や商人から噂を集め、記録している。——西から、神紋を三つ佩いた三人連れが来るという報せを、いちばん喜んだのは神官団ではない。妹だ」
私の内側で、何かが繋がりはじめた。
神々の異変を追う者。ひとりで噂を集める者。北の街道の宿で聞いた。中央の宿でも聞いた。神を観察対象にしている、異端の神官の娘。ヴォルコワ家のお嬢さん。
私は目の前の神官の衣の襟元に縫い取られた、家のしるしを見た。流れの神の輪の意匠。それから訊いた。
「失礼ですが——あなたのお名前は」
「イーゴリ・ヴォルコフ」
ヴォルコフ。
帳面の二つの点が、いま目の前でひとつの線になった。北の街道の点と、中央の宿の点。その線の先に、この書記の間があった。噂の娘は、この若い神官の妹だったのだ。
会うかもしれない。会わないかもしれない。そう思って帳面に点を打った。けれど点は、自分から線になって、私をここへ導いていた。取り次ぎを頼んだ相手が、噂の娘の兄だった。偶然ではなかった。神々の異変を追う娘がいる家とは、すなわち流れの神にいちばん近い古い神官の家。その家に取り次ぎを頼めば行き着くのは当然だったのだ。私は知らず知らず、噂の糸をたぐっていた。
「妹さんは——」
私は慎重に訊いた。
「ナターリャ、という方ですか」
イーゴリの目が、わずかに細くなった。
「噂を聞いたのだな」
否定はしなかった。それが答えだった。噂の娘には名があった。ナターリャ・ヴォルコワ。神を観察する、異端の神官の娘。
私は慎重に言葉を選んだ。
「私たちは、その方を探しに来たわけではありません。けれど——確かに、私たちも旅の途上で神々のことでいくつか腑に落ちないことに出会いました。もし、その方が同じことを追っているなら——」
「やめておけ」
イーゴリが静かに遮った。
「賢者どの。妹のしていることは、信仰ではない」
声が少し低くなった。
「神々の声が遠い、という者がいる。神像が古びた、という者もいる。だが、それを——神々の異変だと騒ぐのは行き過ぎだ。神殿はこう教える。神々が私たちから距離を置かれるのは試練だ、と。あるいは、神の謙抑だ、と。私たちが神に頼りすぎぬように。自らの足で立てるように。——神は遠ざかっておられるだけだ。それを嘆くのは、信心の浅さに過ぎない」
謙抑。私はその言葉を知っていた。故郷の学院で、一人の旧友が似たことを言った。神々の沈黙を恩寵の一つの形だと。あれと同じ考え方だった。信仰の側からの答え。信じる者にとっては、神が遠いことにも意味がある。神が間違うはずはない。だから遠ざかるのも、神のおぼしめし。——筋は通っている。反論は難しい。信仰を信じている者には。
「妹は、それを認めない」
イーゴリは続けた。
「神を量ろうとする。記録を取り突き合わせ、まるで薬の効き目でも調べるように。——神は観察するものではない。祈るものだ。妹は、それを取り違えている」
その声に、わずかな翳りがあった。
切り捨てる言葉だった。けれど切り捨てきれない何かが、その奥にあった。諦めとも心配ともつかない響き。妹を間違っていると断じながら、それでも見放せずにいる。彼は何度も妹とこれを言い合ってきたのだろう。そして何度も平行線で終わったのだろう。論破するためでなく、引き戻すために語っている。兄の顔だった。
私はそれ以上踏み込まなかった。神をどう捉えるか。それはこの国の信仰の深いところに触れる。よそ者の私が軽々しく言葉を挟んでいい場所ではなかった。それに——私自身、まだ答えを持っていなかった。神々のことを観察する妹と、祈る兄。どちらが正しいのか。私にはまだ分からなかった。ただ、私もまた観察する側の人間だということだけは、分かっていた。
「取り次ぎは、する」
イーゴリは書付を手に取った。
「お前たちが神々のことで何を見たのかは知らない。だが妹に関わるなとは言えん。西から、神紋を三つ佩いた三人が来るという報せを、妹は神官団の誰より早く写し取っていた。あれを見たときの、あの子の顔を私は知っている。——妹は、もうお前たちを待っている」
彼は立ち上がった。
「賢者どの」
戸口で、彼は振り返った。
「もう一度言う。妹は、お前たちのことを知っている。お前たちが知らないだけで」
その目は、もう値踏みではなかった。何かを託すような、それでいて案じるような目だった。妹を頼む、とも、妹を止めてくれ、ともつかないまなざし。彼自身にも、どちらを望んでいるのか分かっていないのかもしれなかった。
「会うか」
私は答えを持っていなかった。けれど、帳面の線の先にその娘がいることは、もう分かっていた。会わないという道は、たぶん、もうなかった。点は線になり、線は人に繋がる。私のやり方が私を、その人のもとへ連れていこうとしていた。
「会います」
気がつくと、私はそう答えていた。
イーゴリは何も言わずに、ひとつ頷いた。
書記の間の外で鐘が鳴った。昼の祈りの刻だった。金の屋根の丘じゅうに、その音が降りていった。明日でも明後日でもなく——その音のどこかで、私は噂の娘に会うことになる。まだ顔も知らない、その人に。




