第1章 第1話「金の屋根の都」
川が都になっていた。
ルシア大河を北へ北へと、遡ってきた。岸辺の村が少しずつ、増えていった。荷船が増えた。河港の桟橋が増えた。そうして、ある朝、川の曲がりの向こうにそれは見えた。
丘だった。
平らな大地の中にひとつだけ、丘がせり上がっていた。その頂に、金色の屋根がいくつも、寄り集まっていた。玉ねぎを伏せたような、丸い屋根。村で見たものと同じ形だ。けれど、数が違った。大小いくつもの金の屋根が丘の上で、肩を寄せ合って、朝日を跳ね返していた。
「すごい……」
ファルが舳先で、声を、漏らした。シェフが彼の肩で、首を伸ばした。
私も、見ていた。フランディアの尖った石の塔とも、北の木組みの館とも、違う。砂の都の白い壁とも、違った。丸く、金色で、ふくよかな都だった。光を、吸い込むのではなく、跳ね返す都だ。あの屋根に使われている金が本物の金なら、いったい、どれほどの富がこの丘に注ぎ込まれたのだろう。理屈で、考えかけて、私はやめた。信心の注ぎ込み方は富では測れない。
鐘が鳴った。
ひとつではなかった。
低いのと高いのが重なって丘の上から川面を渡って、こちらまで、届いた。いくつもの鐘が少しずつ、ずれて、響き合う。村で聞いたものより、ずっと多く、ずっと深かった。音が空気を震わせ、川の水面に細かな波を立てているような気さえ、した。
「聖都ヴェスナヤ、だ」
アスリさんが低く、言った。北の地でも、この都の名は知られているらしかった。剣を負った人は丘をじっと見ていた。その横顔は、感心しているというより、何かを測っているように見えた。
河港が近づいてきた。桟橋に荷船がひしめいていた。穀物の袋、毛皮の束蜂蜜の壺。荷役の男たちが太い声で、掛け合いながら、荷を上げ下ろししている。大河を上り下りする交易の玄関なのだとひと目で、分かった。
人の流れが濃かった。商人、巡礼物乞い神官。様々な、身なりの人々が桟橋に行き交っていた。その誰もが、私には聞き取れない言葉を、話していた。柔らかく、重いあの響き。私たちは、その人混みの中に船を、降りた。
久しぶりの地面だった。
河港から、丘の頂までは一本の広い道がまっすぐ、続いていた。
歩きながら、私は都のつくりを、読み取ろうとした。
道は、都を三つの輪に分けていた。いちばん外の輪が河港と市場と人々の住む街。木を組んだ家々がひしめき、煙が立ち、生活の匂いが満ちていた。その内側にもうひとつ、輪があった。さらにその奥、丘の頂の輪に金の屋根の神殿が、あった。
外から、内へ。俗から、聖へ。低いところから、高いところへ。都そのものが、ひとつの階段のように、できていた。港の喧騒から、丘の静寂へと登っていく階段だ。よく、考えられた、つくりだった。誰かがこれを設計したのだ。神の都を人の手で。
輪と輪のあいだには石の壁が、あった。けれど、低かった。乗り越えようと思えば、越えられそうな、低さだ。城壁ではない、と私は思った。敵を防ぐための壁ではない。ここから先は、別の場所だ、と告げるためのしるしの壁だ。
私たちは外の輪を抜けて、二つ目の輪の門を、くぐった。
街の気配が変わった。
外の輪は賑やかだった。市場の声、荷車の軋み、子供の駆ける音。けれど、二つ目の輪に入るとその音がすっと、引いた。門をひとつ、くぐっただけで、世界が半分静かになったようだった。
ここは神官たちの街らしかった。黒と銀の衣を着た人々が静かに行き交っていた。薬草の匂い。墨と紙の匂い。どこかで、低く、祈りの詩を唱える声。武具を売る店も、酒場も、見当たらなかった。そういうものはみな、外の輪に置いてきたのだ。
「武器を、商う店がないな」
アスリさんがぽつりと、言った。剣を負った人は街を歩きながら、そういうものを真っ先に、見るのだ。
「人を、傷つけるものは丘に近づけない。そういう、決まりなのだろう」
感心とも、戸惑いともつかない声だった。武の人にとって、武具のない街は、骨を抜かれたように落ち着かないのかもしれなかった。
静かな、街だった。静かすぎて、私たちがひどく浮いて、見えた。
剣を負った女と獣を連れた少年と、年少の賢者。シェフが肩に乗り、ホルが頭上を飛び、ナフーが袖から顔を出している。すれ違う神官たちがちらりと私たちを見て、それから、目を伏せた。値踏みでも、敵意でもない。ただ、ここにいるはずのないものを見た、という目だった。
「目立つな」
アスリさんがぼそりと、言った。
「目立ちますね」
ファルも、頷いた。シェフを肩から、抱き下ろして、腕に抱えた。それでも、目立つことに変わりはなかった。
巡礼宿は二つ目の輪の外寄りにあった。
地方から来た巡礼や、神学生が、泊まる宿だという。私たちのような、よそ者は丘の奥には泊まれない。この界隈が限界だった。
宿の戸をくぐると土間に小さな祭壇が、あった。金の輪の意匠。流れの神のしるしらしかった。先に入った巡礼たちがその前で足を止めて額の前で手をひとつ、組んで、頭を垂れていた。
私は見よう見まねで、胸に手を当てた。フランディアの礼の作法だ。名乗るときのしるし。
宿の老女がそれを見て、首を横に振った。
「ちがう、ちがう」
そう言っているらしかった。彼女は自分の両手を額の前で、組んで、見せた。胸ではない。額だ。それから、川の流れるような緩やかな仕草で、頭を垂れた。
私は慌てて、真似をした。額の前で、手を組む。流れに身を任せるように頭を垂れる。老女が今度は満足そうに頷いて、何ごとか、優しげに言った。言葉は、分からなかったが咎める響きではなかった。
私は内心で、苦笑した。
また、外したのだ。南の関でも、胸に手を当てて、兵士に怪訝な顔をされた。ここでも、同じだった。私の知る作法はこの国の入口で、また、通用しなかった。
理屈で、覚えた礼は土地が変われば、礼にならない。頭では分かっているつもりだった。それでも、体はつい、慣れた形をなぞってしまう。前の世で、論文の作法を叩き込まれたときも、こうだった。形は覚えられる。けれど、形の底にある、心の向け方まではよそから来た者にはすぐには馴染まない。
アスリさんは最初から、何もせずただ、軽く頭を下げただけだった。それで、老女は何も、言わなかった。北の剣士の所作には無駄がなかった。私のように、間違える前に彼女は余計なことをしないのだ。知らない作法の前では黙って頭を下げる。それがいちばん、間違いの少ない、礼のかたちだった。
宿の二階に部屋を取った。
窓から、丘の頂が見えた。金の屋根が夕日を受けて、燃えるように光っていた。
私は帳面を開いた。けれど、今日はまだ、何も書くことがなかった。都に着いた。それだけだ。明日、丘の上の神殿へ参る。六つの神を祀る、総本山へ。曽祖父が、半世紀近くも前に歩いた道の先にある場所だ。
ファルが窓辺で、空を見ていた。ホルが、宿の屋根のすぐ上を低く、旋回していた。南の関を抜けてから、ずっとそうだった。高くは行かない。ファルはそれを見上げて、何も、言わなかった。ただ、口元が少し、こわばっていた。それから、肩のシェフの背をなだめるように、撫でた。獣も、どこか、落ち着かなげだった。
「テオ兄」
ファルが窓の外を見たまま、言った。
「この街、静かなのに——なんだか、息を詰めているみたいです」
私にはただの静かな街に見えた。けれど、ファルの目にはその静けさの奥にあるものが見えるらしかった。南の関で、彼が「警戒している」と言ったあの張りつめがここにも、続いているのだ。街を覆う、薄い緊張。祈りの静けさとは少し、違う、何か。
私は窓の外の金の屋根を見た。
美しい、都だった。けれど、その美しさはどこか、息を詰めていた。ファルの言葉が正しい気がした。
明日、あの丘に登る。
何が待っているのかは分からなかった。けれど、点を打つなら、明日からだ。私は帳面を閉じて、まだ白いままの頁を指で、撫でた。
鐘がまた、鳴った。夜の祈りの刻らしかった。低く深くいくつも、重なって金の屋根の丘から、街じゅうに降りてきた。その音は美しかった。けれど、私の耳にはなぜか誰かが息をひそめて何かを待っているような響きにも、聞こえた。




