序章 第2話「異端の、噂」
中央の国は広かった。
南境の関を抜けると土地は、平らに、開けた。
見渡すかぎり、黒い土の平原だった。北の山がちな地形とも、砂の起伏とも違う。果てが見えない。地の果てまで、麦の畑が続いていた。まだ青い、丈の低い麦が初夏の風に一面、波打っていた。豊かな、土だった。
その平原を一本の大きな川が貫いていた。
川は南から、北へ流れていた。ゆったりと重く、銀色に。私たちの行く道は、その川に寄り添うように北へ、続いていた。
「大きな、川ですね」
ファルが川を見て、言った。砂の都の少年には、これほどの水の流れは、珍しいのだろう。
道で、すれ違った巡礼の老人が川を指して、何かを言った。ファルが、切れ切れに言葉を拾って、訳した。
「この川は神様の流れだ、と。循環の神の」
水は巡り、また、戻る。この国の人々はその絶えず流れて、また満ちる川のありようを神と結びつけて、敬っているらしかった。川岸に、小さな、祠のようなものが点々と立っていた。通る者が皆、川に向かって、軽く頭を垂れた。
私たちも、見よう見まねで、頭を垂れた。
川沿いの道を北へ進んだ。
村がいくつも、あった。
どの村にも、丸い、屋根の建物があった。玉ねぎを伏せたような、形の屋根だ。それが夕日を受けて、金色に光った。フランディアの尖った塔とも、北の木組みの館とも、違う。見たことのない、形だった。
村に近づくと鐘の音が聞こえた。低く、重くいくつも、重なって。朝も、昼も、夕も村は鐘の音で時を区切っているらしかった。
道沿いの家は丸太を組んで、建てられていた。窓のまわりに細かい、彫りの飾りがついている。煙突から、薄い煙が上がって、夕餉の匂いが流れてきた。知らない、香草の匂いだった。
すべてが私の知らないもので、できていた。
母は三つの言葉を歌った。けれど、この土地の言葉はそのどれにも、なかった。だから、私はほとんど何も、聞き取れない。ファルの通商の言葉でも、切れ切れにしか、届かない。アスリさんの北の言葉はもっと通じない。
私たちは三人で、言葉の通じない、土地を歩いていた。
故郷から、いちばん、遠い場所まで来たのだと思った。砂の都も、北の海も遠かった。けれど、あそこにはまだ、聞き取れる言葉があった。ここにはない。
少しだけ、心細かった。
けれど、隣に二人いた。
夜は街道の宿場に泊まった。昼は歩いた。三匹は思い思いに過ごした。シェフは私の肩や、ファルの肩を行き来しナフーは袖の中で、眠った。ホルだけが相変わらず、低い空を飛んでいた。高くは行かなかった。ファルは、それを気にしていたが何も、言わなかった。
干し肉を分けるのはアスリさんの役目だった。北の味のする、固い肉を三つに切り分けて、配った。歩きながら、噛んだ。
「北の味だ」
アスリさんがぽつりと言った。それだけだった。けれど、その一言で、彼女が故郷の味をよしとしているのが分かった。
「砂の国の干し肉は」
ファルが固い肉を噛みながら、言った。
「もっと辛いんですよ。香辛料をたくさん、すり込むんです。これは、しょっぱいだけ、ですね」
「文句か」
「いえ! 美味しいです。ただ、違うなと」
ファルが慌てて、付け足した。アスリさんは何も、言わずにもう一切れ、彼に渡した。私は二人のやりとりを聞きながら、少し、笑った。味は変わらない。北の味のままだった。それが少し、嬉しかった。
数日が過ぎた。
北へ進むほどに道は賑やかになっていった。
巡礼の数が増えていた。
杖を突いた者、荷車を引く者、家族連れ。皆、同じ、方角を目指していた。北の聖なる都。六つの神殿の総本山があるという、その都へ。私たちの行く道はいつのまにか、巡礼の大きな流れの一部に、なっていた。
巡礼たちはよく、しゃべった。歩きながら、隣の者と言葉を交わす。私にはその大半が分からなかった。けれど、ファルが断片を拾って、訳してくれた。
不思議なことに気がついた。
巡礼たちの話の中に何度も、出てくる、言葉があった。循環の神。流れの神。川の神。呼び方はいくつか、あったがどれも、同じひとつの神を指しているらしかった。皆、その神の話ばかりをしていた。
「ファル」
私は訊いた。
「他の神の話は出ないのか」
ファルはしばらく、耳を、澄ませた。それから、首を傾げた。
「あまり、出ません。皆、循環の神の話、ばかりです。他の五つの神の名は——ほとんど、聞こえません」
私はそれを聞いて、少し考えた。
六つの神殿の総本山へ向かう、巡礼の道だ。六つの神を、等しく、敬う者たちが集まっているはずだった。
なのに口に上るのはひとつの神ばかり。
それがどういうことなのか、私にはまだ、分からなかった。この地方では、その神への信仰が特に篤いのかも、しれない。川がすぐ傍を流れている。流れの神を敬うのは自然なことだ。きっとそれだけのことだ。
けれど、私は帳面を開いて一行、書いた。
——巡礼はひとつの神の話ばかり。他の五つは口に上らない。なぜ。
点を打った。意味は分からない。確かなことも、ない。けれど、書いておけば、いつか線になるかもしれない。
ファルが私の手元を覗いて、それから、また低い空のホルを見上げた。彼の勘は、関を抜けてからずっと何かを気にしていた。けれど、それが何なのかは彼にも私にもまだ、言葉にならなかった。
その夜、街道筋の宿に泊まった。
聖なる都はまだ、見えなかった。けれど、もう近いという。巡礼宿は人で、混んでいた。
宿の土間に、長い卓があって、旅人たちが夕餉を囲んでいた。私たちも、隅に席を取った。麦の粥と塩漬けの野菜。知らない、味だったが温かかった。シェフが卓の下で、こぼれた、粥をつついた。
卓の向こうで、旅人たちが声高に話していた。聖なる都から、帰ってきたという、商人らしい一団だった。
ファルがその話に耳を傾けた。
しばらくして、彼は私のほうに身を寄せて、低く訳した。
「聖都は、近頃、騒がしいそうです」
私は椀を置いた。
「ヴォルコワ家のお嬢さんが」
ファルが商人の言葉を、拾いながら、続けた。
「神官団の上の連中に楯突いて——ひとりで神々の異変の話を集めて回っていると」
私はその言葉を聞いて、椀の手を止めたまま、動かなかった。
ヴォルコワ家の娘。
その名は前にも、聞いたことがあった。北の地を発って、まだ、間もない頃。南へ下る、街道の井戸端で。聖都帰りだという、別の商人が同じことをこぼしていた。神官団に楯突く、物好きなお嬢さんがいる、と。
あの時はただのまた聞きの噂だと思った。商人を呼び止めて、詳しく訊くことも、できたがしなかった。
今、また同じ噂を聞いた。別の商人の口から。別の街道で。
「神様を」
ファルが最後の断片を訳した。
「観察、対象にしている異端の神官の娘がいる、と。皆、そう、呼んでいます」
神様を観察対象にしている。
その言葉が私の内側で、小さく、引っかかった。
観察。それは私のやり方だった。点を打ち、線を待つ。確かめる術がないものをただ、記録しておく。世界を急がず、見つめる。
神を観察する、という者がいる。
聞き間違いかも、しれない。噂は噂だ。誰かが誰かから、聞いた話のまた聞きだ。本当にそんな娘がいるのかも、分からない。いたとして、私たちと何の関わりもないかも、しれない。
それでも、私は帳面を開いた。
聞いた言葉をそのまま、書き留めた。神様を、観察対象にしている、異端の神官の娘。点を一つ、打った。これで、同じ点が二つになった。北の街道で、一つ。中央の宿で、一つ。
点が、二つになれば、そこに線を引きたくなる。けれど、まだ引かなかった。二つの点はまだ、遠かった。線にするには足りなかった。
ファルが空を見上げた。
宿の煤けた、天井を。その向こうの夜空を見るように。
「その人も」
少年はぽつりと言った。
「僕たちみたいに空を見上げて、いるんでしょうか」
私は、答えなかった。答えを持って、いなかった。
アスリさんが椀を置いた。粥を食べ終えて、口を拭いてそれから、低く言った。
「会えば、分かる」
短かった。けれど、その短さを私は知っていた。北の海を発った、あの旅の終わりにも、彼女は同じことを言った。会えば、分かると。
会うのか。会わないのか。私にはまだ、分からなかった。
私は帳面を閉じた。宿の外で、夜の鐘が鳴った。低く、重くいくつも、重なって。この国の夜の音だった。
聖なる都には神を観察する者がいるという。
名も、顔も知らない。
けれど、その者はもう、私の帳面の上で二つ目の点になっていた。




