序章 第1話「中央の風」
寒さの、質が変わっていった。
北の刺すような乾いた寒さが、南へ下るほどに和らいでいった。雪は、いつのまにか土に変わっていた。足の下で、黒い土が湿って重かった。フィヨルドの石でも、砂漠の砂でもない。深く肥えた平らな土だった。
ヴィンドールの門を出てから、二度、月が満ちた。
道は長かった。北の海を背に、山ひとつ越えて、谷をいくつも抜けた。言葉も、少しずつ変わっていった。宿の主人の挨拶が、聞き慣れた響きから知らない響きへ置き換わっていく。そのたびに、私たちは故郷から遠ざかっているのだと、知った。
その日の昼、私は街道の脇の石に腰を下ろして、帳面を開いた。
新しい頁ではない。北の地で、出立の朝に書いた頁だ。
——一人では、止まる道も、三人なら、続けられる。
その一行を、もう一度、目でなぞった。あの朝、霜の解けた街道で書いた言葉だった。今も、間違っていないと思う。
頁を一枚戻した。そこには、もっと前に書いた走り書きが、あった。
——六つの知。三つ、聞いた。残り、三つ。
短い。点を打つように書いた一行だった。砂の都で、北の地で、三つの神の声を別々に聞いた。同じ祭礼の夜に、三人がそれぞれの神から。けれど、世界には、まだ聞いていない声が、ある。残りの三つ。それが、どこにあるのか。誰が、それを聞くのか。私は知らない。
知らないから、探している。
「テオ兄、何を見ているんですか」
ファルが、覗き込んだ。肩で、シェフが丸い目をこちらに向けた。
「古い、書き物だ」
私は帳面を閉じた。
「先へ行くための、書き物だよ」
ファルは、よく分からないという顔をして、それから空を見上げた。高いところで、ホルが円を描いていた。獣使いの少年は満足そうに頷いた。彼の目は、いつも空と三匹を確かめている。
「行くぞ」
前を歩いていたアスリさんが、振り返らずに言った。剣を負った背中が、黒い土の道を進んでいく。北の氏族の剣士の歩幅だった。
私は立ち上がって、歩幅を合わせた。
道のずっと先に、関所の影が見えてきた。
それが、中央の入口だった。
関所は、石で組まれていた。
灰色の重い石だ。門の上に、六つの意匠が彫り込まれていた。輪のように並んでいる。私には、それが何を意味するのか、まだ分からなかった。けれど、六つという数だけは、目に残った。
門の前には、巡礼の列ができていた。杖を突いた老人、子連れの女、荷を背負った行商。皆、同じ方角を目指しているらしかった。
聞こえてくる言葉は、ひとつも分からなかった。柔らかいのに、どこか重い響き。母が子守唄に混ぜていた、どの言葉とも違った。母は三つの言葉を歌った。けれど、この土地の言葉は、その三つのどれにも入っていなかった。
私は、言葉の通じない場所に立っている。その実感が、足の裏から上ってきた。
列が、進んだ。
門のわきの検め所で、守備の兵士が巡礼を一人ずつ検めていた。
私たちの番が来た。
兵士は若かった。胸に、六つの意匠のうちのひとつを佩いていた。彼は私たち三人と三匹を順に眺めて、何かを問うた。
言葉は分からなかった。けれど、語尾の上がり方で、問いだと知れた。
私は頭の中で、答えを組み立てた。北の関でも、南の港でも、入口ではまず行き先を訊かれた。だから、ここでも同じだろう。フランディアの作法では、まず胸に手を当てて名乗る。私は、そうしようとして、胸に手を当てかけた。
兵士の眉が、わずかに動いた。
違う、と直感した。
私の当てた手が、宙で止まった。この国の作法は、私の知るどの作法とも違うらしい。フランディアの礼が、ここでは礼にならない。
その時、アスリさんが前に出た。
剣を鞘ごと腰から外して、両手で捧げるように兵士に見せた。刃を抜かない。敵意はない。そう、所作だけで告げていた。
兵士の強張りが、解けた。
北の剣士は、言葉を知らなくても、武人の礼を知っていた。剣を見せるという一事が、この国の門でも通じたのだ。私の組み立てた理屈より、彼女の身体のほうが、速かった。
私は、少し恥ずかしくなって、手を下ろした。
「巡礼か、と」
ファルが小声で言った。彼は商人の子だ。通商の言葉をいくらか解する。この土地の言葉は切れ切れにしか拾えないようだったが、それでも、何も分からない私よりは、ずっとましだった。
「六つの神殿の総本山へ行くのか、と訊いています」
私は頷いた。それから、ファルに伝える言葉を選んだ。
「巡礼だ、と答えてくれ。それから——」
少し、迷った。
曽祖父の歩いた道を見に来た。そう言うこともできた。けれど、この国では、その先の言葉を口にしないほうがいい気がした。曽祖父が何を調べていたのか。なぜ中央へ向かったのか。その話は、まだ誰にもしないでおく。門の兵士にも。
「巡礼と。それから、亡くなった身内の足跡をたどる旅だと」
ファルが訥々と訳した。
兵士は、しばらく私たちを見ていた。それから、肩のシェフと上空のホルに目を留めた。獣を連れた巡礼は珍しいのだろう。彼は少し考えてから、短く何かを言った。
「証を見せろ、と」
ファルが訳した。
「選ばれた者の、証を」
私たちは顔を見合わせた。
選ばれた者の、証。
それが何を指すのかは、すぐに分かった。
私は左の手首の内側を見せた。アスリさんは首の付け根を。ファルは手の甲を。
それぞれの肌に、紋様が浮かんでいた。
私のものは、螺旋に本と星を組み合わせた形。アスリさんのは、剣と天秤。ファルのは、輪がいくつも絡んだ形。生まれた時から、あるいは神託の朝から刻まれた、それぞれの神のしるしだった。
兵士の表情が変わった。
彼は私たちの三つの紋を順に見て、それからもう一度見直した。何か確かめるように。それから検め所の奥へ首を巡らせて、年かさの兵士を呼んだ。
老いた兵士が出てきた。
白いものの混じった髭の男だった。長くこの門に立ってきたのだろう。歩き方に無駄がなかった。
彼は私たちの三つの紋を検めた。若い兵士よりも、ずっとゆっくりと。一つずつ、目でなぞるように。
それから低く呟いた。
ファルが、その言葉を拾って私に訳した。少し間を置いてから。
「神紋を、三つも同時に見るとは——」
老兵士は私たちを見た。
「千年の、節目だな、と」
千年の、節目。
私はその言葉を頭の中で繰り返した。意味はよく分からなかった。けれど、老兵士の目には、ただの決まり文句ではない色があった。長く門に立って、無数の巡礼を見送ってきた者の目だ。その目が三つの紋を見て、千年、と言った。
選ばれた者の紋を佩く者は、各地にいる。けれど三人が揃って同じ門をくぐることは、めったにないのだろう。三つの別々の神のしるしが、一度に。
老兵士は、それ以上何も言わなかった。手で、通ってよいと合図した。
私たちは門をくぐった。
石の門の内側は、外と同じ黒い土の道だった。けれど空気が少し違った。
ファルが、私の隣で足を緩めた。彼は上空を見上げていた。
ホルが高く飛んでいなかった。いつもなら円を描いてずっと上のほうを舞う鳥が、低いところで私たちのすぐ上を旋回していた。まるで何かを確かめるように。
「……ホルが」
ファルが小さく言った。
「高く、行きたがりません」
私はホルを見上げた。理由は分からなかった。鳥の気まぐれかもしれない。けれど、ファルの顔は、いつもの空を確かめる顔とは違っていた。
ファルが肩をすくめた。少し身を縮めるようにして、笑った。
「僕、この国、少し苦手かもしれません」
冗談めかした言い方だった。けれど声に、いつもの軽さがなかった。肩のシェフが落ち着かなげに毛を逆立てて、また寝かせた。
それから彼は、門の内側の検め所のほうを振り返った。声を低くして言った。
「うまく言えないんですが」
言葉を探していた。
「この国の神官は——何かを、警戒しています」
私は聞き返した。
「警戒?」
「はい」
ファルは頷いた。それから首を傾げた。
「何を、とは言えません。でも、張りつめています。門の兵士も、奥にいた神官らしい人たちも。皆、何かを待っているような、身構えているような」
共鳴の心、と、彼は自分の力をそう呼ぶ。人の気配の奥にあるものを読む力だ。砂の都でも、北の地でも、彼のその勘は何度か私たちを助けてきた。だから、聞き流せなかった。
私は検め所を振り返った。私には、ただの関所にしか見えなかった。兵士がいて、神官がいて、巡礼を検めている。それだけだ。けれど、ファルの目には、その奥の張りつめが、見えるらしかった。
「どこの国も」
アスリさんが前から言った。振り返らずに。
「入口は、こんなものだ」
短かった。けれど、その短さが場を収めた。北の剣士は無数の門をくぐってきた。緊張した門も、緩んだ門も。彼女にとっては、それは当たり前の旅のひとこまなのだろう。
それでも、私は帳面を開いた。
歩きながら、新しい頁に一字書いた。
——警戒。
点を打つように。意味はまだ分からない。確かなことも何もない。けれど書いておけば、いつか線になるかもしれない。点が二つ、三つと増えれば、やがて形が見えてくる。それが私のやり方だった。
筆を止めて、前を見た。
黒い土の道のずっと先に、もやの中に、大きな川の気配があった。中央の国は、その川に沿って北へ続いているという。私たちは、まだその入口に立ったばかりだった。
ホルが低い空で、もう一度、円を描いた。




