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エピローグ「砂と剣と理屈」

神月の、十五の朝だった。


ヴィンドールの門は、いつもの朝と、変わらなかった。市が立ち、荷車が通り、子供が走る。私たちが旅装で立っていても、誰も、足を止めなかった。


それで、よかった。大仰な見送りは、性に合わない。長家の者たちにも、そう、伝えてあった。


別れは、前の夜に、済ませてあった。炉の傍で、言葉は、使い切った。シグルドの一言も、ヒルダの軽口も、母の織った布も、すべて、あの夜に、受け取った。だから、この朝に、足すものは、何もなかった。


それでも、門のわきに、シグルドが、立っていた。剣聖は、腕を組んで、私たちを、見ていた。何も、言わなかった。ただ、立って、見送るためだけに、来たのだ。彼は、そういう人だった。


「行こう」


アストリッドさんが、短く言った。私は頷いた。ファルが、肩のホルの羽を、軽く撫でた。


坂を、下りはじめた。


「待ってえ!」


坂の上から、声が、転がってきた。


トルヴェが、走ってくる。寝間着の上に、慌てて上着を引っかけた格好で、両手を、振り回しながら。子供の足が、坂を、跳ねるように、下りてくる。


「忘れ物! 忘れ物だよ!」


息を切らして、私たちの前に、止まった。手の中に、小さな、木の彫り物が、三つ。氏族の紋を、削り出したものだった。粗い彫りだ。きっと、夜のうちに、自分で削ったのだろう。指に、まだ、削りかすが、ついていた。


「三人とも」


弟は、それを、一つずつ、私たちの手に、押しつけた。


「三人とも、氏族の、客人だから」


姉に、獣使いに、賢者に、と、順に。最後に私の手に、一つ、残った。


アストリッドさんが、弟の頭に、手を置いた。何も言わずに。トルヴェは、得意げに、胸を張って、それから、急に、照れたように、坂を駆け戻っていった。


私は、木の紋を、手の中で、握った。温かかった。それから、上着の、内側に、しまった。旅の、あいだ、ずっと、そこに、ある。


坂を、下りきった。


南へ、続く道だった。


前にも、こういう朝が、あった。旅装で、南を向いて、立っていた朝。あの朝、私は、一人だった。馬車の、窓の外で、家族の姿が、小さくなるのを、見ていた。一人で、行くのだと、思っていた。


今朝は、隣に、二人いる。剣を負った人と、獣使いの少年。シェフは、ファルの肩で、ホルは、高いところに、円を、描いて、ナフーは、袖の中で、眠っていた。馬車も、いらない。三人で、歩いて、行く。


私は、少しだけ、笑った。同じ南でも、見える景色が、違って見えた。あの朝の私が、今朝の私を、見たら、何と、言うだろう。たぶん、信じない。一人で、十分だと、強がっていた、あの子は。


数日が、過ぎた。


南へ下る街道は、よく踏まれていた。馬車とすれ違い、行商人とすれ違い、巡礼者とすれ違った。宿場の井戸端では、見知らぬ者どうしが、当たり前のように、話をした。


その日の昼、井戸の傍で、聖都帰りだという商人が、水を飲みながら、誰にともなく、こぼした。


「中央は、近頃、騒がしいよ」


私は、水筒を、井戸に、下ろす手を、止めた。


「ヴォルコワ家の、娘がね。神官団の、上の連中に、楯突いて、ひとりで、神々の異変の、話を、集めて回ってるらしい。物好きな、お嬢さんも、いたもんだ」


それだけ、言うと、商人は、馬の支度に、戻っていった。


私は、帳面を、開いた。


聞いた言葉を、そのまま、書き留めた。深くは、追わなかった。商人を、呼び止めて、詳しく、訊くことも、できた。けれど、しなかった。噂は、噂だ。誰かが、誰かから、聞いた話の、また聞きだ。確かなことは、何も、ない。


ただ、書いておけば、いつか、線になるかもしれない。点が、二つ、三つと、増えれば、やがて、形が、見えてくる。それが、私の、やり方だった。点を、打つように、一行を、置いた。


ファルが、私の手元を、覗き込んだ。それから、空を、見上げて、ぽつりと言った。


「……僕たちみたいに、空を、見上げる人も、いるんでしょうか」


私は、頷いた。アストリッドさんは、前を向いたまま、低く言った。


「会えば、分かる」


それきり、三人は、また、歩き出した。噂は、風のように、後ろへ、流れていった。


その夜、街道を外れた窪地で、火を起こした。


野営の、夜だった。空に、星が、多かった。夕餉の、干し魚を、アストリッドさんが、三つに、切り分けた。北の、味が、した。火を囲んで、三人と、三匹が、座っていた。シェフは、丸くなり、ホルは、岩の上で、片足を、上げて眠り、ナフーは、ファルの、膝の上で、静かだった。


私は、帳面を、開いていた。三つの、神託の、頁だ。進め、と言った声。結べ、と言った声。見届けよ、と言った声。同じ祭礼の、同じ夜に、三人が、別々に、聞いた、三つの言葉。並べて、書き写してある。何度、見ても、不思議だった。同じ六柱の、声のはずなのに、三つは、まるで、別の場所から、届いたように、揃わなかった。


私は、頁を、繰る手を、止めた。火明かりが、文字の上で、揺れていた。


火が、爆ぜた。


アストリッドさんが、火を、見ていた。剣を、傍らに、置いて、膝を、抱えて。長いあいだ、何も、言わなかった。それから、誰にともなく、ぽつりと、言葉を、落とした。


「神々は」


火の、向こうで。


「何か、抱えているのかも、しれないな」


ファルが、小さく、頷いた。


それだけ、だった。少年は、何も、足さなかった。膝の上の、ナフーの、背を、撫でながら、火を、見ていた。


私は、帳面の、三つの頁を、見ていた。何か、言うべきだと、思った。三つの声は、同じ夜に、届いたのに、まるで、別の場所から、来たように、揃わなかった。それが、なぜなのか——前の世の、どんな言葉を、当てはめても、こなかった。当てはめた途端に、何かを、決めつけてしまう気が、した。


私は、何も、言えなかった。


言える、言葉を、まだ、持っていなかった。


火が、また、爆ぜた。


夜は、静かだった。風が、窪地の、草を、撫でていく音。遠くで、夜の鳥が、一度だけ、鳴いた。それから、また、静けさが、戻った。


誰も、答えを、出さなかった。誰も、出そうと、しなかった。三人とも、ただ、火を、見ていた。


どれくらい、そうしていただろう。アストリッドさんが、不意に、顔を、上げた。火明かりが、その目を、照らした。何か、長いあいだ、考えていた、という目だった。


「お前たちは」


火に、照らされた、横顔で。


「私を、仲間と、呼ぶか?」


唐突だった。けれど、彼女らしい、唐突さだった。


私は、帳面を、閉じた。それから、答えた。


「仲間です」


迷いは、なかった。


「アスリさんが、いなければ、海の魔物を、倒せても——海底の、祠は、救えなかった。私の、理屈と、ファルの、獣だけでは、届かなかった。最後に、根を、断ったのは、あなたの、剣でした」


口にしてから、気づいた。私は、彼女を、アスリさんと、呼んでいた。出会った頃は、長い呼び名を、律儀に、最後まで、言っていた。距離を、測るように。いつから、縮まったのか、自分でも、分からない。けれど、もう、戻らない気が、した。


ファルが、続けた。


「僕にとっては」


シェフを、両手で、抱き上げて。


「初めての、姉貴分です。シェフも、認めています」


少年が、火を回って、アスリさんの、傍に、シェフを、下ろした。獣は、ためらいもなく、彼女の膝に、乗り、丸くなった。アスリさんは、その背に、手を、置いた。


低い、笑いが、火の、向こうで、聞こえた。


「ならば」


アスリさんは、シェフの背を、撫でながら、言った。


「私も、お前たちを、弟分と、呼ばせてもらおう」


火が、温かかった。シェフが、喉を、鳴らした。ファルが、嬉しそうに、笑い、私も、笑った。夜の、寒さは、変わらない。けれど、火の、輪の内側は、確かに、温かかった。


借りが、できたな、と、いつか、彼女は、言った。その借りは、もう、どこにも、なかった。代わりに、あったのは、姉と、二人の弟だった。


翌朝の、街道は、よく晴れていた。霜が、解けて、土の、匂いがした。


歩きながら、私は、帳面に、一行を、足した。実験ノートの、続きだ。


——曽祖父は、私がいま、いる道を、半世紀近く前に、歩こうとしていた。途中で、止まった。なぜ止まったのかは、分からない。けれど、一人では、止まる道も、三人なら、続けられる。


筆を、止めて、前を見た。


砂の都で、出会った、獣使いの少年。北の地で、出会った、剣の人。そして、西の都から来た、理屈の私。砂と、剣と、理屈。出どころも、育ちも、信じる神も、ばらばらの、三人。けれど、同じ南の道を、同じ歩幅で、歩いている。何が、行く手で、待っているのかは、分からない。けれど、三人なら、曽祖父の、止まった場所より、先へ、行ける気が、した。


ファルが、何かを言い、アスリさんが、短く、返した。声の中身は、聞こえなかったが、軽い調子だと、分かった。シェフが、ファルの肩で、尻尾を、振った。先を行く、二人の背中を、朝の光が、照らしていた。


私は、帳面を、閉じ、歩幅を、合わせた。


世界には、謎がある。私たちは、三人になった。あと、三人いる。

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